紙の本
革命はしなやかな言葉と共に。
2010/11/07 00:08
16人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
読んで、書く。革命はそこから始まる。
人の歴史などまだまだ始まったばかりで、革命は何回だって起きる。
革命の本体は文学であって、暴力などその派生物に過ぎない。
現代世界の枠組みができて1000年あまり、その枠をこしらえたのも
人間なんだから、世界をさらに読み込んで書き換えることは
いつだって出来る。
著者の至高の語りに圧倒されながら、わたしという人間がどうやって
わたしになったのか、なってきたのかを考えれば、それは読んで書いて
きたからだった。読んで書かずに今の自分にはなっておらず、
世界を読む術を本を読むことで体得し、書くことで表現し、
カラダもそれに付き合ってきた。
人は言葉によって現実を紡ぎ出して、それぞれの物語のなかを
生きているのだと思うが、世界は自分の前からあって、自分なしでも
運用されて、己の死は己では確認できず、地球は誕生と滅亡を延々と
繰り返してきて、さらに宇宙は地球みたいなものを何億兆個も包含
しているはずなのだが、それもこれも、読むことで世界を知り、
人類は書くことで昨日の世界を書き換えてきた。
人間がアホみたいに書くことをやめなかったから、今がある。
文学が死んだ、なんてことを言ってる輩はもういらない!と
著者は怒っている。ドストエフスキーは文盲率90%のロシアで
あの小説群を書いたらしい。その戦いの日々たるや、何という
革命的人生であったことだろう。音楽が死んだとのたまう音楽家や
ダンスが死んだというダンサーなんていらないように、
狂おしいほどに読み書くことに賭ける人間だけが、
文学をやるに値し、既存の価値を転覆させるようなシビレル人生を
生きられる。
わたしには、革命なんて、と思ってる人間でも、
読み書くことで変化が訪れることを知ってしまった瞬間、
身体と脳は読み書くことを求めて止まなくなる。
読み込んで書き込むことの狂気を恐れず、
読み込んで書き込むことに没頭する勇気を持てば、
世界はまだまだ広い。世界は広くて柔らかい。
革命はしなやかな言葉と共にこの世界にやってくるのだ。
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2010年、一番刺激的な一冊だったかもしれない。とてもとても面白かった。こういう本を読みたかったんだ、という本だった。面白くて、勢い余って前作も買ってしまった。いいリズムがあって、いい思考があった。からだと思う。そして、装幀も良かった。(11/3/13)
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思想界で話題沸騰中の佐々木中。さすがにすごい。なんていうか迫力がすごい。一冊の本を何度も読む。これ実践しようと思ってるんだけど中々できない。夜戦と永遠も読まなきゃ。
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面白い本だと思うが、つまらない本でもある。著者は現代哲学などが専門、この本は5つの語りをふくんでいる。第一章は、本の読めなさについて、本を読むことが如何に困難で、狂気を誘発するくらい危険な行為かという事を論じている。また、文学や芸術の範囲を教育や法律、ダンスやファッションにまで、広くとらえ直そうとしている。第二章はルターを論じ、宗教改革が革命だったこと、その革命の本体はテキストの読解、そしてその読解に基づいた運動であったことを示している。革命につきものの暴力はなくてもよい付随物だと指摘している。第三章はムハンマドをテーマに文盲だった彼が如何にコーランというテキストを読み、革命をしたのか、文学が「天使の技」であることを書き、文盲と「母」が通ずることを述べる。また、フェミニンなムハンマドが世俗者でありつづけたことから終末論を論じ、終末論が「みんながいっしょに死んでくれなきゃいやだ」という幼稚な願望にもとづいていることを指摘している。この「願望」は学問のみならず、ハリウッド映画などを通して、現代の思想や文学がもつ「病」の一つだと指摘する。