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「問題児枠」とか「バカ枠」で一定比率、「変なことをやる人間」を採用したほうが、システムとしてしては安全。組織成員が過度に標準化、規格化しないように、ときどき「異物」を混入させておくことは、リスクヘッジの基本です。
EUは日本の北方領土の主権をみとめていうます。2005年7月に、「北方領土は日本に返しなさい」という提案をロシアに向かって出している。当時日本のメディアは報道しなかった。報道したのは読売新聞のみ
教育の本質はおせっかいでしょう。
評価活動の目的は教育研究活動の活性化のはずです。評価活動のペーパワークに忙殺され研究も教育も疎かになってしまってどうするうのか
教育の成果は数値化できない。だから、教育を「投資と利益の回収」というスキームで論じるのは、はじめからお門違い
矛盾 韓非子
矛盾に耐えて生きる事で成熟する
学校の教師だけは、両親と違う価値観を告げなければならない
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神戸女学院大学文学部名誉教授・内田樹氏の最終講義(2011年1月22日神戸女学院)を含んだ講演集。
学生を聴者とした講演から、(大阪府)守口市教職員組合での講演も含まれており、文学、思想、教育の多岐に渡る思考に触れることができます。
特に「教育に等価交換はいらない」と題された守口市教職員組合講演会(2008年1月26日)に記された言葉は、子育て中の親にもすっと耳に入って、単に心地良いというだけではなく、その言葉の意味を中身を咀嚼して自分自身の中で醸成させる必要がある素晴らしい講演だと思いました。
普段、本にマークアップや付箋をして読むようなことはほとんどないのですが、読み始めて付箋が手放せなくなり、読み終えると付箋だらけになってしまいました。はじめての経験です。
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201205/
「隣人を愛する」というのは、隣人に自分の口からパンを与え、自分の服を脱いで着せかけ、自分の家の扉を開いて自分の寝台を提供する。そういう具体的な営みを意味しています。そして、そのような具体的な営みの裏付けがない限り、神を愛するという行いは達成しない。自分自身の今ここでの生身の身体が実現できるところから慈愛と正義をこの世界に積み増してゆく。永遠に実現されないかもしれないはるかな理想と、今ここで実践しなければならない具体的行為は表裏一体のものであり、一方抜きには他方も成り立ちがたいということを「愛神愛隣」という言葉は伝えている/
真に危機的な状況に投じられ、自分の知的ポテンシャルを総動員しなければ生き延びられないというところまで追いつめられたら、人間はにっこり笑うはずなんです。それが一番頭の回転がよくなる状態だから。上機嫌になる、オープンマインドになるというのは精神論的な教訓じゃないんです。追い詰められた生物が採用する、生き延びるための必死の戦略なんです。/
外で嵐が荒れ狂う暗い体育館で腕組みしながら、誰も来ない畳の上に座って待っていたときに、僕は覚悟したんです。人に教えるって、多分こういうことだろうって。誰も「教えてください」と言ってこないけれど、こちらが「教えたい」と言って始めた以上、教える人間はこのリスクを引き受けなければいけない。そう思ったんです。誰かが扉を開けてきてくれるまで、待ってなければいけない。畳を敷いて、準備体操をして、呼吸法もして、いつでも稽古できるように備えていなければならない。それが「教えたい」と言った人間の責任の取り方じゃないか、と。そのときに、教育というのはたぶんそういうものだろうと思ったのです。/
子どもに四書五経の素読なんかさせたって、学問的有用性はまったくないんです。では、いったい何を教えているのかというと、「子どもには理解できないような価値が世界には存在する」ということそれ自体を教えているわけです。「お前が漢籍を学ばなければならない理由を私は知っているが、お前は知らない」という師弟の知の非対称性そのものを叩きこんでいるわけです。極端な話、漢籍の内容なんかどうだっていいんです。子どもに「手持ちの小さな知的枠組みに収まるな」ということを殴りつけて教え込んでいる。子どもに「オープンエンド」ということを教え込んでいる。それさえわかれば、あとは子ども自身が自学自習するから。/
