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ヒトモノカネなどの「ないもの」を冷静に判断して機をみてはじめる→現代
ないのが当たり前なので機が熟したらやるなんて呑気?なことをいわずに、いまやるんだ、なくてもやるんだ、工夫でやるんだ、という時代のお話。
小理屈も大事だけど、がむしゃらにやる、ということがこんなに大事なんだと痛感。昭和の「坂の上の雲」といえる。
311は平成の坂の上の雲な気分を生み出せるだろうか?
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(2011.05.31読了)(2011.05.25借入)
「あとがき」につぎのように書いてあります。
「この本の取材を始めたのは1995年のこと。完成して、出版するまでに15年もかかってしまった。手に余る仕事で、何度も書き直し、やり直しているうちに、時間が経ってしまった。」
「エッシャーに魅せられた男たち」も面白かったけど、この本も面白い。テーマをどういう切り口で見せるかと言うあたりが実にうまいというところでしょうか。
1964年の東京オリンピックを扱っているのですが、その時の競技や選手のことを書いているのではありません。ポスターを作った人、競技の速報システムを作った人、選手村の料理を作った人、選手村の警備を担当した民間警備会社、記録映画「東京オリンピック」を撮影した人、絵文字をデザインしマニュアルを作った人、等、オリンピックを周りから支えた人たちの話です。
「今の人たちは何かを待っている。自分から動いて、状況を変えようとしない。待ちの姿勢が日本社会の元気を奪ったのだ。」(5頁)
「本書を書いたのは新しい何かへの挑戦、そして、がむしゃらに突き進むことの意義を改めて提示したかったからだ。過去の業績によりかかって企画を考えたり、他人の提案をくさしたり、成功者をうらやむことなく、自ら変わることの大切さを訴えたかったからだ。そんな自己変革の成功例として私が見つけ出したのが1964年の東京オリンピックであった。」(6頁)
章立ては以下の通りです。
第1章、「赤い太陽のポスター」
シンボルマークとポスター 亀倉雄策
第2章、「勝者を速報せよ」
全種目の競技結果を速報するシステムの構築 日本IBM 竹下亨
第3章、「1万人の腹を満たせ」
選手村の給食業務 帝国ホテル料理長 村上信夫
第4章、「民間警備の誕生」
選手村の警備 日本警備保障 飯田亮
第5章、「記録映画『東京オリンピック』」
公式記録映画 市川崑
第6章、「ピクトグラム」
競技会場に設置する案内板や装飾のデザインの規格の統一 勝美勝
第7章、「宴の遺産」
●スタートダッシュのポスター(32頁)
あのポスターには高度成長に向かう日本人の勢いが表現されている。あの頃、全国民が日本の未来を東京オリンピックに託していました。あのポスターは日本復興の狼煙であり、大きな花火であり、東京オリンピックの旗印でした。あれを見て、国民はみんな、よし、頑張って働くぞと思ったんです。
●東京オリンピック後(34頁)
東京オリンピック以前の日本人は江戸時代の八っつぁん、熊さんみたいなもので、時間にはルーズだし、会議には遅れてくるのが当たり前だった。日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。
●オリンピック直前(77頁)
1964年9月5日には名神高速道路が開通し、関ヶ原と西宮のインターチェンジで開通式が行われた。9月17日には羽田空港と山手線浜松町駅を結ぶ東京モノレールが開業した。全長は13.1キロ。10月1日には東海道新幹線が営業を開始。列車出発式は東京駅、新大阪駅で行われ、開業式は国鉄本社で行われた。高速道路とモノレールは日本で初めてのものであり、新幹線は世界最新の技術を使った高速鉄道だった。3つの新交通システムが完成し、日本は本格的な高速大量輸送時代へ突入する。
●競技結果を速報するシステム(81頁)
責任者が竹下で、3名の部下とともに細々とスタートした仕事だった。しかし、いつの間にか作業量は増えて行き、ピーク時には263名の人間が投入されることになる。日本IBMにとっては結果的にはいい宣伝になったが、まさか200名もの社員が関わることになる大規模プロジェクトになるとは当初、想像もしていなかった。
「リアルタイムで競技の結果を集計したのは、歴史上東京オリンピックが初めてのことでした」