第四章では、十二世紀革命、「中世解釈者革命」にふれ、最初の主権者である法王、最初の議会である公会議、官僚制の祖型である教会のネットワークなどをのべ、ローマ法の「発見」にともなって、家族制度、契約などもろもろの近代国家の法制度が12世紀に準備されていることを述べている。そしてこれは、「情報」による支配のはじまりであり、そこから溢れたのが「暴力」と「主権」であるという。しかし、「法」は元来「情報」ではなく、ダンスやファッションなどにも込められた儀礼であるから、「情報」か「暴力」かではなく、もっと広い意味で「文学」をしていくことに革命の可能性を見いだしている。第五章は、人類史をひもとき、一つの生物種が絶滅する確率は400万年に一度という事実をひき、人類の20万年の歴史にはまだ380万年も続きがある。まだまだ新しいことは起こるし、「終わり」など来ない。文学も若い分野であるから「文学が終わった」などと言ってはならないという。ドストエフスキーも当時ロシアの文盲率が90%を越えていたのに、言い換えれば友人10人のうち9人は字が読めないのに、文学をやっていたと指摘している。それに比べれば現在の状況は危機でもなんでもないそうである。
以上、たいへん興味深く読んだが、つまらないと思ったのは、ぼくが中国古典を読んでいるからである。中国の本、とくに経書は、つねに「そう生きるべし」と言ってくるし、終末論も希薄だ。官僚制や「法」の領域の広大さなどは、『礼記』などを読めばでてくる。また、「文」とは入れ墨をあらわし、あらゆる筋目をあらわすことは漢和辞典をひいたり、たとえば「天文」という言葉を考えてみれば、分かることである。また、「礼楽」といって文化、法、儀礼、芸術が一体であるのも、中国古典を読めばよくでてくる道理である。また、「春秋」など、中国の歴史上の少なからぬ「革命」が経書解釈であったことを思えば、「革命の本体は文学である」という主張は「前提」である。要するに、この本で言われていることは、「まともな文学者���なるための心がけ」である。こんなことを確認する必要があるのは、著者が罵倒し、嘲笑し、哀れんでいるような現代思想や文学評論の賢しらぶった人たちだけなんじゃないかと思う。その意味でつまらなかった。ただ、本があることの奇跡、本をもっていたら殺された時代もあったし、周りはそれこそ誰も理解してくれないという状況で本を書いていた人もいた。そうした人へ敬意をもういちど呼びおこすにはいい本であるといえる。著者の嘲笑などは人への期待の裏返しであるから、まぁ文学青年の純粋さの発露として聞き流せばいいと思う。「藝」(ゲイ)と「芸」(ウン)の違いを耳学問で知って、こだわっているようだが、言葉に興味があるなら、『文心雕龍』や『荀子』(「信ずるべきを信ずるは信なり。疑うべきを疑うも亦た信なり」)などを読んでくれればいいのにと思う。まぁ「人に備わるを求めるなかれ」なので、今後に期待しておく。
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(書きかけ)
革命は文学から始まる。何故なら、自分が正しいと思えるものを読んでしまったら、後は自分を信じるか、世界を信じるかだ。自分が正しいと思うのなら、世界を変えるしかないのだ。そこまで文学を読み込めれば――この論旨は分かる。とても勇気づけられる。佐々木は誰もがこの作業が可能だとも言っているわけでもないし、そうすべきだとも言っているわけではなく、「読む」ことの意味を欣求しているのだけれとも。
ただし、「分かる」ことは同じ人間でも常に同じではない。人生はたぶん積分されるものではない。普通に読書の世界では、若くして読んだ文学を後に読み返して、はやと膝を打つことはままあることだろう。つまり、人生とは「分かった」ことが、次の時点で「分からない」「違っていた」ことを繰り返すものなのだ。その掴み所のなさについて、佐々木がどう考えているのかを是非、今後の著作で期待したい。
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赤い、本だった。目を閉じても、瞼の裏に、その赤が、しみついて離れない。
