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商品説明
「わたし」から「みんな」へ、「モノ」から「コミュニケーション」へ。「超越論的転回」から「コミュニケーション的転回」へと移り変わってきた思想の流れを整理し、いま現代思想が現実社会に対して何ができるのかを提示する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
高田 明典
- 略歴
- 〈高田明典〉1961年生まれ。フェリス女学院大学文学部コミュニケーション学科教授。茨城大学教育学部非常勤講師(文化記号論)。著書に「物語構造分析の理論と技法」など。
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著者/著名人のレビュー
21世紀、カントの「...
ジュンク堂
21世紀、カントの「超越論的転回」に端を発し、「言語論的転回」「解釈学的転回」を経由した近代哲学は、「コミュニケーション的転回」に辿りついた。それは、「真理」の基準そのものが、「モノ」→「我」→「言語」→「解釈」→「コミュニケーション」と変化してきた、いわば「弁証法的」な道程であり、その結果、 “コミュニケーションによって言葉がつくられ、言葉によって事実が発生し、事実によって世界が構築され”るというベクトルを持つ視線を得るに至ったのだ。
重要なのは、「コミュニケーション」が決して「伝達」ではないことである。我々は、 “決してわかりあうことのできない存在であるからこそ、「わかりあおうと努力すること」に意義が発生”するのだ。
だからといって、「コミュニケーション的転回」は、価値の相対主義ではない。「コミュニケーション的転回」の立役者の一人アーぺルは、カントの「定言命法」を読み変え、「転回」の端緒に立ち還る。同時に、アーペルの主張は、あく迄思考が未来に向けての営みであるという点にある。我々の「合意」もまた、常に未来を志向する。“アーペルの論の美しさはここにある”と、著者は言う。
紙の本
わかりあえない存在だから、わかりあおうとする
2011/08/08 14:03
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「コミュニケーション的転回」とは「「存在・モノ・私」から「認識・言葉・みんな」への変化」即ち「「個人知から共通知へ」の流れ」を意味する。
IからWeへ。間主観性だの世間だの間だの、関係、リエゾンだの、さんざいわれてきた。気恥ずかしい言い回しなら「人は一人では生きられない」。「転回」は、ちょっと前に流行った言葉でいうならパラダイムシフトか。
「私たちがわかりあおうとするのは、「わかりあえない存在である」からです」
来たね。この口説き文句にグラっときた人には、一読をおすすめする。さらに、
「親友や恋人や伴侶であっても本来的にわかりあえない存在であることは当り前のこと」だけど、「「わかりあえた」というのは、双方が納得しうる合意に到達できたということです」
相互理解と合意は違うわけだ。なんか外交にもビジネスにもいえるような。
「「存在を引き受ける」他者が存在して初めて、私たちの「自」の存在が確かなものとなるということです」
はじめに個、ありき。ではなくて、さまざまな他者からのピースで構築される「私」というジグソーパズル。作者はレヴィナスを引きながらこう述べている。
「そのときに重要となるのが「他者の顔」です。私たちは、その「他者の顔」を見ることによって、その人間が、確実に「他者として存在していること」を知ります」
顔色を伺うというが。
「わかりあえなくても合意はできます。さらに言えば、わかりあえない存在であるからこそ、合意が重要となるはずです」
妥協や譲り合いなど現実的な解決の一手法かも。
「ウィトゲンシュタインは「人は、一人ではルールに従うことができない」と指摘しました。」
「(社会的な―註ソネ)定義がまったくされていない状態で、有効に言葉を使うことはできません」
「ティン―トゥミーの「顔交渉理論」」を取り上げながら、
人は文字通りFace to Faceで「コミュニケーション行動をとる」。
「ここで重要なのは、私たちの「顔」は、言葉でできているということです。もちろん、顔は、私たちがそれぞれ持っている価値観の一部です」
レヴィナスだよな。難解だけど。ジュゼッペ・アルチンボルドの野菜や果物で構成された絵をイメージしてしまった。顔中、言葉がすべて漢字だったら、「耳なし芳一」になるけど。
「ここで面倒なのは、自分が保持しようとする「自己像」としての顔は、相手が自分をどう見ているかによっても影響され、形を変えてしまうことがあるということです」
ふと思う。Facebookというネーミングは秀逸なんだなと。実名&画像、特に顔は、男女の別を問わず見てしまう。で、なぜか知っている人か、会ったことのある人か、判別してしまう。挙句の果てに誰かに似ているとか。
「言葉の機能の中心は「伝達」ではない」
この小見出しに思考停止状態。もう一度ウィトゲンシュタインあたりを読んでみないと。
数日後、ソシュールのパロールとラングを思い出す。ソシュールの唱えるラングの意味するところと似ているのか。
そうか!と納得したり、気づかせてくれる部分が多々あり、ありがたい内容なのだが、いかんせん図がわかりにくい。図はテキストの理解促進の一助としてにあるんだけど、いっそのこといらないんじゃないのかな。憶測だが、ビジネス書の体裁をとってとっつきやすくしようとしたのだろうか。