紙の本
ツァラトゥストラ
2016/02/26 01:00
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:(ry - この投稿者のレビュー一覧を見る
ニーチェの著作には比喩が多く、分かりずらいところが、あります。かくいう私も、永劫回帰とか、超人とか、神は死んだとか、なんとなくは理解していても、詳しい意味まではよくわかっていませんでした。
しかし、この本ではこれらの問いを中心に話が進められているのでちゃんと理解できます。
まあ、ニーチェ解釈としてこれはどうなのかな〜、と思うようなところもありました。でもまあ私の意見なのでここでは詳しいことは言いません。ただ、ニーチェを解釈するということはこの本の作者の考え方も混じっているということだけ留意しておきます。本当のニーチェを知りたいならニーチェ自身の著作を読むに越したことはありません。
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「ツァラトゥストラはかく語りき」にはどんなことが書かれているのだろう。いきなり読むのは難しそうだしと思っていたところ辿り着きました。
ツァラトゥストラ~をわかりやすく解説している部分と、それを現代社会(今の日本)に則して解釈している部分とあって、とてもわかりやすく読みやすかったです。
解説部分は、たんに翻訳と言うことではなく、ニーチェの伝記っぽい感じで、こんな境遇のときにこれを書いたのだ、というのがわかってますますニーチェが好きになりました。
最後に、ニーチェの本のお勧めリストがあって、次に読む本を提案してくれています。
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ニーチェの本には手が出ないけど、思わず「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んでみたくなる。自分の人生を肯定できるか…。自由という不安の真っ只中に放り出された現代人には宗教的なものに回帰する必要があるのではないかと素人考えに思っていたが、すでに120年前にニーチェが示唆していたのですね。そう、神は死んだのだから、依拠できるものは自分で探さねばならないのだ。
ちなみに「私が大切にしてきたものは何だったかな、どんなことが自分にとって喜びだったかな」と問いかけて悦びを見出し、その悦びを得るためであれば永遠回帰を受け入れる…この部分は「ほぼ日」の就職論っぽく、「ルサンチマンなんか関係なく常にクリエイティブに生きようとする力強い存在」である超人は、ビジネスモデルとして参考書に取り上げられそうなスタンフォード的存在として読み取れる。ツァラトゥストラって、学問のすすめとならんでビジネススクールの教科書になるのでは?
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ニーチェの解説本を超えて、日本人がどうやって生きていくことを考えるか、まで語っている本。
311の発災直後の影響が著者の自論に反映されていて、言論としても読みごたえのある良書かと。
以下読書メモ
私たちはどうやって行きていけば良いのか
ゾロアスター教の開祖の名を借りて描いた聖書のパロディー これまでの西欧価値の批判
科学、計画経済、経済成長に変わる価値
価値がわからなくなってニヒリズムの無
固定的価値や真理でなく自ら価値創造を
主要なテーマは超人と永遠回帰
ヘーゲルの社会派に対する実存派
自分がどう生きるかの問題
バッカス 闇や陶酔 欲望や享楽
アポロン 輪郭や秩序 理性や論理
悲劇を滅ぼしたアポロン的楽天主義を批判
ルサンチマン
ループ センチメンタル
繰り返す感情としてのひがみや復讐感情
良いの本質
貴族的価値評価 自己肯定 自己感情
僧侶的価値評価 自己犠牲 神への忠誠
ニヒリズムと日本人
目標に向かって頑張るから生活を楽しむへ
憧れを持たず安楽を第一とする人への警鐘
三段の変化 守破離に似ている
1 忍耐強い精神
2 欲する 伝統や権威の否定
3 創造の遊戯
語り合い
超人が孤独にならないために
頼ることを学ぶ
尋ね合う関係を作る 聞き取る姿勢
強くなるのは体力じゃなくビジョン
語り合いで自他の意見を確かめる
これがないとますます個別化されて不安に
永遠回帰
繰り返しても後悔せず納得できることを
本当に素晴らしいことがあれば後は辛くてもいい
失恋を私がそう欲したに作り変えること
受け入れられないならはっきり叫んで呪う
恨みに埋没すると主体性と悦びを失う
都市と市場経済
自分の人生を選べるようになった
生きがいを問う人間が生まれた
日本は一人で生きられる自由を求め個別化
その個別化はもう限界にきている
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ニーチェの中心的な概念、神は死んだ、生の快楽の肯定、ルサンチマン、ニヒリズム、超人と末人、永遠回帰をわかりやすく解説。古典を直接読んで理解するにはまだまだ力が足りない段階なので、これくらいの解説がちょうどよく、理解が進んだ。今、自分の人生を自分のものとしてどう考えるか、考えてみたい。