面白かった、というには語弊があるし、人に勧めるにも躊躇いがあるけれど、読んでよかった、と思える一冊。
繰り返し読みたいし、読まなければ、とおもう。
そして、書かなければ、と。
折ったペンは、いまでもわたしを待っていてくれるのだろうか。
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何なんでしょうね、この方は。
「九夏前夜」同様、読めそうにないのに読ませてしまう。
非常に観念的で分かりにくいはずの題材が扱われている上に、とんとんときた話が急に飛躍してしまい凡人にはついていくのが難しくなる部分もままあるにもかかわらず、読んでいて退屈せず面白い。ぐいぐい読めてしまう。
インタビュー形式だからなのか、編集者がうまいのか、そもそもこの人の独特の文体がそうさせるのか。
何しろ、第2夜のルターの革命の話がとにかく面白かった。この章だけでも、また何度でも読みたいかも。
第4夜の国家の本質の話や最終夜の人類の終焉の話もなかなか興味深い。
第1夜の読むことは革命だというこの本の導入部分は、私にはあまりピンと来るものはなかったが、先日観た映画「into the wild」の主人公をちょっと思い出した。彼も、本を読んで読んで読み尽くして命が絶えるまで本を読み、そこに書かれていることを考えつづけ、「物事を正しい名前で呼ぶ」ことの意味に辿り着いてたな、と。エリートでとにかく優秀だったという彼は、きっとこの佐々木氏のようなことを、ずっと考えてたんだろうな。
なんだか、学生運動をやってた学生が考えてそうなことだとも思ったけれども。
何はともあれ、物事をこんなふうに考える、考え方捉え方というのがあるんだな~、という発見をした本でした。
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一度で理解できない。でも何度も挑戦したくなる。
一度わたしはこれを「読んでしまった」。
読んでいて、言葉と文学が、武器であるという実感があった。
一夜(一章)ごとに頭を冷やさないと読めない。
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序章(第一夜)、結論(第五夜)は一読の価値はあった。
第二夜でルターの宗教改革、
第三夜でムハンマドの革命、
第四夜で中世解釈者革命(12世紀革命)を扱う。
二〜四に物足りなさ。語り過ぎという気もするし、語り足りなすぎという気も。一貫して「語り」の本なので、手法的な物足りなさかもしれない。序章と結論箇所は、著者の最も伝えたいであろう主義主張なので、「語り」の手法で、すんなり入ってくるのだけど。少々、著者の繰り返しの語りに、うんざりしてくるが、途中で投げ出さず、最後まで読んだ方がいい本。最後のニーチェの「未来の文献学」箇所は、グッとくること請け合い。
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12/5
暴力を前提とした法と、流血を前提としない革命。
「読むこと」それ自体にきちんと目を向けた著作。
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2011年一発目はこれを読む!と決めて暖めていた本、暖めていた甲斐がありました。本に限らず、音楽/絵画/映画etc、この本で言うところの藝術全般が好きな方は是非一読をお勧めします。“文学”とそれに拠る革命を、少ない可能性に賭けつつでも決して諦めてはいけない、という強い決意が独特の語り口で迫ってきます。まあこの独特の語り口が鼻につく場合もあると思うので、本屋で立ち読みしてその辺気にならないか確認後購入をお勧めします。自分は逆に立ち読み2ページで気に入ってしまい、全く前知識無しで購入しました。
個人的には博覧強記をよしとし、情報に触れることそのこと自体を是としていた自分のここ数年の考え方にちょっと釘を刺された感じがして、その辺もまたステキでした。正月早々知的な本を読めて、そういう意味でも大満足な1冊。いずれ再読したいです。2011一発目にして2011ベスト1の予感です。
