紙の本
けったいな翻訳。
2009/09/07 22:27
11人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「歎異抄」を現代語訳した川村湊氏は真宗や仏教の専門家ではないので、解説が新しい視点から、といったものがないのは仕方がないだろう。
唯円房は普通常陸の人とされているし、異説でも親鸞聖人の孫の唯善と異母兄弟だから、現代の関西弁で翻訳するとは、けったいな事だ。せめて京言葉にしてほしいものだ。
しかし悪人正機論を親鸞聖人の独創ではなく、法然上人だと論じたのは浄土宗の梶原昇氏の著書であり、醍醐寺本「法然上人伝記」を使った梅原猛氏の「法然の哀しみ」もある。
氏は天皇制廃止論者だから、「歎異抄」の巻末にある流罪目録を、どう料理するのか、を読んでみたくなって注文したが、見事に答えてくれた。流罪目録についての意味を阿満利麿氏の本を言及されているが(147頁)、梅原猛氏の本は触れていない。氏が文化勲章受章者で歌会始の召人を務めた方だからだろうか?
岩波文庫版の「歎異抄」を校注した金子大栄師は大谷派の学者で、大谷派が刊行している「真宗聖典」こそ流罪目録を本文に入っているが、「歎異抄」の単行本では流罪目録は付録扱いだ。一方、本願寺派系の学者は流罪目録を本文に入れている事が多い。多分、大谷派と本願寺派とでは伝統的に解釈が違うのだろう。
"「親鸞は弟子を一人ももたずそうろう」という教祖の下に、何千、何万という門徒が存立してきた"事を"まさに一木一草に根付く天皇制信仰と結びついてゆくもの"(148頁)、"「血脈」という世襲によって教団を支配してきた親鸞の子孫としての蓮如や大谷家、誰が見ても、浄土真宗という集団は、親鸞の教えに背馳する事によって、その法灯を継いできたと強弁している"(149頁)というのは、どうも本願寺=浄土真宗という考えがこびりついているのか、専修寺や佛光寺のような親鸞聖人の弟子から生まれた教団の存在を忘れているようだ。一向一揆の時に本願寺門徒と専修寺門徒が内ゲバまがいの抗争をしていたし。
第一、東国の弟子達がゴタゴタして息子の善鸞を東向させたのは親鸞聖人本人だ。これこそ浄土真宗版「血脈」の原点だろうに。
阿満利麿氏も同じ間違いを書いている。ただ氏は本願寺派の末寺出身だから、無意識に本願寺中心主義を持つのは分かる。
「歎異抄」より、氏が専門にされている朝鮮文学・在日文学から張赫宙の李王垠殿下の半生を小説化した「李王家悲史 秘苑の花」を論じてみてほしいものだ。
投稿元:
レビューを見る
なぜか関西弁で訳されています。私は関西弁を普段使いますが、文字にされると非常に読みにくかったです。
内容は他力がどうこう、って話です。立ち読みで十分、てか読まなくても・・・
投稿元:
レビューを見る
とても難しいです。
もちろん訳語は平易で分かりやすいのですが(大阪弁である必要があるかどうかはともかく。。。)、
親鸞や唯円が後世に伝えようとしている思想は決して分かりやすくはないです。
現代においてほぼ誤用されている「他力本願」の真髄は、一読だけでは計り知れない。
ただ、万人のための、慈しみの思想であることだけは何とか理解したつもりです。
滅多に書籍を読み返すことのない私ですが、これはもう一度、読んでみようと思いました。
投稿元:
レビューを見る
先日読んだ、司馬遼太郎氏の「尻啖らえ孫市」で浄土真宗に少し興味を持った。
その浄土真宗の開祖である、親鸞聖人の教えを高弟である唯円がまとめたものが歎異抄であり、今回読んだのは、最近出版された関西語訳バージョンである。
本書で説かれている親鸞の教えについては、細かいところなんかは、正直あまり分らなかった。
ただ、それ以上に引っ掛ったのは、この「関西語訳」がなんか変な感じだったこと。
以前読んだ「関西語訳ソクラテスの弁明」は言葉が非常にこなれていて、読んでいて(関西人の自分には)とても心地よかったのだが、この作品での訳は違和感を覚えてしまい、フラストレーションが溜まる一方だった。
おかげで非常に短い作品(本文は60頁くらい)にも関わらず、思いのほか読むのに時間がかかってしまった。
もし、関西語で古典を読みたいという、奇特な方がいらっしゃるなら、この「歎異抄」ではなく、「ソクラテスの弁明」の方を強くお奨めしたい。
投稿元:
レビューを見る
関西弁訳というのに惹かれて読んだ。
堅苦しい印象がなく、すらすらうと読むことができた。
「他力」ということがどういうことなのか、よくわかったような気がする。
投稿元:
レビューを見る
浄土真宗の教祖である親鸞。
その直弟子の唯円が師である親鸞の思想がその死後に異なったものになることを歎じて書いた書と言われる『歎異抄』
親鸞(1173-1262)は12世紀から13世紀にかけて生きた人物であり、今から750年以上も前の人物だ。
驚きなのは、親鸞は弟子をとらない、としてこの本文中にも書かれてあり、
