紙の本
労働観、余暇観の変遷を見ながら、私たちが生きていく上での支えは何かについて考えていきます!
2020/03/26 11:22
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、現代社会における労働観及び余暇観とそれを巡る歴史を丁寧に解説しながら、私たち人間の活動の未来像を探る画期的な一冊です。同書の著者によれば、従来は、「仕事はつらく、遊びは楽しい」というように、「仕事」と「遊び」は明確に二分されていましたが、現在は、その境界が非常にあいまいになってきていると主張されています。では、私たちの人生を支えているもの、楽しみとは一体何なのでしょうか?何を楽しみとして生きているのでしょうか?同書では、こうしたことを労働観と余暇観の変遷などを通して究明していきます。
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烏兎の庭 第一部 7.21.02
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto01/yoko/darenoy.html
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以下引用
じぶんで意味を与えないことには意味が見いだせないというのは、ひとつには、じぶんの存在が他人にとってじゅうぶんに意味のあるものになっていないということを意味する。そのように問わないでいられないというのは、いまのじぶんの生活のどこかに、そのような問を発生させてしまうような空白がある
もっともやりがいのある仕事に身をゆだねている人びとには、レジャーがきわめて少なく、退屈な仕事に従事している人々、はもてあますほどのレジャーに身をゆだねている
まじめかふまじめか、仕事か遊びか、労働か余暇か、清算か消費か、紋切り型の二者択一の中で、遊びからしだいにまじめさが欠落していった
余暇という大きな枠組みがつくられたことによって、休息や気晴らしさから自己啓発まで、昼寝や飲食からスポーツ、芸術まで、一つの同じ種類の活動としてひとくくりにされた。
スポーツは健康を害さない程度のほどよい楽しみに変質し、学問や芸術もまた、人生の適当な時間におさまる程度の安楽な活動に薄められる
遊戯としての遊には同時に、遊隙、つまりゆるんだ空間の遊び。
遊びとしての身体が、いつか【わたし】による身体の専制支配という幻想(あるいはわたしの存在の幽閉プロセス)を解除して、いつも自他の境にばかり目をやっているわたしたちを、私が生まれたよりももっと遠いところへ、そこではまだ可能が可能のままであったとことにまで連れ出してくれる。そのときに、はじめてわたしたちは、ただぶらぶらと手をつないで歩くという、ひとのあいだの遊びをじぶんたちの身体に呼び戻すことができる
遊びは、歯車のそれがそうであるように、構造体の隙間であり、それを内臓してこそ構造体が作動し始めるのであるから、その活動は「遊び」がいかに設置されているかにかかっているといってよい。人間の活動についていえば、「遊び」にこそ、アイデンティティを揺さぶるような、あるいは根拠をかけるような真剣さがある。ときに厳粛さすらある。こわばりつつある自分の存在、それをほどく力こそ「遊び」というものなのではないか
⇒自分のやりたい「遊び」もこれだな。労働外なのだけれど、だからゆえに、真剣に時を過ごす意味での「遊び」を創造したい。
遊びという間を欠いた仕事が、労働、労苦としての近代的労働なのではないか。先ほども確認したように、「手ごたえ」とか「真剣さ」は、仕事にだけでなく、遊びにも同じように要求される。それを欠いた遊びは退屈である。だから仕事と遊びは内容的に区別されるものではなく、労働にもなれば、愉しみにもなる。遊びはかならずしも、快楽主義的であるわけではないし、スポーツや勝負事のように、あるいは研究やゲーム制作のように、集中した作業と愉しみにとがごとんど区別のつかない仕事=遊びも数多くある。
仕事か遊びか、労働か余暇かという二者択一が問題ではなく、同じ行為がどういうきっかけで楽しみになり、どういうきっかけで労苦になるのか、その転回軸を見定める必要がある
遊びは厳密な意味ではリクリエーションでは��い。労働のための手段ではない。それは仕事がつねに内蔵しているはずのものである
時間の空白をたえず埋めておかないと落ち着かない。そういう息しききった余裕のない生活態度のことを、前章では、時間感覚という視点から「前のめり」の姿勢として規定した。目的を未来に設定し、その未来のほうから現在を逆規定する未来の目的の実現のためにいま何をなすべきかを意識するもの。これは、仕事が何かをめざしておこなう目的論的な過程としてとらえられているということ。
★何もめざさない仕事のほうが、想像するのがむずかしい。ただ、何かをめざしてということと、そのための行動がすべて特定の目的-手段の連関のなかに閉じ込められているということとは異なる。
有用性-ある目的のために
有意味性-それ自体意味のある理由のために
余暇の思想は、行動のディスシプリンを軽視。スポーツも芸術も、本来労働以上に厳格な規律を持ち、その過酷さに備えた営み。しかしそれが、ほどほどになってしまうことで、明日の労働という目的のための余暇になった
