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自由主義的平和論。ぼくにとっては当たり前の考え。これが世界中に広がれば。みんな読んでほしい。
単一のアイデンティティという幻想を掻き立てることで、暴力を煽る。
多文化主義の本質は混ざり合い。分離して保全しようとするのは複数単一文化主義と見なさなければならない。
ポストモダニズム文脈で安易に「西洋-反西洋」と分類したり、それを前提とした「脱西洋」という言葉を使ったりするのも考えものだと思った。
p.157に「1906年から1911年までに、日本の市町村の予算の実に43%が教育に費されていた」とある。
その直前、木戸孝允の教育思想「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」の引用は公文俊平先生の共著論文。
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アイデンティティを単一のものと見なす状況がもたらす弊害。
あまり読みやすい文章とはいえない。話もなかなかくどい。が、指摘されている点は確かにその通りだと思う。
私たちのアイデンティティは複数性を持っている。が、それがあたかも単一であるかのように認識され(あるいはそれが促され)、本来生まれるべき共感が損なわれてしまうということはあるだろう。
問題は、それをどうやって回避するかということだ。理性的であれ、というのは簡単だが、実際人は100%理性的でなどあり得ない。じっくりと考える人が一人ずつでも増えていけば、多少かわるのかもしれないが、それには気の遠くなるような時間が必要だろう。
その辺を、もう少し追求したい。
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印英にルーツを持つ経済学者、哲学者の著者が「アイデンティティとは、一人の個人が一つのアイデンティティを他の属性よりも優先して宿命的に「発見」して持つのではなく、複数のアイデンティティを理性によって「選択」することができるものだ」といったことを繰り返し説く本。単一的なアイデンティティ(特に宗教的な共同体への帰属)の植え付けが暴力を伴う対立にいかに簡単に利用されやすいか、文学や政治形態、数学・科学といった東西の「文化」「文明」の、決して対立的ではない複合的に結びついた関係性も持ち出しながら「西洋と非西洋」を脱力させる。
選択された複合的なアイデンティティとは、著者によれば「私はアジア人であるのと同時に、インド国民でもあり、バングラデシュの祖先を持つベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない(質問された場合に備えて言えば、「前世」も信じていない)。これは私が同時に属しているさまざまなカテゴリーのほんの一部にすぎず、状況しだいで私を動かし、引き込む帰属カテゴリーは、もちろんこれ以外にもたくさんある(P39)」といったもの。
インドは「ヒンドゥー文明」だというよくされがちな分類は、世界最大規模のイスラム教徒がいるという点を考慮していない大雑把な言い方だし、イスラムが排他的だというのも、他の宗教を認めたアクバル大帝と認めなかった他の皇帝の例を出してどちらでもあり得ると言う。現代で「西洋」の専売特許のように認識されている「民主主義」も、「自分たちの村はどんな立場の誰もが集まって発言をし、それを長老が聞いた」というネルソン・マンデラの言や聖徳太子の十七条の憲法がマグナ・カルタよりも600年も前だということで西洋だけのものではないと述べる。当然、ヨーロッパの自然科学の功績はイスラムやインドの数学がなければあり得ない。西洋・非西洋という「対立」を前提とした見方が間違っているのだと。
著者は特に、イギリスへの移民の共同体のためにイスラム教の学校を作るべきというような、「宗教」を第一意・第一義の帰属共同体とすることに異議を唱える。この根底には「イギリスを代表する食べ物はカレー」とイギリス人が言うといったように、移民がもたらした「文化」がすでにイギリスの文化となっている現状で、宗教だけが唯一のアイデンティティではないということがある。
セン先生の言わんとすることはとても普遍性のあることではないかと思った。
日本列島のことを考える。
例えば、部落や在日コリアンの子どもたちは宿命的なアイデンティティ以外の選択肢と出会う機会がない(少ない)のではないか。あるいは、文化的・経済的な境界線とずれた地方自治体アイデンティティや政治党派的アイデンティティによる囲い込み(「市民」と非「市民」の発言の重みの違いとか、フェミ��ストや「文化知識人」なら反原発、反戦、反企業で当然、とか…)。
