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過去1年間に読んだ全てのジャンルの本の中で最も面白かった本。(それ以前の本は忘れているので比較しようがない)
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「責任を問う」 や 「責任をとる」。この本を読むと、世に蔓延っている 「責任」 という概念が覆されます。
私たちは普段自分の意志で自分の行動を決定している。本当にそうなのか。本書はそこから始まって、ナチス・ドイツのホロコースト、死刑制度、冤罪等の検証を通して、私たちが自明のものと思っていることについて、緻密に、冷静に、そして鋭く考察していきます。その上で、著者は否定したり悲観したりせず、ただ、「知っておいた方がいいよ」 と私たちに囁いてきます。
<国際学部研究生>
湘南OPAC : http://sopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1544380
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全部の章は読んでない。でも、「虚構」って言ってしまうと全てが虚構?なんて思ってしまった。日本、という国の存在自体も別に個人が生きていくだけなら必要ない存在。「虚構」かな。というか全てが無意味になるんじゃなかろうか、と思った。そう考えると人生は自分の楽なほうに、楽しい方に生きたほうが楽しそう。と、思った文献でした。前向きになれるやも。
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常識変わった。目から鱗。でも「責任」について考えたことなかったらここまで驚かなかったのかな?どうなんだろう。「責任」に関するあらかじめあった説を知ってたから固定観念があって、逆に新鮮なんだろうか。
ホロコーストや社会心理学実験、死刑執行人の話など多岐にわたる分野の知見がたくさん紹介されているところが読み物としてもとても面白い。
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最近,毒カレー事件で最高裁は死刑判決を出した。直接の証拠がなく,被告人は一貫して否認していたにもかかわらず,被告人が犯人であることに合理的な疑いを挟む余地はないとされた。結論は当然とする意見が多いが,事件の事実関係をそれほど深く知らない身としては,何ともいえない。確かに言えるのは,彼女の精神力が相当なものであることくらいだろう。警察,検察の取り調べは,無実の者が架空の犯罪事実を認めるほど厳しい。拷問がないとはいえ,長期間身柄を拘束される不自由は,相当に精神をさいなむ。彼女が一度も自白することなく否認を貫いたのは驚嘆に値する。
以前,死刑廃止の運動に対して,何となく反感をもっていた。死刑制度について,深く考えていたわけではない。素朴な感情としてそう思っていた。マスコミの論調に乗せられていたというのも大きい。しかし,いまはかなり揺れている。欧米で死刑廃止が採用されてきたことには,もっともな理由があるように思えてきた。個人の主体性や,責任という概念は,皆が思っているほど確かなものではなさそうだ。そのことは自分の行動をふりかえってみても,思いあたるふしが多い。
著者は,パリ第八大学の准教授で,社会心理学を教えている。『民族という虚構』に続く本書では,タイトルの通り,近代社会に不可欠な概念である責任の虚構性をテーマにしている。
前著では,民族という虚構を多くの人が信じることによって,現実の国際社会がなりたっていることが示された。そうは言っても,民族紛争のように,虚構を過度に盲信して起こる悲劇は看過できない。虚構性を前提としてよりよい解決を考えていかなくてはならない。本書も,多くの人が信頼を寄せている責任という考え方を,ホロコースト,死刑制度,冤罪などの例を通して分析し,相対化してみせる。非常に刺戟的な本であった。新書を読むことが多いが,もっとずっと部数の出ないこういう本にこそ,いいことが書いてあるものだ。
近代社会は,個人を至上とし,個人を中心につくられてきた。中世は宗教という虚構によってまとめられてきたが,近代は法によって秩序が保たれる。いま,たいていどの国においても,憲法は個人の尊厳,人権を至上価値と謳っている。民法の根本原則は私的自治であり,自立した個人同士の契約によって経済活動が営まれる。自由意思に基づく契約だからこそ,その履行には責任が求められる。刑法で人間を裁く根拠も,個人の自律性から導かれる責任という概念である。刑事責任は,他の行動をとれたのに,敢えて罪を犯してしまったという点に対して問われる。人間として未熟な子供や,自由意思に基づく行動のとれない心神喪失者は,自律性をもたないため,その行為を罰することができない。