文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースはその『親族の基本構造』という本の中で、親族というのは、最低四つの項から成り立っているという仮説を立てています。ここに父と母と息子がいたとします。その三項では親族として不十分である。これに第四の項として、「母方の男の兄弟」つまり「おじさん」が加わらないといけない。(略)父親とおじさんはこの男の子(息子・甥)に対して、相反する態度をとるそうです。父親が息子に対してきわめて権威的で、親子の交流が少ない社会では、おじさんが甥を甘やかす。反対に、父と息子が親密な社会では、おじさんが恐るべきソーシャライザーとなって、甥に社会規範をびしびしと教え込む。男の子���前に二人の成人男子が「ロールモデル」として登場してくる。それぞれが彼に対して相反することを言う。一人の男は「こうしなさい」と言い、もう一人の男は「そんなことしなくていいんだよ」と言う。(略)この葛藤のうちに子どもは幼児のときから投げ込まれている、というのが親族の基本構造なんです。(略)子どもを成熟させるプロセスというのは、「葛藤」/
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内田樹さんの話しは、テーマに即して順序立てて書かれた単行本を読んでいてさえ、この話しがいったいどこにたどり着くのかわからない面白さがある。
それが、講演のような話し言葉での語りの場合、より一層アクロバシーになって、どう展開していくのか予想がつかない。それでも、まったくテーマや本筋とは関係のない話しをしているように思えても、雑談に思われた話しも含めて、きちんとすべての流れがまとまって一つの結論へと導かれるから不思議だ。
内容としては、単行本で既出の話しが多かった気がするけれど、話し言葉で語られていることによって、また全然違った視点から、より多面的に理解することが出来た感じがする。講演でもこれだけ面白い話しが出来るというのはすごいことだと思う。
判断力や理解力を最大化するためには方法は一つしかないんです。
それは「上機嫌でいる」ということです。にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態。それが一番頭の回転がよくなるときなんです。最高度まで頭の回転を上げなければ対処できない危機的局面に遭遇した経験のある人なら、どうすれば自分の知性の機能が向上するか、そのやり方を経験的に知っているはずなんです。悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。いつもと同じくらいまでは頭が働くかもしれないけれど、感情的になっている限り、とくにネガティヴな感情にとらえられている限り、自分の限界を超えて頭が回転するということは起こりません。(p.53)
経験的にわかるんです。「問題児枠」とか「バカ枠」で一定比率、「変なことをやる人間」を採用しておいた方が、システムとしては安全なんですよ。組織成員が過度に標準化・規格化しないように、ときどき「異物」を混入させておくというのは、リスクヘッジの基本なんです。みんなと違う視点から、みんなと違う射程でものをとらえ、みんなと違う基準で良否を判断するような人間が、どんな組織にも一定数いないとまずいんです。そういうのは平時は使い物にならないかもしれないけれど、危機の時には役に立つことがあるんです。必ず役に立つわけじゃないですよ。平時にも役に立たなかったし、有事の時にもさらに役に立たなかった・・ということも残念ながらあるかも知れない。それでも、打つ手がなくて手詰まりになったときに、思いがけない人間が、思いがけないソリューションを提案して、それでシステムが救われたというのは、「よくあること」なんです。(p.76)
さて、レヴィナスは僕に会ったときに、「もう本に書いたこと」を繰り返すのか、それとも今彼の脳内で生成しつつある知の運動を語るのか、どちらなのか。それは会いに行ってみないとわからない。それで会いに行ったんです。でも、そんなことは会って5秒でわかるんです。ものすごい勢いで話し始めたから。本を読み上げるどころか、今ここで新しい哲学書、単行本一冊分くらいを一気に語るんですから。僕はそのとき本当に感動したんです。(p.89)
一億三千万人の人間が、だいたい似たようなこ��を考えているというのは、システムの安定性という観点から言えば、たしかにほとんど理想的です。内乱も革命も、そんな国では絶対に起こらないから。でも、政治的な革命が絶対に起こり得ない国というのは、裏返して言えば、どんな分野でも、前例を覆し、常識を叩き壊すようなイノベーションが起こりにくい国ということでもあります。現に僕たちの国はそうなっている。みんなだいたい同じようなことを考えているから、喉笛を掻き斬り合うような対立関係は心配しなくてよい。でも、国内合意で安心しているうちに、世界標準からどんどん外れてゆく。イノベーティヴな才能が育たなくなっている。これはかなり深刻な事態です。僕が「息苦しさ」を感じると言ったのはそのことです。(p.122)
