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賃金は資本家と労働者の敵対する闘争によって決まってくる。資本化の勝利は動かない。資本家が労働者なしで生き伸びられる期間は、労働者が資本化なしで生き延びられる期間より長いからだ。
疎外された労働は人間から、
1.自然を疎外し、
2.人間自身を、人間自身の活動を人間の生命活動を疎外し、そのうえに人間から類を疎外する。
学問が自然から出発するとき、そのときはじめて、学問は現実的な学問となる。人間が感覚的意識の対象となり、人間らしい人間の欲求が人々の欲求となることこそが求められているので、人類史の全体はそのための準備の歴史、そこに向かう発展の歴史だ。
人間の本質とはヘーゲルにとっては、自己意識に等しい。
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岩波版の「経済学・哲学草稿」を一度通読した限りでは、さっぱりわからない事が多かったものの、光文社版では非常にわかり易い文章となっていた。
マルクスの文章はまだ岩波版が多勢を占めているが、数少ない光文社版であることからも、初めてマルクスを読む人はこれがいいかもしれない。
個人的には、経済学的思索の部分より哲学的思索の部分のほうが興味を持てた。例えばマルクスは、「資本主義のもとでは、労働者が作った商品が自分のものにならないことに『疎外』がある」と云った。元々労働は自分の為にあるのに、他人に強制されることは非人間的で非自然的である、ということだ。
その疎外を克服するところに、社会主義があり、共産主義がある、ということになる。
また「自然的性質」「人間的性質」を混同させ転倒させ、全てを金銭の関係に変えてしまうところに、貨幣の恐ろしさがある。かつこれは労働による疎外によって生まれるから、これは疎外そのものだ。
以上がこれを読んで大体把握できたことである。
最後にひとつだけ。相変わらずヘーゲルの精神現象学のページは、相変わらずよく分からなかったが、マルクスを通じて大体を把握した。ヘーゲルは抽象的精神的な段階でしか話をしないが、マルクスはそれを現実の話にまで持ってきたといころに意味があるようだ。
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マルクスが26歳の時に書き著した草案。
全体を通して感じることは、
労働者の隷属状態に対しての批判。
これが書かれたのは1844年。
産業革命は1700年代後半からイギリスでおこっていった。
マルクスはドイツ人だ。
この時にはドイツにも産業革命の波は届いていただろう。
波とは、工業化の波である。
前提として意識しておきたいのは、マルクスの批判しているのはこの時代の主産業が工業であるということだ。
工場というのは、
なるだけ24時間フル稼働させている方が工場にとって利益が出る構造になっている。
すなわち、労働者にとっての長時間労働が工場主にとっての利益につながる。
自然と労働者をできるだけ長時間働かせて、フル稼働で工場を動かそうとするインセンティブが工場側に働く。
といった背景がある。
マルクスは、
労働者のことを奴隷とし、
労働のことを奴隷労働と言っている。
資本家が労働者を牛耳っていると見ているからだ。
結果的には、
失敗したマルクス主義であるが、
何故マルクス主義はあれほどに世界を巻き込み影響を与えたのか?
その中に含まれる今でも通用するような原則はなにか?
などの視点を持って見てみても非常に面白い。
マルクスはシンプルに言って何を書いてるのか?
