紙の本
陽の当たらない思想への共感
2019/11/22 11:54
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投稿者:まつしげ - この投稿者のレビュー一覧を見る
現在、あまり陽の当たっていない日本思想に、誠実に向かい合っています。
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TPP亡国論とかに結び付けなければ、思想史の1つの解釈としては面白いかも。しかし、本多利明が本田利明とかになっていると……それだけでがっかりするのもまた事実。
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幾度となく日本の危機的状況の時に語られてきた、「積極的に開国を行い、体制改革を行うべきだ」とする、所謂『開国物語』。ただし、開国物語のように実際には幾度となく惨憺たる結果を生み出してきたと著者は批判する。つまり、日本は開国物語なる呪縛に苛まれている状態だ。
このような呪縛を断ち切るために必要な処方箋を、著者は会沢正志斎に代表される水戸学に求める。つまり尊王攘夷思想を単なる排外主義思想として見るのではなく、極めて周囲の情勢に現実的に対応すべく編み出されたプラグマティズムを見出そうとする。議論を追うための朱子学、古学(伊藤仁斎、荻生徂徠)、福沢諭吉の議論も概説しつつ、水戸学を読み解いていく、極めてスリリングな一冊。
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お歴々の思想家たちが、次々と紹介され、素人には厳しい。が面白い。日本人の思想の基本を知ることが出来る。
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第1章 消された系譜―古学・実学・水戸学(開国イデオロギーの呪縛
開国までの歴史 ほか)
第2章 伊藤仁斎の生の哲学(尊王攘夷論の導火線
解釈学 ほか)
第3章 荻生徂徠の保守思想(徹底したプラグマティスト
方法論 ほか)
第4章 会沢正志斎の自由主義(古学が生んだ戦略家
古学と水戸学 ほか)
第5章 福沢諭吉の尊王攘夷(実学を重んじたナショナリスト
福沢諭吉の国体論 ほか)
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幕末の危機に際して、優れた国家戦略を構想した会沢正志斎の「新論」について、新たな見方を提示した著作。
「新論」が伊藤仁斎、荻生徂徠の影響を受け、そして福澤諭吉の戦略思想に引き継がれているのではとの考え方を彼らの著作から論証している。
著者は、英国に留学した経験もあり、西洋政治学にも造詣が深い。
古今東西の学者の言説も参照しながらの「新論」の分析で、新たな視点を示すものであり、興味深く読めました。
しかしながら、司馬遼太郎の著作をどれほど読んだか知らないが、あまり好意的に書かれたいたのが少々残念でした(涙)。
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江戸幕府終焉時の江戸幕府と明治政府の考え方は異なっていた。江戸幕府:非戦&開国、明治政府:攘夷&開国
翻って戦後、封建的な江戸幕府の思想に対して否定的な態度であったが、結局江戸幕府と同じ非戦&開国を目指しているところである。
現在の政治システムが当時の江戸幕府の様に現実と合わなくなっているという点で類似しており、筆者が今後明治維新の様な変革が日本の起こることを示唆しているでは無いかとかいかぶってしまう。
その明治維新を支えた思想として、論語をベースに、孔子が経験を追体験して知を得るプラグマティズム、「実践知」を重視していた。また、社会というものは時間とともに変化し続ける「活物」であるという動態的な社会観の上に立っている。
そのような中で政治では理性だけで行うことができないものであり、理性を超えた暗黙知や実践知によって行われなければならないものであるという思想があった。
その政治の不可知の領域こそ、俗人の手に届かない「聖なるもの」である。日本の場合の「聖なるもの」が神道であった。
その神道の担い手の皇道が、国民を統合するのに最も重要な要素として「懐旧の口碑」すなわち歴史や伝統に対する愛着の共有の源泉とされた。
政治に限らず経済、経営においても西洋の思想が流入しており、それらは死物を扱うように理論中心に構築されている感は否めない。
経済、経営においても政治と同様に不可知の領域があり「実践知」が必要なはずである。今までそれらの学問について違和感を感じていたのは、
著者にこの本を書かせた何かを自分自身も感じ取っているからではないだろうか?