また、大正時代のベストセラー本でもある『出家とその弟子』でも、このような形で描写されてあったが、その親鸞の教えである「浄土真宗」が今も尚脈々と受け継がれているということだ。
唯円のように全てをなげうって、丁稚のような形で遍路をともにするものはいたが基本的には弟子達にお寺で大規模に教えるというようなことはなかったのではないかと見受けられる。
そして、その教えを受け継いだのは親鸞の血族であり世襲によって引き継がれていくという点は興味深い。
この浄土真宗における核となる思想「他力本願」は、信仰心をもち「南無阿弥陀」を唱えるとことで、学問や厳しい修行をできない人でも、救われるというもの。
当時、学問的かつ厳しい修行を得てからでないと解脱はできず、普通の人にすれば仏陀へと至る道があまりに険しかった。
そうであれば意味がないではないか、一般の人々に対しても門出をひらいてこその、この世の中ということで、自分の力で頑張るから救われるというパラダイムから、他人の力で救われるという他力本願を「南無阿弥陀」で作り出した宗派。
その真髄を、
唯円が語り口調で説いているのがこの書だ。
投稿元:
レビューを見る
【本の内容】
「アミダ如来はんにいただいた信心を、おれのもんやいう顔で取り返そういうのんは、ホンマにアホらしいことやで」。
天災や飢饉に見舞われ、戦乱の収まらない鎌倉初期の無常の世にあって、唯円は師が確信した「他力」の真意を庶民に伝えずにいられなかった。
親鸞の肉声、ここに蘇る。
[ 目次 ]
歎異抄
歎異抄(原典)
付録 親鸞和讃抄
[ POP ]
浄土真宗の開祖、親鸞(1173~1262年)の言葉を弟子の唯円が書き取ったとされる仏書を、文芸評論家の川村湊さんが現代語訳した。
取り合わせが意外だ。
しかも、当時の語りの雰囲気が出るよう関西弁風にしたという。
「悪人正機」を唱えた有名な一節、<善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや>はこうなる。
<善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない>
今年5月、パルコ出版から『ソクラテスの弁明 関西弁訳』(北口裕康)も出た。
難しい書物を大阪風の語感で訳すのが、流行なのか。
<往生には賢しらな考えなど持たずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつねに思い出してみるべきや>
親鸞は、自分で考える「自力」を否定し、阿弥陀にすがり、念仏を唱える「他力本願」を説く。
強い教えに引かれながら、「あかん……」。
その境地に至るのはまだ早い気がした。
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
親鸞の弟子唯円による聞き書き。信じるとは何かということを、読む者にまざまざと見せつける。私自身、大学時代にこれを読んで、「自分みたいなものも生きていていいんだ」と思わされた体験がある。(2010: 柳田洋夫先生推薦)
親鸞の弟子唯円のえがいた親鸞像。宗教思想としての仏教をしるため
の重要な書。。(2010: 清水正之先生推薦)
投稿元:
レビューを見る
今週おすすめする一冊は、親鸞の教えを弟子の唯円が書き綴った書
『歎異抄』の現代語訳版です。現代語訳と言っても、本書は大胆に
も、思いっきりくだけた関西弁になっています。「金剛」を「ダイ
ヤモンド」と訳すなど、ちょっとそれはどうなの?と思うような部
分もありますが、画期的に読みやすいことは確か。日本史の教科書
の中でしか知らなかった『歎異抄』をあっという間に読めてしまう
手軽さは、やはり新訳ならではでしょう。
『歎異抄』というと、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人を
や」というフレーズが有名ですね。「善人が浄土へ行けるなら、悪
人だって行けるのは当然だ」という意味で、このような考え方を
「悪人正機説」というのだと、高校の授業では教えられたよぅに記
憶しています。それが親鸞の言葉だということも。
親鸞は、法然の弟子です。法然は、南無阿弥陀仏の念仏すら唱えて
いればいいという浄土宗を興しますが、その一門は、時の後鳥羽天
皇に弾圧され、僧籍を剥奪された上で、越後(新潟)に流されます。
親鸞、時に34歳。
しかし、流浪の民として、越後に行ってからが親鸞の本領発揮です。
親鸞は、出家した僧ではなく、一人の人間として、自ら土を耕し、
農民たちと語らいながら、念仏の教えを広めていきました。越後の
次は常陸(茨城)に移り、63歳で京都に帰るまでの期間をそうやっ
て庶民の間で暮しながら、信仰に生きました。
京都生まれの親鸞が、庶民に教えを伝える時の口調というのは、確
かに本書のようなものだったのかもしれません。そういう意味では、
