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ブッダが説いたこと (岩波文庫)
究極真理をめざす実践の本質とは? スリランカ出身の学僧ラーフラが、最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠して、仏教の基本的な教えを体系的に説く。【「TRC MAR...
ブッダが説いたこと (岩波文庫)
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商品説明
究極真理をめざす実践の本質とは? スリランカ出身の学僧ラーフラが、最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠して、仏教の基本的な教えを体系的に説く。【「TRC MARC」の商品解説】
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稀有な一書
2020/11/08 16:02
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
総ページ数も膨大ではなく、且つ文字自体も小さくは無いので、比較的すぐに読了出来ます。但し内容はかなり濃厚で、ずっしりときます。
確かに日本人にとって仏教は馴染み深い宗教ですが、ブッダが説いた仏教としてどれだけ正確に伝播して染み込んでいるかは不明です。本書はそういった点を解決していると言えます。
本書に於いて心に刺さった箇所が幾つもありましたが、一つ挙げるとすると次のフレーズです。『苦しみに対していらだったり、立腹しても、苦しみはなくならない。その逆に、さらに問題をふやし、すでに不愉快な状況をいっそう深刻なものにし、悪化させる。必要なのは、怒ったりいらだったりすることではなく、苦しみという問題を正しく理解することである。苦しみがいかに生起し、それをいかにして取り除くかを見極め、辛抱強く、賢く、決意をもって、努力することである。』
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スリランカの学僧ワールポラ・ラーフラ氏によって書かれた分かり易い仏教概説書です!
2020/05/05 11:01
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、スリランカ出身の学僧であるワールポラ・ラーフラ氏によって著された書です。同氏は、最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠して、仏教の基本的な教えを体系的に説いた人物として有名で、同書には、仏教における究極真理をめざす実践の本質とは何か、ということが丁寧に書かれています。同書の構成は、「第1章 仏教的な心のあり方」、「第2章 第一聖諦―ドゥッカの本質」、「第3章 第二聖諦―ドゥッカの生起」、「第4章 第三聖諦―ドゥッカの消滅」、「第5章 第四聖諦―ドゥッカの消滅に至る道」、「第6章 無我(アナッタ)」、「第7章 心の修養(バーヴァナー)」、「第8章 ブッダの教えと現代」となっており、非常に分かり易い仏教の概説書です!
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吟味すべきブッダの教え
2016/10/27 19:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者のラーフラ師は、クリシュナムルティと対談を行っている。その対談において、クリシュナムルティが、自分が言っていることは仏教とは関係ない、と再三主張しているにも関わらず、ラーフラ師は、本人に向かいクリシュナムルティとブッダの説いていることの類似性を主張してやまない。この齟齬が面白く、著者の名は印象に残った。本原著は1959年に英語で出版された。57年経た今、日本語訳が出版されたわけだが、それだけに、内容が古びていない、逆に、旬の本だということなのだろう。
さて、ブッダが説いたとしている「教え」とは、ブッダの死後百年以上経て成立している経典に基づいているものであり、ブッダの考えとは違うものが含まれている可能性がある。また本書は、経典の引用と著者による地の文の区別がつきにくいところがあり、著者の見解がブッダが説いたことのように見える箇所が目につく。読者は注意して読み進めなければならない。ただし、パーリ語による初期仏典が、ブッダの教えの原型を出来うる限り忠実に残そうとしたものであることは否定できない。北伝の大乗経典に馴染んだ日本人にとっては、テーラワーダの経典からブッダの言葉を探し求める事は十分な意味がある。
日本人には、仏教伝来以来、漢訳されたものを日本語脳で解読しなければならなかったという歴史的ハンデがある。従って、スリランカ出身である著者は、パーリ語を母国語のように扱える強みがあり、その著者による仏教の入門書(原著は英文)は、他の言語を母国語としている仏教研究者による成書とは異なる価値を有しているといえる。また教えのエッセンスが極めて見通し良く、コンパクトに表現されているもの本書の魅力だ。言葉の意味・定義については、できるだけブッダが語ったその本質を損なわないように、という著者の強い意欲が垣間見られる。しかし、その意欲がちゃんと効果を発揮しているかどうかについては、議論の余地がある。例えば、著者が安易に英訳したくないというパーリ語の「ドゥッカ」は、漢訳仏典では「苦」という言葉が当てられる。本訳書では、著者の意図に基づき、カタカナ表記の「ドゥッカ」をそのまま使っている。しかし、日本人にはこの言葉に馴染みがないので、著者の意図を汲み切れるのかという問題も出てくる。「ドゥッカ」=「苦」ではない、別のニュアンスがあることが事実だとしても、中村元の著書のように、「苦」をそのまま当てても良いように思う。個人的には、仏教文化を歴史的に受け入れてきた日本においては「苦」という言葉における意味の多様性、哲学的深淵性は十分に存在していると感じている。
もう一点指摘したい。本書に、ダンマパタ(法句経)の偈
「条件づけられたものはすべて無常である」
「条件づけられたものはすべてドゥッカである」
「すべてものごと(ダルマ)は、無我である」
が引用されている。それぞれ「諸行無常」「一切皆苦」「諸法非我」と漢訳されているものである。例えば「ニルヴァーナ」という条件づけられていない「絶対のもの」も含めて、無我である、だから「すべてのもの」と「条件づけられたもの」はこの偈で厳密に区分けされている、と本書は主張している。しかし、逆に、「ニルヴァーナ」も「無常」なのではないのか、という素人ならではの疑念が湧いた。本書によれば、疑いは「罪」ではない。疑わずに、信じるべきというのは的を射ていない。もちろん、疑いを除去すべく、精進を重ねるというのが、仏教の基本スタンスである。従って、本書の内容も、仏教の基本精神に従って、読者自ら大いに吟味すべきなのである。