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[ 内容 ]
幕末の危機に際して、優れた国家戦略を構想した会沢正志斎。
尊王攘夷を唱えつつ、抜本的な内政改革を訴えた彼の『新論』はけっして無謀な排外主義ではなかった。
むしろそのプラグマティックで健全なナショナリズムに学ぶべきところは大きい。
正志斎の思想の秘められたルーツを伊藤仁斎、荻生徂徠の古学に探り、やがてその実学の精神が福沢諭吉の戦略思想に引き継がれていることを解明。
隠された思想の系譜を掘り起こし、現代日本人が求めてやまない国家戦略の封印を解き放つ。
[ 目次 ]
第1章 消された系譜―古学・実学・水戸学(開国イデオロギーの呪縛;開国までの歴史 ほか)
第2章 伊藤仁斎の生の哲学(尊王攘夷論の導火線;解釈学 ほか)
第3章 荻生徂徠の保守思想(徹底したプラグマティスト;方法論 ほか)
第4章 会沢正志斎の自由主義(古学が生んだ戦略家;古学と水戸学 ほか)
第5章 福沢諭吉の尊王攘夷(実学を重んじたナショナリスト;福沢諭吉の国体論 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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幕末から明治にかけての政治思想をナショナリズムを中心として読み直す試み。
しかし、著者の主眼は単に過去の思想家の思想をたどることではなく、むしろ過去を読み直すことで現在主流となっている「偏狭な尊王攘夷論を乗り越えて開国した日本は近代的な国家になった」というイデオロギーに疑問を突きつけることにあります。
今では狂信的で偏屈な思想と捉えられがちな尊王攘夷論を、当時の社会状況から生まれた現実に即した周到な戦略であると位置づけ、更に一般的には尊王攘夷論に反対する立場だったとされる福沢諭吉を尊王攘夷論に連なる系譜であると再解釈しています。
私は本書で取り上げられる荻生徂徠や福沢諭吉の著書を読んだことがないので、主張の妥当性については判断できませんが、日本の歴史の新たな「読み」としては非常に面白いものでした。
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「開国物語」という病理的な固定観念を、伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎、福沢諭吉を再読することで、その虚構を撃つ。開国しなければまともじゃないという他律的発想とは別に、前近代において、自律的思索を積み重ねた先人たち営為に驚く。
確かに日本思想史の細かな議論としては、アクロバティックなところもありますが、筆者が専門の西洋の政治・経済思想と日本思想史を比較しながら論じているのは面白い。日本思想史において、遜色のない近代への「槌音」が存在したとみることは可能かも。
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かつて国が大きく変換した時、対立する思想は批判され、見向きもされなくなった。もちろん、間違った思想は批判されてしかるべきだが、その中には本質を理解されなかった思想もあるのではないだろうか?
