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内田先生の神戸女学院大学最後でクリエイティブライティングという講義だったそうな。というところで僕の期待は大きく裏切られた。文体論というか文章論と感じた。前半はそんな落胆に包まれた私でありましたが、エクリチュール(だったかいな?)とか出てきたあたりからは流石の内田先生で面白かった。
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小田嶋隆さんのコラム道あとがきでビビッときて、ミシマ社さんのリツイートの嵐による誘惑に負けて買ってしまいました。まぁそうでなくても遅かれ早かれ手に取っていたとは思いますが。ミシマ社さんの戦略により(笑)相当ハードルは上がっていましたが、やすやすと越えていかれました。
「私には言いたいことがあるのです。
お願いだから、わかってください。」
文章の根底にあるのは伝えたいという情熱と、読者を敬う思い。それがあるから、本でもブログでもTwitterでも、内田樹さんの文章はぐっとくる。難しいな、よくわからないな、と思っても、いやいやもう一回読んでみよう、何か大切なことが書いてある気がする、わからないのは私の頭がきちんと働いてないからだ、と思って、姿勢を正してもう一回向き合ってみる。
媒体が何であれ、その文章に、言葉に、一文字一文字に込められた熱というものは伝わるんだな、と感じました。読み終わるのが本当に惜しかった。もっともっと講義を受けていたい、もっともっとこの熱のこもった文章に触れていたい、そんな思いで本を閉じたのは久々です。
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初めから何かを得るためにやるんじゃなくて、やりながら、或いは終わったときに「あぁ私はこれを得たんだ」と気づく。そんな体験の大切さを内田先生の著作からこれまでも教わってきたけど、クリエイティブ・ライティング、「生成的な言語」について語る今作もそういうメッセージが通底していた。バラエティに富んだ論点、どれもこれも難しい未知のジャンルなのにとても読みやすい語り口なのはいつものことで、レヴィナスのことなんて何も知らないけど私もちょっと知ったような気になれたとき、あ、この本はまさに内田先生の「届けたい」気持ちの結晶で、私はそれを受け取ったんだと感じました。付箋をたくさんつけました。特にライティングに関すること、知的な階層社会・文化資本に関する話にぐいぐい引き込まれて、ちょっと忘れないでおきたい。
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興味深いお話が次から次へ…。村上春樹の『羊をめぐる冒険』には『グレートギャッツビー』と『ロンググッバイ』という先行する作品があったというお話は目から鱗! なるほど、そうだったのか!
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内田タツルさん渾身の一冊ではないでしょうか。読み手に伝わる文章とはどういうものか、技術論でも(経営コンサルが押し売りする)コミュニケーション論でもない言語活動のすごく根源的な部分に踏み込んでいる一冊です。エクリチュールとか聞いたことあるけどよくわかんない、言語哲学はちょっと食わず嫌いという人もするする楽しめる、読み終わると、色んな本が読みたくなる、書くことに対しても誠実になれるそんな本です。
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とてもおもしろかった。
「文体論」というタイトルからは、どんな講義が展開するか予想がつかず、話題としてもかなりあっちこっちに移動しているのだけれど、その脇道にそれていくどの話しも面白く、しかも、そのすべてが終盤では一つにつながっていく構成も見事だった。
内田氏の、今までの総決算ともいうべき講義録ということで、他の著書で過去に読んだことのある内容もたびたび出てきたけれど、それらが有機的につながり、すべてが詰め込まれているような感じで、とても密度の濃い内容の一冊だった。
つまらないものを書いた人はつまらないなりにいいんです。というと失礼ですが。むしろ、少し個性的で、かつ、つまらないというのが、いちばんがっくり来ます。「ちょっと自分らしさ出してみました。でも、悪目立ちしたくないから、適度に抑えました」というのがいちばんつまらない。そして、圧倒的多数が、「そういう文体」を採用していました。個性は出したい、でも悪目立ちしたくない。その二つが葛藤して、どっちつかずのものになっている。それがいちばんつまらない文章の書き方なんです。(p.31)