二つの異なる育児戦略が拮抗しつつ並存しているというのが、いちばんバランスがいいんです。両親が育児戦略を共有するのは子どもをむしろ生きにくくさせる。両親が口を揃えて「競争に勝て」と子どもを責め立てたら、子どもはストレスで壊れてしまう。逆に、両親共に「生きてくれさえすればいい」と言えば、やっぱり社会性が身につかない。(p.129)
医療と教育というのは、21世紀の「右肩下がりの日本」が、新たに産業を興すというかたちではなく、もともと日本人が具えているノウハウを最大限に発揮できるセクターなんです。でも、まさにこの医療と教育は、80〜90年代において「医療崩壊」「教育崩壊」というかたちでメディアと政治家と産業界から集中砲火を浴びて、回復不能な傷を負った。(p.146)
村上さんがフランス語ができたら、きっと『ル・グラン・モーヌ』も訳されていたと思います。そして、もちろん、『ル・グラン・モーヌ』にも先行作品があるんです。何だか知らないですけど、これはあるに決まっている。たぶん人類が物語を書き始めてからずっと書き継がれている「アドレッセンスの喪失の物語」があるのです。それは人間にとって必要な物語なんです。人間の住む世界に「骨組みと軸と構造を与える物語」というものがあって、これはそのような、人間が人間であるためには読まなければならない物語の一つなんです。太古から語り継がれてきた物語の鉱脈というのはほんとうにあるんです。そして、卓越した作家だけがその鉱脈に触れることができる。(p.162)
旗印を掲げるということは、「選ばれないリスク」を引き受けるということなんです。「みなさん来てください」という学校は「旗を掲げていない」ということです。旗を掲げるということは、この旗に呼応する人だけ来てくださいということです。そのために立てているわけですから。(p.186)
三浦雅士さんがこんな話しをしています。中学校の国語で万葉集や古今集を習う。意味がよくわからないままに、受験勉強だから丸暗記する。そのまま何年か経って、ふと風景を見ているときに、「しずこころなく花の散るらむ」とか「人こそ見えね秋は来にけり」なんていう言葉を呟いていることがある。その瞬間に初めて言葉と身体感覚が一致する。自分の中に記憶されていた言葉と、それに対応する身体実感が対になる。ふつうは感動が先で、それを「言葉にする」という順序でものごとは起こると思われているけれど、そうでもないんです。最初に言葉がある。その言語が���を意味するのかよくわからないままに記憶させられる。そして、ある日その言語に対応する意味を身体で実感することが起きる。神経衰弱でペアのカードが見つかったみたいな感じですね。たしかにその言語を自分は知っていた。でも、ただの空疎な言葉でしかなかった。実感の裏付けがなかった。それが、ある瞬間に言葉が意味を受肉することが起きる。(p.217)
僕の中で武道とユダヤを結びつけているのは、「アメリカを眼下に睥睨したい」というナショナリスティックな欲望ではないのか、と。まさかこの三十数年間、自分が全力を尽くしてやってきた心身の訓練とユダヤ研究の究極の目的が、「反米かよ・・」というので、かなりショックを受けたんですね。
でも、このいろいろなことをやってきたら、行き着く先がなんとも貧しい政治的な幻想だった・・という発見が、僕にとってはむしろ新鮮な感じがしたのです。「なるほど、人間というのは、ほんとうに歴史的・政治史的な文脈の中で生き死にするものだなあ」って。(p.275)
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内田先生が教職を退かれたそうで、去年の6講座を収録。私はまだほんの2冊しか読んでいないので、ここで「最終」を読んでもきっと昔からの読者とは感慨が違うのだろうなと思う。
それをよそにしても、素晴らしい講義を聴かせていただきました。
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「二次会」でいった本屋で平積みになっていたので購入。
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教育機関はおせっかいな、教えたたがりやの集まりであって、そこに集う学生は、多々ある学校の中から、自分が興味のある、共感の持てそうな、ミッションステートメントを謳う大学に共感してやってくるような状況が望ましい。
教育市場のニーズに迎合して、選ばれないリスクをとれない教育機関にはその役割はつとまらないだろう。多種多様な大きさ、教育方針の大学が多数並立していること、これが大切だ
学ぶということは、新たなものの見方、尺度を手に入れること。
