紙の本
理想と現実を両立させる経済の形を自らの経験をもとに語ってくれます!
2018/11/28 12:52
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、JR中央線での乗降者数最下位の西国分寺駅に人気カフェを開店した著者による作品です。著者は、理想と現実のギャップ、すなわち、働いても働いても幸せにならない等が起こるのは一体なぜなのかを自問し、それを解決していこうと自らを奮い立たせ、カフェを開店させた方です。そして、このカフェでは理想と現実とが両立していると言います。一体、どのようにすれば、両立が可能なのでしょうか。本書ではそのへんを詳細に説明してくれます。
紙の本
ゆっくりいそごう
2015/11/02 11:09
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たけのこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
何かものごとをはじめたいとき、オススメされた本です。この本は経済学に分類される本なのですが、経済的な視点から書いてあるものの、この「ゆっくりいそげ」という言葉を基本に全ての物事に対するメッセージに感じます。テイクするよりギブすること。これが全てに共通しているように感じます。ぜひ読んでほしい一冊です。
投稿元:
レビューを見る
『続ゆっくりいそげ』の夜に行ってきたので。
ギブとギブ。自分の時間を生きて働きたい。人のやりとりと、大きくは地域と(もっと大きくは世の中全体の)経済のこと。
投稿元:
レビューを見る
資本主義、経済至上主義のど真ん中で闘うでもなく、そこから下りて原始的な生活を送るでもなく。顔が見える、でもある程度の規模の特定多数のコミュニティの中で、無理なく経済を循環させていく。すごく共感できる考え方。
人と人との関係性についても、ムラ社会的な不自由な共生ではなく、自己責任が問われる、自由な孤立でもなく。自由で、でも共生していく、そんな関係性が当たり前になったらいいなぁ。
投稿元:
レビューを見る
とても共感することが多かった。
「世界は贈与でできている」という本を読んで紹介されていたので手に取りました。
感覚的に良いことはわかっていても、資本増大に寄与しないことができない。というジレンマにコーヒー屋さんというフィールドでチャレンジしてる感じをつけました。
なぜコーヒー屋さんなのか、と不思議に思っていたけど、対話の場所作りをしてるのだなと納得。朝モヤ会はとてもよいし、カフェだからやりやすいのかなとも思った。
共生から自由へ、そしてまた共生へ。この循環の中で、学習して、バランスを見つけていきたい。
実践しているだけあって、わかりやすい一冊でした
投稿元:
レビューを見る
◎以下は「続」の引用
そんな中途半端なものをだすなという声も聞こえてきそうですが、ただ、お客さんたちとの間だったらそういうことができるような気がします、
ここが分かりにくかった、もっとこんなデータもあるよ、こんなアイディアを、、、、そんなフィードバックを受けて、その先にさらにレベルアップした完成版を目指す
お店をやっていると、ぐっと客数が増え、売り上げが伸びる時期がある一方で、やれどやれど数字に表れてこない時期がある。量の成長と質の成長を繰り返しながら、植物もお店も育っていく
事業体や組織の成長は、測ろうとするのではなく、感じること
無理強いしてもあまりいいいことはない、うまくいかない理由がある、タイミングや場所、縁といった意味でもおのずとなるようになる、それくらいの開き直り
机上で考えたコンセプトではなく、地に足の着いたお店になりそうだとわくわくスる気持ち
たしかにそこに作りてや主の存在をかんじとれる店
場の力の正体は縁
いのちのつながりが縁になってゐ場所に残っていく、だから居場所には縁が積もっていく、生き物はみなそうした縁のなかで生きていくもの
縁ーいきもののいのちといのちが出会ってつながる役目をするきっかけのこと、目に見えないけれど、縁がたくさん積もっている場所ほど、いのちがつながりやすい、そうした場所ほど安心して生きていくことができる
縁が紡がれていくことを通じて、やがて場そのものに命が宿るようになる
楽しく遊びの要素があること。
遊びのかたちにおいてだけ、わたしは生産的になれる。人生の生真面目さをわたしの仕事に取り込まねばならないと思ったら、先へ進む意欲がなくなる
