紙の本
目次・構成
2008/06/12 18:01
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投稿者:kubo - この投稿者のレビュー一覧を見る
■第1章 「情景」のない世界
ケータイ小説のキーパーソン
『恋空』に見る、浜崎あゆみの影
『赤い糸』という題名はどこから来たのか
携帯電話の普及とそれを司る女神の存在
「コギャル」の教祖から「女子高生」のカリスマへ
回想的モノローグと『NANA』『ホットロード』
『ホットロード』と浜崎あゆみ
あゆとユーミンの歌詞の違い
歌詞への共感、オンナ尾崎としてのあゆ
「笑わない歌姫」の系譜
あゆのレイプ疑似体験とトラウマ語り
■第2章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?
本当にレイプやドラッグがリアルなのか?
学校図書館はケータイ小説をどう捉えているか?
「リアル系」と「ケータイ小説のリアル」
リアル系、不幸表明ノンフィクションの流行
『ティーンズロード』とケータイ小説の類似性
不幸自慢のインフレスパイラル
コミュニケーションから生まれるケータイ小説
不良少女像の変遷
ヤンキーを駆逐したコギャル
浜崎あゆみから始まるヤンキー回帰
ヤンキー文化と相性のいい相田みつを
ケータイ小説の文化的背景のまとめ
■第3章 「東京」のない世界――ヤンキーの現在形
ケータイ小説における「東京」の欠如
上京という概念が存在しない漫画『頭文字D』
援交するヒロイン
ケータイ小説の登場人物に見る職業観
横文字への憧れのない世界
「東京に行かない」感覚とは何か
復活する「地元つながり」
広義のヤンキーについて
DQNとヤンキーの違い
暴走族と連合赤軍はどう違うのか?
尾崎的な反抗から、浜崎的な内面対峙へ
牧歌的なヤンキー漫画の時代が終わった九〇年代末
ファスト風土的な郊外から生まれた新しい文化
ショッピングモール内の大型書店こそ本丸
出版を通じて日本人が形成される
■第4章 ケータイが恋愛を変えた
ケータイ小説のリアルなリアル!?
DVとデートDVの違い
『恋空』に見るデートDV描写
「妊娠小説」としてのケータイ小説――すぐに結婚したがる男たち
暴力の理由は愛情なのか?
ケータイ小説で恋人が死ぬ理由
携帯電話の普及がデートDVを生んだ?
携帯メール依存症と「つながること」を希求する若者
変体少女文字と「つながり」重視のコミュニケーション
AC系の潮流の中のケータイ小説
『NANA』にみるACの傾向と「優しい関係」
「優しい関係」における性愛の問題
恋愛小説が顕著に映し出す時代の変化
オールドメディアへ想いを託す彼女たち
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この本の意義は、"ケータイ小説"なるもののルーツを丁寧な調査から、はっきりと導き出した点につきると思う。
タネあかしをしてしまえば、“ケータイ小説”は、レディース雑誌の“ティーンズ・ロード”にその原点があり、その系譜であるレディース系の系譜に実はいた歌手“浜崎あゆみ”の歌詞の世界感にある、という解釈である。
非常におもしろく、説得力のある展開であった。
何より感動したのが、こういう一見ポッと出の訳の分からない、どう位置づけて良いかわからない文化にも、ちゃんとルーツと系譜がある、ということを示したという著者の活動のすばらしさである。
良く分からない“コワイもの”の正体を解き明かす行為はなんともエキサイティングで好きだ。この本は一種の推理小説的な知的快感が味わえる一冊だと思う。
一点、現代のケータイに囲まれて生活する少女にとって、「届かないかもしれない」未達に終わる、闘病ノートや、絵馬とったメディアにある種の逃げ場や、心の逃げ場を感じている、という点には強い興味を覚えた。(シュー論のテーマに近いものを感じるし、そうしたサービスが何かできそうだと思ったのです。)
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★いまもあるのか★ついぞ接点のないケータイ小説だが、ヤンキー流れで。出版は2008年。読んだこともないのでケータイ小説そのものの批評はしようがないが、分析は面白い。
ケータイ小説と浜崎あゆみの歌詞は同じ線上にあり、その前にはNANAやホットロードといった、具体的な描写を欠いた回想的モノローグがある。田舎のショッピングセンターの画一的な品ぞろえの本屋で売れるのは、それがハイかロ-かサブかではなく新たな文化の形というのはもっともだ。
児童文学評論家の赤木かん子の指摘の引用も興味深い。「リアル系」の子供は情緒が苦手。だから相田みつをが好き。人間描写がない、風景描写がない、心理描写がない。出来事が次々出てくる…。なるほど。ただ、僕にとってのみつをのとっつきにくさは、情緒不足と言われるとすっとこない。
つながりすぎるケータイというジレンマも納得。ケータイ小説の最後に、つながらないかもしれない日記や絵馬がコミュニケーションの手段として表現される逆説とワンパターン。
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"ケータイ小説"と"ヤンキー文化"。一見して時代的にも文化的にもまったくつながりを持たないように見えるふたつの事柄に、実は意外な共通点が。それは浜崎あゆみと地方文化!?そんな非常に興味深い現代批評本。
