紙の本
これから気が付くための妄想
2010/12/25 14:59
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「武道の極意とは他者との共生にあり」という帯に惹かれた。
他者との共生とは、わたしも生き延びて、あなたも生き延びる、
ということで、それ以上に大事なことはこの世にあまりなさそうなので、
久々に内田先生の本を読んでみた。
武道による他者との共生とは、身体技法を通じた生きる術の獲得とも
換言されるもので、相手を打ち負かすだけの格闘だけならそれは
武道とは呼ばず、格闘が終わった後も延々と続く日常に処する上でも
武道的立ち居振る舞いは必要で、必要なものというのは認知されていても
実行するのはなかなか難しく、頭でわかろうなんて思っても頭って
結構すぐ壊れたりして取り返しがつかなかったりするので、だから
身体技法によって「わからなくてもわかりあえる」境地に肉体が辿り着くのが
武道の極意のようだ。
本書はブログからの編集が多いので一見内容はバラバラで、しかも
身体技法が大事だといっているので書評をいくら書いても結局読んで
骨身に染みてみないと武道的読書にはならないのだが、ある一説に
書かれてあった「妄想する」という行為の効用は骨身に染みた。
妄想=強く念じることはとても大切なことで、この「強く」という
副詞の解釈が特に大事で、ここでいう「強く念じる」というのは、
まだ起こってないこと、ここでは起こってないことを「微に入り細に入って」
思い描くことで、そこにはただの数字の羅列は意味を成さず、
肉体から生ずる五感的な言葉で描写することで、強く念じたことは
実現する。その語りの強さといったら!
身体的感覚に裏打ちされた妄想を描写することは、それが五感と
結び付けば付くほど肉体的作業に近くなるわけで、そういえば内田先生が
高く評する村上春樹もどこかでそんな事を書いていた。
「わからなくてもわかる」状況というのは、そこかしこにあるわけで、
妄想の産物である国家という枠組みにおいても、この国の現状が
対外的に弱くなってきたことや年金制度がもう持たないことや、
アメリカや中国に対して政治経済上はもうそんなに強行には
なれないことや、それでもアメリカや中国に対して何でもかんでも
負けるわけにはいかないという国民的エートスがまだあることは、
わからなくてもわかる。
誰かが言わない限り消えてしまいそうなことを妄想的に描き続ける
内田先生の書物は、それでも言葉にすることによってこの現状に
しなやかに対応していこうとする静かな熱に満ちている。
わたしがこれを身体的に読み取れたかどうかは、これからにしか
わからないが、事後的に気が付く訓練自体が武道的日常でもあるのだ。
投稿元:
レビューを見る
内田樹がすごいのは、当たり前でなさそうなことをそれなり説得力を持って語れるところであると思う。
それができるのは、誰もが納得できる事実に対し誰よりも考察を働かせているから、つまり普通の人が考えないところまで考える力を働かせることができるからだと思われる。
そしてもうひとつの普通の人が知らないことをあたかもわかっているかのように語るからである。例えば、武道が何であるかということは普通の人は知らない。武道をやっている人間でさえ、内田さんのように考えたことはないだろう。
それを武道とはこういうものである、ということそれなりのレトリックでもって語るので、読んでいる人にはそういうものかなと思ってしまう。
確かに独断と偏見のきらいはあるが、それをすんなり受け入れさせてしまうところが彼が言う知的好奇心を刺激する形での教育なのだろう。
ここら辺が、こうすればこうなるというえさをぶら下げて語る語り手(うすっぺらいハウツー本を出し続ける人)との大きな違いである。
武道を始めたいと思った。
投稿元:
レビューを見る
以下引用
生きる能力は他人と比較するものではありません。比べて良いのは昨日の自分。
とりあえず勝敗強弱を論じているうちは武道の話ははじまらない
非分節的世界に分節線をひき、そこに意味を付与する仕事、世界に深く踏み込んでゆく仕事は他の誰に拠っても代替されない。それは私たちがひとりひとりで果たすしかない
努力と成果の相関が可視化されていることを求める
わたしたちが興味をもつのは身体が求めていることそれだけ
ブリコラージュの持ち物は、何らかの計画によって定められたものではない。こんなものでもないかの役に立つかもしれないという原理に基づいて収集され保存されている
