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投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
社会学の論文なのだが、文学作品からの引用によって人々の考え方の変化を説明している点が興味深い。地の文の文学的表現が秀逸すぎて論文としてのわかりやすさが犠牲になっている感じがあるけれど、論文っぽくないところが読みやすくてよい。
ナショナリズムとか、近代国家とか、デカイ話は抽象的な説明になりがちだけど、もっと具体的で身近にあるもの(出版印刷物とか、学校教育とか、時間に対する感覚の近代化とか、無名戦士の墓とか)が国家を形成している、という説明がとても心に残った。
紙の本
実在はしない民族
2021/04/22 13:33
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投稿者:ニッキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
民族とは何か。それは想像の共同体であると言う。想像するから存在するのである。そうでなければ、民族など存在はしないのである。なるほどであるが、衝撃の指摘で、「常識」を打破する。
紙の本
活字の普及
2020/12/30 04:06
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投稿者:さたはけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
歴史的に人類がコミュニケーションの方法として、会話から文字に移行していく過程で、一国の言語が決まっていくことが少しわかったような気がします。
紙の本
いかにして創られるか
2022/07/03 03:31
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
国民ひとりひとりが自我を持って、国家として形成されていく過程が分かりました。聖書、新聞、雑誌といった出版資本主義が、再び勢いを取り戻すかにも注目したいです
紙の本
言語とナショナリズム
2021/12/05 21:20
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投稿者:だい - この投稿者のレビュー一覧を見る
ナショナリズムとは・・・
文化、言語、意識は、原始的に住み着いた地域性に基づき築かれるものだろうか?
そのアイデンティティー(私は何人?)は伝統を受け継ぐその心に宿すものなのだろう。
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いわずと知れた古典。
案外読みやすかった。例が豊富であるのと、いろいろに変奏された議論の断片を知っているからであろう。しかし、翻訳ゆえ独特の表現が含まれ、そこが理解しづらい部分であるのが難点。
とりあえず一読。類書も参照しつつ、もう一回時間をおいてから読みこむつもり。
「国家」・「国民」とは想像の産物である――ということは、すでに周知の考え方。
もう少し政治的な話だろうか、と思っていたが、言語(含む出版資本主義)や教育、さらには時間や歴史など、人文科学(=より「我々」に密接に結びついたもの)の話が中心であった。
やはり「国民国家」とは、政治的な産物である以上に、「我々」ひとりひとりが、忘却の彼方からひっぱってきて(!!)一考してみるべき近代の産物に違いない。
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今年度前期の「人文地理学」講義で教科書として使用する予定なので,久し振りに読み直した。ちなみに,私が十数年前に読んだのは1987年にリブロポートから翻訳が出たもの。原著は1983年で,1987年の日本語訳は本書の世界で初めての翻訳だったらしい。そして,1991年に新たな章が書き加えられた改訂版が出版され,2007年の日本語訳はそれを含むもの。まずは目次をみてみよう。
1 序
2 文化的起源
3 国民意識の起源
4 クレオールの先駆者たち
5 古い言語,新しいモデル
6 公定ナショナリズムと帝国主義
7 最後の波
8 愛国心と人種主義
9 歴史の天使
10 人口調査,地図,博物館
11 記憶と忘却
旅と交通――『想像の共同体』の地伝について
1991年の改訂版で新しく追加されたのは10章以降。特に,地理学者にとっては10章で地図の話が出てくるので,言及されることが多かった。なお,本書以降にポストコロニアル研究などで「クレオール」という語が一般的になったため,4章のタイトルが「旧帝国,新国民」から改められている。