しかし,自立した個人という考えはフィクションである。どんな人間も他律的な存在にすぎない。まず,誰もが納得するように,両親からの遺伝,育ってきた環境で人格形成は左右される。注意が必要なのは,環境からの影響というのは思った以上に大きく,しかも本人にとって無自覚のうちにおこるということだ。「好き」とか「嫌い」とった,極めて主観的と思われる感情―嗜好―さえ個人の内部で自律的に形成されるのではない。実証研究の成果によれば,個人が,ある対象について現在いだいている好悪の感情は,それまでに対象と接した時間の長短に大きく影響される。人は,自分が過去に多く触れてきた対象に愛着をもつ。雛鳥のすりこみのように,そうやって無意識に嗜好が形成される。もちろん,人生を重ねるにつれ嗜好は固定してゆき,好きなものを選択する,という常識的な現象が観察される。しかし白紙状態からの嗜好成立においては,逆に接触したものを好きになるのである。どのような対象に多く接触するかは,自分の意思よりも環境に左右される,多分に他律的な事柄である。広告などで嗜好性を操作することは十分可能である。個人の思考様式,行動様式に対する外部からの影響というのは,思いのほか大きい。
劣悪な環境で育ったことが,犯罪の遠因をなすことは常識とされている。しかし,同じような境遇におかれても,罪を犯さない人もいる。そのことを根拠にして処罰は正当化されるのだが,どうやらこの根拠も怪しい。ふつう我々は,人間がある行動をとるとき,それは自由意思に基づいた行動である,と考えるが,これは誤解である。認知神経科学や大脳生理学の知見によれば,無意識的指令によって身体の運動が起こり,それと並行して対応する意思が生じる。意思の発生は運動より若干早く起こるので,本人は自由意思によって体を動かしていると錯覚するにすぎない。これを実証する実験の一つにこんなものがある。勝手な時点にボタンを押させて表示を変える実験で,次の細工をする。被験者の無意識的指令を電気的に検知し,意思の発生に先立って表示が変わるようにするのだ。すると被験者は,ボタンを押す前どころか押そうする前に表示が変わる違和感を強く覚える。意思と行為の関係がそのようなものだとすれば,現実に犯罪行為に及んだか否かは,自由意志による選択の結果ではなく,無意識的指令が生じたか否かという偶然に左右される。そうだとしたら,いったいどうして人間は人間を裁けるのだろう。
とどのつまり,人間の自律性は幻想である。人は,ある行動をとったとき,その動機を問われると,後からもっともらしい理由づけをして,それが動機であったと信じることが多い。その行動のきっかけが実際には外部によって作りだされていたとしても,本人は自主的に行動したと信じこんでしまう。人間は常に意味づけをする動物である。特に学歴の高い人,社会的地位の高いエリートほど,自分が自律的であるという信念が強く,その分,自己の他律性に気づかない。彼ら合理主義者は,本当は他律的にふるまう自分を,自律的にふるまっていると錯覚するため,より外部からの操作を受けやすい。人間とは,外部との情報交換が不可欠な,外部に開かれたシステムにすぎない。それにもかかわらず,個人の自律性が信じられているのは,それが近代社会の基礎になっているからである。自律性幻想なしには,自由な個人を前提にした,今の形での社会はなりたたない。
本書は,幻想の上になりたっている社会を否定しようとするのではない。現在も,歴史という連続体の中に埋めこまれている以上,我々は,近代という虚構の上に生きるしかない。社会の前提にある虚構性を意識し,修正すべきは修正しつつ,当面はだましだましやっていくほかない。中世の軛か���解放されたように,将来,この状況が克服されるときはくるのだろうか。人間が人間である以上,それは無理なのかもしれない。
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法や道徳に究極的な根拠はない。にもかかわらず、客観的に基礎づけられうるものとして人々に理解されている。であれば、なぜどのようにして法や道徳は社会的に機能しているのだろう?こうした疑問に答えようと試みている力作です。
まず、社会心理学や大脳生理学の知見に基づき、人間の主体性に筆者は疑問を投げ掛けます。そこから〝自由意思による行為だから責任を負う〟という通念の誤りを指摘して、因果律では捉えきれない責任現象に言及していきます。その上で、道徳や社会秩序の成立原理を考察していくという構成です。
筆者曰く、人間を超越する〈外部〉の創出がその原理の要点です。人間が生み出した規則であっても、人間自身の手の届かない〈外部〉からの規則であるかのごとく受容されることが重要だという指摘になります。近現代政治思想の著作を題材にしながら、道徳が〈外部〉化されていく過程を跡付ける分析もなされています。責任の虚構性にハッとすると同時に、社会的虚構の重要性を痛感するのではないでしょうか。
責任のみならず、多様な社会現象を捉える際に有用な視点が示されています。歯切れの良い文体で読み心地も良いので、一読の価値ありだと思われます。
(ラーニング・アドバイザー/国際 OYAMA)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1330197
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イラク人質事件を契機に、「自己責任」という表現が社会に定着し、以後、この言葉は「権力者が責任を逃れ、弱者に責任を押し付けるためのスローガンになった」。著者はこの違和感を重く見て、責任と呼ばれる社会現象が何を意味するのかを、本書で追求しようと試みる。
著者はナチスのホロコーストや日本の死刑制度などを例に、その際に生じる責任がどのような論理的構造に支えられているかを明確にすることで、「責任は社会的に生み出される虚構」であると結論する。その論考は、人間の「主体という物語」を通過して道徳や正義の存在の本質に迫り、間然する所がない。