ジャングルを歩いてゐると、目の前にさまざまなモノが出現して来る。それは植物であったり、動物であったり、無機物であったり、有機物であったり、する。そのあるものを前にしたときにブリコラージュは立ち止る。こんなものでも何かの役にたつかもしれない。
とりあえずその用途や実用性がわからない 無数の選択肢の中から、なぜ他ならう それ が際立った仕方で彼の関心を惹きつけたのか 先駆的知に他ならない
はっきりしたモチベーションを持って入門した人と何となく入門した人では、何となくの方が長続きする
本人の意志ではなく、誰かにひっぱられて何となく役者になったとかの方が続く
知るためにいちばん簡単な方法は続けること
明確な理由付けはいらない
やめとけよ、向いてないからというご指摘はその通りでも、なんとなくやりたいなあという片付かない気持ちが残って、とりあえずやってみようと自分に言い聞かせているうちいに、気がついたら生業になる
脳の働きを信用していない
扉をあけなければ、扉の向こうに何があるか分からない
私たちは死者に向かって尋ねることができる、『あなたはこのことについてどう思いますか?』『ああただったら、こういうときにどうふるまいますか?』『私のこのふるまいは適切だったとあなたは思いますか?』もちろん、訪ねても答えは返ってこない。けれども『死者に向かってたずねる』というのは答えを得る以上に重要なふるまいなのである。といういうのは、死者に向けて問うというのは、自分自身の「いまここ」を離れて、「死者の眼」から私自身をみつめることだからである。そのとき、私たちが問いを向ける「死者」は、現世の利害損失を離れ、欲望や羨望や怨恨や嫉妬など、ものごとの判断を曇らせるさまざまの人間的感情から自由になったと想定された視点である。私たちが、死者に問いを向ける度に、私たちはこの「曇りなき視点」から想像的に自分自身を振り返る事を要請される。死者とはそのようにして想像的に設定された「私自身のふるまいの適切さを鳥瞰的視点から吟味する視座」のこと
私たちは私たち自身をとじこめている欲望や偏見や臆病の隙間をくぐりぬけ、私自身を振り返れるところまで自分から離れることができる。
ヘーゲルは、自己意識とは、「自分の外に出て行きつつ、自分のもとにとどまる」とい���分裂の現象だとした
絶対的に自分の外へ出て行きながら純粋に自己を認識するという、このエーテル(活動の場)そのものが、まなびのおおもとであり、知の一般型
私たちが時間の中にいるということである。そして時間の中にいるとは、今ではない時間、ここではない場所に、深く確実な仕方で結びついており、それをリアルに生きることができるということ
個性は内発的なものでない、呼ばれることである
愛情や共感は儀礼について来るおまけ
家庭を愛情や共感の上にきずこうとしてはならない
毎日はんをおしたようにルーティンを繰り返す事がたのしくなってきました
投稿元:
レビューを見る
最後のほう、武道に直結しねーじゃんと思ったけど、あとがきとまえがき読んで納得。
定量的に効果のはかれないものに関するものさし。
投稿元:
レビューを見る
いかにして心身のパフォーマンスを高めるか。
いかにして合理的に最適なアウトカムを達成するか。
いつも勉強になります。
投稿元:
レビューを見る
先生にサインしていただいた本は、なかなか読むのがもったいないような気がして今までお蔵入りしていたのですが、さすがにいつまでも読むのを我慢していることもできず、一気読みしました。
「ブリコルールの心得」、「甲野先生の最後の授業」、「無敵の探求」、「ヴォーリズ建築における学びの環境」、「どうして日本軍は真珠湾を攻撃したのか」などが、特に面白かったです。
投稿元:
レビューを見る
内田樹の武道についての本は、対談集を含めて多くの著書がありますが、この本は主にブログに記載したエッセイをまとめたものです。
正直、武道を嗜まない自分には、前半の記述があまり面白く読めなかった。武道の考え方や武道を巡る様々な出来事についてコメントしているが、ちょっと分かり難い雑文のような印象がある。
おそらくこの本が、最初から武道論として書かれたものではなく、彼の武道論を寄せ集めたものであるため、話の筋が通っていない印象になってしまっているように思う。例えば、高校における武道の必修化は、一般人の視点では日本の伝統を学ぶ良い機会でありスポーツのひとつとして認識しているが、武道家としては武道をそういうふうに認識しては困ると考えている。武道とは生きるための殺傷技術であるのだから、武道を単なる伝統的なスポーツと認識するのは良くないと言っているかのようです。(このあたりは何度か読んだけれど、いまひとつ理解できませんでした)しかし、それは武道を本格的に極めた人の話であって、学校で学ぶ武道の入り口の役割として、武道教育はあっても良いのではないかと思いました。このようなエッセイや武道家の生活の風景がいろいろ描かれています。