リブロポート版を読んだ時,私にとって一番印象的なのは「出版資本主義」に関する議論であった。この議論は日本の明治期における近代化の話でもよくされるようになったが,国民という政治集団は,新しい国民国家という政治主体によって上から押し付けられるようなもの(義務教育や徴兵制)だけではなく,個人個人が好んで参加していくものだという議論。個人は新聞や雑誌,そしてそれらに掲載される小説を読みたいがために標準語を習得し,そこに描かれるフィクショナルな人物たちに自分を投影することで,見ず知らずだが同じ国土に住む人たちに共鳴し,共感し,同情し,それが共同意識につながるという考えだ。しかし,改めて読んでみると,出版資本主義の議論はそれほど印象的ではない。というのも,この議論はフェーヴルとマルタンの『書物の出現』にかなり依拠しているのだが,私はその後,翻訳されている『書物の出現』を読んだ。このことで,本書の斬新さはあまり感じられなくなった。
また,私にとって過去の読書はこの印象が強かったために,本書の重要な主張をあまりきちんと理解していなかったようだ。本書は,これまでナショナリズムの起源をヨーロッパとする定説を覆すことで注目されたのだ。著者によれば,ナショナリズムというのは植民地が独立する際の原動力として登場するものだという。著者の専門はインドネシアだが,かつてのオランダ植民地支配から脱するために,本来地域的なまとまりを持たない島々の間で共同意識が生まれることで独立運動が起こるという。しかも,それは支配のために入植者たちが現地の住民に押し付けたオランダ語やヨーロッパ文明の浸透としての出版資本主義。こうした手段を使って,独立運動が起こるという皮肉というか,時代の運命というか,そんなことが見事に描かれている。
と,分かったように書いてみたが,実はここが本書の難しさでもあり,それがゆえに今以上に知識が浅かった私が一度目に本書を読んだ時にはきちんと理解せずに,知識としても蓄積されなかったのであ��。これは,今後講義を行う上でも自分のなかで補足しなくてはならないことだ。つまり,植民地の歴史と独立の歴史を知ること。どの時代に,どこの国がどの地域を植民地化し,それがどのようにしていつ独立するのか。植民地化の歴史はラテンアメリカに始まって,アフリカに終わるともいえるが,その分かりやすい2つの大陸に比べ,実は植民地化に日本も加担した,アジアの歴史というのは意外に理解していないことを自覚させてくれた。
さて,それはそれとして,意外にも1991年に書き足された章はあまり目新しいものではなかった。でも,そのなかでも一番面白かったのは,あとがきともいえる「旅と交通」であった。これはいわゆる旅と交通の話ではなく,出版資本主義の議論をその一商品でもある本書自体について分析したものである。1983年に出版された本書は1987年に日本で初めて翻訳されたが,それはリブロポートという今はなき西武系の出版社だった。日本の場合にはいかにも思想を反映した出版社というのは少なく,多くの出版社の政治的思想は分かりにくい(まあ,政党すらも思想的にはっきりしない国だから仕方がない)。リブロポートの場合にはある意味,本書を知的流行として捉えていた感がある。実際に「社会科学の冒険」というシリーズの一冊として出版されている。それから始まった世界中での本書の翻訳は,時代によって地理的分布が異なり,またそれを手がける出版社,国によっては正規にではなく海賊版として,出版されたという。日本では,本書が発禁処分になるなんてことはありえないが,国によっては当然事情が違う。まさに,植民地後のこのグローバル世界において,本書の受け止められ方,また利用のされ方も違うという。その辺りの考察を原著者自身が行うということはすごいことだ。あらためて,アンダーソンのすごさを思い知らされる。
さて,日本では改訂版も聞いたこともない小さな出版社から出されたわけだが,これがまたけっこうひどい。リブロポート版にはなかったウムラウトの文字化けがあったり(28ページ),文献の日本語訳情報があったりなかったり。まあ,ちょっとこの辺は笑うしかない感じだが,きちんと読むべき人は原著に当たれ,ということで,原著もAmazonで購入した次第。
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多分名著なんだと思うんだけど、自分の理解力が低くて消化不良。もう少し色々な本を読んで、深く読み込めるようになってから、改めてじっくり取り組もう。
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【2011年_4冊目】
文化人類学の演習で,輪読しました.
引用されている数が半端ないこの本を,一通り読むことができてよかった.でも,内容とか興味あるはずなのに,終始「おもしろい!」て思えなかったなぁ.何が原因なんだろう.