開発の達成度は所得水準ではなく、自由の達成度によって評価されれるべき、それによって人間が潜在能力(ケイパビリティ)を発揮できるし、それが発揮できないのが「貧困」だというセン先生の考えとともに、「魚の目」の肥やしになった。
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アマルティア・センは「アジア人であると同時に、インド国民でもあり、バングラデシュの祖先を持つベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない(質問された場合に備えて言えば、「前世」も信じていない)。
これらは著者の属するカテゴリーの一部分でしかない。その中のどれに帰属意識を感じるかは選択の問題だ。
一人の人間を一つのアイデンティティに押し込めようとする還元主義を批判する。インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立やルワンダの虐殺は一人の人間の多様な側面を切り捨て、一面的な属性を押しつけた結果だ。
「一つの集団への強い―そして排他的な―帰属意識は往々にして、その他の集団は隔たりのある異なった存在だという感覚をともなう。仲間内の団結心は、集団相互の不和をあおりやすい」
ヒトラーがユダヤ人を過度に単純化してののしったように、昨今日本でもよく見られるヘイトスピーチも特定の集団を均一化し、さまざまなアイデンティティを無視して憎悪をあおる。
それらに対抗するために、「お互いが持つ多くの共通したアイデンティティを確かめられる世界」を心に持ち続けたい。
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「人間のアイデンティティを『単眼的』に矮小化することは甚大な影響を及ぼす」
アマルティア・センの関心は一人ひとりの個人にある。それが氏の人間の「生存」と「生活」を重視する「人間の安全保障論」の根柢にある。故郷インドで経験した飢餓の経験や、ムスリムだというだけで目の前で殺されたカデル・ミアとの出会いがその出発点なのだろう。多発する紛争の多くや残虐行為は、選択の余地のない唯一のアイデンティティという「幻想」を通じて発動・拡散・継続させられている。
本書は憎悪をかきたてる「アイデンティティ」をキーワードに、テロと暴力の連鎖にどう向き合ったらいいのか、ひとつの処方箋を示した渾身の一冊だ。
アイデンティティとは、自分を自分と認識する際の拠所のこと。ふだん私たちは様々なアイデンティティに織りなされ一人の私を形成している。性別や年齢、職業や居住地、そして所属する国籍や文化など単一の事象に還元されて生きているわけではない。時と場所、そして優先順位によってその強弱を選択することで、生活を柔軟で潤い豊かなものにしているのが日常生活だ。
アイデンティティ意識は人間と人間を接続させる連帯感を形成するという意味ではプラスの側面を持っている。しかしそれはとりもなおさず他者への排除としても機能する。人とつながる感覚は容易に仲間と敵の分断へと転変するからだ。本来人間は複数のアイデンティティを選択している。にもかかわらずそれが一元的な単純化へ傾くとき、それは世界と個人を分断する。センはこの「単一帰属」という「幻想」に断固として反対するのだ。
現代の世界における紛争のおもな原因は、人間は宗教や文化、所属する民族にもとづいてのみ分類できると仮定することにある。本書でセンは自らのアイデンティティをめぐる自己との対話ともいうべき腑分けをしながら、狭隘な単一帰属幻想を打ち壊そうと試みる。そしてその叙述が心をうつ。そもそも全てのアイデンティティなど「幻想」にすぎないとポスト・モダンを気取るわけでもなく、グローバル化の必然に無力な沈黙を決め込むわけでもない。人間の矮小化に抵抗するセンの力強さはその現実主義にあるだろう。単純化を回避するためには常に複数性への選択へと眼差しを向けなければならない。
アイデンティティに起因する暴力の連鎖は、現代日本においてはどこか無縁な対岸の火事のような感覚が広く浸透している。しかし一皮剥けば、決して他人事でない。本書を読むことで自身を点検するひとつのきっかけになればと思う。
「人間のアイデンティティを『単眼的』に矮小化することは甚大な影響を及ぼす。人びとを柔軟性のない一意的なカテゴリーに分類する目的のために引き合いにだされる幻想は、集団間の抗争をあおるためにも悪用されうる」(アマルティア・セン)。
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アイデンティティは選べる。
選べる状態が「人間開発」である。
潜在能力を発揮させるために教育はある。
複数単一文化主義ではなく、
ひとりの中にある多様性を見つけること。
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アイデンティティは与えられたものではなく、理性によって「選択」できるのだ。(巻頭)