お金と人のこの世界で、
在るべき関係性だ。
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マルクス26歳の草稿とのこと。
「私有財産の否定という人間主義」という共産主義。
ヘーゲルを読みたい。
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人間は自分を普遍的に現存した生きた類と見なしている類的存在にすぎない。お金とは目に見える神であり無能力の全てを反対物に変える力である。かなり難しく半分も把握できなかったが何か得られたものがあったような気がする・・
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いわゆる経哲草稿。マルクス26歳(1844年)の頃の草稿で、死後49年経ってから刊行されたもの。
書きかけの草稿を集めたもので、著作としては全然まとまっていない。
極めて若い頃の文章だが、晩年の「資本論」はもちろん、「共産党宣言」にさえ見られないような、革命家的情熱があふれていて興味深い。「搾取」される「労働者」への同情、「資本家」への憎しみ、このパッションはまさしく青二才のものだ。
後年にあってもマルクス思想はこの「階級」認識によってゆがんでいると思うが、この本に見られるわかりやすい情熱やルサンチマンが、そのまま最後まで継続したのではないだろうか。
たぶんマルクスの思想にちかづきたい人には、これは格好の入門書と言っていいのではないか。なにもかも未完成で、未熟ではあるけれども。
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名高い「経哲草稿」の長谷川宏による新訳である。マルクスの著作にはこれまでほとんど親しんでこなかった手前、彼の思想について立ち入ったことは述べられないが、まだ若いマルクスが、資本主義社会のなかで働くことのうちにあまりにも深く巣くってしまっている矛盾を、その思考がどこか割り切れていない分いっそう鮮烈に浮き彫りにしている印象を受ける。この矛盾が今なお、いや今日ますます苛酷に働く人々を苦しめていることは言うまでもない。この草稿に示されるマルクスの思考が割り切れていないように見受けられるのは、ヘーゲルに見られる抽象的に理想化された労働観や、彼に先立つロマン主義者たちの土地信仰とも結びついた自然との一体性の安易な理想化を批判して、産業社会のなかに人間の新たな自然を見届け、「産業の生みだした自然こそが、疎外された形を取ってはいても、真の人間的な自然なのだ」として、それを準備した自然科学の活動は、「人間の生活を改革して人間の解放を準備するものとなっている」と述べる──そのことに潜む「進歩」信仰が後にベンヤミンによる批判の対象となる──一方で、この新たな自然のなかで人間どうしの、あるいは産業の手前にある自然と人間の生き生きとした交流を回復し、人間が社会的存在として自己を解放し、実現することへの──もしかするとロマン主義者よりも──強烈な憧れが、この時期のマルクスのなかにあるように思えてならないからだ。それはとくに貨幣批判に表われていよう。また、そこから取り出される技術と労働の省察を、ベンヤミンの「第二の技術」やE・ブロッホの「同盟技術」の概念と絡めつつ検討することも、今日それこそ生産的かもしれない。それは今はともかくとして、若きマルクスの具体的な──あるいは「唯物論的」と形容すべきだろうか──解放への憧憬が、資本主義社会における労働の矛盾を鋭く抉り出している点は、今とくに若い人々にあらためて読み直されてよいのではないか。「人材」という言葉が示すように、「労働者としてかろうじて存在する人間にとって、人間としてのさまざまな特性は、自分の外にある資本が認めるかぎりでしか意味をもたない」。そのように疎外された人間は、「自分の生産する富が大きくなればなるほど、自分の生産活動の力と規模が大きくなればなるほど、みずからは貧しくなる」。こうして「使える」人間は、資本そのものによって使い尽くされ、使い捨てられるのだ。そのような「安価な商品」へと人間を追い込むものとして、マルクスがこの草稿で当時の「国民経済学」の禁欲主義的道徳を挙げている点も、注目に値しよう。彼によると、「それが真の理想として掲げるのは、禁欲的だが欲張りの吝嗇漢と、禁欲的だが生産に励む奴隷なのだ」。これらを美化する「国民経済学者」を、「ネオリベラリスト」と呼び換えてもほとんど違和感がない。もしかするとマルクスが解放と呼ぶものは、ニーチェがそれこそ「奴隷道徳」と呼ぶその禁欲主義的道徳に取り込まれる前に、それを指弾しうるこの草稿のマルクスにもある「若さ」をいかに取り戻すかにかかっているのかもしれない。では、その回路を、師走の訪れとともに始まった「就活」の手前でいかに見いだせるのか。この「草稿���は、教育に携わる者に重い問いを投げ掛ける一冊とも言えよう。訳文は非常に読みやすいが、やや読者に媚びて、その分原文から離れていると思われる箇所があるのは惜しまれる。
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草稿。そのため、未完成な作品である。しかしながら、これが26歳のときに書いたものであり、後の資本論に結びつくという面でも、大変重要なもののようだ。やはり、経済面、哲学面ともに労働に対して大きく意味を捉えており、現行の資本主義を批判している。
経済学を学ぶ上でたまたま読んでいるが、やや本書は哲学的な面が強く、思想本な傾向。
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古典派経済学と市場原理主義、マルクシズムにおいて資本家たちの意義とは何であったのか・・・・世界を動かしたマルクスは世界大戦で大きくかかわってきます。
