紙の本
すごく贅沢な読み比べ
2021/01/26 22:29
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
10年以上前に、新潮文庫で野崎孝氏の訳を読んでいる。今回は柴田元幸氏の訳で読んでみた。二人の名高い翻訳家の訳したサリンジャーをまるで読み比べでもするかのように楽しむ。すごく贅沢な時間が過ごせた
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僕が無人島に持っていくべき本。
新装されていたので再読しました。
10年ぶりくらいに読んだのですが、ぜんぜん色あせてなくて驚き。
観賞用に飾っておいたフルーツを割ってみたら果汁が溢れてきたみたいな
不思議な感覚。なんだこれ。
若い頃に読んだ野崎孝さんの訳から
柴田元幸さんの訳に変わって、9つのお話のタイトルからいきなり違うので若干戸惑いましたが
中身の良さは変わらず。
でも思い入れが強いぶん前のタイトルの方がよかったような気がしてしまうなあ。
「バナナフィッシュ日和」より「バナナフィッシュにうってつけの日」のほうがいいし、
「ディンギーで」より「小舟のほとりで」の方がいい。
特に「小舟のほとりで」は一番好きな話だったんですが、
さすがに自分もおっさんになったのでその辺の感性は変わってるだろうと思ってて。
でも読んでみたらやっぱり今回も一番印象に残りました。
切ないまでに純粋な子供たちの描写がぐっときます。
再読して正解でした。
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「攻殻機動隊S.A.C」に登場する"笑い男"、ナイン・ストーリーズに収められる9つの話の中の1つである。全体的な世界観は「ライ麦畑でつかまえて」に代表される厭世感であるように思う。1話1話の質がとても高く、また読み直してゆっくり考えたい一冊。
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柴田元幸さんの新訳で再読。旧訳よりも読みやすかった。
登場人物たちのキャラクター、会話が魅力的。女性二人の割込んだり脱線したりの会話、子どものちょっとしたしぐさ、外の世界への目線などリアリティがある。小説の登場人物ではなく、現実に彼ら彼女らが存在していて、その日常を覗き見しているよう。
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初サリンジャー作品。
?なところが多かった。
もうちょっと別なやつも読んでみよう。
個人的に笑い男が印象的。
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純文学とは何か?という議論がある。
娯楽性を排除しさえすれば、純文学になりえるというものでもないだろう。少なくとも、この作品には娯楽要素などない。だからといって、日本における「純文学=私小説」というわけでもない。
作者の私小説的要素は皆無だし、これがアメリカ的な文学なのだろうか。
9つのエピソードからなる短編集。
それぞれの物語では、大きなドラマ性はない。
人々の日常が、日常ゆえの無駄に思える会話から成り立っている。その無駄を楽しめるかどうかで、この作品の評価が変わるのだろう。
強いて挙げるなら、戦地に赴く新兵が、教練のあいだに立ち寄ったカフェでであった幼い女の子との交流を描いた、「エズメにーー愛と悲惨をこめて」がよかったかなあ。しかし、実のところ、一つの作品を取り出してみたところで、あまり意味はないだろう。
作品一つずつの輪郭はぼやけている。九つの作品が集まって初めて、ナインストーリーズという作品を形成しているのだ。
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『完全なる首長竜の日』で主人公が井之頭公園で読んでいた短編集
バナナフィッシュの話が収録されている
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装丁が印象的。シンプルで一見手がかかってなさそうに見えるのに、なぜか大事にしたくなる。本を手で持ったときの手触りも他の文庫本とは違って独特。
サリンジャーの短編はあまりひとつの作品からいろいろ読み取ろうとして読むものではないと思う。漠然とした腑に落ちない感じを楽しむのが良いのかなと。
ただ、よく読むと人間関係がつながっていたり、登場人物の挙動が実は何かのメタファーになっていたりしていて面白い。
一つ一つを完結した作品として取るのではなく、全体を(というか、サリンジャーの他の作品全ても合わせて)ひとつの世界として捉え、短編はその世界の中のとあるワンシーンを切り取ったものだと考えて読んでいます。
この短編集については野崎訳のものを持っているんだけど、柴田訳の方が口語(会話文)が今どきっぽいかなと思う。野崎訳の温かみも、彼ならではの捨てがたい魅力だけど!