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西研せんせー好きとしては一読せねば、ということで。
どのテーマもそうだが、テキストブックよりこちらの方が読み応えがある。
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もっとも、ヘーゲルとニーチェでは、語り方にニュアンスの違いがあります。ニーチェはまず「高揚」や「悦び」を強調するのに対して、ヘーゲルは「普遍性」(自他ともに認める普遍的な価値)を強調するからです。ニーチェならば、「まずは元気になること、悦ばしいことをやれ」というでしょう。他者に承認されるかどうか、価値があるのかどうかなどは放っておいて、まず自分が元気の出てくることをやれ、というセンスです~。
ヘーゲル:社会派
ニーチェ:実存派
ルサンチマン うらみ、ねたみ、無力からする意思の歯ぎしり
ニヒリズム 神は死んだ
固定的な真理や価値はいらない。自ら価値創造する意識。
現状を前向きに受け止め、主体的に創造的に生きて行く
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おすすめ度:85点
ニーチェ著『ツァラトゥストラ』解説本。西氏が自己の体験談を交えつつ、現代社会に合わせて解釈している点がとても良い。また決して盲目的にはならず、時には足りない点もあると指摘していることもGOOD。
「ルサンチマン(=うらみ・ねたみ・そねみ)」は自分を腐らせてしまう。主体的に生きる力を失わさせてしまう。
神は弱者のルサンチマンから生まれた。「神は死んだ。」
いかにしてニヒリズムを克服するか。
「超人(=高揚感と創造性の化身)」になっていくプロセス。ラクダ(=重い荷物を背負う)→獅子(=「われ欲す」)→幼子(=創造の遊戯)。
「永遠回帰(=徹底したニヒリズム)」→人によっては絶望する?→魂がたった一度でも、幸福のあまりふるえたなら。障害者の方の例。
西研氏の主張「ニーチェのいう創造性は「表現のゲーム」という仕方で引き継がれる。」「語り合い、確かめ合う。」「悦びと創造性の精神をもって生きる。」
斎藤環氏の主張「自分の欲望こそ自分自身にほかならない。」「自分を肯定する。」「自分の欲望を諦めない。」
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苦しんで創作して何かを成し遂げることが人生の醍醐味だと改めて悟った。ただ楽して生きるのは、楽かもしれないが、どこかで自分の人生にこれでいいのだろうかという疑問が耐えないであろう。ニヒリズムの時代だからこそ、本当にほしいものは何か自分自身に問いかけ、それに目掛けて努力するのみである。
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ニーチェのことを知りたくて買ってみましたが、著者の主観も多く例えが普通の日常だったりしてがっかりしました。ニーチェについても「私は違うと思う」とか。
説明もいろいろ織り交ぜすぎてわかりにくい。
言葉やポイントになる部分はよかったので、拾い読みして終わりました。
本日2/8、家人から違う意見の人を聞くのも大事だと促されて再読しました。
いやニーチェ崇拝から少し離れて考えてみるとまた色々考えさせられます。とてもいい本でした。
やはり哲学においては互いの意見を聞き合うということが常に重要なのだと再認識しました。
ありがとうございます
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『ツァラトゥストラ』と並行して、感動しつつ読んだ。『ツァラトゥストラ』だけでは無理。
著者なりの解釈で、永遠回帰、運命愛、超人の関係がよく分かった。
超人になるのは大変だ、というのがよく分かった。
これでいい、ではなく、これがいい、と自分(の人生)を肯定しきることができるか?できそうな気持ちになったけど、肯定できない人生もある。
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さて、「永遠回帰」の意味するものについて見てきました。でも、「何度も繰り返しの人生を生きることを欲する」なんてことは、本当にできるのでしょうか? 大学でニーチェを講義するとき、ぼくはよこくの質問を学生に投げかけてみました。よくある答えは、「いまの人生を全否定するわけではないが、楽しいことがあっても厄介なことはもあったわけで、まったく同じ人生をもう一度というのは実際には辛いかな。一度ならいいけど」というものでした。そして「何度も繰り返していい、というところまで自分の生を肯定する必要なんてあるんだろうか?」と疑問を呈する人もいました。でもなぜ、ニーチェは「永遠に繰り返せるほどの生の肯定」を求めたのでしょうか?