お客さんとの関りにおいても、楽しさであり、遊びがあるといいなと常々思っている。お店の帰り際、お客さんがぽろっと言って下さる感想として、おいしかったとか、いい時間だったとか、もうれしいが、楽しかったといってもらえたとしたら、もっとうれしい。それはそれだけ、お客さんたちの間で、発見があり、笑いがあり、創造的な時間が流れたということなのだろう、そしてお店をそういう場にできる可能性があるとしたら、これもやっぱり、お店のスタッフとお客さんという立場を超えたかかわりを実現できたということ
◎以下引用
ぼくらのコーヒーは650円、目の前100メートルのところにあるコーヒー店は200円。さらに駅に近い。こうして記号化してしまうと不思議な感じだが、なぜ人はわざわざ3倍のお金を払ってまでよりアクセスの悪いお店に足を運ぶのか。ただこうした値段を受け入れてもらえるおかげで実現できていることがある。
不特定多数の、顔の見えない参加者を想定した市場では、複雑な価値の交感は成立しにくい。
顔の見える関係であれば、世の中一般に認められていなくても、私がそこに価値を認めれば、交換が成り立つ
普遍的に良いといわれるようなことではなかったとしても、そこに価値を認めてくれる私がそれなりにいた
言葉にはなりにくいしましてや金銭換算などできないかもしれないが、何かしらの価値の交感はされている
特定多数での複雑な価値のキャッチボールを成り立たせるには、身体性を伴う密度の高いコミュニケーションが必要
ああ、いいものを受け取っちゃったなと思えば、また店に来てくれるか、紹介してくれるかもしれない
お客さんの消費者的人格を刺激してしまう状況だと、同じだけ払うなら、出来るだけ多く、という風になる
受贈与者的人格⇔受け取ることに負債感を覚える
1500円のコンサートでいい時間を過ごした後、底に金額以上の価値を感じてゐれば、余韻や、負債感となり、次回の参加や口コミへとつながる
交換を等価にしてしまってはだめ。不等価なこうかんだからこそ、その負債感を解消すべく、贈与する
世のやり取りの多くが、利用し合う関係となっている
彼らの目的を果たすためにお店を利用するのではなく、僕らのお店が実現しようとしていることを、支援してくれるものだった
お客さんがいい時間を過ごせるように支援すること
投稿元:
レビューを見る
2018年24冊目。
ことあるごとに立ち返りたいと思える大切な一冊になった。目の前の仕事や関係する人たちと向き合う姿勢が良い方向にぐっと変わりそう。そんな予感を持たせてくれる、とても素晴らしい本。
「1杯650円のコーヒーを買ってもらう」。たとえ同じやり取りのなかでも、「お金を取る=Take / 取られる=Taken」の姿勢なのか、「良いものを贈る=Give / 受け取る=Given」の姿勢なのかで、育まれる関係性はきっと大きく違う。著者の影山さんはそれを「利用し合う関係」ではない「支援し合う関係」と呼ぶ。お客さんの「消費者的な人格」ではなく「受贈者的な人格」を刺激することで、「いいものを受け取ってしまったな」という「健全な負債感」を抱かせ、そこからその人が、次の人に何かを贈るようになる。そんな連鎖・循環から、よい社会や経済が生まれてくる。実体が見えないような「社会」や「経済」は、そういう一つひとつの交換の集積から成り立っているのだから、きっとその積み重ねには意味がある。
仕事のなかの一かき一かきを、研鑽を積みながらも、ゆっくり丁寧に、一生懸命積み重ねる。支援し合う関係を一つひとつ築いていく。それは目的へと急ぎ過ぎたビジネスが一度立ち止まり、本当に豊かな経済を生み出していくための近道なのかもしれない。影山さんがその想いを一つのお店のなかで確かに実践していることを知り、自分も自分の場所でその姿勢から行動を起こしていきたいと素直に思えた。こうやって価値観が伝わり、一人ひとりの行動が変わっていくのであれば、「ローカル」な小さな活動は、決して非力ではないはず。
投稿元:
レビューを見る
奇麗事言ってる、と感じる向きもあるかもしれないが、ここまでしっかり考えられた奇麗事を論じる人はそういない。影山さんのマッキンゼー時代とクルミドコーヒーを始めてからの、なんというか、蓄積が感じられた。
例えば、数年前までマーケティングの部署にいた頃は、如何に顧客のテイクのスイッチを押すことを考えていた。ある商品を買うとこんな良いことがありますよと、如何に刺さるメッセージを刺さる顧客層に届けるにはどうしたら良いかとばかり考えていた。