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入荷先:府中市立中央図書館
月曜社のブログ「ウラゲツブログ」にて紹介されていた一冊。人文科学の世界では久々の(真っ当な)新星とされるのだが、果たして実際にはどうかという検証の意味も込めて一読。
読後、哲学や思想のなかで相当疎んじられてきたのだなとは理解できる。しかし、そうであるがゆえに既存の批評への嫌悪(これはあとがきで読むことができる)が一人歩きをし、アーティストに受け入れてもらえた僕ってカッコイイという自惚れ(=幼稚な承認欲求)も見え隠れする。佐々木の文体は好き嫌いが分かれるとは月曜社Kさんの証言であるが、この場合の好き嫌いはともすれば始末に負えないアジテーターのアジビラを読まされるのとそう変わりないのではないだろうか。
書籍を情報として消尽する(消費ではない)ことの無意味さは佐々木は指摘している(これについては同意する)。しかし、前著『夜戦と永遠』で見られたエキサイテングな文体は早くも鳴りを潜め、特定のの読者へのサービスに堕落した感は拭えない。ページ数も少ない(そして安い価格設定)だけにするっと読めてしまうのだ。つまり、なにを言いたいのかについてのエッセンスがまるでないのだ。
本書を読む限り、期待したほどではないというのが正直なところである。
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佐々木中(1973〜)
思想家、作家。専攻は哲学、現代思想、理論宗教学。
・読むことは狂気に陥るほど危険なこと
・終末論の傲慢さ(粗悪な独我論)
・conception
静謐ながらも熱く、勢いのある語り口調。著者が宗教学に精通していることもあり、宗教や歴史と絡められながら文学が語られる。この、著者が列挙している史実、つまり論の根拠が事実かどうかなんてことはどうでも良く、文学を、本を、本に携わることを、こんなにも情熱と誇りを持って語ってくれる知識人がいることがわたしは嬉しい。本当に嬉しい。
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この本に関しては読んだ内容をあまり理屈的に話すべきで無い気がします。
自分もやっぱ賭け続けるべきだ。
媒体は違えど、やはり読んでしまったから。
それ以上でも以下でも無く、みて、やって、魅せられてしまったから。
久しぶりに思い出させてくれました。
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本書はその副題にある様に「本」と「革命」についての著者が話した内容を書き起こしたものである
「本」と「革命」
この一見、何の関係もない二つの言葉・概念が実は本質的な部分で結びついているというのだ
「本」については後ほど書くとしてまずは「革命」について書いていこう
本ブログの読者は「革命」という言葉から思い浮かべるだろうか
僕は直近で行くと「ジャスミン革命」「エジプトの革命」、それ以外には「文化大革命」「宗教改革」「フランス革命」「キューバ革命」などを思い浮かべる
どれも既存体制を破壊し新たな秩序を再構築しようとする試みだが、「革命」というと既存体制を破壊するまでの過程を指すことが多いと思う
実際、直近の「ジャスミン革命」にしても報道などを見ていると、政権を打倒するまでを「ジャスミン革命」と称していることが多いように感じる
しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然な話で「革命」は既存秩序を破壊し新たな秩序を再構築するまでを指すはずだ
これはどういうことか
「革命」が指す事象が、暴動や戦争などの暴力によって既存体制を破壊することだという認識が大手メディアの間に少なからずあるということだ
これは以前読んだ「共産党宣言」や一時期嵌っていたチェ・ゲバラが述べていたように「革命は暴力によってしか成し遂げられない」もしくは「革命は暴力によって成し遂げられなければならない」といった言説が、有名でそのようなイメージが「革命」という言葉についてしまったからだと思う