それはルサンチマンの克服という問題と深くかかわっていると思います。
ニーチェは、「こうあった」--たとえば「両親が離婚してしまった」「身体の障害をもって生きていかなくてはいけなくなった」「好きな人から別れを告げられてしまった」というような、ネガティブな過去のできごとーーに対する意思の歯ぎしり、ということをいっていました(第二部「救済」)。たしかにこのようなことを耐えつつ生きていくのは辛いものです。だからこそ、どうすることもできない「無気力」を感じ、そこから何かに心理的に復讐したいという気持ちが生まれます。失恋のばあいなら、自分をふった人に対して「どうせあんな女なんか」と急に欠点を探し出したりするかもしれません(ほんとうは素敵なのに)。人間の心にはそんな動きがあって、無力な復讐心で紛らわそうとするわけです。これがルサンチマンです。
このような状態から、ふつう人はどうやって抜け出ていくのでしょうか。多くのばあいは、しばらくは呻いたり呪ったりしながら、時間が経つにつれて「しかたがない」と思いはじめて、だんだんと受け入れていくのでしょう。ところが、ニーチェは「しかたなく」受け入れるのではまだだめで、「それを欲した(意欲した)」にしなくてはいけない、すなわち「失恋してよかった」としなければいけないというのです。「すべての『こうあった』を『私がそう欲した』につくりかえることーーこれこそわたしが救済と呼びたいものだ」(第二部「救済」)と。
「しかたなしの受容」というのは、みんなわかると思うのですが、「これ“が”いい。私はこれを欲する」ということになると、多くの方が「それは無理ではないか」と感じるのではないでしょうか。たとえば身体の障害であれば、「障害をもったことは、“しかたがない”ではなく、障害をもったことを“欲する”」、つまり「何度生まれ変わっても障害者であることを欲する」までいかなくてはいけないわけですから、これはとてつもなく厳しい要求です。ぼくも最初にこれを読んだときは「何もそこまでいわなくても」と思いました。
けれどもあるとき、ふと友人のKさんの言葉を思い出したのです。Kさんは、一九八〇年代の初頭、ぼくがまだ二十代のときに出会った人で、「骨形成不全症」という病気を抱えた女性でした。発育不全で身体は小さく、骨が弱くて脆いために骨折を起こしやすいので、彼女はいつも車イスにのって移動し��いました。以前は看護体制の整った施設で暮らしていたのですが、そこではさまざまな人たちとつき合う「関係の悦び」が得られにくい。当時は「障害者よ、街へ出よう」という「自立障害者」運動が盛んな時期でしたから、Kさんも公的扶助などを受けながら、ボランティアの人にお願いしてアパート暮らしをするようになったのです。
しかしトイレ介護を受けないと一人ではできないので、夜眠るときでも必ず誰かが付き添っていなければなりません。彼女は二百人ほどの名前をリストにしたノートをもち、今日はこの人、明日はあの人というように、自分のおなかの上に電話器を置いて電話しながら、介護のスケジュールを埋めていたのを思い出します。
Kさんはこの「自立障害者」運動のなかで、たくさんの障害者や健常者と出会って友だちになりました。彼女は大学生ではありませんでしたが、車いすを押してもらって大学のゼミにも顔を出し、そこでぼくもゼミ生の一人として彼女と知り合いになったのです。その彼女が、あるときこんなことを話してくれたことがあります。
「障害者の仲間の間では、こんな話があるんですよ。『もし天使が降りてきて“あなたの障害をすっかり治してきれいにしてあげる”といわれたら、そのときはどうする?』って。私は『このままでいい。障害をもって生まれたこの身体をもう一度選ぶ』と。それを聞いた二十代のぼくは、「ほんとかなあ? それはちょっと無理があるんじゃないかな」と思って、彼女にもそういった記憶があります。
でもだいぶ後になって、あらためてこの「永遠回帰」の思想――マイナスな生の条件に対しても“われ欲す”といえるとすれば、どんなときだろう」と考えてみたとき、彼女の「このままでいい」といった理由がわかる気がしたのです。
彼女にとっていちばん大切だったのは「関係の悦び」だったのだと思います。障害をもって生まれてきて、施設にいれば安全だけど悦びは少ない。それに対して「外に出る」ことは大変なリスクを伴うとしても、さまざまな人たちと出会える。新しい出会いを通じて生活を作れるのは、彼女にとってとても大きな悦びだったと思うのです。「障害だけを見ればたしかにマイナスだ。でも、この障害とともに自分の人生はあった。苦しみもあったけれど悦びもあった。障害のおかげで、他の障害者や健常者の友だちに出会えた。素敵な出会いがたくさんあった。この人生全体を私は愛す」と彼女は心から思っていたのかもしれません。