しかし、仕事が終わって同僚と飲みに行くときには違うことを考えている。この商品はこんなにお得だというコミュニケーションではなく、もっと共感が得られるようなコミュニケーションを心がける。毎日多くの時間を過ごす人達と、お互いを利用しあう関係にはなりたくないからだ。
できれば、同僚とも顧客とも近所の人とも、価値観を共有する関係でありたい。そう思いながら、これが仕事だからしょうがないと諦めている人が多いのだろうけど、影山さんは西国分寺でそれを実現している。そのことに少しでも励まされたら、この本を読んだ価値があるというものだろう。
投稿元:
レビューを見る
◯特定多数間での複雑な価値のキャッチボールを成り立たせるためには、多くの場合、身体性を伴う直接で密度の濃いコミュニケーションが必須だということだ。(39p)
◯どんな仕事にも、それを現実のものとしてくれている「贈り手」の存在がある。その仕事/ギブを受け取りました、いただきました、ありがとう、とお金を渡すのだ。(125p)
◯存在を傾けた、手間ひまのかかった仕事をちゃんとすること。そしてその仕事を受け取ってくださった方に、時間をかけてちゃんと寄り添い続けること。(227p)
★特定の人の間で直接やり取りできるなら、お金で表せない価値も成り立つ。手間ひまをかけた仕事をギブしあう関係。AIの時代には当たり前になるだろうか。
投稿元:
レビューを見る
目の前のお客様を大事にすること。
ファンを創ること、コミュニティを創ること。
自分1人の「私」を顧客と一緒に「私たち」にすること。
顧客構造の再構築のために、私たちが「どうあるべきか」のヒントが詰まった本。
投稿元:
レビューを見る
不特定多数 特定少数 特定多数
3つの内クルミドコーヒーは特定多数を想定している。
そんな中で
『50年続く店にしたい』という決意には
何にもできない自分を受け入れて、正しい交換(支援し合う関係)が行われるように
自分という主語を
自分たちにするために
毎日毎日を積み重ねる。
投稿元:
レビューを見る
Festina lente フェスティナ・レンテ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E6%80%A5%E3%81%92
タイトルは、水泳の北島選手のコーチ平井さんの言葉『勇気を持ってゆっくり行け』から。
先日お邪魔したクルミドコーヒーの店長さんの経済に関する本。
経済とは、経世済民=世をおさめ、民をすくうという中国の古典に登場する言葉。
なぜ、長野県東御市のクルミなのか?
そしてそのクルミをめぐってつながることの意味。
しかもそれが身体性をともなうコミュニケーションであること。身体性であることでただのつながりではなくなる。
やはり同じ時間を過ごすことに意味があるんだろうな。
まわりをいかす→まわりにいかしてもらう→自分をいかす
交換を不等価にする→等価では、ただの交換になってしまう。それではそこで完結してしまう
次につながらない
P68モースの『贈与論』と現代社会の『自由』なミクスチュアに、経済社会の持続可能な形が見えてくる
P97一番の敵は、虚無。
現代社会でシステム化が徹底すると、人は考えなくなる。システムの要請に沿って決められたように振る舞うことしかしなくなる
自分の中のファンタージェンはしぼんでいく。
救うのは『新しい名前をつけること』
それは主観的行為
会社もボランティア組織ではないか?
①自発性~自分ゴト 自ら課題をみつけ、率先して挑戦
働いているのは、誰かに言われたからではない
②公共性~働きは他者にむかっている 人をよろこばせることが自分のよろこび
③無償性~お金のためではなく
支援し合う関係性~ギブの動機から始める交換
本)『利他性の経済学』舘岡康雄著
管理=自己中心の行動様式
支援=相手中心の行動様式
朝モヤ~話すことより聞くこと、違いを楽しむこと
関係性を育てる 関係性によって育つ
他人と共に自由に生きる
P208書物の一冊一冊は、時の流れのなかで、我々が加えた解釈がこびりついています。我々はシェイクスピアが書いたように読みません。したがって我々のシェイクスピアは、書かれた当時に読まれたシェイクスピアよりずっと豊かなんです。
傑作は最初から傑作なのではなく、傑作になってゆくんです。(『もうすぐ絶滅するという紙の書物についてbyウンベルt・エーコ&ジャン・クロード・カリエール対談集)
ビジネスの世界では、時間は敵 コスト増になるから
仕事の正体は時間
利益とは何か?
誰にとっての利益か?
