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ドゥルーズだけでなく、フーコーまでわかった気にさせてくれる不思議な本だ。
いや、さらっとカントに言及しても、カントはこんな考えだったんだ・・・とすっと頭に入る。
このわかりやすさは、著者が相当な理解、深い理解にあるからだろう。
まだまだ「入り口」といわれるが、いままで名ばかりでしか頭に入らなかったドゥルーズをこれだけ地と肉にしてくれたこの著書には感謝している。
さらなる理解を深めたい。
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第Ⅰ章、自由間接話法的ヴィジョンーー方法、、ヒューム
第Ⅱ章、超越論的経験論ーー原理、、カント、ライプニッツ
第Ⅲ章、思考と主体性ーー実践、、ベルグソン
第Ⅳ章、構造から機械へーー転回、、フロイト、ガタリとの共著
第Ⅴ章、欲望と権力ーー政治、、フーコー
哲学史を復習しながら、ドゥルーズについて少し分かった様な気になる、とても優れた入門書だと思います。第Ⅳ章はちょっと頭に入りにくく、何を言ってるのか分からないところが多かったです。それでも、この内容!感動しました。
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はじめにのジジェクのくだり、最終章のフーコーのくだり、大変刺激的で面白かった。ずいぶん久しぶりにこういうものを読んだけれど、やっぱり楽しいな。
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ドゥルーズの哲学について、深く書いてあり、難しいところもあるが、少しずつ読み進め、ドゥルーズの哲学を少しでも理解したい。
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ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリとをしばしば混同してきたDz研究に対して、Dz→Dz=Gという理路を解そうとした書。
丁寧に辿るという意味では新しいのかもしれないが、
別段新しいドゥルーズがそこにあるわけではない。
「欲望」が人間の中心にある、ということは特に問題はないのだが、それをリードする方法が「精神分析」というのでは、危うさを感じるところではある。
確かめようもないファンタジー的な装置になっていて、
どうしてという妥当性の検討ができないようになっている。そして何よりもそのために非常に機械的なロジックで構成されてしまう。
これは、Dz→Dz=Gという道筋をつけることが本書なので、核心たるDz=G論は次回作に先延べになっていて、
國分さんの論の全体はまだわからない。
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もし、ドゥルーズやドゥルーズ=ガタリの著作や解説書を今まで読んだ事があって、理解できない、あるいは、煙に巻かれてる感じが否めないと感じていた人で、でもドゥルーズやドゥルーズ=ガタリには、自分にとってかけがえのない何かがあるはずとも感じている人なら誰でも是非読むべき著作ではないしょでうか? 本当に久しぶりに哲学系の著作を一気読みしました。(とは言っても、読み通すのに時間はかかったのですが。)
ドゥルーズが何を目指して哲学を行ったかというプログラムを意図と手法と実践の観点から、とても明晰で解り易く(簡単という意味ではないですが)整理されており、自分の感じでは、日本で初めて文学的な曖昧さに逃れない「哲学」としてのドゥルーズの解説書が現れたのではないかと思います。
あまりに手際よくキレイに整理されているので、その全体の論旨は是非とも各人に辿って欲しいのですが、その中でも自分の関心は、ドゥルーズが、その哲学プログラムで「どこ」に到達し、その中の「なに」に問題を感じ、それをガタリとの協同作業で「どう」打ち破ろうとしたのか、という所にあります。この論点は、もちろんこの著作でも主軸に据えられています。