●国別メダル獲得数(85頁)
オリンピックでは連日、国別のメダル獲得数が出ているでしょう。あれを始めたのは東京大会からです。
●冷凍食品(106頁)
もうひとつの課題は、冷凍食品を材料に使うことだった。東京大会では毎食、1万人分の料理を出さなくてはならない。
村上は冷凍食品に詳しい部下の白鳥浩三、そしてニチレイの技術と一緒になってさまざまな材料の冷凍の仕方を研究した。肉、魚、野菜を一律に冷凍するのではなく、冷凍するまでの処理方法を試作しては実験を繰り返したのである。
●調理システム(125頁)
東京大会が生んだ大量調理とサービスのシステムは、1970年に大阪で行われた万国博覧会で一層広まり、ファミリーレストランを初めとする外食産業の誕生へと結びついていく。
●脚本家・谷川俊太郎(151頁)
この時、脚本家として参加したのが詩人の谷川俊太郎である。「東京オリンピック」は彼にとって初めての映画脚本の仕事で、それを機に、市川崑、和田夏十夫妻と親しくなった。後に、「愛ふたたび」「股旅」といった映画でも夫妻の下で、脚本を担当している。
●下調べ(164頁)
東京大会の開会式まで、助監督、キャメラマンはスポーツ競技に通い、あるいは国立競技場をはじめとする各地の会場を回り、たった一度しかない撮影チャンスのために何度も下調べを繰り返したのである。
●選手宣誓(167頁)
日本中のスポーツ大会や運動会で選手宣誓が行われるようになったのは、東京オリンピックの選手宣誓がきっかけだ。
●人間を撮る(173頁)
組織委員会との事前の取り決めでは、各競技のうち、最低でも一つの種目は必ず記録することとなっていた。つまり、陸上なら100メートル、水泳なら自由型の決勝、ボクシングならヘビー級決勝といったように、記録映画としての骨格を考えるならば、決勝の試合だけを映しておけばそれでよかった。しかし、市川は試合の結果よりも、人間を撮りたかった。
●ピクトグラム(絵文字)(218頁)
ピクトグラムとは一般に絵文字と呼ばれるもので、例えば「非常口」と漢字で記す代わりにドアの上に人が出て行く姿をシルエットで描いたものを言う。今ではピクトグラムははるか昔から存在したものと思い込んでいる人も多いが、ピクトグラムが標準化されたのは東京オリンピックが世界初であり、開発したのは日本のグラフィックデザイナーたちだ。
●映画の音は後録り(242頁)
「本番のときは、選手の近くにマイクなんか立てられません。それで後録りにしたのです。バレーボールだけでなく、陸上ではランナーがザッ、ザッとト���ックを疾走する音、水泳では選手が水をかき分ける音、そういった音は、競技の最中には録音できません。ですから、すべて後から付けました。水球の音も映画で使用したのはすべて再現したものです」
☆野地秩嘉の本(既読)
「エッシャーに魅せられた男たち」野地秩嘉著、知恵の森文庫、2006.11.05
(2011年6月3日・記)
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亀倉雄策は言った。
「日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんな、そのことを忘れている」
戦後まだ十数年の頃、ただ好況を待つだけの姿勢は持たなかった人々が、一斉にひたむきに東京オリンピックを作り上げた、その縁の下を描く。
焦点が当てられるのは、グラフィックデザイナ、シェフ、映画監督ら。特にデザインの話と選手村で供する給食の話に面白みを感じた。
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ロゴがパクリとかそうじゃないとかは実は問題ではない。ただ、出来が悪いことが一番の問題だった。1964年の東京大会と比較して出てくる結論がそれだ。
1964年の東京オリンピックの実現に向けて、各分野で活躍した人々を描いたドキュメンタリー。ノンフィクション・ルポタージュを多数手がける野地氏が、関係者からの緻密な取材によって構成している。
世界初のデータセンターを立ち上げたIBM技術者、選手村の調理を担当した帝国ホテルシェフなど興味深い題材が盛り込まれている(それぞれ、技術マネジメントのケーススタディとして素晴らしくおもしろい内容)だが、一番目を引くのは第1章に位置づけられている公式ポスターのデザインを手がけた亀倉雄策の話だ。