死刑制度を支持する日本人は、ナチスに容易に加担する可能性が高いことを論証する第2章では、自分の目からウロコが落ちる瞬間に出会える。
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「責任」とは何だろうか?虚構と現実を結びつけている社会的・心理的仕組みを解き明かし、「常識を疑う」という問いの重要性を鮮やかに示す。 (松村 教員)
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読み直したさ:★★★
因果関係の誤解。〈隠された〉虚構の重要性。
自律性に対する懐疑。
〈感想〉
責任とは何か,因果関係とは何か。それは自らを安心させるための,筆者の言う虚構である。しかし,この本を読んでいると,自律の不可能性を突きつけられ,不安になっていく。外部にあるコントロール不可能なものにすがって生きる。人を裁くことはできるのか,裁判官はシステムの中の一コマとして自らを偽って判決を書くしかないのか。
ホロコーストしかり,具体的な事件とともに書かれているので読やすい。非常に楽しい読書体験。
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[★★★★]平明な記述。前半の哲学論議の部分をもっと掘り下げてほしかった。時間をおいて再読しよう、次回はノートをとりながら。次は、著者の「社会心理学講義」を読みます。
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前半は「実際に人間はどう行動するか」として、ホロコーストや現在の死刑制度、冤罪が生まれる構造、それらの共通点の解説。後半は責任という社会現象について、自由意志論や責任の概念構造から云々。後半部分は十分理解できたといえないので、またいつか読み直したい。なので今回は引用して終わり。
「本書は規範的考察ではない……実際に人間はどう行動するのか、責任と呼ばれる社会現象は何を意味するのか、これが本書の課題である(p.ⅲ、はじめに)」
「死刑制度を可能にする無責任体制に目を向けたのは、死刑制度日批判したり、廃止を呼びかけるためではない。ホロコーストや戦争犯罪のような悪だけでなく、我々が必要と認める制度も実は同じメカニズムに支えられている。善と悪の境界は想像以上に曖昧だ。地獄への道は善意で敷き詰められている。この警句の意味を我々はもう一度よく考えるべきだろう。(p.256、結論に代えて)」
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基本的に自由意志を認めない立場の筆者が論じる社会とは何か。歴史とは何か。とてもスリリングな展開で小気味よい。特に結びの6章、社会秩序と<外部>が最も興味深い。
「倫理判断は合理的行為でなく、一種の信仰だ。それゆえに道徳・社会規範は強大な力を行使する。」
社会規範と宗教の類似性、そして集団とは何か、個とは何かを巡る骨太の格闘がここにある。
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責任という虚構があることによって社会に出来た傷を回復することが出来る。人間に出来る傷を癒す役割を虚構が担っているのかもしれない。
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大変な力作である。
事件や事故が発生すると、われわれは特定の個人に責任を押し付けようとする。しかし「責任」とは何だろうか。
責任を正当化するためには、行為者の自由が保証されていなければならない。その「自由」がいかに不確かな概念であるかを、さまざまな心理実験を参照しながら小坂井はまず論証する。しかしそのことは必ずしも決定論を導かない。「自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望む通りに行動できるという『感覚』である」と小坂井は言う。
では犯罪とは何か。「犯罪とは行為の内在的性質によって規定されるのではない。社会規範に違反することが犯罪の定義だ」と小坂井は答える。絶対的な善悪に従ってルールが定められるのではなく、定められたルールに違反することがすなわち悪なのだという論理は、永井均の道徳哲学とも親和性が高い。
ルールは虚構である。しかしルールが虚構であることと、その虚構によって社会が成立することとのあいだに矛盾はない。貨幣というフィクションによって市場経済が成立しているのと同じように。小坂井はそう解説する。
罪よりも先に罰がある。然り、罰したいという欲望がある。しかしそれこそが原罪であるという考え方は成り立たないだろうか。殺人が罪であることは、ルールの制定以前の必然ではないだろうか。言語と相即的に発生し成立する「同情」に、ルールの根拠を求めることはできないだろうか――等々、数々のインスピレーションがわき起こり、ページをめくる手が止まることもしばしばであった。
著者はフランスに在住し、フランス語での著作も多数あるという。確かに緻密さと息の長さは日本人離れしているが、美しい日本語は論旨も叙述も実にクリアである。ゾレンを含まない客観的な叙述は類書にありがちな啓蒙主義とは無縁であり、圧倒的な論域の広さも含め文句なしの名著である。