紙の本
オオカミの護符
2012/02/15 16:39
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投稿者:町から森へ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「オオカミの護符」 小泉美恵子 著 新潮社(2011年刊)
たいへんに面白い本でした。なんと言っても川崎、東京都に隣接する京浜工業地帯という圧倒的なイメージを待つ大都市川崎。そこに、かくも古くて懐かしい風景が開かれていくとは!読者はその意外性にまずもって驚かされることになります。
発端は、著者の実家、現在の川崎市宮前区土橋にある土蔵に貼ってあった「黒い獣の護符」に著者が興味を抱くところから始まります。この獣が「オオカミ」であることはすぐに判明するのですが、この「オオカミの護符」の由来を尋ねる過程で、護符を取り巻く様々な風景(今につながる)に出あうことになります。
例えば、東京都青梅市にある御嶽神社(みたけじんじゃ)信仰を中心に据えた御嶽講の世界。土橋にも御嶽講中が今も厳然として残り、御嶽神社を目指しての講中が毎年行われているということ。また、この講を先導し宿を提供し、さまざまな面倒を見るなど、宗教的にも重要な役割を果たしてきた「恩師(おし)」と呼ばれる先達の存在。「講」が地域社会のなかで受け持っていた様々な役割―相談、相互扶助、豊穣の祈り、雨乞いから、山や川に対する感謝、無事安全の祈願、そして村人こぞっての娯楽―を一つ一つ発見して確認してゆくことができます。そこには、今ではすっかり失われてしまったと思われる、小さな共同体の、長い長い歴史。そこで培われてきた人々自然と神(宗教)とのつながりの痕跡が、あきらかな形で残っているのです。
更に私たちが気がつかなかった事実に目を向けられます。それは武蔵国の遥かな拡がりです。かつて「武蔵七党」といわれる武士たちが、馬を駆っていた茫々たる野原から、遥か北に北に、秩父山塊まで、そして更に延々と東北まで続く深い山並みが続いていたという日本列島の形態、そこにはいつも人々が通う路があり、小さな村があり、確かな生活があり祈りもあったという事実には、改めて目を開かれる思いがします。広い世界と小さな人間との交流が、ゆったりとしたなつかしさとともに描かれています。
三峯神社の神事(奥宮祭)が、オオカミのほえ声(と思われる咆哮)で始まるということ、オオカミが出産する時発する声を聞けるのは「こころ直ぐなる人」だということ。狛犬が関東ではオオカミの姿をとっていることが多いことなどなど、オオカミ信仰が人間たちに果たしてきた役割の大きさを、改めて認識させられます。あわせて、いろいろな意味で、畏れ、を失った人間たちの今を考えさせられる本です。
川崎から青梅、御嶽神社、三峯神社・・・と、昔の人々が辿った道筋を訪ね歩いてみたくなります。
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オオカミの護符
2012/09/14 14:31
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投稿者:blind driver - この投稿者のレビュー一覧を見る
途中までは楽しく読んだが、最後のところで陳腐な結論付けをしてしまったところが残念な気がする。謙虚な姿勢で書き始められているのに、途中から「私はこうして立派なことをやっているのに、皆さんは・・・」と次第に市民活動家から説教されている気分になってしまった。テーマが面白かっただけに、最初のアプローチのまま、やみくもに結論を求めず「趣味の報告」というスタイルでまとめて欲しかった。
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御岳山に登山に行った際に、**講という碑があるのがずっと気になっていたが、この本を読んで謎がとけた。
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川崎・多摩・秩父といった身近な地域に今なお細々と残るオオカミ信仰と山岳信仰。田園都市線沿いの新興住宅地にも残っていただなんて全然知らなかった。
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借りたもの。
今はベッドタウンと化したその地域から、記憶をたどるように三峰のオオカミ信仰に辿り着く民俗学。
著者のご実家の農家で見た真神の護符から、山岳信仰の「御嶽講(みたけこう)」という地域コミュニティの存在を知る。
※御師・溝とは何ですか?