最初に『差異と反復』を読んだ時に、自分自身の実感と実によくなじむドゥルーズの「思考」に関する考え方があります。「思考」は主体的・意図的に行う事はできない。通常人間は思考などしたい訳ではなく、受動的総合という至福の中で思考とは無縁に生きている。しかし「出来事」として「シーニュ(記号)」と出会ってしまった人は、思考を強制されてしまい、思考せずにはいられない。つまり人に思考を促すのは、主体的な能力などでは決してなく、出来事としてのシーニュとの出会いによる暴力的な強制であり、だから、哲学がその概念の要素として検討しなければならなのは、主体でも意識でもなく「出来事」なのであると。この「考えずにはいられない。」「何か自分の意思とは無関係に何かが自分に考える事を強制してくる」感じは、実は、誰もが普段経験している実感ではないかと、少なくとも自分には素直に当てはまる事実だと感じます。
そして、この暴力的なシーニュとの出会いから真に思考を作動させるには、もちろんただ待っていれば良い訳ではありません。もうひとつの重要な要素は「習得」です。即ち「長い時間をかけて、いつか出会うことになるシーニュの読み取り方を習得しなければならない。」という事です。有名な『差異と反復』での海での泳ぎ方の習得。泳ぐという事は、泳ぐ事とは似ても似つかない、水や波というシーニュを読み取る事であって、それは教育され習得されねばならない。これも、みんな普段体験的に知っていて、日々起こっている事なのだと、少なくとも私は実感として感じます。
では、ここでドゥルーズの哲学にとって「なに」が問題になるのか? ドゥルーズにとっ哲学とは「新しい概念の創造」であり、そして、この出来事によって強制された思考から「新しいなにか」が「概念の創造」として生まれるためには、主体的・意識的に目的された思考とは別のなにか、謂わば、「主体的には失敗した思考」がなされねばならない所にあると、著者は語ります。そして人は「この積極的な失敗を目指す」事は原理的にできない。ここに、哲学として「新しい概念の創造」を目指すドゥルーズにとっての問題が、例え「シーニュの読み取り方の教育と習得」があるとは言え、結局「なるようになるしかない」との違いは、結果的にはないのではないか?という疑問に答えられないという問題が生じているのです。
そして、この問題点を打ち破るべく、ドゥルーズはガタリと共に「ドゥルーズ=ガタリ」として、実験を遂行し、新たな地点へ到達する事になると著者は語ります。実は、この部分は、とてもとてもスリリングです。私自身は、ドゥルーズの「結局、偶然の出来事による何かとの出会いがその人をその人として生成する」という考えが真理だと思っていましたので、これを問題として捉え実験行って新たな地点に到達するという観点からの「ドゥルーズ=ガタリ」の仕事の整理は、本当に目から鱗でした。
では「ドゥルーズ=ガタリ」は「なにを」したのか? もし新たな何かの到来を、全て偶然の出来事に賭けるとすると「現実の何かを変える」事を「目指す」事ができなくなってしまう。そして、更に重要なポイントは、権力に絡め取られた人が本当に問題となっている「自らなぜ進んで従属するために、奴隷になるために戦うのか?」という、革命や社会変革のたびに起こる、誰もが体験的に知っている、例えば、女性解放運動の時に問題だったのは結局「女の敵は女である」という事態の解明ができなくなるという事です。それをドゥルーズ=ガタリは、別のやり方別の思考で、旧来の「権力を持つものと持たざるものの対立の図式」というニセの問題から正しい問題へと転換したい、という事であったのだと。
だから、問題系をマクロな(モル的な)権力分析の図式ではなく、その権力がミクロな(分子的な)出来事として発生する場所を「欲望のアレンジメント」として分析する。欲望が全ての超越論的な基盤にあって、それが権力を発生させている、そう捉えると、陳腐な対立の図式ではない、新たな概念による実践の方向が見えてくる、そうドゥルーズ=ガタリは、それこそ、ドゥルーズであるとかガタリであるとかという個別の主体が問題とはならないやり方で、自ら実践してみせたのが「アンチ・オイディプス」であり「カフカ ~マイナー文学のために~」であり「千のプラトー」であると著者は語ります。
これは「欲望のアレンジメント」という概念の創造によって、これまででは分析・実践できなかった問題系に切り込めるという事です。今なら、例えば「ニートが生活保護を受けてる人を貶める」という、それこそ「なぜ自ら進んで従属するために戦うのか?」という目の前の課題に切り込んでいける道が開かれたという事で、その理論的支柱を新たな概念の創造で創ってみせたのであると。