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たぶんこれまで3回以上本書を読んでいる。そして今回別の本で本書の引用があったため再々々読したのだが‥。本書の中身は何度読んでもすんなり頭に入ってこない。それだけ幅広く奥深い。
本書は既に古典的名著と位置付けられるだろうから、本書に書かれた内容に興味があるのならば、本書の影響を受けた後発の関連書籍を読むことをお薦めする。
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2013 11/6パワー・ブラウジング。Amazonで購入。
図書・図書館史の授業用に読んだ本。
以下、授業時のメモ。
===
・従来・・・ラテン語(他にはアラビア語、中国語など)からなる「聖なる想像の共同体」 ・それが俗語等による国民国家的、想像の共同体になっていく要因・・・出版資本主義
・16世紀の出版・・・資本主義的企業
・「書籍商はなによりもまず生産物を売りさばいて利益をおさめようとし、そのため、この時代のできるだけ多くの人々の好みにあった著作を求めた」
・ラテン語を話せるのは二言語を使えるエリートだけ・・・その市場が飽和すれば、当然俗語出版に行く
・ラテン語の地位の変化・・・人文主義
・宗教改革・・・俗語出版を利用
・絶対君主による俗語の行政中央集権化手段への採用
・俗語はもともと多様・・・口語俗語レベルでは、ちょっと離れたところ同士では会話は理解できない/テレビができる前の津軽弁VS薩摩弁とか想像してもらえれば
・そんなごく小規模な範囲での出版じゃ儲からない・・・ある程度、共通している範囲内で組み立てなおした「出版語」にまとまっていく
・「多様なフランス口語、英口語、スペイン口語を話す者は、会話においては、おたがい理解するのが困難だったり、ときには不可能であったりするのだが、かれらは、印刷と紙によって相互了解できるようになった」(p.84)
・「この過程で、かれらは、かれらのこの特定の言語の場には、数十万、いや数百万もの人々がいること、そしてまた、これらの数十万、数百万の人々だけがこの場に所属するのだということをしだいに意識するようになっていった」(同)
・この「読書同胞」の存在・・・国民的なものと想像される共同体の胚である
・言語の固定・・・写本作成においては、意識的/無意識的に写字生は時代の状況にあわせて手を加えてしまう
・その結果、たとえば12世紀と15世紀ではフランス語は全然異なってしまっている/理解し難い
・印刷によって一度刷られたテキストは固定されるようになる/書き言葉の変化の速度は決定的に鈍化
・その結果・・・「古さ」のイメージが生まれる=「伝統的」的なイメージができる
・ブルジョアジー階級・・・「本質的に想像を基礎として連帯を達成した最初の階級」
・文字を読める+同じ文字を共有する他のブルジョアジーに、会ったことがないどころか存在すら知らなくても共鳴できる
⇔・それまでの婚姻や友情を基板とする貴族階級等とは異なる存在
・ただし言語によって範囲は規定される
・「人は誰とでも寝ることができるけれども、ある人々の言葉しか読むことはできない」(p.132)
・ネアンの引用:「ナショナリズムを唱導する新しい中産階級インテリゲンチアは、大衆を歴史に招じ入れなければならなかった。そしてその招待状はかれらの理解する言語で書かれねばならなかった。」(p.135)
・ある言語の話者がその言語による国家創設がふさわしいと考えるのであれば、その言語の話者はすべてその国家の範囲に入れることを認める必要があり、そうなると農奴制のようなものは捨てざるを得なくなる・・・人民主義的性格
・王朝国家/帝国(国内に複数の出版俗語話者が存在する国家)はどの出版俗語を選ぶかで苦慮することに・・・
・ある語を選べば過度に肩入れしたとみなされ他の言語話者に攻撃される/譲歩すると採用した言語の話者に攻撃される
・オーストリア・ハンガリー帝国/オスマン帝国
・p.157・・・日本の場合の事例紹介あり。後の回で使えるか?