まだグラフィックデザイナーという言葉すらなかった時代、亀倉は1964年東京大会のポスターデザインを打診された。その際、ロゴを作成すること自体を提案(これ以前の大会では、五輪マーク以外が使われたことはなかった)し、結果、それ以降の大会までロゴ作成が恒例行事となるほど、素晴らしいロゴのデザインを成し遂げた。
これを読んでどうしても思い出すのが、昨今問題となっている2020年東京大会のロゴパクリ事件だ。発表されるや否や、他の美術館のロゴとの類似が指摘され、いろいろ釈明したものの、結局廃案。
仕切り直しとなっているが、その際、ロゴの選考過程が問題であったという風潮がある。ネットでは「コンペ自体がデザイナーの身内で行われた出来レース」であることが問題視され、また、再選考することになったところ、すべての国民が納得行く透明性の高い審査をしよう、がいつのまにか合い言葉になっている。
本書が執筆されたのは2011年であって、今回のロゴ問題を念頭に置いてかかれたものではない。ところが、本書からは、上記の”改善策”が全く的外れである様子が読みとれる。
なぜなら、1964年のロゴ自体、亀倉氏自体が推薦した者が審査委員長であり、また選考は一部の美術の専門家のみで選考されているのである。
つまり、今回の改善策と真逆(もともとの方法)で選考されていたのだ。
むしろ、今回の”改善策”のようになることを、積極的に避けた様子がある。
亀倉氏自身の言葉として
ー「多数決でデザインの良しあしを決めるのは馬鹿げたことだ。とくに有識者とか市民代表の意見はいらない。あくまでも専門家が選ぶべきだ」
それが亀倉の信念だった。デザイン、建築、絵画といった数値では表すことのできない価値を評価するのは見識をもった専門家がやるべきことで、素人の出る幕ではないと考えていた。また、評価する人間の数を増やせば増やすほど、船頭多くして船、山に上るたぐいの弊害があると信じて疑わなかった。(第1章)ー
とされているほどだ。
この姿勢について評価は分かれるのだろうが、結果、誰の記憶にも残る素晴らしいロゴ(とポスター)ができあがったのは事実だ。
選考課程の問題でないとしたら、では、ここまで問題が騒がれた(ている)原因はなんだったのだろうか?
要は、単純に、今回��(旧)ロゴが”ぱっとしない”ことが一番の原因ではないか。
亀倉氏のロゴはシンプルな意匠を組み合わせたにも関わらず、「強盗が斧を持って窓から闖入する」ようなインパクト絶大なものだったのである。
一方で、今回のロゴは、そこまでの印象を受けるものではない。
(だからこそ「パクリ」と呼ばれる程度の評価だったのかもしれない)
結論。
芸術に多数決など必要ない。作品の出来不出来がすべてだ。オリンピックのような公的行事であっても同じ事だ。ふなっしーやおかざえもんが自治体の(準)公認キャラクターとして認知されていることからもあきらかだ。
2020年を待ち望む一般市民としては、選考過程のどうこうに関わらず、国家事業のロゴにふさわし素晴らしいロゴができあがるのを期待するばかりだ。
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東京オリンピックを開催するために、多くの“はじめて”物語が生まれた。赤い太陽のポスターに代表されるライトパブリシティ亀倉雄策による広告制作。記録を速報するための日本IBMの競技データオンライン処理システム開発。1万人に及ぶ選手に飲食を提供する帝国ホテル料理長村上信夫をはじめとする一流ホテル料理長による選手食堂運営。日本で初めて生まれた民間警備会社(現セコム)の会場警備。記録映画「東京オリンピック」制作のため市川崑監督のもとに集まった各社ムービーキャメラマンによる記録映像。勝見勝の統括によるデザイン計画とシンボル部会が作った世界初ともいえるピクトグラムの開発。この本には高度成長期に向かう時代に生きた人々の熱意が記されている。彼らは手探りながらがむしゃらに様々な工夫をしオリンピックを作り上げた。そしてその工夫は現代の我々の生活にしっかりと結びついている。今年は大きな災害に見舞われ、国や生活の在り方が問われている。そんな時、1960年代の彼らのバイタリティは参考に・・・いや、手本になると思う。良い時期に良い本に巡り会えた。
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からっとしたプロジェクトX。
