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商品説明
本を読む。読みたいから読む。やむにやまれずただひたすらに。読み疲れてまどろんだりしても、それも読書のうちである。ただその本とある時間と空間を愛するのみ…。すべての書痴に捧ぐ、読書の歓びを綴った書。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
草森 紳一
- 略歴
- 〈草森紳一〉1938〜2008年。北海道生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒。評論家。「江戸のデザイン」で毎日出版文化賞受賞。ほかの著書に「不許可写真」「夢の展翅」など。
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紙の本
読書の本意は中断にこそあり
2010/01/17 18:04
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
また、ストレートなタイトルではないか。ただし、「本の読み方」と言っても三色ボールペン片手に読むといった、よくあるハウツー本ではない。文字通り、人は本を読むとき、どんなふうにして読んでいるかを、古今東西の錚々たる読み手の書いたものから抜き出し、それに少々辛口のコメントをまぶして随筆仕立てにした読書をめぐるエッセイ集である。
読書家として知られる草森だが、のっけから自分は読書家ではないと言う。本を読むのがやめられないのは、たえず中断につきまとわれるからだ、と。寺田寅彦が病床で読書中、ウグイスがガラス窓にぶつかって死んだことから、人の人生に思いを致し、「人間の行路にもやはりこの<ガラス戸>のようなものがある。失敗する人はみんな目の前の<ガラス>を見そこなって鼻柱を折る人である」という随筆が生まれたことを例にとり、「時にその中断により、寅彦がそうであった如く、本の内容とまったく別なところへ引きづりこまれ、うむと考え込んだりもする。快なる哉」と、書く。本を読んでいるのがむしろ常態で、中断の方に興が湧くというのだから、なるほど並大抵な読み手ではない。
そうなると、次はどんな格好で読むのが楽かという思案となる。坂口安吾が浴衣がけで仰向けに寝転がって本を読んでいる姿を兄がスケッチしたものが残っている。手が疲れそうだが、筆者も家で読む時は百パーセント寝転んで読んでいるという。齋藤緑雨もまた、「寝ながら読む、欠伸をしながら読む、酒でも飲みながら読む。今の小説とながらとは離るべからず」と書いている。一見不作法な読み方を称揚しているようだが、その実これは、「明窓浄机」という儒教の礼法を当時の小説に非を鳴らすためわざと裏返して見せただけ、というのが真正の「不良」をもって任じる筆者の見方。小説でなくたって寝ながら読める。論より証拠。六代目圓生は酒を飲みながら「論語」を読んだという逸話を息子の書いた『父、圓生』から引いて、緑雨に一矢報いている。
戸外での読書、車中の肩越しに人の読んでいるのを覗き見る読書、緑陰読書と、本の読み方にまつわる引用が次々と繰り出されるのだが、中国文学が専門だけあって、漢詩、漢文に関する蘊蓄が尋常でない。
その一つ。「読書の秋」というのは誰が言い出したのか、という話。秋は収穫の時であり、「食欲の秋」ともいう。食べれば眠気に襲われるからこの二つは相性が悪い。大槻盤渓の『雪夜読書』という詩の中に「峭寒(しょうかん)骨に逼(せま)るも三餘(さんよ)を惜しむ」という詩句がある。「三餘」とは、読書の時間に絡む熟語で、「冬」の時、「夜」の時、「雨」の時を指す。
これには典拠がある。本来は「董遇(とうぐう)三餘」といい、「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」という言葉をのこした、学者で高級官僚でもあった董遇が、本を読む暇がないという弟子に「冬という歳の余り、夜という一日の余り、雨という時間の余りがあるではないか、お前はなまけものだ」と叱ったという故事から来ている。
草森は、「三餘」は、農耕文化のものだと看破する。冬、雨、夜は農業にとってはお手上げの時だから「余り」なのだ。とすれば、巷間に流布する「読書の秋」というのは、虚業中心の都市文化、それに連なる「レジャー文化」の産物である。「三餘」が死語になるのは、季節感を失った二十世紀現代文明にふさわしいと言い捨てている。
副題の「墓場の書斎に閉じこもる」は、少年時の毛沢東が、野良仕事の合間を盗んでは墓場の木の下に座り込んで三国志や水滸伝に読み耽った話が出典。特大のベッドに本を山積みし、寝間着のまま読み続けていたという、この人が、文化大革命で「焚書」を命じたのであったか、という歴史の皮肉を思わないわけにはいかない。他にも、令息森雅之が見た、書斎の有島武郎の意外な姿や、河上肇が獄中の便座に胡座して漢詩を読んだ話とか、博学多才にしてジャンルを博捜・横断したこの人ならではという、ここでしか読めない逸話に溢れた随筆集である。
紙の本
草森紳一が死んだ
2009/10/04 22:00
11人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
どうやら草森紳一病に私も罹ったようだ。「本が崩れる」という迷著に続き、本書まで買ってしまうのだから。何といっても帯が笑わせる。「本は崩れず。」とある。これは「本が崩れる」を読んでいる草森病患者にだけ、しかもかなり強烈に通じるジョークである。そうでない人には、何を言っているのか、さっぱり意味がわからないだろう。本書にはふんだんに読書している人々の写真が出てくる。ほぼすべてが都内で撮影されたものらしく、同じく東京都に勤務する私には、「あ、これは渋谷駅だ」「あ、八重洲ブックセンターの二宮金次郎だ」と撮影場所までわかってしまう写真が数葉ある。なんでも著者は「読書している人の姿」がとても好きなんだそうで、常に携行しているカメラを用いてパチリ、パチリと撮っていたそうで、それが本書の随所にふんだんに差し挟まれている。この写真がまた実にいい。中身は「読書」にまつわる古今東西の作家の文章をベースにした「読書」に関するエッセーである。今は無き文芸春秋社が出していた「ノーサイド」(コンセプトとしては「サライ」に似た内容ながら、文芸春秋的編集のなせる業か、わずか5年しかもたず、1996年に廃刊となってしまった)に連載されていたコラムである。中でも気に入ったのは、林真理子作「本を読む女」を扱った一章。いやあ、草森さんの文章って、味があるなあ。彼みたいな人生を私も送りたいなあ。
紙の本
ハッとする
2009/09/17 00:18
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つぶて - この投稿者のレビュー一覧を見る
本の読み方なら、今さら聞くまでもない、そう言う人がいるかもしれない。けれども、この本、一風変わっている。たとえば、草森紳一の次の言葉はどうであろう。
読書といえば、
頭のみを使うと
思っている人が多い。
それは、誤解で、
手を使うのである。
読書とは手の運動である。
読書という行為は、生活の中に溶け込んでしまうと、いつしか自意識を離れ、無意識の運動にまで純化されてしまう。そのことに考えが及んだとき、本のページをめくる自分の手の動きを感じ、ハッとする。