・p.216・・・ナショナリズムというものが知られてから後には、出版俗語を異にする人々による国民国家も成立しえている。例えばスイス。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語話者が入り乱れている
・これはかなり遅れてきた波
・最終層・・・Open Society Foundationが出てきている。授業とは別件であとで読み返す
・基本的に自分が書いてた筋とまあ大筋で相違ないことは確かなようである・・・王朝国家はそれで統一性を保とうとするし、それが倒れれば民主的に進められる、と
・音声メディアがない時代にはますます大事・・・文字を読めること/想像できること
・そのためには・・・教育が必要である
・公教育を補う存在としての公共図書館、国あるいは自治体が予算を支出し、人々の社会教育を担う機関としての図書館は、ゆえに近代以降の産物である
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そのスジ(?)では割と有名な本らしいので、購入して読んでみた。原著は1983年である。
先日読んだ橋川文三『ナショナリズム』(ちくま学芸文庫)と比較し考えながら読んだが、橋川がナショナリズムの起源を端的に「ルソーの思想を部分的に受け継いだフランス革命」としていたのに対し、本書の著者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズム醸成の土壌はヨーロッパにおいて(特に印刷術の発明と発展を画期として)つちかわれてきたが、最初にナショナリズムが明確に誕生したのは南北アメリカだと述べている。確かにフランス革命よりアメリカ独立宣言は少し早い。
この本の凄いところは、ヨーロッパ史に留まらず、中南米からアジア(日本もしっかり分析されている)、北欧まで、およそあらゆる領域の国々を深く探究しているところだ。
さて、ナショナリズムという語は「国民(ネーション)主義」を指すのであって、「国家主義」と混同するのは完全に間違いであるらしい。だからこそ、ナショナリズム的な像が「想像の共同体」と呼ばれるのである。
こんにちの観点から見れば、私たちにとってナショナリズムはどうも悪い面が気になってならないが、アンダーソンは
「我々はまず、国民(ネーション)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛を呼び起こすということを思い起こしておく必要がある。」(P232)
と、肯定的な評価を下している。橋川文三『ナショナリズム』の論からすれば、アンダーソンはナショナリズムと原始的な郷土愛である「パトリオティズム」とを混同しているのではないか? とも思えるのだが、考えてみるとなかなか厄介な問題だ。
しかしアンダーソンの、上記の引用「自己犠牲的な愛」について言うならば、自爆テロだって聖戦への「愛」だろう、と指摘することも出来るし、一概に良い悪いを判断することはできない。
日本では特に東日本大震災以降、異様なまでに「今さら」なナショナリズムの心情が多くの国民を包んだ。たとえば、あの「がんばろうニッポン」みたいな、よくわからないスローガンに現れたように。このナショナリズムの心情は、一方では安倍内閣とそのシンパのような<民主主義の無法な破壊者>という<悪>に結実した面もあるし、逆に、<マナーの良い、親切な、助け合う日本人の連帯>を現出させた面もあるだろう。
要するにナショナリズムそのものは良いとも悪いとも言えない。そこには確かに「愛」があるかもしれないが、その「愛」は排他的な紐帯の形を取るならば、それはやはり<悪>である。
それといま気になるのは、「ナショナリズム」が国民同士の共同-想像-体であるとしても、それが即「国」と結びつく日本語体系においては、やはり「国家主義」との隣接を否定できないのではないか? 現在の日本人はスポーツの国際試合を見ていても「がんばれニッポン! よくやった、すごいぞニッポン!」とすぐに「国」と結びつけてしまう。頑張ったのはその選手や、選手同士の連帯が構築した組織体としてのチームに他ならないのに、なぜかそれが、日本国民や日本国というイメージに置換されてしまうのだ。
最近は「日本」を褒め讃えるオ��ニー的な本が書店の店頭をにぎわせているようだが、そういう本に飛びつくのは、全然凄くない、生きていても全然意味ないようなくだらない自己を、「日本」というくくりに結びつけることで何とか美化させたいという、しょうもない欲望から来ているのだろうか?