【こんなところにSMAPが】本筋とはあまり関係ないけど、佐藤可士和の紹介で「SMAPのアルバムを手がけた」的な説明あり。
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1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック。
数多くの素晴らしいストーリー、伝説、名言がある中、本書は大会を裏で支えた人たちについて取り上げている。
赤い太陽のポスターをつくった人、競技結果の速報システムを構築した人、選手村の料理を提供した人、はじめて民間として警備組織をつくった人、記録映画を残した人、グラフィカルな案内板であるピクトグラムをつくった人だ。
戦後の荒廃を乗り越え、世界第二位の経済大国へ躍進する日本の象徴的なビッグイベントであった東京オリンピック。
無報酬で、まさに手弁当持参で立ち上げに尽力した人々。
「お国のため」という精神がまだ残っていた当時、未曾有のイベントを大成功に収めることができた。
果たして今の日本で可能なのだろうかと考えさせられた作品であった。
印象に残った箇所
・待っていても、何も起こることはない。待ちの姿勢が日本社会の元気を奪ったのだ。
・そこで活躍した人々は、従来の仕事のやり方にとらわれることなく、自己変革を繰り返しながら目的を達成した。他人任せにして、いつかは問題が解決する、いつかは景気がよくなると念じていた人間ではない。
・ワールドカップなどの国際的なイベントで大会独自のマークやロゴタイプが作られるようになったのも、オリンピック東京大会の先例があるからだ。
・ふところに残ったのはわずか5万円だ。しかし、金じゃない。オレは日本のために引き受けた。
・画家のタブロー(油絵)は、紳士が玄関から訪問するようなものだが、ポスターは強盗が斧を持って窓から闖入するようなものだ。そのくらいでないと大衆は注意を払ってくれない。
・「役人は前例踏襲が命」と言われているが、当時の役人、国鉄関係者の頭脳は躍動していた。
・村上は毎日、必ず現場にいるようにした。選手がどのように料理を気に入るか、食べ残ししている選手がいるかいないかをチェックするには食堂にいるのが一番だ。
・フランス人の料理人は日本人が手を洗わなかったり、下着姿で働いているんじゃないかと邪推していたのである。
・彼らがとかく「お国のため」と言ったのは、オリンピックは久しぶりに国家に身をささげる思いで働くことができた場だったからだ。
・「結局、誰が勝つのかは走ってみなきゃわからない。俺たちがやるのはどういう展開になろうとも、それなりの絵を撮ることだ。
・廃墟から立ち直った日本の先頭に立って働いてきた世代です。その人たちが総力戦で立ち向かったのがオリンピックでした。とにかく、先生やまわりの先輩たちは夜も寝ずに、神経を張り詰めて、ひたすら働いていました。
・日本人が大好きな絵文字の元祖がピクトグラムなのだ。
・著作権料を要求したら、ピクトグラムは普及しないと思ったのでしょう。
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東京オリンピックの裏方に関わった人達のプロジェクトXみたいな内容。
その時代にはまだ馴染みがない業界の人達を取り上げており、それぞれの業界の黎明期が描かれていて面白かった。
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競技そのものではなく、ソフト的な革新に焦点を当ててる点が新鮮。
あと7年、どんなことが起こるか期待させる。
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本書は、オリンピックという戦後最大のイベントの、裏方を担った
人々に焦点を当てたドキュメンタリーです。取り上げられるのは、
シンボルマークとポスターをデザインした亀倉雄策、デザイン統括
者としてピクトグラム(絵文字)の開発等を率いた勝見勝、史上初
のリアルタイム計測システムを開発した竹下亨(日本IBM)、選手
村の料理長を務めた村上信夫(帝国ホテル)、選手村の警備を請け
負った飯田亮(セコム)、記録映画の監督を務めた市川崑と報道キ
ャメラマン達、等々の面々です。
本書を読むと、東京オリンピックが、その後の日本社会にいかに大
きな影響を与えたかがよくわかります。競技場や高速道路、モノレ