世界の人々を文明ないし宗教によって区分することは、人間のアイデンティティに対する「単眼的」な捉え方をもたらす。p2
運命という幻想が、なんらかの単一基準のアイデンティティ(およびそれが意味するとされるもの)が醸しだす幻想であった場合はとくに、[見て見ぬふりをする]怠慢(オミッション)だけでなく、[自ら手を下す]遂行(コミッション)を通じて、世界中の暴力を助長することになる。
→アイデンティティの負の面に着眼p5
人を矮小化することの恐るべき影響とはなにかを考察することが、この本の主題である。そのためには、経済のグローバル化・政治における多文化主義・歴史的ポストコロニアリズム・社会的民族性・宗教的原理主義・および国際テロリズムといったすでに確立されたテーマを再検討し、再評価する必要がある。p9
排他性がもたらす災難は、包括性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである。p18
アイデンティティは暴力や恐怖の源であると同時に、豊かさやぬくもりの源にもなる。p19
【文明の衝突論に関して】
たちまちのうちに多面的な人間を一元的な存在へと単純化し、何世紀ものあいだ国境を越えた豊かで多様な交流ー芸術、文学、科学、数学、娯楽、貿易、政治など、人類共通の関心事ーの場を提供していたさまざまな関係を封殺するものとなる。世界平和を追求するための善意の試みも、人間世界を根本的に幻想によって解釈した試みであれば、きわめて逆効果となるだろう。p29
多様なアイデンティティはお互いを縦横に結び、硬直した線で分断された逆らえないとされる鋭い対立にも抵抗する。お互いの違いが単一基準による強力な分類システムのなかに押し込められれば、われわれが共有する人間性は苛酷な試練を受けることになる。p35
【アイデンティティが作為的に生み出される例として】
競争試験がまさにその好例である。(300番目の入学志願者はまだ大丈夫だが、301番目は不合格になる)。つまり、社会に差異があるのは、単に差異を考案しているからなのだ。p50
コミュニタリアニズムのアイデンティティと選択の可能性 p56
マイケル・サンデル「コミュニティは、人々がその一員としてなにをもっているかだけでなく、彼ら自身がなにであるかをも説明する。それは彼らが選んだ(自発的な付き合いのような)関係ではなく、彼らが発見する愛着であり、単なる属性を超えて、彼らのアイデンティティの構成要素となっている」p61
おそらくより重要なことは、われわれが同時にもつさまざまなアイデンティティに優先順位をつけるうえで、十分な自由があるかどうかだろう。p63
人生は単に運命で決まるわけではないのである。p65
文明論的な手法は、単一基準の分類という仮定に無理なかたちで依存しているうえに、分類されたそれぞれの文明内の多様性を無視し、異なった文明間にある幅広い交流をも見逃しやすい。p75
宗教的アイデンティティからのみ織り上げられた単一基準の帰属という観点で���々を分類することから生じ、恐ろしいものになりうる結果である。これは現代社会における世界的な暴力とテロの本質と力学を理解するうえで、とりわけ重要になる。世界を宗教によって分割することは、世界の人々や民族間の多様な関係を大きく誤解するだけではない。それにはまた、特定の個人間の相違を、その他あらゆる重要な関心事を忘れさせるまでに拡大する効果もある。p113
多様なアイデンティティを認識し、宗教的帰属を超えた世界を認めることができれば、信仰心のあつい人にとっても、われれが暮らすこの問題の多い世界になんらかの違いをもたらす可能性があるだろう。p116
【哲学者アキール・ビルグラミの論文「ムスリムとは何か」】
つまり彼らはおもに西洋人とは異なるという観点から自己のアイデンティティを定義するように仕向けられているのだ。こうした「他者性」の一部は、文化的・政治的ナショナリズムを特徴付けるさまざまな自己認識として出現するだけでなく、その反動的な見解が原理主義に寄与することすらある。p132
リーとその支持者の論文に書かれたアジア的価値観の分析は、西洋こそ自由と人権の発祥の地だとする西洋の主張に対する反動的な風潮の影響を明らかに受けている。p137
文化とはなにかはっきり理解しないまま、文化の支配的な力を運命だと受け止めているとき、われわれは実際には、幻想の影響力に囚われた空想上の奴隷になることを求められているのだ。p148
文化決定論に頼りたくなる誘惑はおおむね、高速で進む船を文化の錨でつなぎとめようとするような望みのない形態をとる。p159
社会的な抑圧が文化的自由の否定となりうるように、自由の蹂躙は、共同体の構成員にほかの生活様式を選びにくくさせる大勢順応主義(コンフォーミズム)の横暴からもまた、もたらされるのである。p164