本書の翻訳もあながち行き過ぎではないと言えるでしょう。
平易な言葉で説かれる親鸞の思想は、しかし、決して易しいもので
はありません。「自力」ではなく、「他力本願」で生きるというの
は、頭ではわかっても実践はなかなかに難しい。親鸞は、人間の善
悪の判断など、阿弥陀様という絶対の存在の前では無に等しいと言
います。人間が自力で解脱しようとするのは、賢しら(さかしら)
で浅ましい、「自分たのみ」ではなく、ただひたすら阿弥陀様のこ
とを信じ、自分の力ではどうにもならないと念仏を唱える「人まか
せ」の姿勢で生きる。それが幸福の条件なのだと言うのです。
中途半端に自力を突き詰めていくと、他人の存在は不要になります。
「自己責任」を言い続ければ、人と生きることの意味が自明でなく
なるのは、いわば当然の帰結なのです。他人の存在が希薄になり、
「自分」が肥大化した現代だからこそ、他力にすがる親鸞の言葉に
もう一度耳を傾けてみるべきではないかと思うのです。
自らの小賢しさに気づかせてくれる一冊です。是非、読んでみてく
ださい。
=====================================================
▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
=====================================================
善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずが
ない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なん
で善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理
屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)とい
うモットーにはずれとるんや。
つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、「お願いします」
ちゅう気持ちの欠けている分だけ、アミダはんのいわはる誓いと違
うとる。けども「自分たのみ(=自力本願)」という心を入れ替え
て、まあ「あんじょう頼みます」と願うとれば、ホンマもんの極楽
行きも間違いなしやで。
親鸞は、弟子は一人ももってはおらへん。なぜかちゅうと、自分の
意志やはからいでひとに念仏させたんなら、ワテの弟子やいうこと
にもなろうが、ひとえにアミダはんのおぼしめしで念仏するように
なったんやから、ワテの弟子やいうのんは、まったくもってオコガ
マシイこっちゃ。
念仏ちゅうもんは「(何かを)やろう」という作為性(=義)なし
に「やる」ということなんや。
「ナンマンダブ」と申すのも、アミダ如来はんのおはからいと思う
て、ちっとも自分の力なんか混じらんからこそ、アミダはんの本願
に応じて、ほんまもんの浄土に往生することができるんや。
目に一丁字もない無学なもんで、お経のことも学問の筋道ちゅうも
んも知らんものが、となえやすかろうと思うて、「ナンマンダブ」
ちゅう名号がおわしますんやさかい、これを「易行」、アンキで簡
単なやり方というんや。学問で何とかしたるちゅうのは、聖道門い
うて、これは難行、ごっつう難しいやり方というんや。「間違うて
学問して、名誉やの利欲なんぞにしがみついとるひとは、今度生ま
れ変わったつぢの世での往生はどないなるかわらかへん」という証
文(=証拠の経文)さえあるちゅうことや。
こないなアミダはんの悲願があるからこそ、こんなあさましい罪人
がどないしたら生死の苦しみから脱け出すこと(=解脱)ができる
んやろと思うて、一生の間「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と申す
念仏は、ぜえんぶ如来はんの大悲への恩返しやで、その徳を有り難
い、有り難いと感謝することや。
すべてのいろんなことにつけても、往生には賢しらな考えなど持た
ずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつ
ねに思い出してみるべきや。そうすれば、自然と念仏も口から出て
くるのと違いまっか。これが自然(じねん)の道理や。
自分であれこれ考えないことを、自然ちゅうのや。これがすなわち
「ひとまかせ(=他力本願)」ということや。それなのに、自然ち
ゅうことが別にあるように、知ったかぶりをしてものをいう人がお
られると聞いとりますが、ほんまにあさましいことやで。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●[2]編集後記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この一週間は、靴に悩まされた一週間でした。
