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- カテゴリ:一般
- 発売日:2008/07/01
- 出版社: 文化科学高等研究院出版局
- サイズ:21cm/541p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-434-11834-0
- 国内送料無料
紙の本
心的現象論本論
著者 吉本 隆明 (著)
吉本思想の真髄! 言語表出論、幻想論から「心的現象」へ、そして前古代・アジア的ということへと架橋する、30年を超える言語思想の格闘から生み出された本質論。【「TRC MA...
心的現象論本論
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商品説明
吉本思想の真髄! 言語表出論、幻想論から「心的現象」へ、そして前古代・アジア的ということへと架橋する、30年を超える言語思想の格闘から生み出された本質論。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
すべては心からという問題提起…32年以上も継続した心的現象へのアプローチ。
2008/11/28 21:12
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
●人間は心=観念のある生き物…
政治も経済も科学も宗教も、人間の心が無ければ機能しないし、そもそもそういうシステムや装置はこの世界に生じない。ただの紙切れや金属片に<通貨>としての価値を認め、それを使って生活を営み、それのために働くのも<心>があるからで、時には<国家>のために戦争という名目で人を殺し、あるいは革命やテロというカタチで国家や体制に戦いを挑む。あるいは恋愛や家族のために国家を捨てることもあるし、命をかけて争うこともある。
すべての原因は<心>にある。そして、すべてに<心>が(反映されて)ある。本書はこのシンプルな事実を突きつめ続けた32年以上にわたる未完の記録だ。
「共同幻想」で革命を説き「対幻想」で家族を考え「自立」「大衆」最近では「ひきこもり」などのコトバで人間を考え続けた戦後最大の思想家。現代思想の張本人?であるフーコーやボードリヤールとの討論を通して絶賛されつつ、あくまで在野をつらぬいた思想の巨人。今や世界的な作家となった吉本ばななの父でもあり、頑固な東京下町のオヤジでもある人。本書はそういう人の未完に終わったライフワークの成果ともいえる。
●うつ病から解いていく驚異の展開…
本書のメインのひとつにうつ病への緻密な解釈がある。本書は『本論』であり『序説』とは趣きが違っているが、見事に『序説』から演繹された内容となっている。序説においては読解に高度な抽象力が問われたが、本書はより簡明な理論の展開となっており(これでも!)丁寧に読めば読者の思索を刺激してくれる内容だ。
たとえば冒頭にある「目の知覚論」では縄文土器の文様から直線がプリミティブな抽象であることが指摘される。その直線の形成は知覚の感情によることが示される。前段では心理には錯覚など無いことが説明され、そのように見え、そのように見ようとする視覚の必然性が説明されている。ここに感覚から観念に至る最初のルートが明解に示されてしまう。
この最初の16頁分だけで、この書がただものではないことが解るだろう。あるいは心理学や各種の認識論、哲学などジャンルを超えたあらゆる分野でとてつもない衝撃やコンプレックスが、しかし顕在化しないで沸き起こることが予感されるかもしれない。
ただ、難解で有名?な『心的現象論序説』がプロ?からは論評さえされないことで読者に継承されてきたように、今回も何の論評も無いのかもしれない。それはたぶん、かなわないものをシカトするのは自己防衛の基本だからという明示されない理由によってだろう。
次の「身体論」ではいきなり「古典ドイツの身体論」としてフォイエルバッハへの孝察からヘーゲルの観念論までの広がりを射程とする探究がはじまる。この緻密な検討と驚異的な広がり、それらを支えているのがオリジナルな観点への繰り返される自問自答だ。
そして『心的現象論序説』『ハイイメージ論』『アフリカ的段階』などで示されてきた欧米思想への孝察とその成果が縦横無尽に駆使される。フロイトからライヒ、ドウルーズ・ガタリからラカン、三木成夫からホログラフィ理論までが引用され検討される世界は単なる読書家にもスリリングだ。
●<手>からすべてを考えたり…
よくカントの言葉として「手は外部の脳だ」といわれるが、本書の<手>への孝察は哲学的な瞹昧さが無く、人間という観念をもった生物の、その<手>という器官が認識と行動を媒介し統御し内化することを機能としていることが解き明かされている。<手>の知覚は触覚だけだが、<手>は<了解>するものだ…とマルクスが1つの<商品>から資本主義のすべてを読み取るように、ひとつの器官である<手>が孝察される。
人間が自然に働きかけるのが<労働>であり、それを通して<自己実現>し、その成果が<商品>だとするのがマルクスだが、本書では『資本論』や進化論を踏まえ、認識論として哲学的に<手>が考察されている。
<手>の特異性が<時間>の拡大と構築に関与する…
それは外化された<了解>であり
…個体の生涯が限る<時間>を超えようとする作用に根ざしている。
<手>がつくりあげるのは
物質的であっても観念的であっても<了解可能>あるいは<了解希望>であって…
吉本隆明の手が作り上げつつあった本書は未完のまま刊行されたが、その読解は読者に任せられている。戦後最大の思想に対して戦後最大の読解は提示されるのだろうか? 「社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?」といった橋爪大三郎の指摘は重い。
●この潔癖さは邪魔かも?
『ひきこもれ』『13歳は二度あるか』『中学生のための社会科』などでまったく新しい若い読者もでてきた著者だが、その理論的な成果を解説するガイドはない。団塊の世代がメインを占めるのだろうか従来の読者層は論壇的な政治談議ばかりで、しかも理論的な孝察が出来ていないというオメデタイ状況にある。
現在は渋谷陽一と糸井重里が若い読者を吉本ワールドに導く数少ない仕事をしているだけなのかもしれない。本書の刊行など歓迎できるデキゴトはあるが、ノンジャンルでラジカルな著者の思想理論やフーコーほか欧米思想家とのやりとり、本書をはじめとする心的現象論関係の成果に対する研究と検討…などが本格化することを希望したい。
著者に失敗?があるとすれば任官しないことかもしれない。最高学府をはじめいくつもの大学から教授への就任を求められながら著者は固辞しつづけているようだ。もし東大や東工大の名誉教授の肩書きでも受ければ、<戦後最大の思想>が正式?に研究対象となり得ただろう。ヘーゲルかフロイトか柳田國男か心理学か言語学か、マテリアルな根拠を社会科学というジャンルで問いながら、そのベースには理系のクールなスタンスがあり、用語の一つからして他者に否定されることもなかった。問題なのはむしろ理解さえされなかったということではないか。理解できなかったことを正直に認めた浅田彰などは小数派で多くは驚くほどの曲解や誤読から批判や否定が繰りだされた。それらは論者の肩書きに反比例するほどの失笑をかうものがほとんどだ。だからこそ、多くの者による理解の可能性と思索の広がりのためにも、最高学府名誉教授なりの肩書きを受けるべきだったと考えられる。この点においては、吉本の潔癖さが大衆への知の可能性の障害となってしまった事実は無視できないのではないか。