紙の本
チンパンジーとミツバチ
2019/11/14 15:42
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
道徳と慣習を区別する程度は文化によって異なるにもかかわらず、正義心同士の闘争が右派と左派の対立を生んでいる昨今の現状を、死んだ愛犬を食べる話や国旗を雑巾にする例え話を通して道徳を考える、冷静になりましょうという書。
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道徳心理学の本。
右左については、ケア/危害、公正/欺瞞、忠誠/背信、権威/転覆、神聖/堕落の五項目の道徳の基盤に依存している。
そして、政治、宗教の対立は、「私たちのこころは、自集団に資する正義を志向するように設計されているから」である。
と説く。
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原題は「正義の心」副題は左右ではなく政治と宗教。
左右に分かれる理由ではなく、分断されてしまう理由を考察している。
内容はそれなりに興味深いが文章がおそろしく読みにくい。
政治や道徳の話になると、牽強付会にもほどがあるこじつけを堂々と語る人がいる。
自分と違う立場の人のトンデモろんりを見ると、よくここまで破綻した主張ができるなと思う。
でもあっちからは私がこう見えるんだろうとも思う。
多様な価値観を認めたいのに、それを否定する人を見ると、道徳的な差異を許せなかったり脅威を感じたりもする。
なぜそうなってしまうのか、道徳を巡る心理的メカニズムを説明する部分は面白い。
これはリベラルが保守を理解するための本。
その逆ではない。リベラルなつもりだった著者が自分の実感にもとづいて書いた本だから。
ゆえに、双方向の橋渡しをするには力不足かな。
保守がこれを読んでも「これだからリベラル(笑)は」にしかならないと思う。
リベラルの「道徳」は精製されているから、他の「道徳」の雑味を理解できない。ってのはなるほど。
論理に忠実であろうとすると潔癖かつ排他的になりやすいかも。
後ろに行くにつれて著者の主張が目立ってくる。
特に宗教と政治は著者の「道徳」に引きずられている。
「道徳は人を結びつけるが盲目にもする」という本だから、著者自身の無自覚な偏りが目についてしまう。
元リベラルを自称するにもかかわらず、保守もリベラルも「彼ら」としてしか語らない、ひとごと全開な姿勢が気に入らない。
読みたい内容ではあるけれど読むのに時間がかかった。
文化もしくは価値観の違いにつまづき、不適切な比喩と論理の飛躍に疑問を感じる。そのうえ訳が悪文。
いろんな意味で読みにくい。
先行研究の引用も半端だから、対照群はどうなのかとか因果は本当にそっちかとか、納得できない部分が多い。
この調査に私が答えたら、私の意図とは真逆の解釈をされてしまうだろうと思うところがいくつもあった。
リベラルは/哲学者はこう主張するが云々というフレーズがよく出てくるが、誰の主張なのか書かれていない部分が多い。こんなに注だらけの本なのに。
こういうのも、仮想敵を肥大させるパターンじゃないのかなあ。
書き方がわかりにくすぎる。
この本を読むと「疑念がわくのは信じたくないがゆえのバイアス」だろうかと考えてしまうけれど、私はこの内容を信じたい派だ。
内容以外のところで頭を使わなければいけないので疲れる。
性的「嗜好」という訳語はいまどきどうなの。
リベラルが保守を知ろうとする本なら
『社会運動の戸惑い』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4326653779のほうがしっくりくる。
追記
『一冊で知るキリスト教』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/441531550Xを読んだらちょっとわかった気がする。
自由を拒むようにみえる保守(カトリック)は、広い道徳(聖人信仰など)を包摂しているの���対し、論理(聖書)を重んじるリベラル(プロテスタント)はひとつの価値観(三位一体)を絶対視する。
この本で描かれる「リベラルの狭い道徳」は、「プロテスタントの一神教」と考えたほうが私には納得できる。
私の考えるリベラルは著者の描くリベラルよりも多神教的だから、書いてある感覚がしっくりこなかったみたいだ。
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タイトルの問いをこの本が解明しているかどうかは疑問である。政治というより心理学、倫理の話。道徳心理学というのかな。ベンサムの功利主義から白熱教室のその先へ。政治は理性は無く、感情の産物であることよ。8章あたりアメリカの政治、近年の民主党と共和党の理解がないと読むのが苦しい。ちなみにこれが書かれたのはオバマ当選以前であります。
