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資源のない日本にとって、科学技術は未来の宝だというが、どうも科学技術を語るだけでは、社会がどのように進化していくのか、その目指す姿の合意が十分でないように国民は感じている。
科学技術に対するもモヤモヤ感を分析し、「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」が増えたことに原因があると、本書は指摘。
それには、
1. 科学の不確実性
現代社会では政策決定の根拠として科学が持ち出されるため、予知の失敗などで期待をひとたび裏切ることがあれば、科学全体が一挙に信頼を失う
2. 科学や技術が社会の中の利害関係や価値観の対立に不覚か変わるようになっていること
介護ロボットを苦労した開発者の想いと、人間の介護者にこそ安心感/信頼感を感じるというお年寄りの想いの対立。どちらが正しいという問題でもないのだが・・。
という二つの側面が影響しているという
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2011 3/10パワー・ブラウジング。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
博士論文で扱おうかと考えているテーマに関連しそう、と考え読みたいと思っていた本。
以下、メモ。
・本書の狙い:「科学技術の専門家ではない人たちが、身近な生活の場、あるいは国の政策決定の場などさまざまな場面で、科学技術の舵取りに手を出し、口を出すためのものの見方や考え方、行動の仕方を探っていくこと」(p.12)
・「ガバナンス(=舵取り)」という考え方の登場とその実践例
・「科学技術社会論」(STS)
・第6章、知的協同とリサーチリテラシーについての部分が博士論文に使いうる、か?
⇒・論文について「うまくすれば無料で読めることも」とあるが、多くは有料。PPVでも高い、という壁
⇔・その壁をOA化によって下げられるか?
・p.216でNDLサーチがポジティブに評価されている
・p.226 "ここでいう「素人」とは、たとえば自分や仲間の命の危機に直面し、何とかしたいと切実に願う「当事者」であり、当事者ならではの深い経験や知識、洞察を豊かに備えている人たちだ"
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科学を使って知識を創出しようとしている人間にとっては、自分の扱っている物の長所、短所、そして周囲の環境とのかかわりを考える上で参考になった。
科学は出来事を100%説明する事はできないし、複雑な現実に1つの答えを提供する事もできない(不確定)。しかし、科学の手法をつかうことで、少しでも事実・真実に迫る事はできる。だから厳密な科学的手法を通してつくられた情報は正しい知識といえるだろう。
その上で、本書の中に書かれているように市民がその知識やその知識とともに生まれた技術を社会的にどのように意味付け、実際の生活に生かす方向性を付けるかが大切だと思う。
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科学とは自然法則の発見など、この世界の真理を知る営み。
科学とはに始まり、その歴史、問題点と可能性。
公共ガバナンスを通して、科学が問えない問いを問う。
科学技術ガバナンスの入門書。
世の中に対する新たな見方。さっくり読めてオススメ。
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本書は、科学技術の進歩によって生じた弊害に焦点を当て、原発やBSE問題、公害など様々な問題を見ながら、科学の在り方、政府や専門家任せにせず、自分たちが情報リテラシーを身につけ「科学技術と社会」のこれからを考えるべきだと論じている。
本の構成は、問題提起が明確で、段取りや例示を多用して分かりやすく書かれていた。あるコンソーシアムで「研究目的が明確なものはその後の展開も良い」「目的を見れば内容の良し悪しが分かる」と聞いたことを思い出した。
各章末に参考文献が示されているので、次の学びにも役立つ「科学技術と社会」の入門書として読めた。
表題の答えとしては、科学は立場や経済的利潤を先行させがちな政府や専門家だけのものではなく、市民が自分たちの生活から社会的に見て考えるべきだということがメッセージではないかと思う。物事を鵜呑みにする前にまず考えることの重要さを実感できる良書
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(「BOOK」データベースより)
遺伝子組換え作物から再生医療まで、暮らしに深く関わる科学技術の問題にどう向き合うか。哲学、政治学など文系のアプローチを用いて科学を見つめれば、サイエンスの「不確実性」や、テクノロジーに埋め込まれた「政治性」が見えてくる。科学技術と社会がいかに深く作用しあっているかを解き明かし、専門家と素人の知性を架橋するSTS(Science,Technology and Society科学技術社会論)入門の決定版。
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第一章では科学技術にとって曲がり角となった1970年代の雰囲気がまとめられている。第二章では市民社会の台頭という観点から科学技術ガバナンスという概念が紹介される。日本では1995年の地震をはじめとする一連の出来事が、英国ではBSE問題が転機と捉えられ、科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題の存在を指摘する。第三章では科学技術の不確実性とその分類が議論される(「known unknown」「Unknown unknown」、「閉鎖系」、「開放系」という考え方は大事そう)。第四章では緑の革命や医薬品の南北問題に見られる技術と社会の不可分性について議論される。第五章ではリスク評価には価値基準の設定が価値観に左右され偏ること、事前警戒原則の理念が紹介される。第六章、第七章ではそれを踏まえて市民がNGOやNPOなどを通じて専門性を身に付け影響を持つこと、また疑問派(賛成派や反対派でなく)として活動していくことなどを提案している。