ールや新幹線などのハードなインフラは勿論、コンピュータシステ
ムのようなソフトなインフラも東京オリンピックをきっかけに大き
く進化したのでした。オリンピックをきっかけに、企業は業務効率
化のためにコンピュータを導入するようになり、セントラルキッチ
ンを備えたファミレスが生まれ、セコムのような新しい企業が育っ
たのです。1964年のオリンピックは、日本社会にとって、イノベー
ションの実験場でした。
印象的だったのは、本書で描かれるイノベーションの多くが、業務
プロセスのイノベーション、つまり、仕事の方法に関するものであ
ったことです。亀倉雄策は、「日本人は時間を守るとか団体行動に
向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立
したものだ」と証言していますが、皆で力を合わせて効率的に、大
量のものを捌く、という仕事のやり方を、オリンピックで初めて日
本人は覚えたのです。東京オリンピックの勝利は、システム化、標
準化、マニュアル化の勝利だったと言っても過言ではないでしょう。
そうやって効率的に力を合わせることを覚えた日本人は、以後、集
団の力で高度経済成長を成し遂げるのです。事実、オリンピックか
ら4年後の1968年には、世界第二位のGNPを達成します。
それは同時に、効率的でないもの、標準的でないものを切り捨てる
風潮を生み出したとも言えます。道は舗装され、瓦屋根の家が消え、
「フーテンの寅さん」が姿を消した。東京オリンピックは、日本人
に「過去」を断ち切らせたのです。そして、「新しいもの」と「経
済効率」が金科玉条になる空気を生み出した。だからこそ、世界が
驚くような急速な経済発展を成し遂げることができたのです。哲学
者の内山節は、1965年を境に日本人はキツネに騙されなくなったと
述べていますが、この頃を境に、日本人の内面は、確かに大きく変
わったのです。オリンピックとは、それだけのインパクトをもたら
すイベントだったと言えるでしょう。
では、2020年のオリンピックは、日本人に、日本社会に、何をもた
らすことになるのでしょう。いや、何を実現すべく、私達は、オリ
ンピックという「世紀のイベント」に臨むべきなのでしょうか。
それは、恐らく、前回開発した「大量生産のためのシステム化���と
は逆のベクトルのものになるのではないかと考えます。この半世紀、
効率の影で切り捨ててきたものに光を当てる。標準化できないもの
と正面から向き合う。そのためのシステムやサービス、街のあり方
を考えていくということではないでしょうか。
だから、オリンピックよりパラリンピックのほうに井上自身は興味
があります。障がいという個性を抱えて生きる人達が限界に挑戦す
る場がパラリンピックです。その人達をどう「おもてなし」するこ
とができるのか。そのために、技術やデザインがやるべきことはい
っぱいあるはずです。仕事のやり方も、街の仕組みも、制度のあり
方も、まだ全然遅れています。前回のオリンピックが、集団に個人
が埋没する社会を生み出したとするなら、今度のオリンピックは、
多様な個性を認めながらも集団が維持される社会をつくるための挑
戦の場にすべきと考えますが、どうでしょうか。
絶版状態で手に入らなくなっていた本書ですが、今回の招致成功で
ようやく再販されました。しかも文庫で。これからの7年間の過ご
し方を考える上での必読書だと思います。是非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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「みんなの情報を均一にして、誰がいなくなっても代わりの者がす
ぐに担当できること。それがすなわち完成されたシステムであり、
システムとは人間同士のコミュニケーションなのです」(竹下亨)
食堂を運営する日本ホテル協会は仕入れた食材に利益を上乗せしな
かったし、全国の食品メーカーや善意の個人から寄付された大量の
食材も調理に使った。つまり、一般のレストランでは考えられない
上等な食事を安価に提供することができたのである。加えて、料理
人たちは全員、ただ働きに近かった。
料理関係者に限らず、東京大会の縁の下の力持ちになった人々は誰
ひとりとして金銭的な見返りを期待していなかったのだ。
東京オリンピックを経験し、料理人たちがもっとも変わったのは、