シェイクスピア「生まれながらにして偉大な人もいれば、努力して偉大になる人もいるし、偉大であることを強いられる人もいる」p167
反グローバル化による批判こそおそらく、今日の世界において最もグローバル化した倫理運動なのである。p174
【グローバル経済にみられる不平等】
正すべきは重大な怠慢オミッション(やるべきことをやらない過ち)に加え、基本的なグローバル正義のために取り組まれなければならない遂行コミッション(すべきでないことをする過ち)による深刻な問題もある。p193
【多文化主義ふたつのアプローチ】
1. 多様性の促進そのものに価値を見出して、それに専念する方法
2. 論理的思考と意思決定の自由に焦点を当て、文化的多様性は関係する人々ができるだけ自由に選べる限りにおいて称賛するものだ、というもの p208
インド・アクバル帝「信仰は理性に優先することはできない」p223
【単一基準のアイデンティティを培養し、その自己認識を殺害の道具に変えるためになされること】
1. それ以外のあらゆる帰属と関係の重要性を無視
2. 「唯一」のアイデンティティの要求をことさら好戦的なかたちに再定義すること p243
コミュニタリアニズムの思想でも、少なくとも一部では、アイデンティティへの建設的なアプローチとして、人をそ��人の「社会的文脈」のなかで評価しようとし始めたことは興味深い。p245
【コスモポリタンとして】
グローバルなアイデンティティの要求を考慮する必要性を認めることは、地元や国内の問題に多くの関心を払う可能性を排除するものではない。優先順位を決める上で論理的思考と選択が果たす役割は、そのような二者択一の形態をとる必要はない。p251
【以下、解説】
センにとってアイデンティティとは一個の自由な個人が有する、多面的・複層的な概念であり、個人が単一的(たとえば文化・宗教のような)「アイデンティティ」に拘束されるのではなく、複数のアイデンティティのなかから、個人が理性により「選び抜く」ものである。p259
(マイケル・サンデルをはじめとする)コミュニタリアンにとってアイデンティティの「認識」は、「発見」から出発しているのに対し、センにとっては「選択」から出発している。p260
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アイデンティティは自由に選択できる。
一つのアイデンティティしか持てないようにさせられていることが問題。
「文明の衝突」に関する検証が良かった。
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今回紹介する本は、ノーベル経済学賞を受賞した学者さんが書かれた本です。
アイデンティティと言うと、民族紛争や宗教対立とか、何かと国際政治というイメージで、難しい、縁がないイメージがあると思います。
実際、この本では国際社会の中で起こる様々な対立をどのように解消するかということがテーマです。でも、この本で用いられる、「アイデンティティは理性で選択できる」ということは、私達の日常、人生の中で活かせることだと思いました。
そういうわけで今回は、「物事を様々な視点で見るために」をテーマに、この本を紹介したいと思います。
そもそも、アイデンティティとはなんでしょうか。
私達は、様々な面を持っています。会社員としての自分、サークルの一員としての自分、日本国民としての自分、友人(恋人)としての自分、家族としての自分、人間としての自分――。自分をどの面で見るか。この自己認識のことを、この本では「アイデンティティ」としています。
何かものを言ったり、行動したり、考えたりする時は、必ず、何かしらのアイデンティティの下にそれをしています。アイデンティティは、自らに価値観や行動の指針、「ものの見方」を与えるものだからです。「私はこの人の母親なのだから、叱らないと」であったり、「私はこの会社の社長なのだから、辛いがこう決断しよう」であったり。アイデンティティは、日常生活において身近に感じることができます。
様々な面、アイデンティティを持っているということは、物事を多角的に見ることができるということ。これは、とても良いことです。物事を色んな立場から見つめるとことで、良い面、悪い面、自分の人生に行かせる所が見えてきます。人と衝突した時も、見方を変えれば和解、共生の道が見えてきます。1つのアイデンティティだけで物を見るのではなく、その時々に合わせたアイデンティティを通して物を考える。「アイデンティティを理性で選択する」状態とはこのことだと思います。
この状態を維持するのは、簡単に思えますが意外とそうでも無かったり。身の回りで、会社で、よくケンカする人たちがいたとして、「あの人たち、目的は同じなんだからもう少しうまく折り合えないのかなぁ」と思うこと、ありませんか?
