紙の本
「忘れられた日本人」と出会える介護の現場
2016/05/22 10:06
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投稿者:ナンダ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は気鋭の民俗学者として一時脚光を浴びたが、しばらく姿を消していた。大学教師をやめ介護の現場にいたとは驚かされた。何が彼女をそうさせたのか。介護現場の何が魅力なのか--。
民俗学の調査対象は、伝統的な社会規範のなかで生きてきた人が多い。そんな人たちから「なぜ結婚しないんだ」と問われつづけ、筆者は「私の生き方は間違っているのか」と戸惑った。
ところが介護の現場には、看護婦、電話交換手、旅館の仲居、布団の技術者、蚕の鑑別嬢など、仕事に生きてきた女性、民俗学の対象とされなかった「一般コース」ではない女性がたくさんいた。それが救いになったという。
民俗学は農村文化が対象であることが多いが、介護現場では、高度成長時代に飯場を渡り歩いた人や、村に電線をひくため家族とともに各村に1週間から10日滞在して仕事をした現代の漂泊民……といった「忘れられた日本人」に出会えるという。
逆に介護現場にとって民俗学の聞き書きの手法は、今までの「傾聴法」「回想法」とは異なる効果をもたらす可能性がある。
傾聴法は、専門家であるスタッフが「利用者」の話を聞く態度を示すことで、生活やコミュニケーションのレベルを引き上げるという上からの目線がある。それに対して民俗学の聞き書きは、お年寄りが「先生」であり、「聞かせていただく」という立場の逆転がおこる。上下という権力関係にある施設の人間関係を一時的にせよ逆転し、お年寄りがその場の主人公になれる。
また傾聴法は「聞いている」という身振りが大事で、老人も身振りや様子で満足感を示すとされるが、聞き書きはあくまで「言葉」にこだわる。認知症のお年寄りでも、断片の言葉をつなぐことでその人の人生を再生することができるという。
回想法は、だれもが活用できるように方法論化が進んでしまったがゆえに、利用者の複雑な人生を見据えるまなざしを曇らせてしまった。個々人の「顔」に向き合わなくなり、個々の人生への「驚き」が失われてしまった。民俗学は、1人の人間総体をまるごととらえる目を介護現場にもたらしてくれるのだという。
認知症の老人の幻覚や幻聴の位置づけかたも興味深い。
認知症の女性が語る架空の物語と、カッパや狐が出てくる「遠野物語」などの民話と何がちがうのか、と筆者は自問する。
遠野の老人たちは、かっぱや狐も含めた世界のなかで生きてきた。「昔はそういう狐がいたもんだ。今はいなくなったな」と語る。そうした人々と、死者の声がきこえるという認知症の老婆との間に差があるのだろうか。昔から、子どもと老人は死者(神)の世界に近いとされてきた。「大人」には見えない幻想や物語とともに生きてきた。
ユークリッド幾何学や近代哲学が否定されつつあ状況を踏まえると、物理的な現象だけを信じる「大人」の世界だけを「現実」とする世界観に疑問を突きつける必要もあるように思える。
紙の本
生活に密着した民俗学
2012/08/19 17:16
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:もんきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
シリーズとしては介護の本ですが、介護に興味のある人が読むケースと民俗学に興味のある人が読むケースとどちらが多いのでしょうか。
私はどちらかと言えば後者ですが、親もそろそろ介護の対象になってきてケアの現場に関する情報としても興味深く読めました。文中にもたびたび筆者の行っている聞き書きが介護の効果は不明、とあり、ひょっとするとこのような介護担当者がいたら「おしゃべりばかりして仕事をほっぽりっぱなし」と文句を言う人も居そうだな、と感じました。そういう方はより明確に現状への課題意識と聞き書きの意義が書かれている「おわりに」を先に読むとよいかと思います。
民族学といえば伝承や祭りの研究が代表的ですが、ここで描かれているのは自分たちの知らない歴史的な「日々の暮らし」です。これまでは一部の「自分で書ける人」「書ける人に興味をもたれた人」からしか知られていなかった事実と出合うのはまさに驚きの連続。こういう研究が積み重なると、いままで特別な事例と思われていたことが普遍的だったり、その時代の常識と思われていたことが限定的だったり、と言うこともわかって来そうです。これまでもマンガや都市伝説への民俗学的アプローチもたくさん読んだので、個人的にあまり違和感はありませんが、アプローチ自体への驚きもあるかもしれません。
さらに共感したのは、忙しい中でも思わず利用者の行為の「意味」を考えてしまう著者です。利用者の行為に意味づけができたときの楽しさが利用者への興味、話への興味になっているのでしょう。日々の業務には邪魔になりそうですが、そういう気持ちが学問や技術の進歩を支えているんだろうなあ、とか、考えながら読んでしまいました。