調理のシステムを覚え、その後日常の仕事を効率的にしたことだろ
う。
東京オリンピックが開催されたのは、戦争が終わって19年目のこと
だ。村上のような戦前の軍隊体験者は40代の働き盛りであり、ちょ
うど社会を切り回す役目の年齢となっていた。彼らがとかく「お国
のために」と言ったのは、オリンピックは久しぶりに国家に身をさ
さげる思いで働くことができた場だったからだ。そして、彼らより
はるかに若い人々はそうした年長者の気概を素直に受け止めて働い
たのである。
『オリンピックは人間の持っている夢のあらわれである』
これは記録映画『東京オリンピック』の冒頭に映る言葉だ。
デザイン室では、ひとつのものを仕上げるにも、仲間との議論が第
一歩となる。そして、議論する場合、誤解が起きないように、用語
を統一し、お互いの作業内容を知っていなくてはならない。自分の
得意な技術のコツも公開しなくてはならない。そうやって、作業を
標準化しなければ仕事が進まないからだ。デザイナーたちはそれま
で経験していた職人仕事とは100%違う作業の進め方を覚えたので
ある。
ピクトグラムが標準化されたのは東京オリンピックが世界初であり、
開発したのは日本のグラフィックデザイナーたちだ。
ピクトグラムの制作は12人のグラフィックデザイナーが担当し、
終えるまでに3ヶ月を要した。ひとりの担当が最後の1枚を描き上
げた時、勝見は全担当者を呼び集め、「諸君、まことにありがとう」
と丁寧に頭を下げた。その後、書類を配り、「みなさんのサインを
下さい」と言ったのである。
いったい、何のことかと福田が書類の中身を確かめたら、そこには
「私が描いた絵文字の著作権は放棄します」と記されていた。そし
て、とまどうグラフィックデザイナーたちに勝見ははっきり宣言し
た。
「あなたたちのやった仕事はすばらしい。しかし、それは社会に還
元するべきものです。誰が描いたとしてもそれは、日本人の仕事な
んです」
彼らが大きな仕事を遂行するため、試行錯誤の上にたどりついたの
がマニュアルとシステムを作ることだった。
彼らは自分たちでマニュアルを作った。体当たりで仕事にぶつかり、
悪戦苦闘したあげく、自分たちの体験を仲間に伝え、ミスが起こら
ないようにしたのがマニュアルだ。自分の恥だと思って、抱えてき
た失敗を他人に進んで公開することで、同じようなミスが起こるの
を防いだのである。つまり、システムとは自分が知らせたくないこ
とを他人に伝えることから設計が始まる。
システムが日本社会に根づいてから経済はますます成長した。(…)
一方で、「日本からは製品はやってくるけれど、日本人の目鼻立ち
はわからない」という声が聞かれるようになった。統制された集団
がシステムで働くようになった結果、日本人個人の顔を見えなくな
ったのである。
「もし、もう一度、東京でオリンピックをやるとしても、まさか墓
地の移転はできないでしょう。墓地を移転させたってことは、東京
が過去の歴史を自ら振り払ったことだと思います」(高峰秀子)
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●[2]編集後記
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何だかやたら忙しいけれど、思うように成果の出ない日々が続いて
います。焦ってもしょうがないけれど、年齢考えると色々焦ります。
残された時間はもう無限ではない。40歳を過ぎると、それがリアル
な実感に変わります。肉体の衰えも如実ですし。
そんな悶々とした思いを抱えて深夜に帰宅することの多い今日この
頃ですが、駅から家までの、街灯の乏しい暗い夜道を歩いていると、
近所の農家さんの畑の前で、虫の声に包まれるのです。さすがに鳴
き声に勢いはなくなってきたけれど、まだ相当の数の虫が鳴いてい
ます。奥には、村の守り神がいる里山の、黒���とした影が見える。
そういう場所があります。
その場所を通るたび、いつもふっと心が軽くなって、また頑張ろう
って気持ちが湧いてきます。虫に勇気をもらうというか。ああ、自
分も虫にあわれを感じる年になったかと感慨深いですがw、複雑で
多様な音色は本当に「脳に効く」感じで、凄く心地よくなるし、何
よりも、今、この瞬間だけを生きている生命の必死さみたいなもの
が伝わってきて、ちょっと感動するのです。東京にも虫はいますが、
