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商品説明
その名前はろむる、水晶の髪、昆虫の翼、種族名、ヒトトンボ、天人星、夏王子、とも書く。性質は非情、楽器を鳴らす。その卵はフェリーにより、千葉に運ばれた、人の記憶に入り込み、「ともに暮らす」。彼との別れに関する警告と注意。世界と対峙する内面の静かな朝…悲しみを超克する水晶の覚醒。【「BOOK」データベースの商品解説】
水晶の髪と昆虫の翼を持つ男・ヒトトンボ。その卵はフェリーにより千葉に運ばれ、人の記憶に入り込み、「ともに暮らす」。彼との別れに関する警告と注意−。『ちくま』連載に大幅な加筆・書き下ろしを加えて単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
笙野 頼子
- 略歴
- 〈笙野頼子〉1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。「極楽」で群像新人文学賞を受賞しデビュー。「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞、「金毘羅」で伊藤整文学賞など受賞多数。
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紙の本
猫の死を悼んで
2010/02/10 21:32
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初はエッセイ集かと思ったんだけれど、そのうち妙な幻視が混じってきて、これがほとんど小説として書かれていることに気づかされた。基本的な事実関係はフィクションではないようだけれど、エッセイと小説の境界を「文章」の力業で跨ぎ越えていく書き方は笙野頼子得意の筆法だと言える。
これが連載されていた二年間といえば、「おんたこ」三部作の完結と、「金毘羅」から始まり、「萌魂分魂譜」、「海底八幡宮」の金毘羅三部作(あるいは人称三部作?)を展開していく時期にあたる。
この時期は「仏教的自我」論を展開しだしたころから比べても、さらに射程を広くし、フォイエルバッハを読み込み、マルクスのドイツイデオロギー批判を作中に織り込むようになっていて、さらにドゥルーズの「千のプラトー」を小説化するという試みもあり、フォイエルバッハもマルクスもドゥルーズも読んでいない私にはそこら辺の理論的背景が全然分からなくなってきた。もちろん、読むにさいしてはそこまで気にしなくても良いと思う。ただ、読んでこれは凄いと思っても、いざそれを文章にしたり論じたり整理したり、という段になると途端に途方に暮れるばかりになってきた。
おんたこ以前の諸作に比べても、近作についてはかなり難しいと感じる。この本はその間の笙野の思考のあとをある程度トレースできるようになっていて、ここ数年の作品のベースにあるものをうかがい知ることが出来るという利点がある。作中のヒトトンボという幻視の生物は「萌魂分魂譜」に引き継がれたものだろうし、フォイエルバッハの読みなどについても述べられている。
しかし、本書での最大の読みどころは、笙野の猫の死が起こってからの流れにあると思う。三割程度連載が進行したところで起こった猫の死はその後の流れをがらりと変え、喪失の痛みを抱え、重々しい雰囲気が立ちこめるようになる。この本は、戦友でもあり、伴侶とまで呼ばれるほど著者にとって大切な猫の死について書かれている。
本来、そしていまでも猫が好きというわけでもない笙野がなぜ野良猫をわざわざ引き取り、また猫のために千葉に家まで買ったのかは「愛別外猫雑記」や「S倉迷妄通信」に詳しい。家はほぼ猫のために買ったというくらい、笙野にとって猫たちは重要な存在であり、それは自らを虐げる世間に対する戦友意識のようなものも相俟って、きわめて意味深い存在として笙野の作品に現れてくる。「伴侶」という言葉の持つ意味と、そして千葉に越してから二匹目の死に直面したことのショックは一読者にとってすら重い。
猫の死を報告した10章のラスト、「自分が死のうとする事は予想外であった。でも心は抵抗しても結局、体が死のうとした」という結語に、リアルタイムで連載を読んでいた人はどれだけ心配しただろうか。この一文が連載時にあったかどうかは分からないけれど。
小説はその後、猫の死をうけてさまざまな思考がめぐらされていく。そこで、小説序盤から登場していた架空の生物「ヒトトンボ」が活きてくる。このヒトトンボをめぐる記述は幻覚的というよりは明晰なもので、架空であることを自覚しながらも行われている点で明晰夢のような奇妙な狂いを含みつつ進行していく。しかしそれは狂気を増幅していくと言うよりは、死への傾斜を押しとどめている役割を果たしている。
このヒトトンボ、「ろむる」は書き手の記憶を遡って自分を埋め込んでいく奇怪な存在であるらしく、そう聞くとなにやら寄生虫のようだけれど、自己のなかにある自分とは違うものの存在のかかわりを通じて、ろむるは猫の死を経験した書き手の死の苦悩を救済するように死んでいく。
さて、作中ではこのような重要な記述がある。
「「自己の中の他者」、それが私の考える素朴な「神様」の定義だった」101P
この観点からするとヒトトンボもまさに神様だ。そして、この「自己の中の他者」というのはずうっと笙野が書き続けているテーマの端的な要約でもある。そして、この作品のタイトルでもあり、核となるモチーフになっている、その内側に傷を持つ水晶が、まさにこの象徴として現れていることがわかる。内側に傷があったり、歪んでいたり、途中で折れてまた成長をはじめたセルフヒールド水晶など、そういうものに自分をなぞらえたりして、透明なクリスタルとしての水晶ではなく、不純物を含むクオーツとしての水晶を取り上げるのは、内部の他者ということと不可分だ。
これを読むと、笙野頼子が「宗教」や「神」にこだわるのはなぜなのか、ということがある程度分かると思う。小説はなかなかに難度が高いのでおいそれと人に勧めづらいところがあるのだけれど、これをきっかけに笙野を読んでみるのも良いのではないかと思う。
個人的には、知っている人や自分が関わった件などが記述されていてなんだかとってもむず痒い本だったりもするけれど。