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哲学者か経済学を斬る的な。
たとえ話が多いので読みやすい。
結局は、資本主義はベストではないが、資本主義を超える経済システムはないよねー、的な。
求む、21世紀的社会システム。
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トロント大学の教授であり哲学者である著者が、右派や左派が陥りやすい謬見についてそれぞれ6テーマずつ扱っている。
「次善の一般理論」について取り上げられている部分が興味深い。アダム・スミスが「神の見えざる手」―完全競争市場は完全な効率性を持つ―と主張したのは有名である。しかし、残念ながら(?)完全競争市場は理論上のものでしかなく、現実世界の競争市場は不完全である。
さて、ここで問題になるのが、現実の競争市場を少しでも完全競争市場に近づけることで、少しでも効率性を高めることが可能なのかである。「次善の一般理論」では、少しでも完全競争市場から乖離している「次善」の競争市場が、大きく完全競争市場から乖離している競争市場と比較して、効率性が高いという根拠は無いと述べている。
物事を一般化、抽象化して考えることで最適解を導けるものもあるが、それがそぐわないものもある。市場の効率性については後者なんだろう。必ずしも一般的なモデルからの乖離が小さい方が良いということにはならないのだ。
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左派、右派の何れにしても資本主義について何らかの思想を抱く人々が陥りがちな経済学の誤解を正すために書かれた本。この本を読むと、自分がなんとなく前提にしていた思い込みをあぶり出すことができるので、自分の経済政策の思想立ち位置を知るにも役立つ。
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これは面白い!やはり、経済読み物は、経済学者“以外”が書いたものの方が当たりが多いなぁ(笑)
特に、第7章公正価格という誤謬、第12章レベリング・ダウンなんかは、現在の日本の問題に直結しているので、経済学に興味のある人は是非読んでほしいです。
但し、翻訳がかなり読みにくいので注意。というか、おそらくは原文がかなり持って回ったような文章なんだろうと想像します。翻訳者の方も苦労されたのではないでしょうか?なので、経済学的基礎知識が無いと、読むのはちょっと苦労するかも。でも、飛ばし読みでも価値があると思います。
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第一部は「右派(保守・リバタリアン)の謬見」
第二部は「左派(革新・リベラル)の誤信」
どちらも、それぞれ間違いを犯しているという批判。
公平ですね。
じゃあ結局どっちなの?というときっとどっちでもなく
その間のどこかに落としどころをもっていく議論が
必要なんだけど、実際は両派ともそれを
受け容れられないので平行線。
議論の前提となる知識が共有されていないのです。
左派は経済(統計的データ)を学ばず、
右派は哲学(人間の不確実性)を軽んじる。
なんだか日本の原発問題の議論にも共通していますね。
筆者はおそらくその議論を成立させるための地ならしの役割を
この本に課したのではないかと想像するのです。
最終的にいいたいことは
「どっちももっと勉強しないと議論にならんよ」
ということだと思うのですが、
各章の事象に関しては僕自身の知識不足で
理解しきれないままでした。
勉強しなくちゃ、ですね。
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ひと通り読んでみて、経済学の方が道徳的な考え方してるんじゃないかと思い始めた。新しく生まれる経済的価値や経済的効率性を重視することで、最適な配分を考える、結果経済学的には一番満足できる方向に進んでいくのであるが、その際の「全体最適を考える」という視座の持ち方が道徳的なのではないかということ。モラルハザードなどまでも含めて議論できるのが経済的なのかなとか。
経済学をもう少し学んで見ようと思う。
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経済学を哲学者が一刀両断する本。右派には右派の左派には左派の考え方がある。しかしどちらも本質をついているといは言い難いという感じの内容でよろしいか?