商品カタログのようなシラバスが提示する、一覧的な学びのコンテンツを値踏みして、費用対効果に見合う授業だけをとる、学生の消費者マインドとそれをよしとするような、経済合理性を最優先に考えたような教育論、このために本来の学びが損なわれているのではないか。
最終章以外は、内田先生のほかの著書と似たような内容だけど、ついつい、うなずきながら読んでしまう。
やっぱり切れの良さ、語り口(言葉の選び方など)が好みだな。一度生で講演を聴いてみたいものです。
それにしてもアカデミックハイの感覚、わかるなぁ。
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大学教員が定年退官にあたって振り返りを行う「最終講義」というセレモニー。自慢話や、単なるおしゃべり、どうしようもないのも多いけれど、自分の業績の達成点と残した課題をしっかりと確認するものであったり、すばらしいものも多い。内田先生の最終講義は、過ごしてきた大学の建物それ自体の中に、学びの本質が隠されているという、興味深いお話だった。
他に収録されている講演も、それぞれおもしろい。「日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)」では、内輪向けの研究しかやらない学者を嘆き、「ミッションスクールのミッション」では、(学びたいではなく)教えたいというところから学校は始まっている。だから、教えたいことを教えるべきという主張が鋭く、どの講演も、話がどう進むのかわからないようなライブ感が漂うところも楽しかった。
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『同じように、ヴォーリズの校舎の扉の前に立つとき、扉の向こうに何があるか、廊下の先に何があるか、学生たちには事前には何も開示されていません。決意を持って自分の手でドアノブを回したものだけに、報奨が送られる。扉の前に立っているだけで一覧的な情報を請求しても、ダメなんです』ー『I 最終講義』
『ふつうは感動が先で、それを「言葉にする」という順序でものごとは起こると思われているけれど、そうでもないんです。最初に言葉がある。その言葉が何を意味するのかよくわからないままに記憶させられる。そして、ある日その言葉に対応する意味を身体で実感することが起きる』-『V 教育に等価交換はいらない』
わからないからこそ面白い。それは常に自分の価値観の中心にある考えである。内田樹には随分と傾倒しているけれど、これだけは内田樹に教わったわけではない。と言っても自分で辿りついた考えという訳でもないけれど。「去年マリエンバートで」という映画をみた頭でっかちな若者が、意味がよく解らなかったと少しシニカルに感想を述べた時、寺山修司がすかさずにそう言ったという。そのエピソードを知った時、少々大袈裟に言えば全身が痺れたような気がした。大きな「!」が頭に落ちてきたような感覚だった。
もちろん解ることには、もっとはっきりとした歓びが付随していると経験からもわかっている。しかしその境地へ辿りつけるどうかも解らないままに何かを懸命に考え続けるのは苦しい(そのじたばたが楽しいことだと一歩引いた自分は客観的に自分を観察して判断できるとしても)。それなのに何故そこへ留まり続けるのかといえば、これは何だか分からないけれど面白そうだと判断した自分が最初にいるからに他ならない(内田樹の言うアカデミックハイというのに似ていると思う)。何の証拠もないままに。
内田樹の言っていることは、結局のところ、その寺山修司が言ったという言葉に集約される、というか、尽きるのではないだろうかと思ってみる。もちろん内田樹は取り組みの名人で、相手にしている問題を開いて平面に伸ばす力が圧倒的にある。だからその取り組みの様をみているだけでも充分に面白いのであるが、それは彼の前を通り過ぎようとする何かわからないことに対して為された一連の身体の動きの軌跡に過ぎないわけで、本当に感心するべきは、通り過ぎようとする問題の内に何だか面白そうなことが埋まっていそうだから一つ考えてみようか、と問題をつかまえる感知力の高さの方であると思うのだ。
もちろんその後で繰り広げられる思考の過程から容易に察することができるように、内田樹の身体能力もまた随分と高いのは間違いないけれど。
ここに収められた講演の中で、内田樹は教育の問題を念頭に論を展開している。そしてその対比としてビジネスを引き合いにし、ビジネスでは数値評価や等価交換に基づく基本戦略でいいけれど教育にその考えは馴染まない、と説く。しかし、ひと夏の売り上げだけを目的とした商売ならまだしも、事業の継続性や見通しのつかない将来における事業の展開を求める限り、ビジネスの世界にも実は教育の問題はある。継続的に次世代は育ってこなければならない。また、誰も未来を正確に予想することなどできない以上、未知の問題に対処する柔軟な思考のできる人が必要というのは、高等教育の成果として求められているものと全く同じ問題として存在しているのだとも思う。