最初に、みんなに言っておきますけれど、こういうのは「一本勝負」なんです。「ここ一番」というときに、「ああいうもの」を書いちゃダメなんです。仮にも「クリエイティブ・ライティング」と題した授業の履修の可否を決定するものを書くときに、「手抜き」のものを書いたらダメでしょう。でも、これまでの人生「手抜き」で通してきた人は、つい「手抜きベース」になっちゃうんです。そういう人は「手抜きじゃなく書く」というのがどういうことかわからなくなっているから。
文章を書くということは、いつだって「限界に挑戦する」ということなんですよ。わがうちなる「バカの壁」、わがうちなる「凡庸の境界線」を踏み破ってゆくということなんです。そうじゃないと、ものを書くことなんて、本当にただの苦役にしかならない。(p.34)
『細雪』の訳があるんですよ。驚いたことに。『細雪』なんていうのは、芦屋のブルジョアの四人姉妹が、そろそろ結婚したらいいんじゃないの、えーやだとかいいながら、花見に行こうとか、三宮にご飯食べに行こうとか、そんな話ばかりを延々とやっている小説です。途中で水害があったり、身分違いの恋があったり、ちょっとどきどきする展開もあるんですけど、基本的には、花見に行ったり、紅葉見に行ったり、寿司食ったり、ワイン飲んだりするだけなんですよ。ところが、それが英訳も仏訳もされている。「谷崎潤一郎の『細雪』って、最高」と言うフランス人がいるんですよ。どうして?と思うでしょう。『竜馬がゆく』のほうが絶対面白いのに・・と思うでしょう。『細雪』なんて、昭和十年代の阪神間のブルジョアの生活を知らない人にとっては意味不明じゃないかと。でも、こっちのほうが「世界文学」なんです。(p.108)
理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。浴びるように「異語」にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語にしか存在しない語に自分の身体が同期する瞬間が���れる。それは、ある意味で、足元が崩れるような経験です。自分が生まれてからずっとそこに閉じ込められていた「種族の思想」の檻の壁に亀裂が入って、そこから味わったことのない感触の「風」が吹き込んでくる。そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その「一陣の涼風」を経験するためのものだと僕は思います。「英語ができると就職に有利」といった「手持ち」の理由で外国語を学ぶ人たちは、どれほど語彙が増えても、発音がよくなっても、自分の檻から出ることができない。(p.245)
「檻ごと動く」というのは、言い換えると、定型を身体化するということです。定型性を身体化して、自分のなかに完全に内面化してしまう。自分に与えられたローカルな母語的現実を「普遍性を要求できないもの」として引き受け、それを深く徹底的に内面化していく。
そのために有効な方法が一つ知られています。それは母語の古典を浴びるように読むということです。古代から現代に至るすべての時代の「母語で書かれた傑作」と評価された作品を、片っ端から、浴びるように読む。身体化するというのは理屈じゃありません。ただ、浴びるように読むだけです。それが自分の肉体に食い込んでくるまで読む。
身体化した定型は強い。危険だけど、強い。というのは、母語の正則的な統辞法や修辞法や韻律の美しさや論理の鮮やかさを深く十分に内面化できた人にはどのような破格も許されるからです。
破格や逸脱というのは、規則を熟知している人間にしかできない。悪魔は神学的には天使が堕落したものとされています。神とまったく関係のないところに悪魔が孤立的に生まれることはできません。というのは、神の定めたすべてのルールを完全に内面化していないと、あらゆる場合に神の意思の実現を妨げるという悪魔の仕事が果たせないからです。「神が何を考えているのかよく知らない悪魔」というのはありえません。そんな悪魔はうっかりして善行を施したり、摂理の実現に力を貸したりしかねません。神の意思と、その行動パターンすべてを熟知しているものだけが、摂理の裏を掻くことができる。言語上の破格や逸脱もそれと同じです。(p.262)
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様々な示唆に富んでいる本。
講義体裁での信仰などで少し冗長感がないでもないが、逆に読みやすくもなっているかもしれない。
著者の年齢のおかげか、練られている部分も多分にあるが、少し古く硬い思考がベースにあるところも散見されるように思った。
純粋に「文章を書く方法論」的なエッセンスだけ取り出した抄録的なものがあってもよいかもしれない。