ここに書かれているのは介護施設という特定の状況で集められたケースですが、教育や近所付合いといったいろいろな場面で同じようなことが起こっているようにも思えます。まあ、それでこそ民俗学、ということでしょうか。
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老人介護施設の利用者(痴呆症患者や統合失調症患者を含む)から聞き取りをして民俗学の記録を残すことが、学問と施設利用者のどちらにも有益だという「驚きの」介護民俗学。
介護の実践または勉強をしている人なら、「そんなこともあるかもしれない」とけっこう受け入れてくれそうな気がするが、民俗学者はどうかなあ。村の古老は知恵の宝庫でも、養老院のぼけた年寄りの言うことを真に受けてくれるかしら。
幻聴幻視妄想の中から、過去の真実を見極めるのは難しいが、真実に近いものはきっとある。そしてそれは「100%真実でないから価値がない」わけではないと思う。健常者の過去の話だって、意図しない虚飾や自衛のための改変が混じり込むのだから。
介護民俗学が介護者の支えになることだってあるかもしれない。
もしかしたら今自分が読んだ本は介護界(?)の革命を呼ぶ本かもしれないと思いつつ、読了。
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戦場で生死をさまよった経験、キャリアウーマンとして活躍された経験、家族のために働いた経験など、事実は小説よりもドラマチックな語りが次々と。
やはりお年寄りは立てるべきですね。現役世代にはどのような活躍をされていたのか分かりません。
そして、自分が将来、認知症状が出て介護される立場になった時、どのようなことを語るのでしょうか。そのことを思うと、怖くなってきます。今のままでは絶対にいけない、と危機感を持ちました。
ちょっと思ったのですが、介護施設を舞台にしたミステリーなんて、できないものでしょうか。
例えば、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授が同じ介護施設に入って仲良くやっているような。
それはともかく、介護民俗学とはいっても、明るい展望ばかりではありません。
第4章では、「回想法」との路線の違いについて記されています。
そして第5章では、あまりの忙しさに聞き書きもできなくなり、執筆もできなくなった体験について書かれています。
介護職の知人から、「ゆっくり話を聴いている暇などない」と批判されたことについても書かれています。
六車さんは、民俗学を学んだ学生が介護職に入ることをおすすめされているようです。
しかし、現在見聞する介護現場を考えると、やはり介護の現場でゆっくりと話を聴くのは大変なのではないでしょうか。
それよりも、六車さんも書かれていますが、
「介護現場が社会へと開かれていく」
方向を広めていく方が無理ないと思います。
例えば、民俗学を学ぶ学生さんがフィールドワークの一環として、地域の介護施設で聞き書きをしたり、卒業論文を書いたりするような。
介護は介護職員が行い、介護民俗学は外部の研究者が行うというような役割分担ができれば、介護職員の忙しさの軽減になるのではないかと思うのですが。
(これは現場を知らない他人による評論家的意見です。間違っていましたら申し訳ありません。)
http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20160223/p1
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気鋭の民俗学者が、自ら介護職員として介護の現場で実際にケアの仕事をしながら民俗学のフィールドワークとしての「聞き書き」を行っていく。「聞き書き」と介護での成果をあげるための「回想法」との違い。またケアの非対称性など、実に現場からでないと分析できない様々な発見と分析、提言がある。
私は読みながら、自ら労働の只中に踏み込んでいった哲学者詩もーぬ・ヴウイユのことを想起していた。彼女の優しい視点がこころを和ませる。
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さて、少しずつ反響が広がっている介護民俗学です。全ての状況でこの『民俗学』をおこなうことはやはり困難なのでしょうが、介護する側とされる側が時代観を共有できている現在は、非常に幸福な時代なのかもしれません。ますます時代の変化が加速して、ボクが介護されるころには『スマホ』なんて若者に言ってもチンプンカンプンだったりして(笑)
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上田千鶴子や鷲田清一などが絶賛していたので買ってみた。まだ少ししか読んでいないが、私が時々雑談するようなことが実は、知らない世界につながっているのがなんとなくつながっているような気がする。http://wan.or.jp/ueno/?p=1506