わからないから判断しない。そんな人ばかりの会社がどうなるかは容易に想像がつく。わからないからやってみようと面白がれる、あるいは、面白そうだと嗅覚のある人たちが、ビジネスの世界にだってやはり必要なのだ、と思うことしきりである。
『だって、面白いじゃないですか。自分でも自分が何を話しているのかよくわからないし、どういうところに話が落ち着いていくのかわからないままに、自分の口だけが意思とは無縁にぺらぺら動くわけですから』-『あとがき』
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講演集なので臨場感があり、とてもおもしろかった。
「あとひと押しされたら崩れる」と嘆く著者が、大学や学校の現在の有り様に対する提言は的を射たもの。教育を市場原理で商品化することがいかに愚かなことかわかる。
自分の武道への傾倒とレヴィナス研究の目的は「反米」だったとのではと、思い至る場面ではなるほどと思った。
★は4以上。
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サブタイトルに「生き延びるための六講」とあるように、2008年から2011年の(いくつかの)講演の中からの珠玉の(?)講演録。
内田先生のこれまでの「街場の○○論」シリーズと同様、専門分野であってもなくても、多角度から仮説を立てて、本質をいかに捉えるか、ということにはつくづく、「なるほどな」の連続。
教育行政の先頭集団のヒトビトには是非ともご一読いただきたいが、「貴重なご意見ありがとうございました」なんだろうな、きっと。
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最近内田樹さんの考え方が割とスピリチュアルな方向に行っている気がするな。いや、悪いことじゃないけど。
数値化できないものの大切さは、教育現場にいるとイヤと言うほど思い知らされる。
同じではないけれど、「何かいやな感じがする。」とか、数値にはできないような目に見えるわけではない違和感を察知する能力って
確かにある。
それを
「根拠はないけどなんかやだ。でも根拠がないからヤダと言えない。」
と思うのはやめようかと思った。もう少し自分を、自分の感覚を信じていいのだろうと思う。
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内田先生の学者についての見解を述べているのは、この本だけではないでしょうか。非常に面白い。フロントランナーは何を背負って、フロントラインに立っているのか?
読んでみてください。
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人文学、教育、学問、ユダヤと、内田樹の著作に慣れ親しんだものとしてはとくに目新しさは何も感じないいつものトピックといつもの主張たち。ただ、内田樹がなぜ武道を、ユダヤの研究をしているのか、まったく関連性のないように思えるこれらを追求しているのはなぜか、といったことについて語られていて。それがとても面白かった。というのは、わたし自身が自分の広がっていった興味方向をどう統合させればいいのか、わたしがこれを学びたいと思うのは、これに関心を持つのは、本当のところなぜなのか、そういったことを言語化出来ずに苦しんでいたから。内田先生からすれば学びに対する正しい態度なんだろうけど、まあ本人としてはあまりのもどかしさに大変苦しめられていて。笑 内田先生の語ることは、学びに対する姿勢も含めて、わたしが自分の問題を探り当てる、言語化する助けになるだろうと感じました。というわけでいま読んでよかった。
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ユダヤ人は世界中に離散しており、人種も様々である。イエメン国籍のユダヤ人、アメリカ国籍のユダヤ人が存在している。言語も異なる。宗教も一神教である。日本人は特定地域に集住しており、共通言語でコミュニケーションができ、生活習慣にも共通であり、多神教である。全てにおいてユダヤ人とは真逆にある。このように日本人とユダヤ人が同祖であることは考えにくい。
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2011.8.1 家の本
右肩下がりの日本を‥のところが面白いですね。北方領土、沖縄問題。僕らが知らないのは、知らせたくない、話題にしたくない人達が組織的に情報を出さないようにしてるからですね。今回の原発もそういうことですね。