何度か読んで自分に落とし込む必要があるかもしれない。
払ってもいい金額:1,200円
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内田さんの本は相変わらず面白い。内田さんの本が面白いと思える点は、フランス現代思想や教育論、映画や文学いろんな世界を「一つなぎ」にして読者に話を伝えるのが人一倍うまいからではないだろうか。
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言葉は響く。言葉の意味が意図した通りに響くかどうかは別として。そう書いてみてもとても心許ないのだけれど、意図したことってなんだろう。きっと言葉というのはカプセルみたいなもので、その中に入った成分は一度身体の中に取り込まれて消化される必要があるということなのかな。でもカプセルが全ての人に飲み込まれる訳でもないし、飲み込まれても溶けて中身を放出するとは限らない。結局は言葉は届く人にしか届かない。そんな風に自分自身も思ってしまっているし、世の中の大方の人もやっぱりそう思っているのじゃないかと思う。しかし内田樹先生は、それは届く言葉を発するか発しないかの問題だと指摘する。ぐっと詰まるものが身の内にむくむくと沸きあがる。
内田樹の言葉には説得力のようなものがある。それは論の明快さのようなものに裏打ちされての印象でもあるけれど、この「街場の文体論」の中で展開される論理は少しだけ紆余曲折のようなものが多い。結論へびしっと導かれているような印象は必ずしもない。それでも説得力と捉えているものは他の著作にあるものと少しも変わらない。それはご本人が言う通り、届く言葉を語るという思いの強さが大きいということなのだろう。
言語学を研究した先人たちが言う通り、言葉そのものは単なる記号に過ぎないのかも知れない。カプセルのように特別な意味が言葉に込められている訳ではない。その通りと思うこともあるし、そうではないと思う時もある。経験上知っているのは、テキストの遣り取りだけでお互いの理解を深めるのはとてつもなく大変なことで、面と向かって話せば理解は一気に進んでしまうということがしばしば起こるということ。会ってテキストに書かれたものと同じ言葉を使って話をしている時、言葉に何か別なものが付加されているのは間違いないと思う。言葉は切っ掛けを生むための符丁にしか過ぎないのだなと思う。符丁が合致することをお互いに認識すると、暗号が解けるかのようにテキストに起こされた言葉の意味するものは、大した支障もなく伝わることが多い。
しかしそう実感した上で敢えて言うのだけれど、お互いに理解し合えたと思うことと、実際に共通の理解が為されたこととの間には、やっぱり深い溝がある。会って言葉を介してコミュニケーションを図る時、「理解してほしい」「それなら理解してあげましょう」という思いはとても強く行き交うけれど、理解して欲しいことの理解が進むとは限らない。理解したとお互いが思ってもお互いに誤解しているだけのことも間々ある。
理解は受動的なものではなく、能動的にしか起こらない。誤解してしまうのは、自分の理解したいように相手の言葉を受け取ってしまうから。できるだけ誤解の余地のないような言葉を選んでみても、言葉が誰にでも同じような作用を引き起こす成分を内包したカプセルのようなものでないのなら、相手の頭の中でどのような化学反応を引き起こすのかは最終的には言葉を発する側に制御はない。
でもある意味それでいいのだ、と内田樹先生は仰っているようにも思う。でもそれでもいいんです。それでも伝わるものがある筈なんです、と内田樹先生は自分たちを励ましてくれる。最終的にその言葉を���した人の頭の中に在ったものが、こちらの頭の中で完全に再現されることなど誰も保障してくれないけれど、ひょっとしたら自分の頭の中の活動はどこまでいっても恐ろしい程の空虚の中にぽつんと浮かんだ恒星の活動のようなものなのかも知れないけれど、届けたいという思いがあればいいんです、と。届けたいという思いがあれば、言葉は届くものなのです、と。これ程大きな勇気を与えてくれる言葉を発し続ける人を自分は他に知らない。
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神戸女学院での最終講義をまとめた1冊。
専門分野の研究をとおして物の見方やこれからの学問が向かうべき方向性を示した良書。
語りがやわらかく読みやすい。
村上春樹、町田康、漱石や谷崎などの解説が絶妙。
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読み終わってないけど、一度手放しました。