投稿元:
レビューを見る
開高健さんが好んで色紙に記した言葉に「悠々と、急げ」というのがある。きっとどこかの古典から引いたものだと思うのだが、このタイトルははラテン語の「festina lente(フェスティナ・レンテ)」からの引用だという。同じ根をもつものと思われるが、このタイトルが気になって手に取った。
JR中央線で乗降客数最下位の街、西国分寺で高い評価を得る「クルミド・コーヒー」の店主による自伝的な書だが、単なるカフェの経営のみならず、経済というものを深く考え直させられる一冊である。
このカフェで出す一杯のコーヒー、テーブルに置かれた長野県東御市産のクルミ、クリスマス時期に供される特別なビーフシチュー、そして地域通貨やボランティアへの取り組み。すべてにストーリーがある。
ブランディングというマーケティング用語では語れない、それ以上に根本的な思想がここにはあるような気がする。是非とも尋ねてみたい店である。
投稿元:
レビューを見る
介護関係のFBページで知った本。
ゆっくりいそげ。フェスティナ・レンテ。
日々の利用者支援でスピード感に欠けてて、でも慌てると失敗する私にとっては、座右の銘にしたい言葉。
経済って難しそうと思っていたけれど、介護サービスだって経済活動のひとつ。人と人との関わりと捉えれば、身近で温かみのあるもののように思えた。
投稿元:
レビューを見る
ネットで抜粋を見て、興味深かったので読んでみました。
資本主義を否定するのではなく、基本的に良いものだと思っていて
成長、効率、革新や活性、便利は確実にあるとした上で、
すべてが資本主義で良いわけではない、というのがとても共感を覚えました。
不特定多数の参加者間で価値を交換するのがグローバル経済。
それに対して、同じように市場媒介としながらも
特定多数の参加者の間で価値の交換を可能にするローカルシステムが
特定多数経済というのがなるほどと思いました。
くるみ収穫ツアーの体験が労働力を提供し
お互い様という感覚から成り立ち、くるみの売買と言う価値交換だけでなく
複数の価値が見出されるというのが素晴らしいです。
経済が目的なのか手段なのかというのは本当にそのとおりで、
人が幸福感を持って日々を生きる、そのために経済があるのです。
スーパーの同じ店に1キロ1000円の商品と1キロ3000円の商品が並んでいて
フェアトレードだ、などの理由を聞いて熟慮の末3000円の品を
買う人はいるでしょうが、日常的な買い物の場面では1000円を選ぶ人が多いはずです。
同じ土俵に立ってしまうと、安売りというのを価値にしてしまえば
大企業に勝つのは難しく、無理に値下げをしても潰れてしまうだけです。
それに対処するには特定多数経済で、密度の濃いコミニケーションが必須になってきます。
金銭的な価値に収斂しない価値の保全や育成の実現は理想ですがなかなか難しい問題でもあります。
資本集約が進んでいる中で、いかに値段だけではない価値を伝えられる媒体になるか。
それを実現しやすいのは、不特定多数を相手にする場所ではなく
特定多数と密度の濃いコミニケーションが可能な場所。
それがカフェなどの小売業というのはなるほどと思います。
実際には大手量販店ショッピングモールやコンビニなど
小売業こそ資本集約が進んでいるのが現実で、個人営業のお店などは
営業が厳しいことも多い中で、いかに値段だけではない価値を伝えられる媒体になるか。
「大きなシステム」が形成されるその過程で、「特定の人にとっては大事だけれど、普遍化しにくい」ような価値は取引の対象ではなくなり、その居場所をなくしていく。
資本主義としてはそれが正しいとしても、「大事なものはそれだけではないのではないか」。
多元的な価値が尊重され実現される社会をつくることが本当は大切なのです。
不特定多数相手では無理でも、特定多数の参加者を想定すれば
金銭換算しにくいようなものも含めて「特定の人々にとって大事な価値」を取り扱えるようになります。
例として「純米酒をつくる蔵が守られること」や「日本の森がきちんと手入れされ未来につなげられること」が上げられていましたが
確かに該当する「特定の人々」にとっては
自分の周りでも動物の保護や刀剣などの歴史・美術関連の保護など
金銭同等か、場合によってはそれ以上の価値が見出されています。
そこに価値を見出す以上、一○○のお金を出して
返ってくるお金が七○でも、価値が三〇以上あれば
投資家がお金を出す十分な理由になるのです。
お金を出すことは合理的な選択であり続ける。