筆者にとっては上記に上げているものはどれも縁遠い存在だったが、まず驚いたのが浜崎あゆみと安室奈美恵というavexを代表するふたりの歌姫の違いについて。90年代に活躍した安室に対し、00年代に活躍した浜崎。熱心に聴いていない自分のようなリスナーにとっては、それはただのバトンタッチ劇のような安直な印象を持っていたが、ギャル文化を作り上げた安室に対し、その登場によって滅びたと思われていたヤンキー文化の人たちに支持されることになった浜崎。それはただの偶然ではなく、浜崎の持つ過去のエピソードや歌詞の作法、そしてファッションに至るまで、必然的なものだった。浜崎のコンサート会場の駐車場には今日も改造車が並んでいるという。
時を同じくしてポケベル、PHSから携帯電話の登場でイメージキャラクターを務めた浜崎。青春時代に周りは短いスカートのギャル文化の中、ひとり床まで届きそうな長いスカートを通していたというエピソードからもわかる通り、彼女の背景にあるヤンキー文化には、純情や事件性を持つ自分語りを特徴とするポエムがつきものだ。かつての暴走族特攻服の背中にある刺繍や、雑誌『ティーンズロード』などの投稿コーナー、また浜崎あゆみの歌詞にもそれは顕著に見られる。そして地方のヤンキーたちは彼女がイメージキャラクターを務めた携帯電話のサイトに次々とそのポエムを投稿してゆくことになる。それがケータイ小説のはじまりだった。
ケータイ小説はかつてはリアル系とも呼ばれ、冒頭に「この物語は実話に基づき~」という注意書きがされているか否かで、売り上げが10倍から100倍も違ってくるそうだ。ただし、そこに描かれているレイプや妊娠、恋人との死別といったリアルは、決して読者のリアルとは関係なく、ただ「ありそう」ということ。なぜそんな過激な内容を読者が求めたのかが、本書では説明されていなかったが、おそらく都会に比べ退屈だと思っている地方の読者に受けたのだろう。その証拠にケータイ小説は普通の小説と比べ、東京や大阪などの都会よりも、少し離れた地方の方が圧倒的に売れていたそうだ。
2008年に出版された本なので、ケータイ小説ブームも過ぎ去った現在、彼女たちが次に何を心の拠り所にしているのかはわからない。それはケータイゲームかもしれないし、はたまた我々が知り得ない新たな文化なのかもしれない。ただひとつ言えるのは、どんなに元々西洋人のふりをしても拭い去れない恥部のような日本人の本来の特質を、とても素直に代筆したものがケータイ小説でありヤンキー文化なのだろう。だから我々は「低俗だ」と言って馬鹿にする方法でしか、向き合わないようにする術を持たない。しかし日本がグラグラしている今だからこそ、Facebookで偉人の美談をシェアしたり、Twitterで誰かのバカ話をリツイートして、その場限りの現実逃避をするのではなく、彼女たちから学ばなければ、いや、かつての自分と目をそむけずに向き合わなければいけない時が来たのかもしれない。自問自答を続ける浜崎あゆみの歌詞のように。迷子の彼女はどうしたって時代の申し子なのである。
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ケータイ小説が浜崎とつながって、ヤンキーへ、地方社会へ-。一見無関係のようなこれらの単語の羅列が、見事につながってくる。自分でも実感をもって納得して読んだ。
NANAもケータイ小説も、回想的モノローグとトラウマ回復の物語だば!
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自称ケータイ小説評論家・速水氏の傑作。
私が中学生の時、別マが大嫌いだった理由がやっとわかった。スッキリ!
主張はどれも納得できるものだったけど、1つだけ非常に疑問思ったことがある。
「ヤンキー少女」達はなぜ物語が「ノンフィクション」じゃなきゃいやなのか?感覚的にも理論的にも理解できない。「ノンフィクションの事実度」と「フィクションの創作度」なら後者のほうがふつう高い、つまり「正直で本当」だと思うのですが…。
(追記)→土井隆義/「友だち地獄」で少しわかったかも
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ケータイ小説を読む層と浜崎あゆみを聴く層は同じというようなことを言っている本
それとケータイ小説には「この話はノンフィクション」というのがデフォですが、それはそういう風にしたほうが面白いからであって、読み手もケータイ小説が本当に真実かどうかはそれほど求めていない、という話にはなるほど、と思いました
日本で一番有名な某ケータイ小説を「現実との統合性がない」と批判しているアンチがいますが、ある意味それは論点がずれているのでしょう
ちなみに私個人としては、ケータイ小説もそういう文学として認めてもいいじゃない、というスタンスです
それほど興味がないということなんだけど
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個人的に
非常におもしろかった本
なぜケータイ小説が早かったのか
というのを軸に
最近の若者の傾向をひも解く
そして
ケータイ小説を好む若者って
ヤンキー化してるんじゃないの?と筆者は記す。
私もそう思います。
私は「恋空」しかケータイ小説を読んだことはないんだけど
妊娠、レイプ、流産、病気etc...