なんども頭から読み始めて8割くらいまで読み進められるんだけど
そこからがなぜかどうしてもページをめくれなくて。
いつか再開したら 最後まで読みたいものです。
中身はいつもの内田節でおもしろいです。うんうん、と納得する。
最近はブログとかでも(表現や手段は違ったとしても根本的には)同じ様な話をしている方も多いのですが、アカデミックという立場から発言されているということの意味はやはりあるなと思う。
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書き方に留まらず、読み、学び、生きる術がここに書かれている。
そしてそれを伝えることのみを強く熱望している。
それこそが「文体」というものなのだろう。
「使命感」と言い換えてもいい。
どうしても伝えたいものがある。それはまだ言葉になっていないが。
そうしたときにこそ、文体はドライブしていくのだろう。
この本に出会えた僥倖に感謝。
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著者の大学最後の講義「クリエイティブ・ライティング」の講義録。こんな授業なら受けたいなー。バルトとかソシュールとか、難しくて分からないんですが、そもそもメタ・メッセージが伝われば良いんじゃという講義で、その辺は分からなくても良い。熱いメタ・メッセージは伝わってきたのでなるほどな一冊。
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16 自分のふだん使い慣れた語彙やストックフレーズを使い回すだけではコミュニケーションが成り立たない。そういう「遠い」という感覚があると、自分の「ふだんの言葉づかい」から一歩外に踏み出すことになります。
122 僕たちはエクリチュールを選ぶことができる。自分を幽閉する「檻」を選ぶことはできる。でも、一度選んだら、言葉づかいについての決定権を失ってしまう。エクリチュールが要請する言葉づかいで、エクリチュールとなじみのよいコンテンツを語ることを発話者はほとんど強制される。
140 僕自身、社会はできるだけ高い流動性を維持すべきだと思っています。エクリチュールというのは、本質的には集団を固定し、流動させないための装置です。
159 語法のあり方は社会状況のあり方とぴたりと同期しているんです。フランスにおいては、「語法の檻」はただしく「社会の檻」として機能している。
201 想定読者がいないテクストというのはらなんだかもごもごする。どこを見ているのかわからないで、眼を宙に泳がせてしゃべっている人の口調のような、ぼんやりしたものになる。
211 計測技術が未熟であれば、現象にあきらかに数値的な変化があっても、それをエビデンスとしては示せない。
228 社会的成熟というのは、単に身体が大きくなるとか、知識があるとか、有用な技術を身につけているということではありません。同期できる他者の数が増えたことによって、上空から「自分を含む風景」を見ることができるようになることです。
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☆4なのは、きっとまだ私には、読み返して見つけるべき発見があるからだと思う。
わたしはきっと、「育ちのよさ」とかそういうのを余り持たぬ人間なので、「生まれながらに環境が備わっていて身に付いたもの」など、人並みかそれ以下でしかないと思われる。(客観的に計りようがないが、「あぁ、この人は育ちが良い」と判断できる時点でそのように思われます)
私は絵を見るのが好きだから、それについて調べるのも好きで、
でも後から努力して身につけたものは、身に着けようと思えば思うほど、既に備わっている人との溝を感じる。
でもそれは、わたしが努力しなくていいって理由にはならないし、わたしが絵を見ることを好きだ、それについて調べるのも好きだ、ということを否定する理由にもならない。
私が生きるうえで感じる、何かに対しての「疚しさ」であったり、「屈託」だったりするものはきっと、「既に持っている人」に対する憧れと、何をしても届くことがない圧倒的な力への挫折のような心持ちなのかもしれない。
ただ、今は、
自分が歩み続け、楽しむことを忘れなかった「興味」への矜持を、「続けて」、自分が身を投じている教育現場で「繋げて」いくことを、
するだけだ。
誰でも等しく「知りたい」という気持ちをこんなふうに諦めずにいられるのは、知識ある人が、より多くの人のために自分の能力を使うことを惜しまなかった、先人の「学びのあり方」ゆえのものと思います。
私は「知識ある人」にもなれない普通の人間だけれど、先人たちが残してくれた足跡を辿り、途上の山を、高みを目指し上っていくことをしていきたい。