http://musashimitakejinja.jp/2017/12/09/question_mitake3/
溝の仕組みは山岳信仰の宿坊、温泉とあそびを楽しむ機会、お金の貸し借り、共済機関……様々な役割を兼ねていた。
その農耕の民俗学は、多摩川の水源を遡り、上流の武蔵御嶽神社へと向かう。
川の流れと地域コミュニティの繋がりがある点でも、農耕との関係の深さを強く意識させられた。
その山岳信仰は三峰に繋がり、オオカミ信仰に至る。
そのオオカミ信仰は起源が古く、日本神話……ヤマトタケルにも繋がってゆく。
川崎市宮前区土橋……その近所に住んでいたが、特に何もない住宅街という印象を持っていて、アクセスの良さから渋谷などに出てばかりだった。
歴史的遺構も特にないと思っていた場所には、その地域のつながりが確かに存在していたことを、大人になってから知る。
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神奈川県川崎市の土橋に生まれ育った著者が、物心ついたころから生家の扉に貼ってあった「オイヌさまの護符」の出所を探る話。
最初は休日を利用した趣味のようなものだったらしいけど、調査の範囲が広がり規模が大きくなるにつれ協力者も増え、最終的に映画まで作ったというからすごい。
著者は家業の農業を継がなかったこと、それに伴う年中行事などを知ろうとしなかったことを取材しながら後悔しているが、多分日本中に農業を継がずサラリーマンになった人はたくさんいて、それに伴いいまこの時にも伝統行事は少しずつ失われていっているんだろうなあと思うと物悲しい。
ムラ社会はよくも悪くも新規参入者をたやすくは受け入れないから、継承すべき世代が違う仕事に就いたので、そこで伝統が途絶えてしまうという現象が各地で起きているんだろうなあ。
「オイヌさま」の正体はニホンオオカミのことであることが判明するが、百姓の守り神となった経緯などが興味深い。
多摩とか秩父の山にも100年ちょっとまえにはニホンオオカミが普通にいたんだろうなあ。
同名タイトルの映画も是非見てみたい。
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今年の初詣は、御岳山でした。気持ちのいい山道がお気に入りで、それから奥トレやにわ大授業でも訪ね、御師の方とも知り合って。もっと御岳山について知ってみたいと思って読んでみた一冊。筑波山から横浜まで関東平野を一望できる御岳山に暮らす御師と、平野で暮らしてきた人たちのつながりやかつての暮らしを支えてきたオイヌさま(ニホンオオカミ)のこと、信仰の様子から僕らが根っこで大事にしている価値観まで見えてきたり、過去と今、自分と地域、小さな歴史と大きな歴史をつなげることもできるとても価値のある1冊だと思いました。一度、御岳山に登ってみてから読んでみるのがいいかもしれませんね。
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武蔵野国、オオカミ信仰を歩く、
山ノ神とオオカミと山犬、焼き畑の民、
「オオカミの護符」 害獣除け、盗難除け,火難除け、
モンゴルの「神なるオオカミ」を思い浮かべながら読んだ
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「このノン」(変な略)より。
ハズレもあるのな。映画を観たい。
どんなんかなーと想像するのが楽しかった。
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タイトル・装丁・企画からするとすんごい面白そうに思えるんだけど、「編集」がされてなくて、まったく残念な本。
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参拝講の、さらに山犬(オオカミ)信仰を知るドキュメンタリー。
驚いたのは「講」が今現在も行われている事。しかしそれが江戸明治から住んでいる「旧家」の人間だけだったりするのにも驚いた。その旧家の出である著者さまが、今まで見向きもしなかった地元の歴史に興味を持ち、調べ、記録していくという内容。
これは地元の人に是非読んでもらいたい!地元というのは武蔵国。私も武蔵国の生まれだが、読んでいるうちに自分の中にある地元愛を再確認させられる。