お金を出す側が組織ではなく個人なら、
ただ好きだから、なんとなく、という理由でも成り立ちます。
私はミヒャエル・エンデが好きですが、確かに『はてしない物語』は
少なくとも序盤は特定の悪役が出てくるわけではなく、
虚無に奪われた世界に新しい名前をつけることで救います。
世界を想像し、創造すること。
それを一番上手にできるのはこどもたち。
現代社会でシステム化が徹底すると、人は考えなくなる。
営業成績を高めるとポイントがつき、
そのポイントで給料が上がるのだとしたら、営業成績を高めることに邁進すればいい。
「なぜ、営業成績を高めなければいけないのか」とか、「そもそも営業成績ってなんなのか」などと問うことは求められてはいないし、
そんなことをしていたらむしろ「異端児」ー「システムエラー」となる。
システムの目的に沿って、ときに自分の本心を「殺す」ことさえ憚らない人。
気が付けば「自分が何が好きか」「自分が何を美しいと思うか」に答えられなくなっていく。
この「虚無」に抗うのは極めて難しい。
なぜならその戦う相手の正体がはっきりしないからだ。
この辺りも、確かにそのとおりだと思うのです。
床(敷地)を使って「収益を最大化」させようと思えば、
当然最も高い家賃を払ってくれるテナントを入れることになる。
そうした市場原理の下で、個店がチェーン店に比べて
より高い家賃を提示できることはまずない(それが立地条件のいい床であればあるほど)。
もしくはそれをできたとしても、「その家賃を払い続けられるのか」とリスクの話になると、「やはり資本力のある大手の方が安心」ということになる。すると、どこの駅前も同じ店、同じテナント、同じ景観になっていく。
例えば再開発などで出店可能な床(敷地)ができたとする。この物件の貸主が個人だとしたら、その個人の意思やこだわりで「こんなお店を」「こんな使い方を」と貫き通すこともできるかもしれない。
場合によっては採算度外視なんてことさえあるかもしれない。ただ多くの場合(再開発の場合などは特に)、貸主は組織化され、複数の人が関わる状況となっている。すると途端に話は難しくなる。「こんな開発をしよう」というゴールイメージの合意形成が難しいのだ。みなが納得する選択肢として「収益の最大化」がプロジェクトの落としどころとなる。
これも、実際問題としてそうならざるを得ず
ショッピングモールは同じようなチェーン店が入っているばかりになりがちです。
最近では地元のお店を入れるようにしている傾向がありますが
入ったからといってそのお店がやっていけるかはまた別問題です。
出資をきっかけにギプの気持ちにスイッチの入った投資家は、
その後もお金にとどまらないその事業者の応援団になる。
ギブを受け取った事業者も、単なるお金以上のものを受け取っていることを実感し、事業に取り組む上での大きなエネルギー源となる。
また、そのようなお金だからこそ「きっと受け取った以上の額にして返す」という、いい意味での緊張感や使命感に
双方向の関係が一時で終わらず、五~一〇年にわたっての継続的なものとなる。
大変理想的な関係です。
「お金を増やしたい」「資金運用」という「テイクの動機からでは決して選ばれることのない金融商品が
互いが顔の見える関係となることで、事業者の再建が投資家にとっても他人事でなくなり、その実現は金銭的価値を補完するような、一つの価値(うれしいこと)になっていく。
特定多数だからこそできる「顔の見える関係」でのやり取りは
もう少し複雑な価値のキャッチボールが可能になります。
日本にチップが普及しない理由として、
交換を不等価にすることで次なる交換を呼び込み、交換を継続させることで
関係を継続させるという隠れた知恵というのも面白いです。
アメリカやヨーロッパなど、広大な国で
「次、いつ会えるか分からない」状況があるからこそ、一回一回の交換でどちらかが負債を負うことなくきちんと精算していく。
対して日本の場合、限られた国土の中、
同じ顔ぶれの中で長期間にわたって関係を構築していく前提で
むしろ交換をいかに途絶えさせないかという方向での知恵が求められた結果というのは納得でした。
クーポンやメンバーカードは作って「消費者的な人格」を刺激しないこと、
カフェでコンサートを開くことや
本を発行することなど
色々と興味深かったです。
この本を読んだ後、クルミドコーヒーにも行ってみました。
近くなら通いたい、こじんまりとしたのんびりできるカフェでした。
お店にもまた機会を見つけて伺いたいです。