紙の本
もの食う人びと (角川文庫)
著者 辺見 庸 (著)
【講談社ノンフィクション賞(第16回)】【JTB紀行文学大賞(第3回)】【「TRC MARC」の商品解説】人は今、何をどう食べ、どれほど食えないのか。人々の苛烈な「食」へ...
もの食う人びと (角川文庫)
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商品説明
【講談社ノンフィクション賞(第16回)】【JTB紀行文学大賞(第3回)】【「TRC MARC」の商品解説】
人は今、何をどう食べ、どれほど食えないのか。人々の苛烈な「食」への交わりを訴えた連載時から大反響を呼んだ劇的なルポルタージュ。文庫化に際し、新たに書き下ろし独白とカラー写真を収録。【商品解説】
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紙の本
福島で頑張っている人に届けよう。今、私たちができること。
2011/03/18 22:52
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たけぞう - この投稿者のレビュー一覧を見る
東北関東大震災。福島原発事故。自分に何ができるか考えた。考えが一つまとまったので、書評を通じてお伝えしたい。
前置きが長くなることをお許し頂きたい。地震の日、私は会社から帰れなくなってそのまま泊まった。私の職場は東京都内だ。みんなでTVを見て、ぼう然とし続けた。翌週の月曜日、電車がまともに動かなくて会社に行けなかった。次の火曜日、すし詰めになりながら出社した。計画停電が始まったが、まだ各グループ内の一部のみだったので我が家は停電しなかった。水曜日、電車が100%運転になり、停電も回ってこないので心に隙が生まれた。書評コーナーはここ何カ月かほぼ毎週出し続けているので、ストックしていた書評を投稿してしまった。平静になったつもりだったんだと思う。
そして次の木曜日。朝から冷え込みが厳しくなり、全グループ交替で間引きなしで計画停電を実施するとの情報が流れた。慌てて帰ろうとしたが電車はすでにすし詰め。私はその中で自己嫌悪に陥っていた。「電気がもう大丈夫なんて思っていたんじゃないのか?」いきなりぶん殴られた気がした。目が覚めた。投稿した書評は消せないけれど、平和ボケした自分の反省として、さらしものに丁度いい。
自分を戒めるために、その日の夜考えた。募金とかはできるし、個人支給されていた非常災害物資も会社がまとめて送付に回してくれた。ガソリンも入れていない。家内は買い物には自転車を使うようにしているし、極力、給油は先延ばしにしようと思っている。
他にもないだろうか。私は自分のブログがなく、発信するとしたらbk1さんの書評だけだ。何人の人が見てくれているか分らないが、自分の考えを書きとめておきたい。みんな書評の投稿を控えているみたいだけど、何かの形で持ちが伝わるならば書いた方がいいんじゃないだろうか。意見じゃなくても、勇気づけられるものでいいと思う。もちろん普通の書評で、無事だよってことが伝わるのだっていい。bk1さんでも、被災地応援の特設書評コーナーみたいな枠組みで、何かの役に立ちそうなものは、少しの間閲覧できるように検討して頂けないだろうか。ただの一投稿者の分際で大変厚かましいのは承知だけれど、ひとつのアイデアとして申し上げたかった。
私はここで、被災者を支援すべき人たちに呼びかけたい。そして、ネットを見られる人が全員ではないことは十分承知だが、特に福島で頑張っている人たちに気持ちを届けたい。今まで誰のおかげで電気が使えてきたのか、私は今、心底感謝している。だからこの本の書評を書こうと思った。ほんの少しでもいいから支援の足しになれば。支援なんて大げさなものでなくても、せめて被災地にかかっている迷惑を少しでも減らすことができれば。そんな気持ちでいっぱいだ。原発を疑問視する書評が何本か載った。とても大切な議論だと思う。でも最優先事項は、日本国民のために命がけで頑張っている福島の人達を応援することじゃないだろうか。だから、自分が今すぐできることを書こうと思ったんだ。