経済を簡単にかたづけようとしたところで必ず行き詰まりを見ることだろう。結局そこにはいろいろな人間の行動パターンが埋め込まれるわけであり、それらすべてに都合の良い行為を与えることなどできないのだから。そこで人はどう対応するかそれにより経済の崩壊度が決まってくるのだろう。
作者が外国人ということもあり中に出てくる事例は外国のものばかりであるので少しわかりにくい。日本の事例で書かれたこのような本はないものだろうか?。
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経済学と資本主義というものが同一視されることに対してきちんと説明をしている本。書いたのは政治哲学者で、資本主義に対して疑問を持っている人物であるところがポイント。元の立ち位置がネガティブだからこその丁寧な説明がそこにはある。
ただ、資本主義が嫌いな人がこれを読んだら「ミイラ取りがミイラになった」と思うかもしれない。それは間違いで、感情を排した結果だということをわかってもらいたいし、仕組み上はそうだけれども現実は異なるということもわかってもらいたいと思う次第。
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著者はカナダの哲学者。「世界に不正や苦難があるのは、利己的なやつが自分の利害にかなうよう仕組んだせいなのだ(P346)」と若かりし頃は思っていた人物。
経済学の正式な教育も受けてないが、本を読んで得た知見をカナダの身近な例(住宅政策やガス料金、保険と年金、先住民地区のことなど)とともに共有してくれる。
「右派(保守、リバタリアン)の謬見」をまとめた前半第1~6章と「左派(革新、リベラル)の誤信」の後半第7~12章。
特に左派向けに書かれた部分は「資本主義」や「市場経済」や「営利企業」が嫌いな人(いわゆるマルクス経済しか認めない経済オンチ)は読んでおくべきと思う(私もそうだった)。
「貧乏人の経済学」とも通じる。
「私たちの問題はたいがい問題を直す意志に欠けることではなく、直す方法を知らないことである。(P347)」
<対右派>
第1章 資本主義は自然――なぜ市場は実際には政府に依存しているか
第2章 インセンティブは重要だ……そうでないとき以外は
第3章 摩擦のない平面の誤謬――なぜ競争が激しいほどよいとは限らないのか?
第4章 税は高すぎる――消費者としての政府という神話
第5章 すべてにおいて競争力がない――なぜ国際競争力は重要ではないのか
第6章 自己責任――右派はどのようにモラルハザードを誤解しているか
<対左派>
第7章 公正価格という誤謬――価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか
第8章 「サイコパス的」利潤追求――なぜ金儲けはそう悪くないことなのか
第9章 資本主義は消えゆく運命――なぜ「体制」は崩壊しなさそうなのか(しそうに見えるのに)
第10章 同一賃金――なぜあらゆる面で残念な仕事がなくてはいけないのか
第11章 富の共有――なぜ資本主義はごく少数の資本家しか生みださないか
第12章 レベリング・ダウン――平等の誤った促進法
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現在、途中まで読んだところだけど、オーソドックスな経済学入門という気がして積ん読中。
著者は経済学の専門家ではない。
タイトルから、そんな著者が独自の視点で経済学を説明する本だと思って購入したが、専門家である経済学者の理論を整理しているだけでちょっと方向性が違った。
具体的には
1章 資本主義は自然
→何でも市場=自然に任せれば良いわけではない。市場を有効に機能させるための制度を政府が設計する必要がある。
2章 インセンティブは重要だ
→インセンティブはモデル化できるほど単純ではない。
(行動経済学が引き合いに)
3章 摩擦のない平面の誤謬
→モデルは常に正しい訳ではなく、市場均衡が常に最も良い状態とは限らない。(負の外部性)
4章 税は高すぎる
→政府の機能は所得の再分配である
相当雑だがまとめるとこんな感じだと思う。
上記の内容が日常生活の例を交えて説明されていて、とてもわかりやすい。ただあくまで経済学食わず嫌いの人に向けた経済学書である。
入門書としては面白く、読みやすいが経済学をかじったことがある人には議論の再整理くらいの位置づけだと思う。
学部入門のマンキュー経済学を読んだときと感覚が似ている。
マンキュー経済学の方が初学者を意識してるけど。
タイトルで内容を勝手に勘違いして買ってはいけないことを再認識した。
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正直、入門書ではないけど、読み応えあり。因みに筆者のジョゼフ・ヒースさんはトロント大学の哲学の教員。