このとき、人は単一のアイデンティティでしか物事を考えられなくなっています。つまり、「相手を憎む自分」にアイデンティティをもっているわけです。この延長線上に、民族紛争や宗教対立があると思います。
別に、喧嘩の場面に限られません。私達は、日々たくさんの情報の奔流にさらされている中で、耳触りのいいスローガンに載せられたり、過激な言葉に載せられて特定の価値観を知らず知らずに刷り込まれたり、押しつけられたり、思いこまされたりしています。そして、いつの間にか相手が望んでいる価値観(もっといけばアイデンティティ)で物を見るようになっていることがあります。
対処法としては、「アイデンティティを選ぶ理性」を鍛える他ないと思います。具体的2つあげれば、外からの情報を元に物を判断する時は、人から与えられた���えに乗るのではなく自分で考えて結論を出す。それと、日ごろから異なる価値観に触れ、自分を客観視する努力をする。なんか、どっかで言ったようなフレーズだなぁと思ったら、これって、感性・知性を鍛えるプロセスと変わらないですね。
人間関係は、人を豊かにもしますが、自分を食い物にする人間関係があることも確かです。自分にとって良い人間関係を築くためにも、この本は一度読んでほしいです。
まとめます。今回シェアしたかったことをもう一度。
・私達は、複数のアイデンティティを持ち、その時々にあったアイデンティティをもとに物を捉えることができる。
・その状態を維持するために、「アイデンティティを選ぶ理性」を鍛える。
【お勧めしたい人】
・人間関係を広げようと思っている人
・最近誰かと対立している人
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センの著作は色々読んだけど、その中でもかなり読みやすく、一般向けに書かれた本だと思います。とはいえ、センの理論や文章は難解なので、訳者が「上手に」訳したのだろうと思います。どの程度意訳されているかは、原著と照らし合わせて読んでみないと分かりません。
人は、本来複数のアイデンティティを持っているにも関わらず、殊に宗教や文化などを唯一のアイデンティティであるとすることで、画一化され、単純化される。その結果として、対立関係が容易に生まれ明確化され、暴力が発生する。例えば、A氏は複数の帰属集団(インド国民であり、ベンガル出身であり、男性であり、経済地位では中間層に位置し、教師であり、ヴェジタリアンであり、ムスリムである)があるにも関わらず、ヒンドゥー・ムスリム間の対立が先鋭化すれば、他のあらゆるアイデンティティが無視され、ただ「ムスリム」という単一のアイデンティティがまるでA氏の全てを語るアイデンティティであるかのように扱われ、ヒンドゥーの攻撃対象となる。
本書におけるセンの主張は「アイデンティティに先立つ理性」という一言に代表されるでしょう。センは、人間は複数のアイデンティティを持つこと、そして、場面に応じてどのアイデンティティを優先させるか理性的に「選択」できることを主張します。宗教や文化が生来的なもので、いずれのアイデンティティにも優先されるということはなく、人は自ら理性を通じてアイデンティティを正当化し、必要に応じて拒絶することができるといいます。それが「人間の矮小化」への抵抗であり、人間が主役として考える自由を回復する術なのです。
センが生まれたベンガルのこと、そして、セン自身の少年時代の体験(ムスリムというだけでカデル・ミアはセン少年の眼前で殺された)などから、センの理論・思想のルーツを垣間見ることもできます。センの著作の中では読みやすい一冊だと思うので、おすすめします。
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センの言うアイデンティティとは、「わたしがどのようなわたしであるか」ということではなく、
「わたしはどのようなわたしたちであるか」ということだったりする。
ちなみにわたしは無宗教者で、日本国籍をもち、日本語を話すが、
英語も話し、フランス語が多少読め、ドイツ語も少しは読め、
なにやら駄文を書いて生活し、高校の時は同性とつきあっていた経験があり、
しかしどうやらヘテロセクシャルらしく、ゲイのコミュニティに友人がたくさんいて、フェミニストで、
大学にはかろうじて進んだが、実は中学のとき不登校だったので相当バカで、
ピアノが少し弾けて、ベースはわりと弾けて、ダンスミュージック・マニアで、クラシックも大好きで、
ガスオーブンを持つほど料理が好きで、調理器具フェチで、ワインが好きで、ラムが好きで、