分かりやすいのは後半の武士のエートス、二十一世紀的海国兵談あたりで、福沢諭吉が勝海舟について書いた「痩せ我慢の説」の話、坂本龍馬は明治時代には忘れられていた人物だった話、日本のナショナリズムや政治等、日本の核保有の話、時事関係の話題はいつもの内田樹の考え方が反映されて面白い。自分自身も同じような考え方なので、読んでいるととても気持ちが良いけれど、読み終わると思い出せないような話題が多いのが気になった。本の成り立ちのせいなのかな。
投稿元:
レビューを見る
少しでも武道をかじったことのある身でありながら、今まで如何に浅薄な知識しか持っていなかったかということを思い知らされたということと同時に、先人達がつくってきた武道がどれほど奥深いかということが改めて思い知らされました。
武道の目的は「生き延びる」ことであると語られていますが、脳科学、生物学等あらゆるものを使って解説していただいていることに本当に感謝です。このような解説がなければ先人の知恵は、戦国時代には通用したものであり、現代には現代風にアレンジしないと行けないものなんだろう程度にしか認識し得なかったです。
今一度武道の奥深さに触れ、再度武道を始めたい気持ちになりました。
[目次]
第1章 武道とは何か?
第2章 武道家的心得
第3章 武道の心・技・体
第4章 武士のエートス
第5章 二十一世紀的海国兵談
あとがき 「武道的」ということ
投稿元:
レビューを見る
武道とは何か。生きる知恵を教えてくれる本。
ブログの纏め直しなので殆ど既読の気もするが、この本のテーマ別の編み直しはすっと頭に入ってくるのでよかった。
武道家は入れ歯が一発で合うと言う。それは、「ありもので間に合わせる」から。これは、結婚にも通じる。配偶者は、入れ歯と同じ。自分にとっての異物であい「本来合わない」ものである。だから「合う配偶者を求める」のではなく、「配偶者に合わせる」リソースを優先的に備給できるのが武人。
投稿元:
レビューを見る
武道的思考とは何か。端的にいうと敵をつくらないこと。自己のパフォーマンスを最大化するためにはどうすべきかを常に追求し考えていくことである。
したがって、学校教育にみられるような、あるいはスポーツ主義的な数値化できる競技としての武道とは一線を画している。
投稿元:
レビューを見る
タイトルだけみるといかにも取っ付きにくそうなのだけれど、まったく畏まっていない語り口が小気味よく、すらりと読める。
とりあげている事項もさまざまで、合気道・政治・哲学などなど多岐にわたり、雑食のわたしとしては非常に楽しめた。
つまるところ武道的思考というのは、身体を媒介に世界との関係を形作っていこうという、「女は子宮で考えろ」みたいなものかな~と思った。
投稿元:
レビューを見る
書きちらし感があるのですが、ときどきなるほど!と即役立つ考え方に遭遇します。合気道の合宿の食べるか寝るか稽古しているかのシンプルな生活には発見が多い。単純な繰り返しの中に昨日との差異を見出す。日々仕事していてぐるぐるまわる頭には、及び腰の政策決定が効き目ありそうです。「何が最適解だかぜんぜんわからないので、とりあえず先送りして、もうちょっと様子を見ることにしました」即決即断=仕事ができたという結果ばかりではなさそうです。
投稿元:
レビューを見る
思わず「なるほど!」という内容が多い。この方の「武道とは?」に対する答えは読んで長年の胸のつかえがとれた気がした。ただし、惜しむらくは文章があまり私の好みじゃないので正直読むのがちょっぴりしんどかった。
投稿元:
レビューを見る
タイトルを見て敬遠していたが、中身は武道から政治まで幅広い話。
ブログで読んだような話もちらほらあったが、普通に面白かった!
政治の話題のあのバッサリ感は秀逸。
投稿元:
レビューを見る
作者は武道の目的とは
「生き延びること」
といい、武道経験者なら「わかる、ソレ!」という内容の
武道的な話題からだんだん政治的な話題へと幅広く扱われている。
途中から何の本読んでたかわからなくなってきたりも
しましたが、「目的」は筋が通っていたように感じます。
以前、糸井重里さんが作者の本を読むと
まるで自分の考えのように思えてくるような
危険さがある、と言われているくらい文章に力がある。
作者のブログの更新についていけない方には
調度良い入門になるかもしれない一冊です。