こうした著者による整理から、この、ドゥルーズ=ガタリとしての実践は、正に現代の分析としてもっともっと活用されなければならない、という感触を抱きます。そして、是非とも著者自身があとがきで述べているように、ドゥルーズ=ガタリとしては概要を整理した地点で終わっているこの著作に引き続き、「ドゥルーズ=ガタリの哲学原理」をいう著書を是非とも書いてもら���たい、そして読みたい、そう強く感じた著作でした。
本当に、少しでも多くの人に読んでもらいたい、そんな稀有な哲学解説書です。
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何しろ哲学書というものを読破した事がなかった僕にとっては読み応えがありすぎた。一つ一つの用語の意味から辞書で引きながら読まないと文意を理解できない。さらには、その背後には膨大な哲学史的背景がある。しかし、哲学に対しては大きな興味を持った。そしてドゥルーズが提起した問題、「人々は何故自ら抑圧されることを欲するのか」ここに大きな興味を持った。
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本書において著者は、ドゥルーズのヒューム研究を手がかりに、彼の思想の歩みを規定する「超越論的経験論」という概念についての検討をおこなっています。この点にかんする著者の議論はクリアだと感じました。カントの超越論的自我をめぐっては、ストローソンが経験的自我と超越論的自我の自己同一が証明されていないという批判をおこなっていますが、本書における超越論的経験論はいわばこのストローソンの問いを経験の次元へと反照することで、経験の領野における超越論的自我の編成についての考察をおこなうものだといえるのではないかと思います。
著者は、ドゥルーズのフロイト解釈にも同じ問題を認めるとともに、『シネマ2』などを参照しながら、カント的な「理念」と、ベルクソンらの論じる習慣、あるいは初期のドゥルーズの中心テーマだった「反復」とのあいだにも、相互反照の関係を見いだそうとしています。そのうえで、ドゥルーズが構造主義をどのように受容したのかという問題へと筆を進めていきます。「構造」とはいうまでもなく「一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する」ものを意味していますが、ドゥルーズが問おうとするのは、そうした構造と反復との相互反照関係を、フーコーのような「影踏み」とは異なる観点から映し出すことだったと著者は解釈しています。著者は、ドゥルーズの『フーコー』に検討を加え、フーコーもけっきょくのところ、ミクロな権力関係とその現われである「ダイヤグラム」の二元論的な図式を乗り越えることができなかったとしたうえで、「欲望のアレンジメント」という観点からドゥルーズが上述の問いへ切り込んでいったと論じられています。
なお本『差異と反復』や哲学史研究で知られるドゥルーズと、政治的実践を論じるドゥルーズ=ガタリとの関係という大きな問題設定のもとで、ドゥルーズの思想が読み解かれているところに、本書の特色があります。わたくし自身はドゥルーズの著作では『意味の論理学』がもっともおもしろいと感じており、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』はまったく理解できなかったのですが、本書を読むことでガタリとの共著を読み解くための視座を教えられたように感じました。
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今まで読んだドゥルーズの解説書のなかで、自分にとっては最も解りやすい秀逸なものだった。評判通り知的な興奮を呼ぶ一冊。カント、ラカン、フーコーを乗りこえていったドゥルーズの哲学を非常にわかりやすく、理論的に説明する。赤丸急上昇の國分先生、さらに好きになりましたが、最近表の仕事が多すぎ?などと余計な心配してます。