アニメを愛していて、フィギュアのコレクターでもあり、本とレコードの収集も趣味で、
マルタン・マルジェラとマーガレット・ハウエルが超好き。
つまりわたしは、無宗教者のわたし、日本国籍を持つわたし、
日本語を話すわたし、英語を話すわたし、
フランス語が多少読めるわたし、ドイツ語が少しは読めるわたし・・・などなどの
複数のわたしたちが束ねられたもので、
つまりわたしはいつでもどこでもその場に応じてデザインすらできる。
どういうソサエティを根拠地とするか、選択することができる。
このようなわたし/わたしたちについて語ることが、それほど無価値であるかどうか。
そんなことはない、とセンは言う。
他者との差異を許容する(寛容に接する)には、まずなにより、
自己の複数性、複数性によって支えられたわたしのアイデンティティを認識することが不可欠だから。
とまあこんな感じで、世界をどう認識するべきかということを具体的に語り始めていく。
こんなん当たり前のことなんだけど、当たり前じゃないんだよな、この世界は。
翻訳も読みやすくてとてもいいと思う。
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もし、あなたが生まれ変わるとして、この社会に生まれ変わりたいと思うだろうか。もしそう思わない人がいるなら、その社会は不公正なのであり、改善されなければならない。「複数性」を認識することは、その一歩になるかもしれない。異なるものを、認識し、驚き、学び、尊敬し、共存していこうとする多様性への希望である。私たちはお互いに同じではないかもしれないが、お互いの異なり方もまた様々なのだから。
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オススメの理由
これから就活を本格的にはじめる方々に聞いていただくということで、就活しながら座右に置いて何度も読み返したくなるような、でもいわゆる就活本やビジネス本ではないような、そんな本を選びました。
難しくも、面白いです。
推薦者のページ
⇒http://booklog.jp/users/harukat
⇒http://book.akahoshitakuya.com/u/82889
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『われわれはいろいろな方法で、多くの異なった集団に属しており、こうした集合体の一つひとつが潜在的に重要なアイデンティティを個人に与えうる。人は帰属する特定の集団が自分にとって重要かどうか決めなければいけないだろう。それを決める際には、次の二つの、相互にかかわりつつも異なった問題が関係してくる。(1)自分にとっていま関連性のあるアイデンティティはなにかを決めること、および(2)これらの異なったアイデンティティの相対的な重要性を考えることだ。いずれの作業も、論理的思考と選択が要求される。』センはアイデンティティについて、自分で選択し、論理的に考える責任を問うが、論理的思考による選択可能性が暴力によって抑圧されてしまうことに問題があるから、なかなか難しいな。
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本書に通底しているのは、多様性の重要さだ。
そのことを、著者は手を変え品を変え、何度も繰り返しているように僕には読める。
僕たちの素朴な実感として、アイデンティティとは固有の、唯一のものだ。「わたしはわたしである」それは当然のことのように思える。
でも著者は言う。それは危険な思想なのだ、と。
特にアイデンティティが、「ある特定の集団の一員である」ことに押し込められた場合その危険さは最高潮に達する。
そのこと以外のあらゆる属性を無視した結果が、ナチの暴虐であり、現在も止む気配のない民族紛争であるわけだ。
だから僕たちは、僕たちが持っている「属性」の多様さをまずは認識しなければならない。
そのうえで、アイデンティティを「選び取る」こと。と同時に、そのアイデンティティを絶対視しないこと。
そうすれば、世界は今よりもちょっとだけ「まし」になる。そんなふうに著者は訴えている―――ように僕には思えるのだ。
最後に、僕の心にもっとも刺さった一節を紹介。
「1930年代の残虐行為が、ユダヤ人であること以外のアイデンティティを思い起こす自由と能力を、ユダヤ人から永久に奪い取ったのだとすれば、長期的にはナチズムが勝利したことになるだろう」