9章から10章あたりが遺伝子や人間の行動パターンの話題になってようやく面白くなるから、ちょっと分厚い本だけどガマンして読むと楽しい。11章からデネットやドーキンス。保守を理解したい(アメリカの)リベラルの位置にいるひと向けの本。
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読書
社会はなぜ左と右にわかれるのか
ジョナサン・ハイト著
高橋洋訳
まず直観に基づく道徳的判断
道徳的判断を下す際、それは直観ではなく理性によって導かれると、普段、私たちは考えるが、実際には逆らしい。
本書は膨大な心理実験から「まず直観、それから戦略的な思考」が立ち上がることを明らかにする一冊だ。道徳的な判断が理性的な思考にのみ基づくと考える理性偏重主義を退け、道徳における直観や常道の重要性を腑分けする。
著者は、両者を「象使いと象」の関係にたとえる。「心は〈乗り手〉と〈象〉に分かれ、〈乗り手〉の仕事は〈象〉に仕えることだ」。乗り手は、私たちの意識的思考であり、〈象〉とは、残った99%の非意識的な心のプロセスのことだ。
〈象〉がほとんどの行動を支配しているから、道徳に関する説明とは、常に理性の後出しジャンケンである。ただし、直観礼賛は本書の意図ではない。直観の裏付けのない理性の暴走も、理性の裏付けのない直観の暴走も極めて危険だ。
本書は道徳の認知プロセスだけでなく、その功罪も明確に示す。いわく「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」。集団内の紐帯としての道徳は、異なる人々との衝突をもたらすのだ。回避するには、道徳一元論を引っ込めるほかにない。
政治や宗教など異なる集団間で、見解の不一致は残るとしても、互いを尊重し合う「陰と陽の関係。を築くべきだと著者は提案する。対立的な議論が先鋭化する現代、著者の実践思考の意義は大きい。(氏)
紀伊國屋書店・3024円
--「読書 社会はなぜ左と右にわかれるのか ジョナサン・ハイト著」、『聖教新聞』2014年07月26日(土)付。
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http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20140730
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「なぜ」というより「どのように」分かれているかを分析しており邦題に問題あり。リベラル・リバタリアン・保守の違いを〈ケア/危害〉〈自由/抑圧〉〈公正/欺瞞〉〈忠誠/背信〉〈権威/転覆〉〈神聖/堕落〉の6つの道徳基盤への強弱で解説しているのはわかりやすい。この図からは自分はリベラルとリバタリアンの中間ぐらいで、保守ではない事がはっきりする(後半3つの基盤はどうでもいいので)。ただし、原理主義→相対主義→多元主義へのSTEP感は意識しておきたい所。右も左も主義主張はいろいろあるんだろうが、最低限お願いしたいのは法律は守ってよって事だけど。
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・心は<乗り手(理性にコントロールされたプロセス)>と<象(自動的なプロセス)>という二つの部分に分かれる。<乗り手>は、<象>に仕えるために進化した。
・誰かが道徳的に唖然としているところを観察すれば、<乗り手>が<象>に仕えている様子を確認できる。何が正しく、何が間違っているのかについて直観を得たあとで、その感覚を正当化しようとするのだ。たとえ召使い(思考)が正当化に失敗しても、主人(直観)は判断を変えようとしない。
・社会的直観モデルは、ヒュームのモデルから出発して、さらに社会関係を考慮に入れる。道徳的な思考は、友人を獲得したり、人々に影響を与えようとしたりする、生涯を通じての格闘の一部と見なせる。つまり「まず直観、それから戦略的な思考」である。道徳的な思考を、真理と追求するために自分ひとりでする行為としてとらえる見方は間違っている。
・したがって、道徳や政治に関して、誰かの考えを変えたければ、まず<象>に語りかけるべきである。直観に反することを信じさせようとしても、その人は全力でそれを回避しよう(あなたの論拠を疑う理由を見つけよう)とするだろう。この回避の試みは、ほぼどんな場合でも成功する。p97