ナショナリズムと国家の関係についてはもっといろいろ読み、考察してみたい。
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【主題・問題意識】p22
ナショナリティ、ナショナリズムとった人造物は、個々別々の歴史的書力が複雑に「交叉」するなかで、18世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、「モジュール」となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。そしてまた、この文化的人造物が、これほどまでにも深い愛着(アタッチメント)を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。
【国民の定義】p24
国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意思決定主体]として想像されると。
【国民それ自体は、常に、はるかなる過去よりおぼろげな姿を現し、そしてもっと重要なことに、無限の未来へと漂流していく。偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である】p34
ドブレ「しかり、わたしがフランス人に生まれたのはまったくの偶然である。されどフランスは不滅である」
【ナショナリズムは先行する大規模な文化システムと比較して理解されなければならない】p35
Cf. 宗教共同体と王国
【18世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つの想像の様式】p50
小説と新聞
⇒国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提供した。
→虚構は静かに、また絶えず、現実に滲み出し、近代国民の品質証明、匿名の共同体へのあのすばらしい確信を創り出しているのである。p62
【近代共同体の特徴】p76
水平・世俗的、時間・横断的
ルターは名の通った最初のベストセラー作家となった。p79
【プロテスタンティズムと資本主義の親和性】 p79-80
プロテスタンティズムと出版資本主義の連合は、廉価普及版の開拓により、ふつうラテン語をほとんど知らなかった商人、女性をふくめ、大規模な新しい読者公衆を急速に創出し、かれらを政治宗教目的に動員した。
【新しい想像の国民共同体を積極的に促進したもの】p82
生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった。
人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。
これが基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。p86
ネアン「明瞭に近代的な意味でのナショナリズムの到来は、下級階級の政治的洗礼と結びついていた。... たとえときに、民主主義に敵対的になることがあったにせよ、国民主義運動は、その見解においてきまって人民主権的(ポピュリスト)であり、下級階級を政治生活に導入しようと試みた。最も典型的な場合には、それは、中産階級と知識人のおちつきのない指導の下に、民衆の階級的エネルギーを新国家��持へと動員し誘導するという形態をとった」p92-93
【クレオール】p104
かれらは、武器、病気、キリスト教、ヨーロッパ文化に対し、本国人とまったく同じ関係をもっていた。別の言い方をすれば、かれらは、原理的に、自己の権利を主張しうる政治的、文化的、軍事的手段をもっていた。かれらは植民地の共同体を構成し、同時に上流階級でもあった。かれらは経済的に支配され搾取さるべき存在出会ったが、同時に帝国の安定に不可欠の存在でもあった。こうしてみると、クレオール有力者と封建貴族の地位がよく似たものであったことが見てとれよう。
アメリカ合衆国においてすら、ナショナリズムの情緒的絆はかなり伸縮自在であり、西部のフロンティアの急速な拡大と南北経済の矛盾によって、独立宣言から一世紀もあとになって分離戦争が起こったほどであった。p110
【クレオール国家がいかに国民意識を培ったか】p111
経済的利害も自由主義も啓蒙主義も、それ自体としては、旧体制の強奪から守るべき想像の共同体の種類または形態を創造することはできなかったし、創造しなかった。
⇒アメリカ大陸の「クレオール・ナショナリズム」と「新しいナショナリズム」は峻別されるべき
