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収録作品一覧
林中書 | 5−30 | |
---|---|---|
秋風記・綱島梁川氏を弔う | 31−43 | |
卓上一枝 | 44−52 |
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紙の本
ヨーロッパの「外」としての日本
2009/02/04 22:15
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2008年11月の復刊。もちろん表題作などは既読だったわけだが、これには大逆事件に際して幸徳秋水が獄中から弁護士に送った手紙に啄木がつけた未完の注釈というのが収録されており、それが読みたくて買ったのだった。
書簡はほぼ幸徳秋水が無政府主義について弁護士に向けて説明する朴訥としたもので、啄木は理知的にクロポトキンなどを参照して注釈をつけており、中途でブツ切りになっているのがかえって生々しい。
忘れている人も多いが明治の自然主義文学というのはいわば明治の理想の挫折から生まれた文学による思想運動であり、文学と文学の外側の関係が近代日本で最初に思潮として問われたのだとも言える。おそらくほとんどの芸術運動/思潮がそうであったように、自然主義文学もたとえば藤村、白鳥、秋声、花袋などによってその内実は大きく異なっており、論争は多角的に分析される必要があるのだが、ともかくこれは反自然主義(漱石、鴎外、荷風など)も視野に入れて再考されるべきなんだろう。
啄木の論集は最初高山樗牛経由によるニーチェへの一面的な傾倒(「超人」幻想とでも言ったもの)が見られるが、しだいに「現実」の複雑な構成に視点が移動していく。松田道夫の解説によるとそこには樗牛の盟友だったという姉崎嘲風の西欧(ドイツ)批判があった、というのだが、引用されている嘲風によるドイツの反ユダヤ主義への注目など、「日本(外)から見ること」の優位性が際立っていて、しかしそこから何かを「生み出す」のがどれほど難しかったか、を、啄木の生涯は教えてくれる。「見えている」だけではどうしようもないのだが、しかしそもそも「見えない」ではもっとどうしようもない。また「見えている」のか「見えているような気がする」だけなのかは本人にはわからない。啄木のジレンマはまったく他人事ではない。