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紙の本
政治的無意識 社会的象徴行為としての物語 (平凡社ライブラリー)
著者 F.ジェイムソン (著),大橋 洋一 (訳),木村 茂雄 (訳),太田 耕人 (訳)
社会的・政治的動物である人間のユートピアへの希求を、ロマンス・19世紀リアリズム文学の再解釈と歴史化をとおして浮上させ、西欧社会の政治と歴史、ナショナリズムと文化問題に切...
政治的無意識 社会的象徴行為としての物語 (平凡社ライブラリー)
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商品説明
社会的・政治的動物である人間のユートピアへの希求を、ロマンス・19世紀リアリズム文学の再解釈と歴史化をとおして浮上させ、西欧社会の政治と歴史、ナショナリズムと文化問題に切り込む。マルクス主義文学批評の決定版。〔1989年刊の再刊〕【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
F.ジェイムソン
- 略歴
- 〈F.ジェイムソン〉アメリカ合衆国生まれ。イェール大学でPh.D.(フランス文学)取得。デューク大学教授(比較文学・ロマンス語研究)。著書に「サルトル」「時間の種子」「近代という不思議」など。
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紙の本
騙し絵としての文学史
2010/05/03 22:09
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1981年に出版された本書は、70年代後半から北米に輸入されはじめたいわゆる「ポスト構造主義」、日本では「フランス現代思想」といわれたバルト、フーコー、ドゥルーズ、デリダらの著作に代表される思想潮流に対するマルクス主義文芸批評の立場からのレスポンスの本として広く知られる時代を代表するような名著である。
いまとなっては信じがたいことだが、当時アメリカの文学批評では、文学作品の形式を内在的に論じる「形式主義(フォルマリズム)」が主流的立場にあり、さまざまな価値を相対化する「脱構築」や「記号学」などといった概念や方法が席巻していたのだが、ちょうど同時代のマイノリティーの復権と呼応するかのようにまずフェミニズム批評からはじまって、単純な教条主義的な「政治性」に退行するのではなく、むしろフォルマリズムの緻密な分析技法の成果を積極的に取り入れた上で、独自の「政治性(現在への介入)」を実現していく、そのような大きな時代の流れを、本書はその「はじめに」の冒頭の一句《つねに歴史化せよ!》のスローガンによって決定づけたのだった。
本書の内容は一言でいえば、作品を作家が規定されている歴史的なコンテクストから産み出されたイデオロギーの層とユートピアの層を備えた「社会的象徴行為」として捉え、さまざまな解釈学的技法(ノースロップ・フライ、グレマス、キリスト教神学、フロイト、レヴィ=ストロース、ルカーチ、デュルケーム、etc)を縦横に駆使して分析し、西欧19世紀に登場するリアリズム小説という文藝ジャンルに属する作品たちが、いかにしてタイトルとなっている「政治的無意識」を産み出す「社会的象徴行為」となっているかを示す、というそれ自体が殆ど壮大な「物語」とさえ思われるようなもので、全体の三分の一を要する第一章のでその「物語」が成り立つ理論的根拠と見通しが語られ、二章ではリアリズム以前の中世から19世紀に至るロマンス的作品を、本質的に非歴史的である共時的なジャンル批評を歴史化する理論的作業とともに分析し、三章ではいまだロマンス的なものを残しつつリアリズム小説として大きく変容していくバルザックの作品を、四章では資本主義が加速し物象化/商品化/断片化が加速度的に進行する時代の「実験」としてギッシングの作品が、そして五章ではリアリズムの時代からモダニズムの時代へと変貌する過渡期の作品としてコンラッドの作品が、それぞれ分析・記述されていく。結論となる「結語」では、マルクス/アルチュセールによって分析されたように歴史的布置によって規定された作家のイデオロギー(虚偽意識)によって夢見られたユートピアのアレゴリーとしての小説作品、というふうに弁証法的に歴史化=全体化される。そういった「作品」の二重性に、著者はベンヤミンの《文化の記録であって、同時に野蛮の記録でないものはない》というテーゼの発露を認め、そこにこそマルクス主義的な「介入」の契機を見る、という文芸批評の可能性へと結びつけていくことでこの大著は終る。
この、一種独特のパースペクティヴを持った「文学史」について、訳者を代表して解説を書いている大橋洋一氏は、「アヒルウサギ」のだまし絵に譬えてこう書いている。
《現実の一部でもある文学と、文学(物語)の一部でもある現実という両者の関係の析出に向けての歴史的解釈力の錬磨こそ、文化認識を変革するというきわめて重要な言語行為(象徴行為)へとつながるからである。騙し絵の比喩を続けるなら、見方を変えて、カムフラージュされたもう一方の図柄を認識できると、それ以後、二つの図柄が同時に見えてしまい、一方の図が消え去ることはない……二度と。》
このイメージ豊かな記述ほど、この大著の魅力をあますところなく表現しているものはないとさえ思う魅惑的なヴィジョンであり、作品に対する認識の変容こそが、優れた批評に触れる最大の楽しみであると考える読者には、是非手に取って本書を読んでいただきたいと思う。
また、ポスト構造主義で批判されるスタティックな構造分析や、記号学とは不倶戴天の敵とされる解釈学の技法、さらには神学的な象徴解釈の技法などさえも、マルクス主義を意識的に媒介させることによって「使用可能」に作り替え、その危険性をじゅうぶん認識しながら《つねに歴史化せよ!》のスローガンのもと分析の道具として躊躇わずに投入していくところなど、68年世代のフランスの映画作家フィリップ・ガレルが、国家の援助金を受けて映画製作をしているのを批判されて「敵の武器を奪って戦うことも出来るってことさ」と笑いながら答えていたのを想起させるもので、その凝縮された思考のきらめきとフットワークの軽さに爽快さすら感じさせられる。
平凡社ライブラリーではおそらく最大のページ数となるのではないかという巨大な文庫本であるが、注釈と字句索引、それに文中に登場する概念用語の解説となる「キー・コンセプト集」が付された非常に丁寧な作りになっていて、アカデミックな文芸批評に馴染みのない読者にもじゅうぶん読みやすいものとなっているのも好感度大。