本書は、そのような「革命=暴力」といったイメージを、「革命は暴力的なものである」という考え自体を真っ向から否定する
著者は、革命は「読み、読み換え、書き、書き換えることによってのみ成し遂げられる」と述べている
どういうことかというと
ここで「本」についての話が登場する
(本書の順番ではむしろ「本」の話から始まるが本記事では分かり易さのために「革命」の話から始めた)
「本」
権威者のための権威強化ツールであった本
活版印刷によって大衆化し、現在の日本では読めない人はほぼいないと言える本
近代教育の普及によって識字率が上昇し、先進国では求めれば誰もが書くことも読むこともできる本
現在の日本ではインターネットの普及、電子書籍の登場によってその形が問われている本であるが、著者はこの「本」を読む行為「読書」をについて述べる
「読書」
読んだ字の如く「書を読むという行為」そのものだが、著者は単なる情報取得のための行為は「読書」ではないと言う
「本当に本を読むという行為をしていない」と言う
(ここで著者が扱う本は思想や社会学、法律学、文芸などいわゆるハウツー本とは一線を完全に画すものである)
「読書する」と言った場合、読む本はほとんどの場合、他人が書い��ものだと思う
では「他人が書いたものを読むということ」はどういうことか
人間は他者と理解し合うことは不可能だ
この当たり前過ぎる現実を前提に考えた時、「他人が書いたもの」を「読む=丸ごと理解する」ことは不可能だということに気づく
それでも読む
ここで想像して欲しい
今の様に情報が氾濫していない社会
一つ一つの情報に今よりもずっと価値があった社会を
それは活版印刷以前の時代において顕著だ
そんな時代に自分が読んだ本
しかも聖書の様な誰もが行動の生活の基準としている本
そこに書いてあることが、自分が今いる世界を何一つ説明していなかった場合を
当然疑うだろう
まずは自分の頭を、そして字を読んだ自分の目を、印刷の不備を、最後に自分の住んでいる世界を
だが、それでも、何度確かめても何度読み直しても自分が読んだ通りだと理解するしかない場合、あなたならどうするだろうか
その本には周囲の世界を説明することが何も書いていないなら、そして、その本の通りに世界が構築されていなければならないのなら、きっとあなたは世界をその本の通りにしようとするだろう
その本を聖書にしたとき、その革命は「宗教改革」となるし、その本をコーランとしたとき「ジャスミン革命」になる
共産党宣言にすれば「ロシア革命」になるだろう
本書では革命を語るにあたって「中世解釈者革命」と「宗教改革」を主に取り上げている
ルターは敬虔なキリスト教の司祭であるが、聖書を読み込めば読み込むほどに、当時の修道院や教会、枢機卿などの制度の根拠がどこにも書かれていないことに苦しみ、認め、最後には当時の腐敗した教会制度に一石を投じた
彼は当時としては異常なほど本を書いた
そして多くの場所で何度も何度も説教をした
そうやってそれまでの民衆の頭の中にあった秩序を書き換えていったのだ
ルターは、聖書を読み、自分なりに読み換え、書き(聖書のドイツ語翻訳)、書き換えたのだ(翻訳は訳者の理解する原文の影響を受ける)
もちろん、その過程では、当時の既存秩序である協会側から破門されたり、戦争があったりなど暴力が存在する
だが、暴力は革命の本質などではないし、それが無ければ成し遂げられないなど言うことは全くない
革命は「読み、読み換え、書き、書き換えることによってのみ成し遂げられる」のだ
「人々の準拠するテキストの書き換え」によってのみ成し遂げられるのだ
本書では中世解釈者革命について、このルターによる宗教改革の源流として述べている
「中世解釈者革命」という言葉を僕は本書で初めて知ったが、当時の社会状況はというと
12世紀くらいに、グレゴリウス七世による当時の腐敗していたキリスト教世界の改革に乗り出し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世との「叙任権闘争」を経て、250年以上後に公会議の復活、ルターによる宗教改革につながる
で、「���世解釈者革命」はというと、11世紀末にピサの図書館で「ユスティニアヌス法典」というローマ法大全が発見される