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当時、知的ジャーゴン扱いされていた『アンチ・オイディプス』を、東京に出張した際買い求め、宿舎で読み始めて当惑したのを思い出す。仮寝の伴になるような手合いではなかったからだ。それにも懲りずに、『千のプラトー』、『差異と反復』、『哲学とは何か』と、決して読みやすくはない書物を買い続けたのは、何とかして読み解きたいという思いが強かったからだろう。それにしても『差異と反復』を手にしたときの違和感は、いまだに忘れられない。今思えば、あれが、ジル・ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリのちがいだったのだ。
本文は、五章に亘り、逐次的に発表された論文を追いながら、それぞれを解説し、ともすれば難解と思われがちな哲学者ドゥルーズの実像に迫ろうとするものである。丁寧な読み取りでドゥルーズ哲学を風通しのよいものにしてくれている。哲学者ドゥルーズの入門書として、最適の書物であるとともに、人間ドゥルーズを知る上でも外せない一冊になっていると思う。
第一章「自由間接話法的ビジョン…方法」では、他人の哲学を語りながら、なぜそれがドゥルーズの哲学たり得ているのかという謎を解く。第二章「超越論的経験論…原理」では、ヒュームの経験論を援用してカントの超越論の限界を超え出してゆくドゥルーズ哲学の原理に触れる。第三章「思考と主体性…実践」では、『プルーストとシーニュ』を用い、思考というものは強制されないと生まれないという思いがけない指摘と、思考を習得するための方法について論じている。第四章「構造から機械へ…転回」は、いよいよガタリとの出会いから、構造主義に飽き足らない思いを抱いていたドゥルーズが分裂分析という方法による『アンチ・オイディプス』を発表する時期に至る。そして最終章では、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』を中心とする権力論を批判することを通して権力ではなく欲望が人を従属させていることに気づいてゆく。
著者は、まずジル・ドゥルーズという哲学者の像を明らかにするところからはじめている。それは、ドゥルーズという哲学者が、ある立場の人々からは、エリート的で非政治的な人物と見られる一方で、別の立場からは政治的な人間とも見られているという問題があるからだ。何故こういうことが起きるのかといえば、ドゥルーズには、ドゥルーズ一人の名で書かれた書物とフェリックス・ガタリとの共著という形で著した書物の二系列が存在するからである。
もともと、ドゥルーズという哲学者は経験論哲学者であるヒュームを論じた論文でデビューしている。その後もスピノザ、ライプニッツなど過去の哲学者を取り上げて、その哲学を論じることで自分の哲学を見出すというスタイルの哲学者であった。『差異と反復』は、そのような形式で書かれている。
ところが、あるとき、知人に当時積極的に政治活動を行っていたガタリを紹介される。話を聞いたドゥルーズは、その精神分析を基にしたアイデアに魅了される。そこで、ドゥルーズはガタリにアイデアをメモにすることを奨励し、二人で話し合ったことを論文としてまとめ、共著という形で世に問うた。『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』がそれである。「欲望する機械」や「リゾーム」、「ノマド」などのキイ・タームは人口に膾炙し、世を席巻することとなった。
喘息の持病を持ち、あまり身体に自信のなかったドゥルーズは、パリの自宅で執筆し大学で講義をするという習慣を生涯変えなかったという。初期ドゥルーズをよく知るフランスの学者仲間と、刺激的な問題提起が話題を呼ぶ大著でその謦咳に接したアングロ・サクソンを中心とする外国の学者、知識人とでは、ドゥルーズ受容に差があったわけだ。それが災いして、エリート的で非政治的なドゥルーズと政治的でアクティブなドゥルーズという異なった哲学者像が生まれることになった。
著者によれば、ガタリとの協働作業という実験を終え、一人になったドゥルーズは、超越論的経験論の哲学者に戻ってしまっているという。ガタリとの出会いは単なる偶然であったとでもいうように。著者は「あとがき」にこう記す。
「彼自身がここまで無変化だったのは、出会いの偶然に賭けるという彼の身振りが。やはり何らかの真理を含んでいたからだと思えてならない。この真理は、「出会いがありうる」という意味では、希望を与えてくれる。しかし、「それは偶然に左右されるのだから、結局は何もどうにもならない」という絶望も与える。(…)希望も絶望もない、いわば、熱くも冷たくもない世界。ただ出来事だけがある。それに時たま自分がぶつかり、そして何事かが起きる……。ドゥルーズはそんな世界をずっと生きていたのではないだろうか。」