世界史的観点からすれば、ブルジョワジーは、本質的に想像を基礎として連帯を達成した最初の階級であった。p132
人は誰とでも寝ることができるけれども、ある人々の言葉しか読むことは出来ないのである。p132
【ex. フランス革命】p136
それを行った人々とその犠牲者となった人々の経験した圧倒的でつかまえどころのない事件の連鎖は、ひとつの「こと」となり、フランス革命というそれ自体の名称を得た。数限りない水滴によって形状定まらぬ巨石が丸石となるように、経験は数百万の印刷された言葉によって、印刷ページの上でひとつの「概念」へと整形され、そしてやがてはひとつのモデルとなった。
概念→モデル→ブループリント ex. 南北戦争
【想像の現実(imagined realities)】p136
国民国家、共和制、公民権、人民主権、国旗、国家その他。(対立概念⇔)王朝帝国、君主制、絶対主義、臣民身分、世襲貴族、農奴制、ユダヤ人街その他ーの清算。
【公定ナショナリズム】p147
中世以来集積されてきた広大な多言語領土において、帰化と王朝権力の維持とを組み合わせる方策、別の言い方をすれば、国民(ネーション)のぴっちりとしひきしまった皮膚を引きのばして帝国(エンパイア)の巨大な身体を覆ってしまおうとする策略である。
ex. 帝政ロシア
「国民と王朝帝国の意図的合同」p148
スロヴァキア人はマジャール化され、インド人はイギリス化され、朝鮮人は日本化されることになった。p175
公定ナショナリズムは、共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略なのだ。p165
【旅ー三つの要因】p190-191
①19世紀における鉄道と蒸気船、今世紀における自動車と航空機ーによって物理的移動がけたはずれに増加した
②帝国的「ロシア化」のもっていた実践的、イデオロギー的側面。地球全体にまたが��ヨーロッパ植民地帝国の規模とその支配下におかれた巨大な人口、このことは、純粋に本国人だけの、あるいはせいぜいクレオールをふくめただけの官僚機構では、これを充員することも、財政的に維持することも不可能だということを意味した。植民地国家と、そしてのちには法人資本は、事務員の大部隊を必要とし、これら事務員は、二つの言語ができて、本国の国民と植民地住民を言語的に媒介できなければ役に立たなかった。こうした必要は、20世紀にはいって国家の機能的専門化がどこまでも進行するにつれ、ますます増大していった。従来からの内務官僚とならんで、医務官、灌漑技術者、農業指導員、学校教師、警察官その他が登場した。そして、そうした国家の拡大とともに、その内部では巡礼者のむれが膨張していった。
③植民地国家、さらには民間の宗教、世俗団体による近代的教育の普及。
【三つのナショナリズム・モデルのモジュール性(汎用性)】p212
①国民主義指導者は、公定ナショナリズムをモデルとして文武の教育システムを
②19世紀ヨーロッパの民衆ナショナリズムをモデルとして選挙、政党組織、文化的祝典を
③南北アメリカによってこの世にもたらされた市民の共和国の理念を意識的に展開できる
⇒なによりも、「国民」という観念それ自体が、いまでは、事実上すべての出版語のなかにしっかりと巣ごもっており、国民という観念は政治意識と分かち難く結びついてしまっている。
【まとめ】p217
主としてアジア、アフリカの植民地に打ちよせたナショナリズムの「最後の波」は、産業資本主義の偉業によってはじめて可能となった新しい型の地球的帝国主義への反応として発生したものであった。
資本主義はまた、印刷出版の普及その他によって、ヨーロッパにおいては俗語にもとづく民衆的ナショナリズムの創造を助け、そしてこうした民衆的ナショナリズムは、その程度はさまざまであれ、伝来の王朝原理を掘り崩し、可能なかぎり王朝を国民へと帰化するよう駆りたててもいった。ついで公定ナショナリズムは、便宜上「ロシア化」とも呼びうるものを、ヨーロッパ外の植民地にもたらした。中央集権化され標準化された学校制度はまったく新しい巡礼の旅を創出し、この巡礼のローマとなったのは、典型的には、各植民地の首都であった。ある特定の教育的巡礼と行政的巡礼の組み合わせ、これが新しい「想像の共同体」に領土的基盤を提供し、そしてこの想像の共同体のなかで「土民(ネイティブズ)」は自分たちを「同国人(ナショナルズ)」と見なすことができるようなった。p218
