紙の本
今も何か失い続けているあなたへ
2015/10/26 08:50
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投稿者:雪空スウィング - この投稿者のレビュー一覧を見る
ひとりの女性の死から始まる物語。他殺か自殺かも分からない。関わった人たちは自らの生を存分に生きられなくなり、時間だけが過ぎていく。変化の時は一瞬で、あとはじわじわと失っていく。どこへ繋がっていくあてもないまま失い続ける。物語の中だけでなく、私もそう。これからもたびたび、思い出すに違いない、深く心の奥に浸透してくる1冊。
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ある女子大生が被害者となった毒物混入事件を核に、事件に関係した当時高校生の3人の若者が抱えつづけた深い孤独を描く。中国の歴史の闇を背景に、犯罪ミステリーの要素も交えた傑作。
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中国人が英語やフランス語で小説を書くと、傑作が生まれる確率が高いのは何故だろう。これは如玉と少艾の争いに、黙然と泊陽が巻き込まれたに過ぎないのではないか?如玉が怖かった。黙然は幸せになれた人だったろうに。
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なんとも不思議な読後感があった。話はある女性の服毒による死から始まる。それに関わる三人の男女が21年に亘り、その事件を引きづり、人生の舞台から降りて自分の人生を謳歌することを回避し、孤独であることを選びとって生きている。
その3人の人生も女性の死によって変化が起き、”独りでいるより優しい”方へと流れてゆく。
作者の巧みな心理描写が主人公たちの猜疑心や悲しみ、孤独を描き出し、服毒事件というスリリングな設定であるにもかかわらず、人の心の葛藤を説得的に描いている。読み始めると手放すことができない魅力を持っている。
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急速に発展する中国と豊かなアメリカの二つの大国を舞台に、ある事件に関わった3人は、それぞれ孤独であることを選ぶ。
どこまで行っても、3人はずっと事件に縛られているが、事件にあった女性の21年後の死により、彼らは少しずつ変わっていく。
でもやっぱり、事件から完全に逃れることはできないのではないか。
誰には決して嘘がつけず、誰には嘘がつけるのか、難しい。
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やはり翻訳本は読みにくい!
正直文章をかみ砕くのに時間がかかり
あまり状況が浮かんでこなくて
しんどかった。
でもそれを差し引いても
奥深い人間の性みたいなものが
ひしひしと伝わってきた。
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物語は小艾(シャオアイ)の葬儀のシーンからはじまる。この章の視点人物は三十七歳の泊陽(ボーヤン)で、彼は小艾の母の代わりに火葬場に来ている。小艾は伯陽より六歳上だったが、誤って或は故意に毒物を飲んだせいで、二十一年間というもの病いの床にあった。その毒物は、泊陽の母が勤務する大学の薬品室から盗み出されたものだった。その日、彼と共に大学を訪問していた同級生の黙然(モーラン)と如玉(ルーユイ)の関与が疑われたが、はっきりした証拠といえるものがなく、解毒剤の投与で命はとりとめたこともあり、事件は有耶無耶のままに終わった。
年齢の近い四人の若者とその家族は、中庭を囲んで四棟が方形を描く北京の昔ながらの住宅、四合院に住む隣人同士だった。小艾が、掲示板に天安門広場についての政府批判を書いたことで大学を追われかけていたそんな折、如玉が大学進学のため北京に出ることになり、育ての親である大叔母の遠縁に当たる小艾の母親の家を下宿先に決めたのだ。一つの寝床を共有することになった二人だが、根は優しいが自負心の強い小艾と、養い親から厳格な宗教教育を受け、容易に他者に心を開かない如玉とは相容れなかった。