「欲望のアレンジメント」を熱く語りかけるドゥルーズ=ガタリの世界から何とかけ離れたドゥルーズの世界だろう。今一度、書棚から『差異と反復』を取り出して再読してみようと思う。ドゥルーズ=ガタリではない、一人の哲学者、<人は反復の中から「差異を抜き取る」ことで生きている。反復は毎回が新しく、差異を伴っている。しかし、人は新しさに毎度毎度直面していては生きていけな い。「それ」が続いていくという期待の中でこそ、人は生きていける。それゆえ習慣という原理が求められる。習慣の生成を「受動的総合」と呼>び、「受動的総合という至福が存在するのだ」とまで述べるドゥルーズという哲学者に再び出会うために。
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労作。
読解と背景説明が恐ろしく丁寧。書いていて馬鹿らしくならないのだろうかというぐらい丁寧。
ドゥルーズがガタリと共著を書くに至った思想的経緯をたどる。
構造主義を乗り越えるまでの長い道のり。
(追記:そう、彼の哲学の「生成」をたどる作業だというのが、非常に画期的だと思う。)
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独学でドゥルーズの哲学を勉強したくて、いくつか入門書を読んだ。哲学について全くの素人である私としては、本書がそのなかで一番わかりやすく、かつ誠実なものだと感じた。
初めてドゥルーズという哲学者の姿が見えてきたような気がする。(もちろん、著者が別の翻訳本の後書きで注意を促したように、テクストそのものにあたることをしなければ何もわかったとはいえないのだが)
とくに、著者のヒット作『暇と退屈の倫理学』と同じような、明快な論理構成とテンポのよい展開に引き込まれた。これは、著者の素晴らしい才能の一つと思われる。
かといって、分かり易すいが曲解や論のショートカットが著しく感じとれる、ということは全くない。
難解なテクストをじっくりと紐解いていく過程がよくわかり、読解の方法そのものとしても、個人的にはとても参考になった。
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ドゥルーズが何と言っているかを解読するのではなく、何を問おうとしていたのかという視点から書かれた本書は、だからこそドゥルーズを読解した本として最良の本だと思う。実際、これほどに「ドゥルーズの考えがわかった気がする」という読後感を覚えたドゥルーズ本は初めてだった。國分さんの書き方も絶妙で、ドゥルーズの問いをめぐる推理小説のようにも読めた。あとがきにあるようにこれで終わりではないということ、こちらももっと読みたいという気持ちを込めて、星は四つで。
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非常に丁寧な議論で、文章も平易で、
あっという間に読み終わってしまった。
カントの超越論をヒュームの経験論で乗り越える、あるいは、フロイトの死の欲動を乗り越える、ラカンの対象aを乗り越える、フーコーの権力論を乗り越える、といった具合に、これら一連の作業に通底しているのは、同一的な拠り所を措定せず、常に「発生」を問おうとするドゥルーズの姿勢である。
各章の最後には必ずその章で展開された議論のまとめがあり、新しい章へと導入すべく次なる問題が挙げられている。新しい章でも、冒頭は前回のおさらいをし、それを受ける形で本章で考察すべき問題点を確認する。
論文執筆のいろはなのかもしれないが、こうして印象に残るほどにそうした作業がきっちりなされていると思った。これが本書の読みやすさに繋がっている。
丁寧で平易な本は、難解で修辞を凝らした本に勝る、あるいはそうした本こそが本来の哲学の理念に適っているとさえ言える、と思った。
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『暇と退屈の倫理学』などを読んで、他の著作も読んでみようと思って手に取ったが甘かった
さっぱりわからん
勉強してからもう一度読んでみる