この効果は「感情プライミング」と呼ばれている。というのも、最初の単語が引き金となって、ある一定の方向に傾くよう、その人の心を準備させる感情の突発が引き起こされるからだ。p107
覚醒を引き起こす文化心理学の力に関して、シュウィーダーは1991年に次のように述べている。
「私たちは他人のものの見方をほんとうに理解するとき、自分の理性の内部に秘められた潜在的な可能性の認識に至り、...そのような見方が、初めて、あるいは再び重要なものとして立ち現れ始める。私たちの生きる世界に、均質的な「背景」などない。私たちは生まれつき多様なのだ。(Shweder, R. A "Thinking Through Cultures: Expeditions in Cultural Psychology", 5p)
道徳心理学の歴史を通してもっとも簡潔で先見の明に富んだ文章で、ダーウィンは道徳の進化の起源について次のように述べている。
「最終的に、私たちの道徳的な感覚や良心は、高度に複雑化した感情の形態をとる。社会的直観に端を発し、おもに他の人々の称賛によって導かれ、理性、利己心、そしてやがては深い宗教感情に支配され、教育や習慣によって確たるものになる。」p305
さて、私の提起する道徳システムの定義が、次のようになる。
:道徳システムとは、一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、制度、テクノロジー、そして進化のプロセスを通して獲得された心理的なメカニズムが連動し、利己主義を抑制、もしくは統制して、協力的な社会の構築を可能にするものである。p416-417
イデオロギーに関するもっとも基本的な問いに「現行の秩序を維持するのか、それとも変えるのか?」というものがある。1789年、フランス革命時の国民議会で、現状維持を支持する者は部屋の右側に、変革を求める者は左側に座った。それ以来、右と左は、保守主義とリベラルを意味するようになった。p426
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書名の通り政治思想が中心のテーマだが、内容は認知心理学に始まり、協力・社会集団の進化、宗教にも及ぶ。正直に言って前半は退屈だったが、後半はがぜん興味深く読んだ。
社会保守主義者が志向するエミール・デュルケーム流の社会観は、基本単位は個人より家族で、秩序、上下関係、伝統が重視される。それに対して、リベラルが擁護するジョン・スチュアート・ミル流の個人主義的な社会観は、多数者を統一体に結びつけることは困難であると考える。
すべての動物の脳に備わっているスイッチのようなものであるモジュールの概念を用いて、社会生活において道徳の基盤となる普遍的な認知モジュールを特定した。
6つの道徳基盤
ケア/危害
公正/欺瞞
忠誠/背信
権威/転覆
神聖/堕落
自由/抑圧
YourMorals.orgの道徳基盤質問票によって13万人以上を対象にしたデータによると、ケアと公正はリベラルの方が保守主義者より高く、忠誠、権威、神聖は低い。リベラルはケアと公正を他の基盤よりはるかに重視し、保守主義者は5つの基盤をほぼ等しく扱う。リベラルは、貧者に対する思いやりと、政治的な平等の追及を重視する。
公正さについては、左派は平等ととらえるが、右派は各人の貢献度に応じた比例配分として考える。自由についても、リベラルは弱者の権利に強い関心を抱き、政府による保護を期待するが、保守主義者は政府などの強者から干渉されない権利としてとらえる。
雑食動物は、新たな食料源を見つけることができる点で優位性を持つが、安全性に注意を払って探さなければならない(雑食動物のジレンマ:ポール・ロジンの造語)。リベラルはネオフィリア(新奇好み)の度合いが高いが、保守主義者はネオフォビア(新奇恐怖)の度合いが高く、境界や伝統の順守に大きな関心を持つ。脅威や恐怖に対する脳の反応は、神経伝達物質のグルタミン酸とセロトニンの機能に関わり、新たな経験や感覚を求める意欲はドーパミンとの関係が高い。どちらも遺伝子の違いに起因し、子どもの頃から老年に至るまであまり変わらない。
人間は、近隣の個体同士の闘争を通して心が形成されたという意味でチンパンジーであり、集団間の情け容赦ない闘争を通じて心が形成されたという意味でミツバチでもある。私たちは、社会生活というゲームの長い系譜をたどり、集団を形成する能力を行使して協力し、他集団を出し抜いてきた人類の末裔である。無条件に集団に従うわけではなく、条件が満たされた時に集団のために働くモードに心を切り替えられるようになった。デュルケームは、共同体における日常の中で個人を仲間と結びつける感情と、社会同士の関係で発現し、自己を社会全体に結びつける感情の2つの社会感情を備えていると結論付けている。ミツバチスイッチは、足並みを揃えた行進、音楽、合唱、説教の聴講、政治集会への参加、瞑想などによってオンになる。集団における協力関係を促す仕組みとして、オキシトシン分泌システムが進化したことが考えられ、ミラーニューロンももうひとつの候補になっている。