泊陽と黙然は大人になったら結婚するものと周りは勝手に決めていた。大学教授の母を持ち富裕層に属す泊陽は何故か祖父母の家から通学していた。根っからの善人だが特にこれといって目立つところのない黙然は、ひそかに泊陽に恋していた。そこへ突然舞い込んできたのが、怜悧で頑ななまでに自分の世界を守ろうとする如玉だった。何をするにも一緒の三人組だったが、泊陽は次第に如玉に惹かれていき、三人の関係は微妙なものとなる。この関係が崩壊するきっかけが小艾の薬物中毒事件だった。
章が変わるたびに、時間も場所も視点人物も交替する。事件の後、それぞれがたどった人生が三者三様に描き出される。如玉は米兵と結婚してアメリカに渡り、離婚。今は知人の紹介でいくつかの仕事を掛け持ちする毎日だ。黙然は中国の大学を出た後、やはり渡米し、中西部で出会った年の離れたジョゼフと結婚したが、離婚。化学薬品の研究所に勤めながら独り暮らしの日々。泊陽も結婚したが妻の不倫で離婚。気軽な独身暮らしを謳歌しながら若い女の子を誘惑することに楽しみを見出している。三人はその後一度も会っていない。
泊陽も黙然も誰から見ても明るく快活な若者だった。如玉もエキセントリックではあったが賢く有能で前途は明るかった。事件後、北京を去った二人に代わり、泊陽は小艾を看取ることを自分に強いた。黙然は、他者から自分を隔離するように孤独な生活を送り続けた。如玉もまた能力に見合わぬ賃仕事で自分を放擲していた。小艾の死を契機に、三人のその後の人生が動き始める。二十一年の長きにわたって人生から彼らを疎外していたものは何だったのか。小艾の中毒事件の真相が今明らかにされる。
主題は贖罪、或は自罰。黙然が薬品を持ち出したのは如玉であると証言したのを、嫉妬のためだろうと決めつけた泊陽は、小艾の緩慢な死に関しても、黙然の心を傷つけたことについても自分を許せなかっただろう。小艾が毒を飲んだ真相を知ることなしに、その罪の意識から免れることはまずあるまい。
如玉が薬品を持ち出したことを誰にも教えなかった黙然もまた、如玉がとめるのも聞かず薬品のことを当局に知らせることで、解毒剤を与える結果になり、即時の死ではなく生殺しという残酷な生を小艾に与えた、という負い目から逃れられなかった。せっかくジョゼフという伴侶を得ながら、五年でそのもとを去らねばならなかったのは、自分にはその資格がないと思ったからだろう。
幼い頃から、大叔母に神の存在を教えられ、自分を選ばれた一人と思い込み、他者との関係を顧みることのなかった如玉はそれを認めることはないだろうが、神などいないことを知った後でも、他者との関わりを持つことを自分に禁じていた如玉もまた自身を罰していた。如玉のアメリカ生活は流謫の生そのものである。
ウィリアム・トレヴァーに「ふたりの秘密」という短篇がある。少年の日に犯した秘密の罪が大人になっても自分を縛って放さない、自らを裁くのは自分しかいないという主題がよく似ている。訳者あとがきを読んで、この作家がウィリアム・トレヴァーの物語に語りかけることがよくある、と語っていることを知り、なるほどと思った。この作品自体は、エリザベス・ボウエンの未邦訳の一篇を念頭に置いたというが、どこかでトレヴァーの短篇が影を落としているのかもしれない。
強大な国家権力を相手に息を殺して生きる年長者に対し、正面から批判し弾圧された天安門事件の世代である小艾。それより六歳下の世代は、アメリカ人と結婚することで永住権を手に入れたり、不動産やIT関係の仕事で能力を発揮したり、と一見したたかな生き方をしているように見えるが、泊陽たちの生き方にも中国という国家の歴史は陰に陽に影響を与えている。中国現代史を背景に、運命に操られるようにして生きざるを得なかった三人の人生とその心理を鋭い視線で抉ってみせるイーユン・リーの人間観察力に舌を巻いた。
最後に、英語で書いているはずの小説の人名に何故、小艾、泊陽、黙然、如玉、という「名は体を現す」という言葉そのままの漢字名がついているのかと疑問に思ったが、訳者によれば作者の指定によるものという。表意文字である漢字を人名に使う民族の持つ強みといえるのではないか。キラキラネームで育った子どもたちが主人公になる時代、日本の作家は頭をかかえることにならねばよいが。
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これまでの作品すべてが素晴らしかったイーユン・リーだけど、