逆にぴちっと隙間のない同一性というのも、ひとがその中では息苦しくて生きられないもの。ちょうどふたりの会話を録音してきくと、その場では、とても緊密に絡み合い、交感されていたとおもわれるのに、ほとんどばらばらで、ころころテーマもかわっている、一貫した対話になっていない。それを深いコミュニケーションとしている。遊びは、そういうもの。
遊びの存在とは、ふたつの違う考え方のスタイル、ふたつのちがう感じ方のスタイル、それらがふれあい、混じり合う経験のこと。同じ作業をしていても、それが感じられるときに、共通のものをめざしてともに働いているというよろこびが、他人といっしょにいるというよろこびがある。
じぶんをじぶんとして編み上げているストーリーを、他者の「だれ」に応じて、あるいはその都度の他者のありように応じて刻々と変化する。
自分が自己というものをもちうるのは、特定の他者でありえていると感じられるときであった。この他者はいうまでもなく、未知のひと
じぶんの内部に入り込み、あるいは浸りきるのではなく、自分の外に出るというそういう感情の中に、ふつう達成感とよばれるもの―仕事における内的なよろこび―をみるころができる。
ひとであるというのは、途上にあること。じぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚が、重要、そういう感覚の中では、目標点ではなく、通り過ぎる風景のひとつひとつが回り道や道草もが意味を持つ
★仕事になかに求める移行の感覚は、未来のために現在を犠牲にする「前のめり」のものではなく、むしろ同時的なもの。それは他者との関係のなかでわたしの変容、そしてわたしたちの変容を期するものであるから。「希望はつねに帰郷であるとともに、何かある新鮮な新しいものである」。「希望」は、「途上にある」という移行の感覚である。
★ともに生きてあるという感覚が仕事のなか、遊びのなかに生成するとき、あるいはわたしたちがそれぞれそれとの関係のなかで、自分をはかる、そういう軸のようなものが世界のなかで、そしてわたしたちの間で生成しつつあると感じられるとき、それをひとは「ときめく」と表現するのだろう、現在を不在の未来の犠牲にするのではなく、「いま」というこのときをこそ、他者たちとのあいだで「時めかせ」たいものだ。
仕事の内的な満足。何かを実現するという目的地の明確設定、パック旅行ではなく、つねに別の場所への移行の状態にある、何かに向かっているという感触が、仕事に充実感やときめきをあたえる。いまのじぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚。
★この仕事をおこなうこと、そのこと自体が楽しいという仕事の内的な満足は、現在の他者との関係と編みあわされている。それはじぶんが勝手な意味付けをするのではなく、ひとつの仕事のなかでひとつのことをなしとげたという感覚をあたえてくれるそういうストーリー。それはじぶんはだれかということ、自己のアイデンティティとの関連であたえられるもの。それこそが「生きているという手ごたえ」や「生きがい」と呼ばれる。
旅する人間。人間のつねにみずからを超えてある在り方。つねに何かにいたる途上にあるというありかた。
⇒仕事において「生成されつつ他者」という「現在=顔」が互いに顕現、露呈されるときに、人は仕事に内的な、それ自体の「よろこび」を見出すのだろうな
じぶんを超えたものにじぶんが開かれてあるという感情。これは自分でじぶんの存在に意味を与えられない限界のある存在であるという意識が背後にある。
⇒こうしてみると、自己の生成過程と、労働における他者との交感(=顔の現前)あるいはそれにより新たな「自己の発見=外に出ること」を一致させていくことが「生きがい」につながるのだろうな。そしてそこにこそ遊びのなかでの「共在感覚」が発生するのだと思う。
じぶんの外にでるという感情のなかにしかない「達成感」。
★「いま」の現前が、労働の過程での他者との関係性の中で立ち上がり、顔や越境する自己として顕現されること。それを積み重ねていきたい。
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子供のころ、「大きくなったら何になりたいか」という定番質問に、「子供のままでいたい」と答えたいた。
大学卒業を前に、就職が決まると、「子供時代が終わる。ああ、次のお楽しみは、リタイア後だな」と肩を落としていた。
あれから、四半世紀。定年が延長になり、1/3ともいわれる給料ダウンをのんで再雇用を選択する人々の姿を見てショックを受け、「私は、自分に投資して、エンプロイアビリティを高めることで、長く労働市場をサバイブしよう」と、順応しようとしている自分がいる。
そんな自分に、もう一度喝を入れてくれた本。子供時代の「強迫的な労働は、いたしません」というあの感性を、今の働く現場に持ち込むためには、どうしたらいいのか。
「『生産するための仕事』ではなく『他者との関係を通じて自分の存在を確かめてゆく仕事』に、ひとは価値を置くべきである」という氏の主張を頼りに、自分がかかわっている労働集約的な業界の仕事の在り方を、問い直してみたい。
↓下記の要約は理解の補助線としてGood!