宗教の信念と実践の役割は���最終的には共同体の形成にあるとみなす研究者も多い。動物は、あるものを見損なう偽陰性より、模様の中に人の顔を見出すような、ないものをあると誤認する偽陽性の誤作動を起こす傾向がある。正確さよりも、生存の可能性を高くするように調節されている。自然現象や幸運、不幸を他の行為者によって引き起こされたとみなすことによって、超自然の行為者が誕生し、神殿が築かれた。民族神話に登場する妖精や悪魔などは、行為者の存在を見出そうとする様々な観念の中から、長い時間をかけて改良され選び抜かれてきたもの(デネット)。宗教は、より結束力と協調性の高い集団を形成するに至った一連の文化的革新によって生まれたもので、主に集団間の競争によって拍車がかけられた。神の効用は、道徳協同体の構築にあり、農耕が始まって集団が大規模になると、神々ははるかに道徳主義的になった(Attran and Henrich, 2010)。宗教が集団の結束を強め、ただ乗りの問題を解決し、他集団との生存競争に勝利するために役立つという証拠は数多く見つかっている。
ジョン・スチュアート・ミルは、「健全な政治を行うためには、秩序や安定性を標榜する政党と、進歩や改革を説く政党の両方が必要だ」と述べている(自由論)。ラッセルは、「紀元前600年から現在に至るまで、哲学者は、社会的な絆を強化したいと考えるものと、緩めたいと考えるものの二派に分かれてきた」と述べている(西洋哲学史)。
<考察>
リベラルはネオフィリアの度合いが高く、保守主義者はネオフォビアの度合いが高いとの記述で連想したのは、アリの行動だ。見つかった餌に向けて多くのアリが隊列をなしている時にも、それに従わないアリが一定程度いることが知られている。そんなアリが存在するのは、次に運ぶ餌を探すためと考えられている。現実派と未来派と言うこともできるだろうが、どちらも社会に必要であり、互いに依存している。日本では集団行動を良しとする傾向が強いが、独自路線を進む者は新しいものを社会に提供する役割を担っているのだ。
公平や自由の捉え方については、ネットワーク理論の議論を考慮することが必要と思う。一般に、大きいものはより大きくなりやすいことから、完全に自由な環境においては貢献度と結果は比例しなくなる。累進課税による再配分のような社会のシステムは、貢献度と結果を比例に近づけるための妥協策として許容されるだろうし、また、貧困による犯罪を防止するためにも、社会全体へのメリットはあるだろう。
デュルケーム流の社会観は、家族のあり方を社会全体に拡大してあてはめようとする点で、トッドの家族社会学の見方と類似しており、興味深い。ただし、ミルの主張によれば、家族のあり方をそのまま社会に適用することが好ましいことなのかについては議論がありそうだ。
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なぜ社会は保守とリベラルに割れてしまうのか。道徳の定義を軸に考える。
第一部では道徳的な判断が思考的というより直感的に下されることについて、第二部ではケア、自由、公正、忠誠、権威、神聖の六つの道徳の基盤を想定ことによって保守とリベラルの道徳基盤の違いを述べる。第三部では人の持つ集団的になりたがる傾向についてふれ、どうすれば二極化の対立を緩和できるかへと続いていく。
自分達が正しく相手が間違っているのではなく、道徳基盤のバランスの違いなのであると作者は述べる。昨今、政治的なことについて二極化、分かり合えなさが強くなってる。この本は多くの人に読んでもらいたい。
特にリベラル的な人は保守の道徳観についてだけでもふれてほしい。
道徳心理学の一つの羅針盤。
分厚いが丁寧に書かれている。
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ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学』
副題が本体の社会心理学の啓蒙書。原書2012年当時の神経科学、遺伝学、社会心理学、進化生物学の知見を踏まえ「私たちは皆、独善的である」との真理に迫る。
引用