クレオール・ナショナリズム、俗語ナショナリズム、公定ナショナリズムは、さまざまの組み合わせで複写(コピー)され、翻案され、改良をくわえられた。そして最後に、資本主義が、物理的、知的コミュニケーションの手段を加速度的に変えていくにつれ、インテリゲンチアは、想像の共同体を宣布するにあたり、文盲の大衆に対してばかりでなく、異なる言語を読む識字者大衆に対してすら、出版を迂回する方法を見出すようになったのである。p219
植民地的人種主義は、王朝的正統性と国民的共同体とを溶接しようと試みる「帝国」概念のはらむ主要な要素だった。p245
ルナン「国民とは多くのことをすっかり忘れていることだ」p264
(人口調査、地図、博物館)これらの制度が一緒になって、植民地国家がその支配領域を想像するその仕方ーその支配下にある人間たちがだれであるかという性格付け、その領域の地理、その系譜の正統性ーを根底的にかたち作った。p274-275
地図(マッピング)の言説はひとつのパラダイムであり、このパラダイムのなかで行政が実施され軍事行動がとられ、またそれがパラダイムに役立つことにもなった。P288
人口調査、地図、博物館は、相互に連関することにより、後期植民地国家がその領域について考える、その考え方を照らし出す。この考え方の縦糸をなしているのは、すべてをトータルに捉え分類する格子(グリッド)であり、これは果てしない融通さをもって、国家が現に支配しているか、支配することを考えているものすべて、つまり、住民、地域、宗教、言語、産物、遺跡、等などに適用できる。そしてこの格子の効果はいつでも、いかなるものについても、これはこうであって、あれではない、これはここに属するものであって、おそこに属するものではない、と言えることにある。p299
【ロゴ】p301
ロゴは、それが空っぽであること、なんの文脈(コンテクスト)もないこと、視覚的に記憶されること、あらゆる方向に無限に複製可能であることによって、人口調査と地図、縦糸と横糸を消しようもなく交わらせたのである。
国民の伝記は、模範的な自殺、感動的な殉国死、暗殺、処刑、戦争を奪い取ってくる。p335
⇒物語の目的を果すためには、これらの暴力的な死は「われわれのもの」として記憶/ 忘却されなければならない。
悪名高い「アジア的価値」のような、うその「文化・地域的」決まり文句 p374
<解説・あとがき>
【想像の共同体の鍵】p381
「想像の共同体」が人々の心にいかにして生まれまた世界に普及するに至ったのか、その世界史的過程を
「聖なる共同体」と「王朝」、「メシア的時間」と「空虚で均質な時間」、新しい「巡礼」の旅、「言語学・辞書編纂革命」、「海賊版の作成」で解明する
【メモ】
モジュール:規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素
メシア的時間:即時的現在における過去と未来の同時性に相当する時間概念 p49
国民性(ネーションネス、nationness)
並存感(センス・オブ・パラレリズム、sense of pararelism)p321
格子の力(グリッド・パワー):比喩的に一定の社会範疇によって構成される振り分けシステム、分類メカニズムを格子、グリッドと言う。p279注
憲法 cf. 『憲法で読むアメリカ史』『アメリカのデモクラシー』
「自明の運命」(manifest destiny)p349
アジア的価値
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オリンピックやワールドカップ等で急激に盛り上がる愛国心にナショナリズム研究の今や新古典と呼ばれる本書をついうっかり気に留めてしまい読むことになった。
基本的には言語と出版が「想像の共同体」を形成させ、ナショナリズムを喚起するとし、宗教や王国そして植民地支配から近代国家成立までを紐解く。特に南北アメリカの経済状況の明暗を分けた国家成立の経緯などとても興味深く読めた。
冗長で難解な言い回しが多く、読み始めたことを後悔することしきり、読んでいて気を失ったことも数回ととても困難を伴った読書であったことをここに書き留める。
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国民を「想像の政治共同体」というイメージで定義するならば、ナショナリズムとは、さしずめ「虚像の運命共同体」と言いたい。普段は懐疑的に見る赤の他人でも、国家的イベントになると突然「ニッポン」コールとともに仲間になる。そして終わればまた見知らぬ他人へと戻る。これを虚しい以外に何と言おう?