これはちょっとネタ切れ感というか、素晴らしい才能の上にあぐらをかいた感が否めない。
この作品でいったん一区切りして、新しい境地を切り開いてくれるのかなーと期待をこめて☆3。
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登場人物の孤独に長い時間取り囲まれて孤独感にひたった後に、最後少しそれがほどける兆しで緊張感が緩んで、読んだ後涙とまらない。
とても好き。孤独というテーマが響くのもあるけれど、登場人物や世界観が好きなのか、同じ作者の他の作品も読んでみよう。
存在の耐えられない軽さを好きなのと、独りでいるより優しくてを好きなのと、似ているかも。
誰かとの深い繋がり、心動かされる人間関係があることが幸せと分かりつつ、敢えて避けて孤独でいることで自分を守っている。後書きに、登場人物にとって孤独でいることは抗議と作者が発言したと書いてある。それはそれですごく良くわかる。うまくやれない、自分の幸せをかけて抗議したり、登場人物達の不器用なところ、身に覚えがあって、共感し過ぎた。
青春は残酷。長年蓋をしても、ぶつからなかったら問題は解決せず塩漬けになる。でも時がやわらげてくれることもある。というのもしんみり。これは年をとったから分かるのかも。
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読後丸一日経ったというのに、まだ悲しみの余韻。物語はシャオアイという少女が毒を盛られた、一体誰に?というミステリ仕立だけど、犯人探しが主題じゃない。
ミステリと思って読むともどかしくて途中で嫌になると思う。
作風で言うと村上春樹と江國香織を足した感じ。両者好きな方は飽きずに読めるかも。
しかし、文体は美しいんだけど、好きな系統なんだけど、読みにくいのは、訳者ばかりのせいでもないような。原書読んでないからなんとも言えないんだけど、この作者が中国人だけど、英語で書いた小説だからっていうのも少なからず影響してるのではと予想。英語を母語とする人とは違う言語体系、が産む違和感というのか。それがある種の魅力にもなり、引き込まれる作風になっているのでは。
やるせないのは、モーランの善良がいい方向に作用しなかったこと。でもさ、自分もモーランなら、あそこで打ち明けるしかない。黙っていることなんて出来ない。でも、苦しくても、間違っていても、黙っていることが良いこともこの世にはあるんだよね。黙然(モーラン)の意味は無口。なんて皮肉。
ボーヤンがなんか、子どもの頃は可愛かったのに大人になったら結構下衆ヤロウで引いた。でもボーヤンも、あんな事件を経験しちゃって、無邪気に恋愛が出来なくなっちゃったんだろね。でも、最後にスージュオと恋愛出来るのかなあと期待してたら、あっさり別れたのは何故。ルーユイが帰ってきたから?納得いかないのだが。
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ミステリー要素もあって面白く読めた。
著者の作品はどのようなキャラクターであっても登場人物の心理描写が細やかで驚かされる。
題名がセンスがいいと思ったけど、きっと翻訳もいいのだと思う。
一連の作品を読んで、近くて遠い国、中国に興味を持つようになった。
次回作が待ち遠しい。
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モーランの罪は赦された
南の暖かい風が泉のように、流れ 永遠に終わらない夕焼け
振り返らないけれど彼女は穏やかで優しい世界にいるのでは 灰色の牢獄のような国を後にして
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表題 Kinder than Solitude と装丁が気に入っているが、ちょっと読みこなせなくて投了(中国人名は男女の区別がわからずこんがらがってしまった・・)
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一人の女の子の死(服毒自殺?他殺?)が、それに関わった三人の少年少女のその後の人生をまさに毒のように蝕む様子を書いた小説。三人とも自分を罰するように家庭を築くことに失敗し、他人との深いかかわりを避けて都市の中で漂流して孤独に暮らしている。