先週の終末、久しぶりに靴を買ったのですが、それ���どうしても足
に合わない。買う時に、ちょっと幅がせまい気がしたのですが、必
要性に迫られていたし、あれこれ選んでいる時間もないので、機能
性と値段を優先して、その靴を買うことにしたのです。
「これだ!」とピンときて買ったものではないですから、買った後
も本当にこれで良かったのかと心にひっかかります。で、履き心地
を試してみようと思って履いてみたら、やっぱり幅が狭いのです。
紐をゆるめにすれば何とかなるかなと思っていたのですが、半日も
履いているとどうしようもなく締め付けられ、足が痛くなってくる。
合わない靴というのは、もうどうしようもないのですね。たいてい
のことは調整すれば何とかなるし、時間が解決してくれもしますが、
靴だけはどうにもなりません。それが悔しくて悔しくて。
どうしても必要だったので、今週末、改めて買いにいったのですが、
やっぱり「これ!」と思えるものがないのです。こんなにモノが溢
れているのに、自分の今の必要を満たす一足に出会えないというの
は一体どういうことなのかと頭を抱えるやら、腹が立つやら。
今回は必要に迫られて買ってしまいましたが、やっぱり「これ!」
と思えないままに買うのはいけませんね。喜びがないし、本当に正
しい判断だったのかといつまでも尾をひきます。ピンと来るものに
出会えなかったら、どんなに必要に迫られていようが、買ってはい
けないのです。逆に、「これ!」と思えるものに出会えたら、金に
糸目をつけずに買ってしまう。結局、ピンとくるかどうかが重要で、
それ以外の情報や状況に惑わされてはいけないのでしょう。
投稿元:
レビューを見る
親鸞の弟子の本でプラトンがソクラテスのことを書いたのと同じような位置づけ。
関西弁訳で親しみは増しますが、逆に分かりにくいです。
不純なことを考えず他力で拝むことは清いのでしょうが果たして現在の風潮に受け入れらるかどうか。
投稿元:
レビューを見る
ぼくは仏とか極楽といったものは信じてないし、この本自体も適当に解釈してるけど「ナンマンダブ」と一言念仏すれば、善人だろうが悪人だろうが救ってしまうという考えや、他力本願の考えは気持がゆったりしてくる。関西語訳も癖はあるけど、感覚で読めるかも。
投稿元:
レビューを見る
親鸞の弟子・唯円が記した親鸞の言行録。なのでプラトンにとっての『対話篇』、孔子にとっての『論語』にあたる。この本はもともと口語体で書かれたものなので、関西弁での現代口語訳になっている。
この本の最大のポイントは「他力本願」。今でこそ他力本願というと、「最初から他人をあてにする」という否定的な言葉として使われるが、これは原義と異なる。
実際の「他力本願」は一切の衆生を救う阿弥陀仏に「お任せ」、「お願い」すること。衆生というのは皆あらゆる煩悩具足に囚われた凡夫=悪人なのであり、それを自覚した悪人が救いの対象になる(悪人正機説)。
この有名な説は、誰かを頼む拠り所のない悪人「南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀仏に「お願い」できるのに対し、自力作善(自分の力で何でもできる)の人は自分を頼み、阿弥陀仏に「お願い」する心が欠けているという理屈によるもの。
私はこの本を通して、阿弥陀仏は自分が煩悩まみれの救われない人間であるであることを救うということ、「俺が俺が」という我執に囚われて独善的になってはいけないということを学んだ。実際、この本で仏教の宗派同士で「お前らは劣っている」と言い合って法敵を作っている状態があることにも触れられている。
浄土真宗はわかりやすく、誰にでも実践できたから多くの信者を獲得できたのだということも改めて認識した。
投稿元:
レビューを見る
何度目かの読み直しである。今度は、全面関西弁なので、とりあえず最後まで読み通す。関西弁、良いと思うよ。そもそも文字を知らない庶民に親鸞の教えを広めるのが目的の書き物じゃけん、しゃべり言葉で伝わらんかったら、意味ねぇーけんな(←突然岡山弁)。
(やはり元に戻して)「自力本願」に対する浄土真宗は「他力本願」。その他「悪人正機説」など、試験に出るから覚えていても、それを真から納得する者はいったいどれほどの人がいるのだろうか?わたしの家はそもそも真言宗なので、葬式の場面で「親は往生したのか」と自問自答したことはなかったのではあるが、何度か浄土真宗の葬式に出席していた時は、昔読んだ解説本や吉川英治・倉田百三・五木寛之の小説のことなどを思い返して不思議な気がした。
1番の関門は、阿弥陀さまを信じるかどうか?
「アミダはんのどんなしょうむない奴でも救うてやろういう本願がホンマやったら」回り回って、親鸞の言うこともホンマのはずや、と言うのが唯一の根拠である。‥‥分かったようで分からん。救うって、なんなん?極楽往生ってなんなん?