本書では「科学は唯一の正しい答えを保証してくれる」という科学に対するよくある誤解からスタートし、ではどうすべきかを議論しており、著者の(この学問分野の研究者の一般的な)考え方をわかりやすく示す名著と言えるのかもしれない。しかし、それは二章におけるBSEの問題に示されているように科学の傘を借りた権力による意思決定システムの信頼危機を『科学の信頼危機』と言いかえているにすぎず、それを科学技術自体の枠組みの信頼危機と同一視するのはおかしい(著者自身が専門家はBSEの危険性を報告書に併記していたが意思決定の段階で見過ごされたと指摘している)。つまり、BSE問題だけから、専門知は信頼を失い、科学技術理解増進活動(PUS)や欠如モデルが間違えていると言い切ってしまうのは極論でしかなく、そこに著者の拠り所のほころびを感じざるを得ない。
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「科学リテラシーが低い僕はどうしたらいいの」状態の時に日経ビジネスアソシエ(4/5号)で紹介されていたので読む。
まさに今求めていた内容に興奮気味に読了。自分しては“フック”ありすぎ付箋貼りまくりで内容をまとめることは難しい。
しかし、原発をめぐる情報・意見がタイムラインや紙面を埋める今、身につけたいと思ったことは、
「正しい答え」を主張し合うのではなく、「問い」を投げかけ合う「疑問派」というスタンスだ。(234頁)
この「疑問派」というスタンスはタフな精神が要求される。人は難しい問題に直面したとき、安易にラベリングをして思考停止および安心を得たいと考えるから。でもここに至ってこれぐらいの厳しさを引き受けないでどうするという気概もある。
アソシエにはこの他にも推薦本が何冊か紹介されている。順次読み進めたい。
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著者は、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授(科学技術社会論、サイエンスショップ代表)。
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・1960年後半に始まった緑の革命(穀物類、高収量品種の発展途上国導入)後70年から90年までに世界の人口一人当たりの食糧供給量は11%増え、飢餓人口は16%減ったが、中国以外の国では飢餓人口は20%増えている。モノカルチャーによって自給に回らない、高収量発揮のためには初期コストが比較的高い、などが原因。
・1960年代半ば~1990年ごろAIDSの治験は二重盲検法を、他の薬を服用せずに行わなければならなかった。
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科学技術は絶対ではなく、その判断基準は倫理的問題である。
政治家や技術者に任せるのではなく個人が一人ひとり考え、皆で意見をぶつけ合うことが必要になる。この本は科学の見方を知る本であり、新たな科学技術の知識をえらるわけではない。
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大阪万博を境にどのように日本で科学の位置づけが変わってきたか?
また、科学のあり方をどの様に捉えるべきか?を考えさせられた。
社会の中に科学はあるという点は共感できた。
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山中の興味の最新にある。科学技術コミュニケーションに関して浅く広く。そして、深めるための題材が散りばめられた本。ここをリソースとしてググったら結構網羅できる。
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これは勉強になりました。
科学技術社会論の出発点には最適かと。そしてこの分野は自分が結構勉強してきたハーバーマス=公共圏の議論ともむちゃくちゃ関係があるのだということを認識。とりあえず、僕はこの本と小林先生『トランス・サイエンスの時代』を熟読せねばと。あとやはりハイデッガー『技術への問い』ですね。
冒頭の箇所は、社会学者の見田宗介による戦後史の3区分(理想の時代/夢の時代/虚構の時代)が意識されているんだろうな〜と。
1点。
「科学の価値中立性」のところで、若干、疑問があった。
恐らくM.ウェーバーの価値自由の議論が念頭に置かれているのだろうけど(いや、恐らく間違いない)、ウェーバーの言う「価値自由」って、著者の言う「科学の純血主義」とは、実は真逆というか、その純血性にはどうやって辿り着くことができないことへの苛立ちから発せられたものというふうに僕は理解していた(この辺の議論に関しては宮台真司・北田暁大『限界の思考』に詳しい)ので、少し違和感を覚えた。本書を読んでいてウェーバーの『客観性』論文は非常に重要だなと思ったし、忘れている/理解できていない部分もあるので、こちらも読み直してみよう。
いずれにしても大変勉強になったことは間違いない。
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著者はもともと物理学を学び、そこから社会学に「文転」した方。科学技術社会論という、ちょっと耳慣れない分野について、丁寧に論を展開されています。
同列で扱われがちな「科学」と「技術」をしっかり定義して使い分けてる時点で、個人的にはけっこう高評価でした。中身も、実例を挙げつつ自分の口調でしっかり論じている印象があります。
3.11前に刊行された本ではあるけど、まるで原発事故後の盲目的な「原発No論」vs「それでも原発必要論」を見透かしたうえで、そういう視点では進展がないよ、と諭しているかのようです。
後半、徳島の吉野川可動堰の建設に関して紹介されているのが、「推進派」でも「反対派」でもなく「疑問派」という立ち位置。
本文から引くと、この疑問派というスタンスには、『可動堰が安全かどうか、必要かどうかではなく、「自分たちで納得して決めたい」という願いと、その結果を「自分たちが下した判断として引き受ける」という覚悟が示されている。』のであり、こうした視点を持つことで『僕たちは倫理や必要性、意味や価値に関わる問いも発することができる。科学技術を前にした時には、そうした問いこそ発しなければならない。なぜならそれらこそ、科学では答えられない、答えてはいけない問いであり、僕たちが答えなければならない問いだからだ。』と論じています。
ページ数はそんなに多くないけど、原発論議にもそういった視点で臨む必要があると感じられる、好い意見を提示した良書だと思います。