これを発見した者たちがこれらの書物を「読んだ」
それまでは全く意味不明のものだったのだが、11世紀末の発見者はこれを読んだ
そして、ローマ法の概念と法律用語を手にした
これを手にしたものたちは、それを実践して法律を作った
本書によると「グラーティアヌス教令集」を
この教令集によって統治されるものは教会であり、教会を統治すると言うことは当時のキリスト教世界全体を統治することを指す
この「「ユスティニアヌス法典」を読み、読み換え(当時の概念で解釈し)、書き(「グラーティアヌス教令集」を書いた)、書き換えた(そのことにより教会法を書き換えた)」ことが「中世解釈者革命」である
なんと、これも本書で初めて知ったのであるが、この「中世解釈者革命」によって初めて体系的な法律文書に則った統治が行われるようになった
そして、このことが中世キリスト教共同体の成立を導く(これが近代国家の起源にあたる)
ここに「主権」の考え方や、「公会議」という名の「近代議会制度」、一次資料に準拠して実証するという科学的態度といったものの起源がある
我々が自明のものとしている、選挙制度や人権、科学(実証主義)といったものの始まりが中世解釈者革命にあるというのだ
つまり、現代社会は未だに12世紀に起こった「中世解釈者革命」の延長線上にあるのである
これは凄まじいことだと思う
だってそうだろう
今から800年くらい前の考え方が、現代社会に影響を与えているだなんて
本書の特徴に、現代や近代という短い時間軸、日本やアメリカという狭い空間軸に囚われない圧倒的な視野の広さがある
その視野の広さから、本書では所々で(特に最後の章で)、「もうすぐ世界が終わる」とか「文学はもう終わった」という態度を取る者たちを手厳しく批判する
まず「世界が終わる」という者たちには、「自分が死ぬと同時に世界も滅ばなければならない」という観念を持っているとして一笑に付している
もっと言うと「本を読む」ということをしていない
他者の無理解性を理解していないからそんなことが言えるのだ、と
自分が死んでも世界は変わらず回り続けるのだ、と
そして、「文学はもう終わった」などという者たちには、ドストエフスキーやアリストテレスなどの例を挙げる
ギリシャ・ローマ時代には膨大な数の書物が書かれたけれども、残っているのはその内の0.1%だけだ
だが、そのことだけでアリストテレスが負けたのか
時代の流れによって壊滅させられたのか
また、ドストエフスキーが処女作「貧しき人びと」を書いた当時、ロシアの全国民の少なくとも90%が全文盲だった
そんな状況であんな名作を書いた
そういうことを知って果たして「文学はもう死んだ」なんて言えるだろうか
本書では、英語の初出があった14世紀くらいでは「文学」という言葉が、現代の「文学作品」を指すのではなく、「読み、かつ書く技法一般」のことだったことを示し、本来の文学の意味を広く深く取っている
それは「文字を読み、書くこと」でもあるが、頭の中のテキストを含ませるので、近代化していない文化の伝統的ダンスを「踊ること」でもある
つまり、「頭の中のテキスト(思考)を読み、書くこと」を文学としているのだ
それが文学であるという前提で、そして、今まで書いてきたことを念頭に、先ほどのアリストテレスやドストエフスキーの例を考えてみると、
彼らが読んでしまったがために書かざるを得なかったということ
それがどんな苦境でも書かざるを得なかったということ
そして、「中世解釈者革命」も人間が成し遂げたものである以上、それが人類史から見ればたかが800年前ということを考えれば、自分が生きているときには無理でも、これから「革命」が起こらないとは誰にも言えない
絶対に文学は死んでいないのだ
「文学は死んだ」と言っている者たちの思考が死んでいるのだ
本書は、ともすれば悲観的なイメージがある思想書や文学論からは一線を画す、明日のための文学論であり革命論であり社会論であると思う
シニシズムに陥りがちなあなたに
自分のやっていることは無意味なんだと無力感にさいなまれる貴方に
是非とも読んでもらいたい一冊
我らが文学で革命を起こそう!
…大きく出過ぎましたww
でも、血を熱くさせてくれる名著です