あらためて「マイナスをどうやって欲するか」について考えてみましょう。「しかたがない」という言い方は、たしかに受け入れてはいますが「外から押しつけられた」感を伴っています。ですから、「もしこれがなかったら」と考えてしまう可能性が残っている。でも「このこと(障害)が私の生を作っている」と思えたならば、それは自分の人生の内側を形作っているものとして受け入れていることになります。それはもう自分から切り離せる「外からの」ものではない。苦しみも悦びもつくり出すきっかけにもなっている。そう考えるならば、マイナスを含めて自分の人生を肯定できる。そしてその人生を何度でも繰り返そうと思えるのかもしれません。
ふたたびルサンチマンについて考えてみましょう。���もそも、なぜルサンチマンは「よくない」のでしょうか? ルサンチマンとは「無力感から生まれる復讐心」のことですが、ぼくなりの言い方をすれば、前向きな力を損なうところが問題なのです。
まず第一に、それは「自分が人生の主人公であるという感覚」を失わせる。自分の人生を自分でコントロールしていけると思える「能動的」な感覚、これをだめにする。さらにもう一つ、「みずから悦びを求めて汲み取ろうとする力」を失わせる。たとえば、同じ時間で仕事をするときに、嫌々ながらやることもできるし、悦びを得ようとすることもできますよね。ルサンチマンとは「ブーたれ」ですから、自分から動く能動性を失わせてしまい、「文句をいう」という微弱な快感とひきかえに、積極的に悦びを汲み取ろうとする力を損ねてしまうのです。
さて、いよいよ本題へと入りますが、ニーチェの思想のうち、私たちが現代を生きるうえで大事だなと思うポイントをいくつか拾ってみましょう。
最初に強調したいのは、ニーチェの思想は、まさに「いま」という時代を生きるさいの「柱」になるものだ、ということです。高度経済成長期のように、「いまは自分たちは貧乏だけど、いずれ豊かになれる」とか「あそこには素晴らしいものがある」という目標が与えられない時代です。
そんななかで、「では何ができるのか」と考えたときに、もしあなたが「自分の人生を自分でつくっていく主役でありたい」と願うならば、この状況で「何が自分を悦ばしくするか」を問う以外にありません。--これは一見、とても厳しい思想のように思えます。「こうやって生きるべきというものはない。どのように生きてもいい。そして、どの絵を描くのかもすべて君に委ねられているのだ」というので、恐ろしく感じる人もいるかもしれません。しかしそれは、人を本当の意味で自由にしてくれる思想だとぼくは思います。
なぜ「この作品はすごい」のか、なぜ「この作品はいまひとつダメなのか」。こうやって互いに語り合われることを通じて、人生に対する態度や、他社に関わる態度、社会に対する姿勢など、自分がいままで無自覚につくってきた「よい・わるい」の感覚が、他者の感覚と照らし合わされ、検証されていく。そのプロセスを経て、「やっぱりこれはいい。これはよくない」という価値観の軸ができあがっていく。こういうことが文化の本質でしょう。一言でいえば、自他の価値観を照らし合わせながら、ほんとうに納得のいく価値観をともにつくりあげていこうとすることです。
こうした語り合いのないところに、「創造性」や「高まること」はない、とぼくは考えるのです。
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ニーチェの思想が知りたくて読んだ本。ニーチェや「超人」、「永遠回帰」、「ルサンチマン」の思想を知ることできて良かった。この本を読んで、ニーチェの妹のエリーザベトが酷い人だということを初めて知った。自分の生き方は自分で決める、人と高め合って生きる、何が自分にとっての悦びなのか、唯一絶対の真理は無いというところが特に印象に残った。
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今、改めてニーチェが見直されていますが
他人からの承認ではなく、自分自身が日々をどのように受け入れて生きているか…。
不遇な生涯ながらも今なお指示されているニーチェ。
ルサンチマンとどう向き合い、受け入れ生きていくか。
自分はまだまだ未熟ですね。
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ニーチェの思想を解説する本はたくさん出版されており、そのうちの何冊かを読んできているが、この本はその中でもよくできていると思う。ニーチェの思想の核になる部分を、やさしい言葉で簡潔に解説している。そしてまた、後半では著者の考えを展開することで、ニーチェの思想に足りなかったもの、あるいはその思想史的な位置を浮かびあがらせている。装丁や頁の体裁も見やすく、今、初学者に勧めるならこの本ではないかと思う。「100分de名著ブックス」は玉石混淆。これは大当たりだと思う。