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商品説明
米軍基地ネットワークはいかに形成されたか。第二次世界大戦を経て、核兵器の時代を迎える中、米国本土への直接攻撃を回避するため巨大な基地群が築かれた経緯を、普天間基地の形成過程も含めて明らかにする。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
林 博史
- 略歴
- 〈林博史〉1955年神戸市生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。関東学院大学教授。著書に「沖縄戦と民衆」「裁かれた戦争犯罪」など。
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紙の本
知られざるアメリカの世界的基地ネットワーク
2012/03/28 16:55
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:24wacky - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書では「戦争国家」アメリカの世界的基地ネットワークがいかに形成されたかが精緻な文書整理により明らかにされている。それは「なぜ米軍基地はなくならないのか?」という問いに理路整然と答えてくれる。これまで主に日本の戦争責任問題にとりくんできた著者の新境地が基地問題となったことは、沖縄の文脈からすればなんら不思議ではない。
著者によれば第二次大戦後の米軍再編の大きなポイントは核兵器開発が関わっている。つまり、それにより空軍基地と空母主体の海軍を重視し、敵の近くで作戦を展開するために前進基地が重要となるという関係性がそれだ。アメリカ本土を防衛するために、防衛ラインをより前方に設置し、敵の近くで戦うという考え方が安全保障政策の基本となった。世界中にたくさんの米軍基地があるということと、絶え間なく戦争をしているわりには米本国が戦場とならないことに素朴な疑問を感じていた私は大いに納得してしまった。
このように米軍基地の世界的ネットワークの変遷が書かれた前半も読み応えあるが、本書の重要性を決定づけるのは、やはり次の章「日本本土と沖縄」であろう。これはいわゆる「普天間問題」なるものの言説、米国追従の戦後日本政治の主導者たる政官財プラス大手メディアが流布してきた言説を激しく粉砕する研究成果といえよう。
まずは冒頭に掲載される2つの日本地図をみて驚かされる。1つは、日本本土の米軍基地(1953年版)。そこには北は北海道から南は九州まで駐留軍が満遍なく配置されている。これは朝鮮戦争が影響しているという。そしてもう1つは、全国で起こされた基地反対運動の分布地図。たとえば石川県内灘試射場への反対運動、東京立川基地砂川闘争、あるいは保守派も含めた反対運動が起きた新潟飛行場など。50年代前半において、日本には現在からは想像がつかないほどの米軍基地が占領し、そしてそれに対する激しい反対運動が全国的に起こされていたという事実が一目瞭然だ。
このような事態に対するアメリカの対日政策は、政治的、経済的安定を損ねてまで日本の軍事力を増強させることは控えるべきであり、他方で朝鮮戦争などの緊張関係があるため、琉球と小笠原に対する管理と権限は維持するという方針となった。ここで興味深いのが、A級戦犯容疑者岸信介が政界復帰を果たし1955年に自由民主党が結成されたことを分析する元国防次官補ナッシュのレポート内容だ。孫引きするならば「日本が国際社会での完全な地位に復帰したことは、日本人のナショナリズム、中立主義、核兵器への恐怖の強い底流と結びついて、戦争へ関わることへの拒否と日本からの広範な基地撤去への圧力となっている」という。つまりこの時点の日本には「ナショナリズム」が存在し、米国とは一定の距離をおき、核への根深い拒絶感があったとみなされていたわけだ。その3つが日本人の対アメリカのメンタリティであったという。
さらにナッシュは日本に核兵器の貯蔵を認めさせるために「核エネルギーの平和利用を促進する」ことを挙げている。つまりは原子力発電の推進である。この国の国策としての原子力政策は、そもそも核兵器貯蔵のための地ならしであり、戦後日本の行方を決定づける米軍再編の一部としてあったのだ。
この後日本本土の米軍基地は4分の1にまで削減され、その移転先として大きなしわ寄せを被ったのが米軍統治下の沖縄であったことは論を待たない。米軍基地と原発はここから分岐される。
さらに沖縄への海兵隊配備と普天間飛行場利用の経緯は最も興味深い。朝鮮戦争終了後、沖縄への海兵師団配備を要求していた海軍と海兵隊に対し、陸軍が司令官を務める極東軍は陸軍の師団配備を主張して対立していた。結局は海兵隊配備が決定されるのだが、この対立構造はその後の普天間飛行場利用にも続く。海軍と海兵隊は日本軍が建設していた与那原飛行場(東海岸の現西原町)を拡張する計画をもっていた。これに対し、当時起こっていたプライス勧告に対する強い反対運動が端を発し、アジア全土に反米感情が生まれることを恐れた陸軍はもとより沖縄総領事、駐日大使、国務省までが反対したという。前述のナッシュ・レポートでも「琉球は、米国が多くの外国人住民を管理しており、またそれゆえ米国が植民地主義という告発を恐れやすい、今日の世界で唯一の場所であることを心にとめておかなければならない」と記されている。
このような経緯で国防総省が指示し与那原飛行場の拡張計画はなくなり、空軍が管理していた普天間飛行場を海軍にも使わせるようにした。そして次に引用するその後の展開は、「日米合意」による辺野古案がオール沖縄の反対により実現不能となった現在において、2006年の米軍再編の中身であるグアム移設と嘉手納以南の基地返還のパッケージを外して先に返すという発表がなされたこととダブってみえる。
しかしこれで終わったわけではなかった。米国民政府は、与那原に海兵隊のヘリ部隊を配備せず与那原飛行場そのものを返還するように主張した。五七年九月三日米国民政府は「海軍の普天間と与那原施設の利用」という覚書を出し、その中で、与那原飛行場は民有地六四〇・二一エーカーと日本政府の国有地三・二八エーカーであり、「当該地域の米軍借用地を地主に返還すれば、新たな土地取得が予想されたために西原村でこの間広がっていた反抗的な政治環境が確実に解決されるだろう」と沖縄の反対運動を宥めるために与那原飛行場を返還するように提案していたのである。普天間飛行場への海兵隊航空隊配備を発表する前に与那原飛行場を返還すること、その返還をすべてのメディアを利用して強調するように提案した。こうして与那原飛行場は海兵隊に利用されることなく、五九年四月末に返還されることになったのである。
「日米政府間ではパッケージ論はかけひきとして使われてきた。そのまやかしに騙されてはならない」と市民運動家の真喜志好一さんが指摘したことと瓜二つではないか。著者はいう。《海兵隊を沖縄に配備する決定自体が、政治的判断であったが、沖縄のなかでどこに海兵隊の航空隊を配備するのかということも政治的に判断されたことがわかる》。つまり当時も今も、「地政学的重要性」や「抑止力」はまやかしであった。