2番目の関門は有名な「善人なおもて往生を遂ぐ、言わんや悪人をや」である。
「善え奴でさえ往生する、ましてや悪人が往生するというのは当たり前のことやないかいな」
これは理屈としては通っている。「悪人なおもて往生を遂ぐ、言わんや善人をや」と思っている輩は、それは未だ自力本願の気持ちが残っているからだ。悪人はそんなこと思わないから、悪人の方に阿弥陀様は心にかけてくれるだろう。そこまでは良い。
では悪人にもいろいろ居るから、悪人からこう返されたら親鸞や唯円はどう答えるのか?
「よっしゃああ!往生遂げるんなら、死ぬまでに思いっ切り悪いことしちゃろ!そして死ぬ間際に浄土真宗に帰依したらええねん」こういう輩が出るのは必定である。
絶対出てくるこの意見に対して、実は歎異抄では明確に「邪見」と答えている(35p)。親鸞は手紙の中で「薬があるからというて、毒を好むちゅうのはおかしなことや」と言っていたらしい。ただし、今一つ説得力はない。五木寛之「親鸞」では、このことが大きなテーマになっている。
歎異抄には、最大の難問が親鸞から唯円に挑まれている。唯円にとっても人生で大きな出来事だったのだろう、かなり具体的な会話である。
また、ある時は、「唯円房は、ワシが言うことを信じるんか」と、聞かはりましたので、「もちろんですわ」というたら、「そんならワシの言うことに絶対そむかへんか」と、重ねていわはりますから、「もちろん、つつしんで承知させてもらいますわ」というた。「ほな、たとえばひとを千人殺せいうて、そしたら往生間違いなしやいうたらどうする」と聞かはりました。「いやあ、いわはることやけど、1人かてワイの器量では殺すなんてことはできしまへん」と申しましたら、「ほんなら、さっきはなんで親鸞のいうことにそむきまへんいうたんや」ときついことばや。
これでわかるやろ。なにごとでも人や自分の心のままになるんやったら、往生のために千人殺せといわれたら、殺さんとあかん。そやけど、そんな業縁は��いので、1人かて害することはできしまへん。自分の心が善うて殺さんちゅうことではないということや。
また「害せえへんと思うても、百人千人殺すことかてあるんや」といわはった。おっしゃったのは、ワイらの自分の心で、善いことは善い、悪いことは悪いと思うことやなしに、願のフシギさに助けられておることを、知らずにいるちゅうことの教えなんやなあ。(34p)
前半は会話記録、後半は唯円の解釈である。
この唯円の解釈に対しては、おそらくさまざまな研究があると思うが、わたしは唯円は親鸞の真の狙いから逃げていると思う。自力本願を一切排するという立場を強調したいのだろうが、親鸞は源平合戦の最中に青春を送った人物である。また、兄弟子に熊谷直実(源氏の大将。子供のような平氏を殺したことで出家した人)も居る。「業縁」はないのではない。すぐそばにある。「その時、ワイは千人殺すのだろうか」と自問自答しなければならなかった。実際親鸞の後継を宣言している本願寺は、この理屈を通して信長と応戦「戦争」をしている。(参考「村上海賊の娘」)
西洋、そして最近ではイラク戦争も、キリスト教の名前のもとに千人も万人も殺し、殺された。
「業縁」は、人では判断できない。神が判断するのだ。と言って、逃げるべきではない。とわたしは思う。
投稿元:
レビューを見る
親鸞の弟子、唯円が師匠の言葉を記した「歎異抄」。原文だと難解なそれを、関西弁に大胆に訳した。軽く読み進めるため、一見平易に見えるが、本の後半にある解説で親鸞の教えの深さが分かる。
といったところだけど、親鸞って凄い人だね。高校の時に日本史で習った親鸞は、浄土真宗を開いた偉人というイメージしかなかった。しかしこの人、なんていうか破天荒。いわゆる戒律というようなものを顧みらずに、次々に破ってく。でも、その中には必ず思想がある。教科書のイメージと全然違うんだよね。
日本で一番信者数の多い浄土真宗。こんな破天荒な人が作った宗教を信じる日本人。なんかそれって、素敵だよね。
関西弁が少し読みにくい。
投稿元:
レビューを見る
新訳…!!!
ざ、斬新すぎる!!!
あまりの関西弁に初めは面食らったけど、めっちゃ面白い試みだと思います。
光文社古典新訳文庫すきだなぁ~
内容は、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」
が、ようやく理解できたかなぁ~
て、感じです。