https://ho-jo.net/2018/06/17/%E3%80%90%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E3%80%91%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80%E3%80%8E%E3%81%A0%E3%82%8C%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%80%8F%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6/
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アメリカ国民で一番不健康なのは貧困層。
問題は仕事の質であり、内容。仕事に人は意味を求める。それを見いだせない仕事は苦痛以外のなにものでもない。
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労働の定義、遊びの定義がいまひとつ理解できない面がある。そもそも労働に対する価値観が違うからなのだろうが、「だれのため」という枠で捉えようとするから無理があるのか。著者の意図が私には見えなかった。
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本書では、自らが行う「仕事」について、労働と余暇といった二項対立の議論では収まらず、双方が相互に「入りくんでいる」様相であり、現実的に対処できないことを示している。この説明にあたっては、例えば、「目的の有無、価値の生産と消費、効率と非効率、規律と自由、まじめとあそび、つらさとたのしさ」(p.11)や自由と自律というように対比させ、これらを軸としている言説は、巷のエッセイやSNS上でもよく目にする。著者はそうした背景には、多くの人々が《労働社会》に生きていることが生活の基盤となっているためと指摘する。その背景には仕事を含めた日常生活における様々な過程で求められる「前のめり」の意識と姿勢があるという。自分自身も、労働時間以外の余暇という時間に対して、更なる意義・意味・目的・充実感を求めることは多々ある。そのプロセスが楽しい瞬間もあるが、著者に言わせれば〈インダストリー〉というエートスにとらわれている、という状況にある。さらに社会という段階でみれば、常に前のめりで変化し続けることが標準となり、他方、安定を求めればそれは後退と揶揄される時代が今日といえそうだ。とはいえ、私のクラスターには、こうした時代に見事に適応した人々がわりと多い。
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近代において成立した労働と余暇の二項対立を乗り越え、他者とのつながりのなかで生きる自己のあり方に注目しながら、「働くこと」の意義について考察している本です。
フランクリンに代表される近代人は、勤勉・勤労に何よりも大きな価値を認めました。一方、1960年代以降に青年たちを中心に広がったカウンター・カルチャーのムーヴメントでは、「モーレツからビューティフルへ」ということばに象徴されるように、「労働」よりも「余暇」に大きな価値を見ようとしました。しかし著者は、こうした「労働」と「余暇」の二項対立そのものが問題だと考えます。
勤勉・勤労に価値を置く近代においては、つねに前方を見つづける「前のめり」の時間意識が支配的だと著者は主張します。そして、仕事中毒からの離脱願望としてのレジャー志向のなかにも、同様のエートスが息づいていると著者は指摘しています。たとえばジラールが分析した欲望の模倣のメカニズムは、われわれの欲望が同一の物語に回収され、一定の方向へと回送されていくことを白日にさらしました。しかし、有用性と有意味性の連関のこわばりに対しては、レッシングが功利主義者たちに問いただしたように「ところで効用の効用とは何か」といったような冷や水を浴びせてやることが、ときには必要なのではないかと著者は問いかけています。そのうえで、阪神大震災以降に日本の社会においても定着することになったボランティア活動に注目しながら、労働と余暇の二項対立から逃れ出る道をさぐっています。
著者の結論をわたくしなりにまとめてみると、「顔」という概念を軸にして、広い意味での「社会的包摂」のなかで個々人のアイデンティティが充実されていくことに「働くこと」の新たな意味を見いだそうとしているといえるのではないかと思います。
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子どものころからの、評価される自分は偽の自分である、という感覚と、仕事をしていてその意味づけに苦労したり、誰かの役に立っているという実感をもとめたりすることが無関係ではないと気付きました。