旧家の著者さまはこれからどうするのだろう?ただこれからも淡々と記録していくだけなのか、新旧住民の架け橋となり歴史を途絶えさせず続けていくのか。それがちょっともどかしい。
続編があったら読みたい一冊。
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川崎市宮前区土橋、東急田園都市線の鷺沼と東名川崎ICの間にあり、昭和40年代前半までは農家が中心だった所だが昭和41年の溝ノ口ー長津田間の延伸と住宅開発により鷺沼、多摩プラーザはベッドタウンとして発展した。この辺りの経緯は最近の日経の特集に詳しい。
現在では7000世帯を超える土橋だが元々農家だった50軒ほどの間には今でも御嵩講の伝統が続いている。著者の実家では蔵に「オイヌさま」の護符をはり、多摩川上流の武蔵御嵩神社へ毎年御嵩参りを続けている。講の寄付金で旅費と再選を集めくじ引きで決めた代表者が代参するのだが、跡取り息子は15才になると村社会にデビューし御嶽講に参加する。土橋から歩いて立川辺りで一泊し、御嶽に泊まって代参した後山梨の石和温泉まで足を伸ばすのが楽しみだったと古老が語っているのが微笑ましい。距離としては倍近くの行程になるのだが。
関東一円に有ったオオカミ信仰や山岳信仰とヤマトタケルの東征の伝説、農作の吉凶を占う太占(フトマニ)の読み方やその結果から今年の天候を予測する農家など、古代の神事が現代にも生き残っている姿を撮った映画「オオカミの護符」は2008年に完成し、それを書籍化したのが本書だ。こういう地味な本が発行後半年で8刷まで売れているのは当時の記録を残したいと思う人が多いからなのか。
オオカミ信仰は農作物を食い荒らす猪や鹿を補食してくれることから、山岳信仰も農作物を奉納し、豊作を祈るところからなので後継者がへるとこの伝統もいつまで続くかは危うい。三峯神社の獅子舞も「自分の世代が死んだら、終わります。確実に」と巻末に紹介されている。
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ふらりと本屋さんに寄っただけなのに、何故かその本の収まっている棚まで行って、迷わずその本を取り出す。こういうのは、もう本が私を呼んでいたと思っても間違いのでは無いかと思う。
読んでみると、初めて読んだのではないような不思議な気持ちになる。農家の暮らしやほんの2代前の祖父母の暮らしでさえほとんど何も知らない自分の中に、記憶にさえないにもかかわらず確かに流れているもの。今読むべくして読む事ができたとしか思えない。
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川崎市宮前区土橋。昭和50年頃まで茅葺屋根の家が点在するだけだった農村は、いまや7000世帯に届こうかという住宅街に生まれ変わった。土橋に生まれ育った筆者は失われゆく《自分の足元》を見つめ直すため、街の姿を記録しはじめる。そして人々の紐帯として大きな役割を果たした「御嶽講」の存在を知り「オイヌさまのお札」を手掛かりに御岳山へ向かう。
故郷の「百姓の生活」を記録することからはじまった筆者の旅は、関東甲信一帯の山々にたどり着く。本書では土地の記憶を受け継ぎ、自然と向かい合って生活してきた人々への取材を通して、都市の生活とは異なる「山」の暮らしと信仰を紹介する。けれども、それは「伝統を大切に保存しよう」という主張ではなく、新しい生活と旧い暮らしの折り合いをどうつけていくかと問題意識から出発している。
今、「地域の絆」を考える上でささやかな手掛かりを示してくれる良書。
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民俗学の本は好きでずいぶん読んだし、出雲や伊勢、諏訪や遠野といった土地を実際に訪れもしたぼくだけれど、この本は途中で飽きた。興味の方向が本質的に違う気がする。ぼくが惹かれた古代の謎や不思議、理不尽や暗がりも含んだ過去の世界の立体感はここにはなくて、ただ情緒的に懐かしみ、前のめりに持ち上げるばかり。興奮してしゃべるマニアの話を聞いていると、何が面白いんだかわからなくてげっそりすることがあるけれど、ちょうどそんな感じだった。