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叡智の継承を垣間見る。
著者の「驚き」の起源は、子どもらしさと同様で、
知らないことを知らないと言える素直さも合わせ、
自分には欠落していることの自覚。
とりわけ業務効率の上昇や、技術の向上を自己陶酔とし
偉大な先人を目の前にしての聞き書きとの対比を克明に刻む箇所には
得も言われぬ力を感じた。
そうだなぁ、とつくづく。
勿論年齢の違いはあれど。
生きることに真摯でありたい。
誰に対しても尊厳を以て接していきたい。
「驚き」と共に。
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素晴らしい本。何度も泣いた。読めて良かった。
ひとりひとりが貴重な一冊の書物であり、それをいかにして保存するか。著者や民俗学、社会学を学んだ若者たちがしっかりとその声を聞き取りながら仕事のできる介護現場を目指すべきで、それを日本語がロクにできなくてもできるとか勘違いしてる老害の声の大きさは何なんだろう。
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004
民俗学の准教授だった方が、大学を辞めて特別擁護老人ホームへ、介護ヘルパーとして働き始めたという異色の著書。
それだけで、この著書が何を書くのか食指が動く。
論文形式というよりは、看護師雑誌で書かれていた連載をまとめ、再編纂された本なので、介護分野についても、民俗学についての知識が無い人でも、面白く読める。
介護業界で実験的に使用されている回想法という傾聴の方法と、民俗学で用いられるヒアリングの手法との対比をし、独自の介護民俗学というのを確立させようとしてる筆者のいわば過程としての奮闘記として書かれている。
例えば、
『民族儀礼の特徴になぞらえてみると、予定調和に繰り返し演じられる認知症の方の同じ問いの繰り返しも本人にとっては、不安定で混沌とした場所において、生きる方法を確かにし、ひとときの安心を得る為の儀礼的行為といえる』
といったような、介護の世界では、若干迷惑な利用者も、民俗学という視野から見てみると、不可思議な行為が論理的に見えてくるという不思議な面白さがある。
もちろん筆者が、介護施設で働く中で、この本に書かれていない苦労などたくさんあるとは思うが、是非に今後も応援していきたい人である。
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http://www.amazon.co.jp/dp/4260015494/ref=cm_sw_r_tw_dp_xdYSpb037DRP1
『神、人を喰う』でサントリー学芸賞を受賞した気鋭の民俗学者は、あるとき大学をやめ、老人ホームで働きはじめる。
そこで出会った「忘れられた日本人」たちの語りに身を委ねていると、やがて目の前に新しい世界が開けてきた……。
「事実を聞く」という行為がなぜ人を力づけるのか。聞き書きの圧倒的な可能性を活写し、高齢者ケアを革新する話題の書。
出版社からのコメント
☆新聞で紹介されました!
《そこに浮かび上がってきたのは、「傾聴」「共感」「受容」という観念にがんじがらめになったケア(「聴き取り」)の歪(いびつ)さであり、一方でテーマを先に設定する民俗学調査のまなざしの狭さだった。》-鷲田清一(大谷大学教授・哲学)
(『朝日新聞』2012年4月1日 書評欄)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012040100011.html
《介護する側と介護される側とが共に蘇生していく過程が、短編小説のような味わいで描かれる。ついのめりこんで読まずにはいられない。》-上野千鶴子(東京大学名誉教授・社会学)
(共同通信社配信、『北日本新聞』2012年4月1日 書評欄、ほか)
http://wan.or.jp/ueno/?p=1506
《介護職員としての仕事の傍ら、高齢者から聞き取った話をまとめたのが本書だ。……昭和初期の会社勤めなど都市生活をの様子を語る人もおり、本書はさながら宮本常一『忘れられた日本人』の現代版とでもいえそうな趣だ。》
(『日本経済新聞』2012年4月15日 書評欄「あとがきのあと」より)
《六車さんは、日本中の寒村を歩いた民俗学者宮本常一の書名を引き合いに「まさに『忘れられた日本人』がいた」と驚いた。六車さんは「介護民俗学」という新しい発想を提唱するようになった。》
(『中日新聞』・CHUNICHI Web 2012年4月3日 より)
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120403/CK2012040302000204.html
☆雑誌で紹介されました!