尊王攘夷とかナショナリズムという言葉を口に出すと、すぐさま内向きの排外主義と言われるし、自分もそう感じる。でも本当は両者とも健全な思想であり、それに学ぶところは大きいのではないか?そんな疑問を持って書かれた本。
自分のいる場所を愛しつつ、外を広く大きく見渡して良いところは学び、害を及ぼすものには抵抗し、最善の策での解決を試みる。これは決して内向き思想じゃないはずだ。こういう視点を持ってことに当たれるように、日本人がなれたらいい。日本やだ、でもあの国もやだとか、もうネットで愚痴りたくない(って感想からだんだん遠く離れてきたなあ)
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朱子学と古学を合理論と経験論へと類比した上で、後者をプラグマティズムとして解釈し、「健全な」近代ナショナリズムへと発展していったと論じている。その結論として、福沢諭吉は尊皇攘夷論者であるとしているのは通説を覆す論考ではあるが、尊皇攘夷の定義次第ではそう解釈できないと言えなくもない(一般的にはかなり無理があると思うが・・・)。
著者は思想史の専門家ではないし、全体的には著者の保守思想に合致するように牽強付会の説をなしていると言えなくもないが、読み物としては面白い。
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一般に誤解されているように、ペリーが何の前触れもなく浦賀沖に現れて、情報に疎く不用意な幕府を慌てさせたのではなかったのである。29
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定信は、開国を覚悟していたのである。23
「主義」としては鎖国だが、「政策」としては開国というわけで、主義と政策が葛藤しているのである。24
「避戦か、攘夷か」であり、「開国か、鎖国か」はその目的のための手段に過ぎない。31
徳川幕府の基本政策が「避戦・開国」で、明治維新が「攘夷・開国」の具現化であるならば、敗戦後の日本が進んだ方向は、徳川幕府の「避戦・開国」に近いものであろうからだ。32
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福沢が批判しているのは、日本の国体が「金甌無欠」であるという状態に満足し、その状態をもたらしている「働き」を看過するようなタイプの国体論者なのだ。
この「働き」こそ。福沢の文明論の最大のテーマである国民の独立心なのである。191
国体が失われるということは、国民が独立を失い、他国の支配を受けるということである。
裏を返せば、皇統の連続性が途絶したとしたら、それは国民が独立心を完全に失ったということの兆候である。
大事なのは国家の独立であり、それを支える国民の独立の意識である。そして、国民の独立心に支えられた国体は「金甌無欠」であり、その結果として、皇統は連続性を保つ。199
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自由民主主義だけでは、自らの社会統合を実現することができない。
社会統合は、自由民主政治の前提として必要なのである。209
福沢の尊王論は、彼の自由主義と矛盾しない。それどころか、自由主義の前提条件として尊王が必要なのである。211
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著者の着眼点が素晴らしい良書!!
100年以上前の思想や哲学から、実践主義、所謂、プラグマティズムという概念、そしてナショナリズムが形成される過程がわかりやすく説かれ、それが現代においても十分に通用し、古さを感じさせない。
また、今まで一般的に捉えられてきた見方に対して疑問を投げかけ、新たな解釈を織り交ぜられている。
日本をはじめ世界中が危機に瀕している現代において、この本が投げかける問題提起の意味は大きい。
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伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎、福沢諭吉の4人の思想を、プラグマティズムという観点から読みなおす試みです。
著者のプラグマティズムは、源了圓による近世思想史のうちに「実学」を見いだす試みを継承しています。ただし著者の専門は日本思想史ではなく国民経済なので、そうした側面から近世における経綸的実学思想を再発見しようとしています。
ふつう、こうした関心から近世思想史にアプローチするのであれば、鈴木正三や石田梅岩、あるいは本多利明や海保青陵といった思想家たちをとりあげるのが定石だと思われるのですが、著者はあえて丸山眞男の解釈に対抗するかたちで、古学と水戸学の内的なつながりを明らかにしていきます。仁斎については、彼の思想を「生の哲学」として読み解き、徂徠については伝統を重視する政治哲学を引き出してきます。そして狂信的な排外主義と見られがちな正志斎の『新論』を、当時の国際政治状況を踏まえたプラグマティックな政策論として読み解き、同じ思想が啓蒙思想家の福沢諭吉にも引き継がれていると論じています。
新書サイズの本なので、それぞれの思想家についてそれほどくわしい検討がなされているわけではないのですが、丸山の「つくる」と「なる」を対比する枠組みからの徂徠解釈や、子安宣邦の脱構築的な福沢解釈に対する著者の批判は、興味深いと感じました。また、プラグマティズムの観点から大胆な再解釈をおこない、日本近世思想史のアクチュアルな可能性を切り開くという本書の試みに、非常に刺激を受けました。もっとも、かつて山本七平や谷沢永一による日本近世思想史の当時アクチュアルなものとして受け取られた解釈が、今となってみれば村上泰亮や公文俊平らの文明論や日本的経営論の流行のもとで出てきたあだ花にすぎないことがはっきりしてしまったということもあったので、本書の解釈もあるいは反TPP陣営の恣意的解釈にすぎないという審判がくだされるということも、ないとは言いきれないのですが。