仕事について書かれた本だけど、これからどうやって生きようか、整理して考えることができます。
阪神大震災の後に書かれた本なので、ボランティアのことも書かれていて、311のあとで感じた、何かしなければ、という感覚と、でも理性ですぐに被災地に乗り込んでいくのを抑えていた時の感じがどこから来ていたのか、分かってすっきりしました。
ここから先、成功も失敗もするだろうけど、自分が仕事に求めることの軸は失わずに、丁寧に社会に関わっていきたいなと思います。
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古本屋で見かけてタイトルに惹かれ購入。答えが得られたわけではないが、まあまあ納得できた。著者の主張を自分なりにまとめると、
仕事か遊びか、労働か余暇か、といった二分法ではなく、労働に「深い遊び」すなわち存在を賭ける真剣さを取り戻さなければならない。労働に目的があれば充実するわけでもない。労働自体がその目的の手段に過ぎなくなるから。労働の「目的」よりも労働の「限界」に向き合った方が良い。自分では自分の存在に意味を与えられない。将来の自分のためでなく今の他者のために、存在を賭ける真剣さで労働することで充実感がもたらされる。
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なんとなく、厳しい市場原理からするとあまったれた感じもするが、それなりに説得力もある。
(1)「勤め」と「務め」をばらす感覚。長寿化とともに、会社で一生勤めあげるというよりも、勤め人としての生活は人生の半分と考え、それよりはるかに長い人生を俯瞰してものごとをなす、つまり個としてのじぶんの「務め」をさぐるという感覚である。(p186)
悪くないけど、金を稼ぐ現役時代から連続して、自分の使命を果たす務めに少しずつ転換していくことも可能ではないか。
(2)「ヴォランティアという活動が浮き彫りにしたのは、他者のまえで、そのだれかとしての他者にかかわるという、ひさしく労働というものが失っている契機である」(p145)
まあ、そういう見方もできるかな。
ここで一言。
最近、毎日災害関係の審議会を開催している防災関係の非常にドライブ感のある職場にいるのだが、こういうドライブ感は、理系の生物とか宇宙工学、さらには若手にしかパワーがないが建築とか都市計画にはあるが、社会科学系はどうしたのだろう。
これだけ政治が混迷し、社会保障などが問題になっているのに、政治学者、経済学者、憲法、行政法学者、あまりに静かではないか。そのかわりに変な分野から突拍子もない議論をふっかけられているのではないか。
この混迷と閉塞感の時代こそ、明治維新や戦後直後のような社会科学の論争が巻き起こることを期待したい。そうじゃないと、どんどん役人と国会で制度が決まっていてしまって、あとで、ぐちゃぐちゃ批判することになるよ。いいの、それで、社会科学者は?
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労働/余暇をめぐる思想史を振り返りつつ、これからの「仕事」を私たちはどう考えればいいか、的なことが書いてあるんだけど、最初の問題意識の描き方は非常に鮮やかなのに、それに対する応答が散漫すぎて読みづらかった。。色んな人の言葉を引くのは良いけど、引用だらけになると読みづらくなりますね。もっと独自色出して踏み込んでほしかった。
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働くことへ違和感を感じている人におすすめ。
システム化された今の社会で、個々が何をどう感じているかが見えてくる。
その違和感が不快だった場合は、どうすりゃ自分はその考え方から抜けられるのかのヒントも書いてある。
途中、ちょっと読みづらかったけどね。
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仕事について、哲学的な側面からアプローチした本。労働に、様々な哲学者の思想を当てはめながら、「労働」と「余暇」について思索される。
「ホンシェルジュ」に記事を寄稿しました。
http://honcierge.jp/users/646/shelf_stories/25
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解決策が見えたわけではない。でも、そのなりクリアに労働の問題について理解ができたように思う。特に、常に未来に投資し続けて現在を疎かにするような働き方への問いかけには頷きっぱなしだった。少し時間をおいてまた読みたい