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この草稿が話題になったころは、「資本論」のお堅いイメージとはかけ離れたマルクスの情緒的な主張に皆が驚いたからだと言う先入観が私にはある。先入観しかないのは、そもそも、私がちゃんと読んでいないからなのだが、高校生のころから大学にかけて、当時の翻訳物を何度か読もうとしたが、どうもピンとした主張が伝わってこなかった。
しかし、今読むとマルクスが「資本論」まで突き進まなければならない契機がここにあることがひしひしと伝わってくることに今更のように驚く。ここまで気づかせてくれたこの翻訳にはある種の気迫を感じる。
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いわゆる〈初期マルクス〉の拠点となっている草稿。
経済体制に関する世界の批判が頓挫したあと、
注目されたのは、『資本論』に結実するような、物の価値と流通=経済の論考ではなく、
ヘーゲル哲学徒として出発した初期マルクスの、主体論であった。
それは、ルソー→ヘーゲルの流れのある、
自身の生が自己によっては充実しない=他律的な近代的人間の状況に関するものである。
また、それは初期の吉本隆明がマルクスを意識して使ったと思われる〈関係の絶対性〉という状態でもある。
搾取を論じるより、自己疎外を論じる方が、現在には性にあっているかもしれない。
資本主義社会が生きづらい社会であることをわかっていつつ、それは自己の問題にすぎないと、この社会自体は肯定してしまっている態度のためである。
この経済体制と主体の関係は、相互に絡み合っている。どちらに重点を置くにせよ、この2つは切り離して語ることはできない。
ただ、この草稿自体は未完であり、
数々の引用が大分の割合を占めている(特に第1草稿において)。
この引用を分け入って、彼の意を汲んでいく作業は億劫であるかもしれない。
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「ヘーゲルの弁証法」と「精神現象学」の哲学草稿部分は難しかったが、経済学草稿の部分は非常に読みやすく、資本家、労働者、地主の関係を見事に表現している。またこの本を読んで、やはり国民経済学と道徳は相反するものなんだと改めて感じた。
読み終わった時、この本が書き途中で終わっていることに非常に驚いた。
レビュー書くの初めてだけど、どう書いていいかわからん&適当&「w」とか使いたい・・・
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新訳とはいえ、やっぱり一筋縄では読めないマルクス。これはマルクス26歳の時の草稿だという。1/3も理解していないし、なぜ共産主義が支持されるまでに発展したのかという答えも出なかったが、読み終えた達成感はあった。
マルクスは、イギリスの産業革命の様子を目の当たりにした。劣悪な環境で非人間的に働かされる労働者と、一部の富を得た経営者。現代日本でも、残業地獄で人間性を失う程働かされる労働者と、高い給料をもらってバブルの感覚に今なお浸っている経営者という構図は同じだと思った。
格差が大きくなるにつれ、差を是正する動きが出てくる。これらがマルクスが登場する土壌になったのではないか。日本でも民主党が政権を握り、格差を是正するために数々の提案をした。当時、「頑張って上を目指そう」という勝間氏と「そのままでいいんだよ」という香山氏の対決が注目を浴びたのもそんな時代背景だったからだろう。一緒にゴールする徒競走が話題になったのもちょうどこの頃だ。
ただ、我々は理想的な共産主義がフリーライダーや官僚の汚職によって成立しなかったことを知っている。なので、日本がこの先真っ赤に染まることはあり得ないだろう。
1つ気になるのは、マルクスが弁護士の息子で裕福な家庭に育っていることだ。なぜ裕福な家庭に育っているのに、あえて自分の富を手放すような平等主義を唱えたのか。難解な文章だけれども、この答えを求めてまだまだ共産主義者の本を読み進めていくだろう。
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読みやすさに定評のある長谷川訳ではあるが、ついに読み通すことができたという感慨がある。
経済学のほうはたいして見るべきことはない。経済学史の授業で習うような事がわかっていればよいのだろう。
面白いのは、マルクスの疎外、外化の概念や類的存在の概念が説明されているところと、さらに面白いヘーゲル批判である。
マルクスのヘーゲル批判は、まず、マルクスは人間と生活手段を非理性的なもの、ヘーゲルは理性的になりうるものと考えていたという前提の違いから始まる。そしてマルクスは、ヘーゲルの論は意識に始まり精神で終わり、理念の域を出ないものであると批判する。さらに進んで価値の点で、ヘーゲルの考える人間は神、絶対知によって確証を得るが、マルクスはその否定と破棄によって確証されるという(p193)。それは人間の現実的な本質を生成するような運動であるというのだ(p.197)。この辺りが最高に面白い。その本質とはなにかについてもこの本の中に散りばめられているが、やや具体性に欠ける。僕の読解力不足か。
また、アレントの人間の条件を読んだあとだったので、アレントの概念に手伝ってもらいながら楽に読んだふしもあり、もう少し無垢な視点から読めるようになりたいとも思った。
最後に付け加えれば、長谷川氏の解説は学者の良心に基づいて大変簡素にまとめられているが、もうちょっとボリュームがあるとよかったろう。あるいは、彼の『初期マルクスを読む』を読めということか。
とにもかくにも、これは読める人は必ず読むべき本である。これは近代の最後の良心なのであるから。
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「賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないこととに置かれる。」(p18)