《「常民の研究といいつつ、フィールドワークではある特別な人たちの特別な話を聞いていたことに気づかされました。お年寄りの話にじっくり耳を傾けるとみなさんすごく喜びます、家族には話しづらいこともおおいですから(笑)」》
(『週刊文春』2012年4月5日号 文春図書館「著者は語る」 より)
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1169
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介護と民俗学という学際的なテーマが気になり購入。とはいっても、読み始めるまで3年近く寝かせてしまった。なんとなく介護職3年目の私には難解な気がしたからだった。
社会福祉士の通信を始め、介護職としての自覚が高まった今だからこそ、発見・共感できることがたくさんあった。213ページとか。
利用者が育ててくれているということ、忘れずにいたい。
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祖父母に育てられた自分にとって、また、デイケア施設に勤務した経験がある者として、この本が世にもたらされたことを(しかも、民俗学者であり、女性である著者というその個性と感性に)感謝したい。
人の老いや死から生を見つめることに関心があり、これまで幾つかの本を手にしてきたが、著者の指摘する通り、「回想法」には実は私も違和感を感じていた(そんなこと・・・)と思っていた。生理的な感覚として。
そのことをうまく表現できずにそのままにしていたが、この本の中で、著者六車さんによって指摘されたことで、自分としては随分とすっきりとしたと感じている。
上野千鶴子さんやまた著者ご自身についてのリアルな人生への向き合い姿勢が紹介されている点も、女性として非常に強く共感を覚える。
多くの方に読んで欲しくて、☆を五つつけました。
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民俗学の若き研究者として活躍していた著者だが、ある時点で大学を辞し、特別養護老人ホームで介護職員として働くことになる(このあたりの事情は本書の主題ではなく、したがって詳しいことはわからない。ただ民俗学のバックグラウンドを持つ人が介護職に就くことになった、ということになる)。
利用者には認知症の症状を抱えている人も多い。慣れない仕事に奮闘しながら、しかし、著者は利用者たちの思い出話が非常に興味深いものを孕むことに気付いていく。丁寧に話を聞いていくと、問題行動とされていたことも、昔の記憶と深く結びついており、実は理由があることがわかった例もあった。例えば、排泄時に使用した紙を汚物入れに入れていた人。実は、人肥に紙が混ざると後で畑で使用したときに風で舞い上がってしまうことから、便とは分ける習慣があった。話を聞いていくうちに、居住区域がどの辺りで、そのような習慣があったのはいつ頃で、と話が具体的に広がっていく。
場合によっては、他の利用者の記憶と話がつながっていくこともある。
こうした広がりは、テーマを決めて聞き取っていたのでは生まれてこない。
お年寄りの話を、興味を持って「驚き」ながら聞くことで、当時の暮らしの中では当たり前だったのに、今やまったく知られていない埋もれた話が聞き出されていく。
それはまた一方で、語り手が語る意欲も刺激する。それが利用者の生き甲斐や支えにつながる例もあったようだ。
ただ、認知症の人に限らず、話を「おもしろく」作ってしまうことは誰しもありうることで、どこまでが事実の部分なのか、見極めはなかなか難しそうだ。
実際問題として、介護の仕事と、民俗学的な聞き書きを平行して行うのには、さまざまな困難があることだろう。他の介護者・被介護者との関わり、さまざまな決まりや制約、先例がないことによる障壁。聞き取る側の個人の資質や、語り手と聞き手の間の相性、どうしても推量が入ってしまう部分があることなども問題になりそうだ。
しかし、著者にはそれでも、この仕事を続けてほしいなぁと思う。そしていつか、一般読者向けのこうした本をまた書いてほしい。
澄んだ「驚き」と怜悧さを備えた目で見つめた、「その頃」の暮らしを。読者の眼前に生き生きと立ち上がるその姿を。
可能ならば、また読ませてほしいと思う。
とにかく、頗るおもしろかった。
*『一〇〇年前の女の子』をちょっと思い出した。
私事だが、先日帰省した際に、うちの両親が昔の話を滔々とし始めて少々驚いた。2人とも教員だったのだが、実家のあたりは若いうちに何年かは僻地に赴任する決まりになっている。そのころの山の村の話などなのだが、これが非常におもしろくて重ねて驚いた。思い出話には語り手の記憶の表側に浮かび上がる「時」があるのかもしれない、なんてことも本書を読んでいて思ったのだった。
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民俗学の見地から、かつての介護事情を書かれた本かと思っていました
そうしたら、介護の現場から見えた民俗の本でした