いろいろありえないハプニングが起きるわけですよ。
だけど
ケータイ小説にはまる人は
「なんか口語調で書かれてるし、内容もすごいリアル」なんて言う。
正直リアルには程遠い
ケータイ小説を好む若者は
浜崎あゆみが好き
田舎に住んでいる
NANAが好き
ギャルが好き
恋愛大好き
という傾向があるそうです
激しく同意
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ケータイ小説の中で作者が無意識に共依存の関係性を描いている点、デートDVへの言及はなかなかであった。
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この本の中に出てくる考察は興味をひかれました。
特に若者の中にある「リアル系」の追求という点は、なるほど新しい発見でした。
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【ケータイ小説は似通ったプロットやモチーフに偏る傾向がある】
似通った作品が同時多発的に生み出されていった背景には文化的、社会的な何かが存在するといった作者の仮説の元、話が展開されていく。
文化的な背景には”浜崎あゆみ”が存在するというのが、第一章の著者の仮説と主張
【ケータイ小説と浜崎あゆみの歌詞には以下の三つの共通点がある】
1.回想的モノローグ
2.固有名詞の欠如
3.状況描写の欠如
【回想的モノローグ】
「恋空」は基本的に三人称で書かれる小説スタイルをとっているが、突如一人称に変わるモノローグ的な文章が突然、何か所にも登場する。
自分の身に起きた数年前のエピソードを、かなり遠回しに、しかも感傷とともに語る「回想的モノローグ」は、浜崎あゆみの歌詞にも多く登場する。
【固有名詞の欠如】
【状況描写の欠如】
ケータイ小説には固有名詞、状況描写がほとんど書かれていない。
浜崎あゆみの歌詞に対しても、SEASONSを例にとり、抽象的であり、情景描写がないと指摘。
”一切の風景がなく、漠然とした感情的な心の中だけが示される”
第二章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?
【リアルというのは、実際に起きたかどうかではなく、その圏域に属している人たちが「本当にありそうだ」と感じらるかどうかという意味である】
九十年代末以降のの中高生の読書傾向として、それが本当にあった話かどうかを重要視し、「リアル系」の作品を好むようになった。
このリアル系読者のニーズに合致したのがケータイ小説。
【リアル系の作品ポイントは、人物描写がない、風景描写がない、心理描写がないことなんです。出来事が次から次に出てきて、それを追っかけて行くと終わるんです。】
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ケータイがどう使われているのか。今どうなっているのか。ティーンズロードが典型的なCGM。とは知らなかった。でもそういうなら、たまひよも典型的なCGMだ。そういえば「コウモリ城へようこそ」というのもそうだ。
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小生は「ケータイ小説」なるものは読んだことはないので何とも言いかねるが、ケータイ小説に地名等の固有名詞が殆ど出てこない理由などは興味深く読ませてもらった。
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いまさらだけど、アマゾンマーケットプレイスにて180円でゲット。
これは確かに面白い。装幀はアレだが。
新たなヤンキー像の定義について、大変しっくりきた。
「地元つながり」「『東京に行かない』感覚」「『電車に乗らない』感覚」
旧ヤンキーは外部=社会に敵を想定
新ヤンキーは自分の内側の敵=トラウマとの闘争
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ケータイ小説とその周囲で流行った物事を恣意的に曲解して結びつけた本。頭文字Dの下りは失笑を禁じ得ない。それじゃ湾岸ミッドナイトは?ナニワトモアレは?あの当時FCやFDの中古がBMWよりも高値で取引されていたことを筆者はしらないのだろうか、男のくせに。ステロタイプと勘違いでぐいぐい読ませるのは文体が軽いから。浜崎あゆみのファンもこの本を読んで腹を抱えて大笑いだろう。
ケータイ小説は発表時はともかくとして、書籍出版時には編集者より固有名詞の削除を求められる。ケータイ小説黎明期にゴーストをやった経験より。故意に固有名詞を登場させてないのではなく、編集部の意向により固有名詞を削除しただけ。そのデットコピーである携帯小説には固有名詞が登場しない。それだけ。