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短編小説と長編小説とは全く別物であるように思う。ストーリー展開や、描写の積み重ねで徐々に引き込んでいく長編と異なる、なにかしらの魅力がない短編は、長編のなりそこないでしかない。
この本はまさに短編小説。
特異な緊張感によって一瞬で引き込まれ、短さを感じさせない重たさがある。こんなに訳がわからないのに再読したくなるのはなぜだろう。
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ジョアンナ・ラコフの『サリンジャーと過ごした日々』を読んで、久し振りにサリンジャーが読みたくなった。書棚を探すと黄ばんだ新潮文庫版の『ナイン・ストーリーズ』(野崎 孝訳)が見つかった。自分で購った記憶がないから妻の持ち物だろう。たしか柴田元幸による新訳が出ていたはず。新旧訳を比べてみるのも面白かろうと、読みはじめたところ、よく分からないところが出てきて、ついに原書まで注文する破目となった。
サリンジャーが売れ出す前に書いた習作を含む作品群のなかから自ら九篇を選び出して一冊にまとめた初期短篇集、以後この九篇以外の初期作品はアンソロジーなどに収録することを一切許さず封印してしまう。いうならば定本である。サリンジャーの作品をすべて読みたいと思ったら、初出掲載誌を探して読むしかない。人前に姿をさらすことがなく、寡作で「ハプワース」以後新作を発表しなかった作家だけに、その世界の成立過程を知る上で貴重な資料となる一巻である。
数ある初期短篇から選び抜かれただけに、なるほど完成度が高い。いかにも「ニュー・ヨーカー」の読者層が好みそうな、気の利いた会話や都会的な風俗のスケッチが続き、つい気をゆるして読んでいると、最後に切って落としたような結末が待ち受けていて、読者を凍りつかせる。感傷性を排した語り口は残酷で、自意識のない人物に対しては仮借なく、その俗物性を暴き立てる。一方、小さな子どもや弱い立場にいる者に向ける視線にはシンパシーが溢れる。
巻頭を飾る「バナナフィッシュ日和」には、グラース家の記憶の中に生き続ける伝説的な長男シーモアが、繊細な横顔を披露している。戦争後遺症から立ち直れない夫と旅行中の娘が心配性の母親と電話で交わす会話から場面は一転、渚で少女と戯れるシーモアのイノセントな姿に切り替わる。シーモアの剥き出しにされた神経が痛みを感じないのは無垢な少女を相手にした時だけらしいことが読む者に伝わってくる印象的な場面だ。しかし、透徹したシーモアの目は幼い少女の中に潜む残酷さや、妻や義母と共通する女性の嫉妬心を見てしまう。見え過ぎる目を持つ者の悲劇である。
「ディンギーで」には、グラース家の長女ブーブーが母親になって登場する。幼いライオネルが桟橋に繋いだ小型ヨットから降りてこない。家出常習者の息子と懐柔策を弄する母子のやりとりが楽しい。家出の原因はユダヤ人である父を貶める家政婦の一言をライオネルが聞いてしまったこと。アメリカはWASP中心社会である。差別的な陰口を利くことで使用人は裕福なユダヤ人を見返したつもり。言葉の理解すら覚束ない幼い子どもの世界にも差別は及んでいる。小さいながらもそんな世界に否を唱える息子を母の愛が包む。グラース家の系譜がここにも。
佳篇だらけの本書だが、一篇を選べと言われたら迷わず「エズメに――愛と悲惨をこめて」を推す。大西洋を挟んだ米英二国間の距離と戦中戦後の時間軸を操作した構成の妙味もあるが、人間から人間らしい感情というものを奪ってしまう戦争のさなかにあって、なおも人間を人間らしくさせるのは、人と人との出会いに尽きる。その単純極まりない真理を、Dデ���を前にした英国デヴォンの雨夜の邂逅に求めた、この作者にしては珍しく心温まる一篇。たった一度の巡りあいが心身ともに傷ついた男に恢復への希望を抱かせる。美しくも切ない物語にビターを一滴垂らさないではおかないのが、サリンジャーという作家なのだろう。そのための巧緻な構成が見事。
悼尾を飾る「テディ」は、輪廻転生説をスパイスに天才少年の孤独を描いた一篇。大西洋航路を両親と妹と一緒にアメリカへ向かって帰る船旅の途中、妹を探しに甲板に出たテディは、若い男につかまる。友人に退職を迫るアドヴァイスをした真意が訊きたいという男に噛んで含めるようにテディは語り出す。50年代アメリカは禅やインド哲学に熱い視線を送っていた。知識人の間には科学的合理主義では世界の問題は解決がつかないと感じられていたのだ。見え過ぎる目を持つ者の悲劇は、ここでも繰り返される。ただ、それを悲劇と見るのは、人の生が一度きりだと信じて疑わないからで、輪廻転生を信じるなら何のことがあろうか。このテディがシーモアの前身とされている。
作家が生涯を通じて書く作品は、処女作の中に全部埋まっている、というような意味のことをどこかで読んだ気がする。若いうちにこんな小説を書いてしまったら、後はもう何も書けなくなってしまっても不思議はない。グラース家年代記が残されただけでも感謝しなければならない。座右に置き、時々読み返してみたいと思わせる珠玉の小説集である。柴田訳は、極力意訳を避け、原文を尊重した直訳に近い訳し方という点で村上春樹訳のチャンドラーに似ている。俗語を現代風に改めたところは評価できるが、慣用句の扱いなど、野崎訳の方が意味が通ると思うところも少なくない。今は原書も簡単に手に入る。辞書を片手に読むというのも悪くない。
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ひねひねおじさんが悲しくて心に残る話。9つの話ぜんぶに必ず変な人がでてくる。
もっとガラスみて?see more glass
鏡だっけ?コップだっけ?glassってどう訳してたんだっけ。
笑い男は攻殻機動隊!