天安門事件あたりの北京の暮らしの様子が生き生きと描かれているのは面白い。
最後に明かされる死の真相は奇をてらわず順当にという感じだけど、よく泊陽は如玉をぶん殴らないで我慢できたね!泊陽のやれやれ系スカしたおっさんっぷりははっきり言って嫌いなんだけど、白々しく犯行について弁解して「で?殴れば満足するならそうすれば(笑)」という態度の如玉の不快度はそれをはるかに上回ったため読後感があんまりよくなかった。
彼女ははっきりした罰を受けるべき!と言いたいわけではないのだが、ラストにその不快感以上に感じられるものが私にはなかった。
私は思考の枠組みは言語によってある程度規定されているというのを信じている。中国人の作者が英語で書いたものを日本語で読むという複雑さのせいか、(私には)若干読みづらいというか、頭に入ってきにくい。昔読んだ「ワイルド・スワン」なんかも同じように苦労した覚えがある。
そういうこともあって物語のひだの部分を全然読み取れていないのではないかという気がする。登場人物の冷笑的態度と孤独の感傷を超えて見るべきものが何なのか分からなかった。
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『その年配の男がお茶を飲み干してから、二人で少艾(シャオアイ)の火葬の書類を丹念に調べた。死亡証明書。死因は急性肺炎の後に起きた肺不全だ。それから、抹消の公印が押された黄ばんだ戸籍簿。身分証。受付係は泊陽(ボーヤン)の身分証も含め、書類を念入りに点検した。泊陽が記入した数字や日付の下に、鉛筆の小さな点がついていく』
火葬場の押し殺したような雰囲気の中で交わされる言葉の射程の短さ。何を言っても接ぎ穂が思い浮かばないような遣り取りの情景が、孤独、という状態の本当の意味を教えてくれる。それは身を守るための鎧であると同時に、他者に自己の内面に蠢くどろどろとした感情を吐きかけないための方法でもあるのだ、と。
原題である「Kinder than solitude」には、邦題よりも孤独な状態を維持する意思についての強い言明があるように響いている。元々は三人の主人公の内の一人、黙然(モーラン)の物語に対する題名であったとあとがきにはあり、エピローグの一つが直接その意味を説明するようにも語られてもいる。だが、より強く印象づけられるのは、もう一人の主人公、如玉(ルーユイ)が最終盤で表明する言葉に象徴される『皆、安らかな状態でいるにふさわしいのに、残念ながら私は誰も安らかにしておけない人間なの』という文脈の中の孤独さであり、それよりも「優しい」とされるのは、安らぎを得ることを望まないもう一人の主人公(泊陽)との関係性における身の置き方であることは明かなように思う。
もちろん、黙然と別れた元夫との関係も、如玉と泊陽との関係も(二人の関係については、再会からの時間の経過と第三者の目を通した印象から間接的に伺えるだけだが)、一人の状態ではなくなるという意味で「than」と表現するに相応しい状態と言えなくはない。しかし、一緒の時を過ごしながらも自分を全てさらけ出すことができないという状況は、「孤独さ」という視点から見て、比較級に値する変化は加えられていないようにも思える。大勢の中に居る方が「孤独」を覚えるとはよく語られることだが、それを逆に言えば、一人でいることにはある種の慰め(自分自身何もかも確信しているわけではないと言い聞かせることが出来る許し)が残っているということでもある。結局、自分の内に渦巻くものを理解させることはできないと知っている他者と居ることによって加わる「思いやり(kind)」は、自分のためと相手のために黙するという二重の孤立を生み、その言葉にもう一つの意味を付け加える。その意味の二重奏が、この題名にはどこかしら逆説的な意味合いが含まれていると告げているように思う。そのどちらの意味も内包したまま、イーユン・リーは物語を閉じる。
それはまるで映画「卒業」の最後のシーンのように。教会から逃げた二人が笑いながら乗り込んだバスの後部座席でふさぎ込むように。その時流れてくるサイモン&ガーファンクルの歌が語るように。「Hello, darkness, my old friend」。