思考は、自分が望むほとんどどんな結論にも導いてくれる。なぜなら、何かを信じたいときには「それは信じられるものか?」と自問し、信じたくない場合には「それは信じなければならないものか?」と問うからだ。その答えは、ほぼどんなケースでも、前者は「イエス」、後者は「ノー」になる。158
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内容は豊かで結構分厚いのにサクサクと読めてしまい、しかも感銘を受けてしまった。書き方も上手い。内容は次のようにまとめられると思う。
・道徳的な判断は思考ではなく直観に基づく。思考は後からそれを合理化するのに長けており、自分は合理化しているだけだということにしばしば気がつかない。
・直観は、自己反省よりも、他者からの説得や共感によって変わりうる。
・危害の軽減・公正の追求・抑圧からの自由だけが道徳的判断に関わるのではなく、ほかにも権威・忠誠・神聖などの感覚が道徳的判断に関わってくる。それは先天的なもの(もちろん育ちにも影響を受けるが、どう育つかにも関わるような)である。
・前者三つは個人として人間を理解し集団を派生的なものと見なすことで重要さが導かれるが、逆に、集団の必要性から考えるならば、権威・忠誠・神聖などの感覚にも合理性を見出すことができる。
・われわれは両方をバランス良く取捨選択しなければならない。
まさに自分が個人主義的な考え方に染まりきっていたので、それ以外の考え方の合理性をエビデンスに基づいて説明されることには、目を開かれる思いであった。
あと、どうでもいいのだが、ヒュームとかデュルケームとかの人文知の引き方が、リベラルな人たちの直観を逆撫でしないようになっているのも上手かった。
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道徳心理学である。右と左はアメリカの政党のことで、アメリカの政党について、とのタイトルならば、購入はされないであろう。タイトル負け。
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ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリの本を読んだ時のような衝撃がありました。延々と政治の話をしているのかと思っていたらもっと根源的な話でした。素晴らしい名著。
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名門ヴァージニア大学(UVA)の元社会心理学部教授の手によるベストセラー。「道徳」の基盤は理性でなく情動にあるとする「直観主義」の立場から、進化生物学の知見等を引きつつ、リベラルと保守の間の断絶の分析と調和の道を探る。道徳心理の話題は抽象的な概念が多く実感を伴い難いことも多いが、本作は著者の実地の研究成果が多く引用されており具体性に富み、また適切なアナロジーにより非常に読みやすい。高校生の息子が読んでいたのには流石に驚かされたが。
道徳哲学については本書でも何度か言及されるジョシュア・グリーン「モラル・トライブス」を数年前に読んだが、そちらではダニエル・カーネマンの「二重システム理論」を引き合いに、「マニュアル・モード」すなわち理性への信頼と理論的な説得により対立を克服すべきとされており、直観的アプローチをとる本書とは立場が明確に異なる。特に、グリーンが近代理性の拠り所の一つとするベンサムが、ここでは道徳を「危害回避」と「公正の追求」のみに矮小化したとして非難の対象とされているのが象徴的だ。
著者ハイトによれば、道徳心理学には三つの原理原則が存在するという。第一原理は「まず直観、それから戦略的な思考」。自らの実地研究から「理性は情動の奴隷である」というヒュームのテーゼが最も真実に近いと確信したハイトは、本能的な感情こそが道徳の基盤であり、誰かの判断に影響を及ぼしたければ<乗り手>たる理性でなく、より主導的かつ自動的なプロセスである<象>に語りかけるべきだとする。グラウコン(プラトン「国家」に登場するプラトンの兄)の言うように、我々は無意識下で「現実よりも見かけや評判に大きな注意を払う」集団中心主義を奉じる一方、「確証バイアス」の影響下にあるため、道徳秩序の形成には単に理性に働きかけるのではなく、評判などの外部からの抑制力が必要だと説く。