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「バナナフィッシュ日和」で始まり「テディ」で終わる構成がまず良かった。グラース家の人たちの話はやっぱり知ってる人たち!とときめくけど、この本では「コネチカットのアンクル・ウィギリー」が好きだな。ただふたりが話しているだけなのに読ませられてしまうふしぎ。
グラース・サーガの長男シーモア・グラース-Seymour Glass-は”see more glass”でもあったのかという、サリンジャーならではの言葉遊びにちょっとテンション上がりました(バナナフィッシュ日和)
訳者あとがきを読んでようやくぴんときたのだけど、サリンジャーの小説がふしぎかつすごいのは、「物語」になる直前の「個人」がそこにいるからなんだなあ。
最後まで読んで「で、何?」と思うってことはわたしが無意識にその小説に「物語」を求めていたということで(だから何かを期待している)
でも実際期待したとおりの展開が起こることは実生活で考えたらそう無くて、そこにあるのはただ会話であったりその合間にあるちょっとした動作、中座であったり、そういうことが積み重なって一日が成り立ってるわけで、サリンジャーにはそこがよく見えていたのだろうなと思った。
結局「起こったこと」に対して何かを後付けで考えて物語にしていくのは読者の方の仕事なのかもしれない。
サリンジャーの書く会話はほんとにすごい。こんな「ありそう」且つ「なんか変」な会話を書ける人はいない。
すごく演劇的だし、見習いたいな〜と、勝手に思ったのだった。
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サリンジャーの作品は毎回色が違って面白い。ナイン・ストーリーズもそうだ。色が違うからこそ何度読んでも面白く、長く愛される作家なんだと思う。バナナフィッシュ目当てで読み始めたが、1回では何も書けないと思った。印象的だったのは『テディ』。哲学者的な言い回しと周りの反応が非常にリアルだった。最後どうなったのかな、木の実が落ちてきたのかあるいは...。
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『フラニーとズーイ』、クラフト・エヴィング商會と小川洋子の『注文の多い注文書』、そして同商會の『おかしな展覧会』…この流れで手にした一冊。と言うか、この流れで『ナイン・ストーリーズ』を読まずにすますことはまずできない。
そして、期待して手にしたこの9つの物語は、人間の持つナイーヴさの緻密な描写に満ちていた。『フラニーとズーイ』同様、怒りと苛立ちをあらわにした人物も登場するが、感情を秘めている人物があるきっかけでその感情を表面化させたり、いきなり行動や思考を変えてしまう姿が印象的だ。『エスキモーとの戦争前夜』のジニ―、『笑い男』の僕、『可憐なる口もと 緑なる君が瞳』の銀髪の男、『テディ』のニコルソン。彼らは素の感情のある一片を薄いガラスでできた小さな瓶に入れていたのだが、その瓶があるとき乾いた音と共に割れた。割れるきっかけと、割れた後の態度はそれぞれ異なるが、見えてくるのは、誰もがガラスの瓶を持っているのではないか、その瓶はとても脆く壊れやすいのではないか、ということだ。そして、この9つの物語はガラスの割り方が絶妙なのだ。
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実に血腥い作品集だ。傑作選、というのとも違う。纏まりという点で言えば「バナナフィッシュ日和」「テディ」のようなスケッチや他愛もないミニマリズム、「笑い男」の病的な作り話ぶり、「エズメに捧ぐ」の退廃した世界などを概観すれば分かるように支離滅裂で、「九つの話」と表現するしかないことに気づかされる。この支離滅裂さがしかしサリンジャーの味なのだろう。基本的には大人と子ども、男と女の対比が「ストーリー」を浮き立たせており、何処に視点を置くかによって「恋愛小説」「シュール」「戦争文学」と違った味わいを抽出し得る。凄い