やはり田舎のほうが種類も数も断然多いですね。虫の音色を聞ける
だけでも、引っ越した甲斐があったなと思います。
そんなふうに思いながら舗装されていない道を踏んで家に帰ると、
娘達の、これまた今だけを生きている人達の、屈託のない寝姿と寝
顔が迎えてくれる。これにも力をもらいます。子どもの寝姿は、何
というか神々しいですね。あぁ、美しいなと素直に思います。どん
なに生意気で我が侭でも、寝姿を見ると、この人達と出会えて良か
ったなと心から思い、感謝したくなります。朝になって、「キーキ
ー」と猿みたいに癇癪起こしている彼・彼女らは、ほんとムカつき
ますけどw。
そんなこんなでもう10月。今年も残りわずかです。
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何で知ったかは忘れたが、ずっと読みたかった本で、たまたま入った恵比寿の有隣堂にて文庫版を発見して購入した。
読んでいて胸が熱くなってくるような、人物に焦点を当てた内容で、2日程で読み終わった。
時代背景が違うとはいえ、オリンピック開催までの盛り上がりはこれほどすごいものなのか!?と感じる。七年後の東京オリンピックまで、どういった感じで日本国内では盛り上がっていくのか、楽しみである。
オリンピック開催に関して、賛否両論あるのかもしれないが、素直な気持ちで、この貴重なイベントに関わりたいという気持ちを思い起こしてくれる。
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これは面白かった。
東京オリンピックで活躍した選手をめぐる本ではなく、大会運営を裏で支えた人たちに焦点を当てた本だった。
大会を象徴するポスター、選手村の食事、大会記録のリアルタイムシステム、外国人にも視覚的にわかるように開発されたピクトグラム、民間警備会社など……今では普通だと思っていることが、この東京オリンピックを契機に開発されたり、一般化されたりしたという話が新鮮で面白い。そして、携わる人が皆が不眠不休で働き続けて、しかもすべてが画期的で高レベルという。
「まえがき」に「がむしゃらな情熱」という言葉が出てくるが、東京オリンピックを知らない世代である私が読んでも、その熱さは十分に感じた。この機会にインフラ整備など、いずれやるつもりだった関係ないものもついでに全部やっつけてしまえ、という無茶な感じも勢いがあってこそ。日本全体が、前へ前へ、とにかく「熱に浮かされたように」がむしゃらに走り続けた時代感を羨ましく思う。
東京オリンピックがなければ、日本経済の高度成長はありえなかったという話は知識として知っていても、こうしてその契機となった事物と開発者たちについて詳細に読んでみると、なるほどなあ、と実感する。
15年に渡る取材の上に、出版された本書は記録としても貴重ではないだろうか。面白い本だった。
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亀倉雄策氏の件が抜群に面白い。この部分だけを深堀して一冊にした方がよかったかも。その他は今ひとつ。特にセコムの部分は付け足しのような印象。
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東京オリンピック以前と以後で日本の姿が一変したというのが著者のメッセージ。日本人が時間に正確だというのはオリンピック以後のことだという。オリンピックという絶対的な〆切を守るため、建築業界、デザイン業界、飲食業界とあらゆる産業が時間に追われて仕事をしていた。そしてオリンピックに関わった産業のリーダーは「〆切を守る」ということを骨の髄まで染みこませた。日本は官僚型組織のため隅々までその精神が行き届いた。
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東京オリンピックの公式ポスターをデザインした男。その男の下で数々のデザインを手がけた男たち。選手村の食事を手がけたホテルの料理長。会場などの警備を任された民間初の警備会社。数々の記録処理を行うシステムを開発したコンピュータ会社。そしてこのオリンピックの公式記録映画の製作に関わった男たち。彼らは、華やかなスポーツの祭典を陰から支え、大会の成功の一翼を担った。亀倉氏らのデザインのエピソードと同じぐらいのボリュームで、他のパートについても読みたかった。