道徳心理学第二原則は「道徳は危害と公正だけではない」。ハイトがシカゴ大学時代に師事したリチャード・シュウィーダーの道徳理論は、道徳という概念が、それまで西洋道徳研究におけるスタンダードだったJ・S・ミルやベンサムの功利主義に基づく個人主義的な「自立の倫理」にとどまらないことを示した。これに影響を受けたハイトは記述的な「道徳多元主義」の立場から、共感的に世界をフレーミングする視点、即ち「道徳マトリックス」の導入により保守やリベラルの立場を記述するツールを提供する。それが本書のアイデアの中核ともいえる「道徳基盤理論」であり、認知人類学のパラダイムの一つであるの脳内の「認知モジュール」のスイッチを入れるトリガーが文化によって異なることに着目した、各トリガーと美徳モデルの結び付きを表したものである。脳内のこの結びつきは生得的な「固定配線 (hard-wired) 」ではなく、柔軟で可塑性のある「予備配線 (pre-wired)」だとされている。
この理論に基づくインターネット調査により、保守主義者が5つ(後に6つに修正)の道徳基盤を万遍なく重視するのに対し、リベラルは「ケア」と「公正」基盤の2つのみに重きを置いていることが判明する。そしてハイトは、エミール・デュルケームが人間に内在すると指摘する、利己性を抑制するため自制・義務・忠誠を志向する集団的社会観が、保守主義の理想と整合的であることを示す。つまり、保守主義はより広範な道徳的受容器を持っており、デュルケーム型の戦略的利他的社会と親和性が高い。逆にリベラルは個を重視しするあまり軽視する道徳基盤が多くなり(「忠誠」「権威」「神聖」)、一般からの反感を買いやすいというのだ。
それではなぜ人間は集団性を志向するのか?フリーライダー理論と相容れないとして近年では異端視されてきたが、ハイトは、個体とは別に集団でも自然選択が機能するというダーウィンのマルチレベル選択に基づく「集団選択」を肯定する。人類は、個体を超越する集団(「超個体」の出現や、規範の共有、遺伝子と文化の「共進化」、そして異例なスピードの遺伝子変化により集団性を獲得した。加えて、再登場のデュルケームのいう「ホモ・デュプレックス」、即ち個人と社会の2つのレベルで存在する人間像を導入して、「90%はチンパンジー、10%はミツバチ」というハイブリッドな人間の本性を提示する。人間の心は、集団内のみならず、集団間の競争に勝つため、自集団内の他の個体と団結するよう設計されているというのだ(訳者あとがきにあるように、ここの部分が科学的根拠を欠くとして還元論者からの批判がある)。
そしてドーキンスやデネットが宗教を自然選択の対象(ミーム)として寄生虫の如く扱うのとは対照的に、ハイトは宗教を道徳的集団統合の最も有効なツールとみなす。集団性の獲得という機能面からすれば、宗教的信念云々は問題ではなく重要なのは宗教的グループへの帰属だというのだ。自然現象の背後に行為者の存在を推測する「行為者探知モジュール」により生じた宗教的信念は、そのもとに統合する集団に競争力を与えた。しかしその一方で、他集団への理解を困難にしてしまう。これが道徳心理学の最終第三原則「道徳は人々を結びつけると同時に盲目とする」だという。
終章はいわば各論。これまで記述的であったハイトは規範的態度へとシフトする。リベラルと保守主義の関係を陰陽に擬え、リベラルにカウンターを当てる形でこれまでの議論を当てはめていく。リベラルの、企業という超個体の暴走への歯止めとしての政府や規制への期待。リバタリアンの(外部不経済の解決を前提とすれば)市場至上主義。社会保守主義のコロニー重視姿勢。これらを道徳基盤理論の立場から記述しなおすことにより、いずれの立場からも相互に認めやすいものであることをわかりやすく示している。
誤解を恐れずにいえば、「道徳基盤理論」とは道徳の「因数分解」であると思う。人間の持つ価値観の数は有限であるという哲学者アイザイア・バーリーンの直感からすれば、各集団の奉じる道徳は整数の集合として表される。ここで敢えてアナロジーを用いれば、その価値観の数は素数ではない、つまり必ず1と自身以外に約数を持っている。世界のどこかに約数を同じくするイデオロギーが必ずあるのだ。この数論は理性や理論よりも根源的なレベルで機能する。したがって異なる立場のイデオロギーと相対するにあたっては、理屈以前に相手の直観や感性に直接訴えかける、つまり共約数を見出し共通理解の基盤を確立することか���始めるべきだ、というのが著者の言わんとするところだと諒解した。
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地政学・戦略学博士の奥山真司さんがおすすめしていたので読んでみた。人間は理性的であるべきだしそういった人物によって統治されるべき、という哲学者の言葉に疑問を感じていたので(で、そんな超人はどこにいるの?)なぜ哲学者や合理主義者がそんな事を主張するのか納得はしないが理解の手がかりになった。リベラリストにとっては耳の痛い話が多いと思う。注釈が死ぬ程多いので少し読みづらい。日本、米国、欧州では保守とリベラルの定義が少しづつ違うのでそれを理解していないと混乱するかも