http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002183
資本主義が嫌いな人こそ経済学を学ぼう!というのが本書の主題。資本主義批判者は不勉強、その怠慢につけ込む保守派の議論をメッタ切り。情緒や義憤でも欺瞞でもない。資本主義をよりよいものに変えていくことが課題と示唆。
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本書は哲学者による経済学批評の本である。具体的には、経済学が想定する所与の条件に抜け落ちている点や、しばしば買わされる経済的右派・左派同志の論争における双方の議論の盲点について批評している。筆者の主張は経済学の単なる「揚げ足取り」的な議論なのではなく、同時に重要な視点を提供しているという点で、特に経済学が好きな人は読むべき本だと思った。
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経済はゼロサムゲームじゃないという人もいます。でもこの本では、明快に、「青信号は、誰かにとっての赤信号」として、誰にでも青信号なんてありえないぞ、という点からスタート。
その信号は、数多くて単純なものではないし、さまざまな選択的行動からなっている。当たり前のことなんだろうけど、僕が理解できていない、ということがよくわかった。関係者全員が悪いなら、システムを壊すしかないって。そうかもね。
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どこかの紹介で頭の片隅にあったので、紀伊国屋で立ち読みしてみたが、再読には値しない本であった。著者は最初の章で合成の誤謬を例にとって市場の不完全性を説明していたが、このロジックは経済学をきちんと学ばない人によくある間違いのひとつである。経済学者もそのような合成の誤謬から生じる市場の失敗の存在を謙虚に認めるし、その上で市場の失敗の是正策を講じる。他にも経済学が想定する人はインセンティブをもって行動するという前提や情報の非対称性から生じるモラルハザードについても同様な反論が考えられる。
最も目を引いた箇所としては「次善」についてである。価格規制によって一つでも不完全競争があるのであるならば、さらなる規制を増やしてもっと不完全競争を増やした方がよいと述べている。その例として、自由貿易の世界のいて一つの商品の価格が2倍に吊り上げられていたら、ほかのすべての商品も2倍に吊り上げるべきといったたぐいのことが書かれていた。これについては、物価の捉え方の問題であり、本質的な批判にはなっていなかった。また同様に他の規制による政府の失敗の可能性を指摘しなければ健全な比較は行えないであろう。
それでもなおすべてを読み流したのには理由がある。それは経済学に対する批判に対しても批判を加えたからである。内容についてはやや抽象的だったので述べないが、これについては共感を覚えた。
最後の末部分で、「現実は複雑で、経済学はそれを解きほぐす論理のひとつを提供してくれる」というような記述があったが、間違った前提からみちびかれたことには奇妙な感を覚えつつも、当たり前だが本質的なことを指摘してくれたことに安堵するという何だか複雑な読後感であった。
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・生産性上昇の計算法は、経済成長率から明らかに説明できることを除外していくというもの。成長がいくらかでも労働者の増員や労働時間の増加によるなら、新しい設備や機械などの資本支出によるなら、それらを除外する。生産性はちょっとロールシャッハテストに似ている。ある人にとって、生産性の向上には教育と「技術革新」への莫大な政府支出が求められる。別の人にとって、産業の果敢な規制緩和とともに大幅減税が必要になる。
・アメリカで自動車を生産するには二つの方法がある。一つはデトロイトで生産する方法、もう一つはアイオワで栽培する方法だ。アイオワで自動車を栽培するには、小麦をトヨタ車に変える特殊技術を活用する。小麦を船に乗せて、太平洋に送り出すのだ。しばらくすると船はトヨタ車を積んで戻ってくる。小麦を太平洋沖で自動車に変えるこの技術は「日本」と呼ばれているが、それはハワイの沖合に浮かぶ先進的なバイオ工場だといってもいいだろう。いずれにせよ、デトロイトの自動車メーカーの労働者が直接競争しているのはアイオワの農民なのである。
・「フェアトレード運動が明らかに示したのは、良質の品を買いたいと言う消費者の意欲を損なわないで、生産者は今日の破壊的な安値の倍の報酬を得られるという事だ」。これはこれで結構なことだが、まったく的外れである。問題は、生産者がその産品の市場価格の二倍報酬を得られて、なおかつ生産を減らすことを納得させられるかどうかなのだ。2001年の全世界のコーヒー供給量1億1500万袋に対し、全需要量は1億500万袋前後だった。