本題に入る。「もの食う人々」は、平和ボケに嫌気がさした辺見さんが、しびれるような所を選んでご飯を食べに行くルポルタージュだ。バングラデシュの残飯ビジネス、ソマリアの飢餓地域、紛争中だったクロアチア。どこに行っても、人間は起きて食べて寝る。シンプルにして究極に迫るテーマだ。そしてこの中にチェルノブイリ原発での食事がある。
チェルノブイリ原発の石棺を見て、原発の職員食堂で食べる。次の日、近くの村でボルシチとサーロという豚の脂肪を食べる。放射性物質除洗にいいと信じているみたいだ。そもそも、もう放射性物質はついていないと言って人々は食べている。ひたすら食べている。
被災地関連で、ひとつ気になるニュースがあった。福島産の農産物が、受け入れてもらえないかもしれないと心配しているニュースだ。当然、30km圏外だ。JCO臨界事故の時も茨城産の農産物で風評被害が広がった。私は気にせず食べた。そりゃあ、きっちり測定すれば自然界の放射線量よりも少し多いかもしれない。でも死ぬわけではないレベルのはずなんだ。
支援金を免罪符みたいに払い、堂々と買占めをしている人がいないことを私は心から祈る。今、買っているものは、本当にすぐにそんなにいっぱい必要で、今入れたガソリンは、きっと欠かせないものなんだよね。
それでもなお、作物を食べるのはためらう人がいると思う。私が宣言することで、福島の人に迷惑をかけることが減るのなら喜んで伝える。私は食べるよ。米も野菜も。漁が再開されたら、もちろん魚も。自分のちょっとの自己満足のために、これ以上福島の人を苦しめるのはいやなんだ。素人が流言をばらまくなと怒る人がいるかもしれない。危ないのにと眉をしかめる人がいるかもしれない。でも私は、自分に出来ることをしたい。それだけなんだ。
辺見さんのこの本は、少し勇気を分けてもらえる。こんな私にもね。
とりあえず福島のことで考えが浮かんだのだけど、他の被災地にとってもできることがいっぱいあると思う。もし書評を通じて何かできることが分かれば、皆さんからもぜひ伝えて欲しい。ここまで読んでくれてありがとう。
紙の本
食べる風景のフルコース
2003/01/10 11:36
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:てぬぐい - この投稿者のレビュー一覧を見る
カラスや野犬と争いながら、残飯をあさる子供を見た筆者、
「食べ残すということが罪ならば、この子達がその罪をあがなっている」。
たとえば夕べ、炊飯器には数粒とはいえ米が残っていた。
これを洗って流してしまうか、きちんと茶碗に注ぎきって食べるか。
この二つの行為のはざ間に、「罪」が横たわっている。
巨大レストランのオーナーは言う。
「食べる快楽は、階級・宗教・身分に関係ない」。
果たして本当にそうだろうか?と考えてしまう。
そう、そのレストランに入れない人は?と。
この二つの人間のはざ間に、「身分」が横たわっている。
日本人が立ち食いそばを食べるのにかける時間が2分30秒。
ベトナム人がフォーを食べるのにかける時間は10分以上。
これが10年前の姿。
今のベトナムでは、一杯のフォーにどのくらいの時間が費やされているのだろう?
この二つの時間のはざ間に、「意味」が横たわっている。
とある炭鉱の町で、重労働のあとに食った一杯のスープ。
何もしない一日のあと食った同じ一杯のスープ。
前者を「死ぬほどうまい」と言い、後者はそれほどでもないと感じる。
この二つの感覚のはざ間に、「価値」が横たわっている。
・
・
・
食うという営みと、食うための営み。
その無限の連鎖が淡々と描き出される。
あらゆる国・文化・環境において、当然のごとく異なるそれらの鎖。
いずれが正しいのか、いずれがあるべき姿なのか。
それを訴えかけるわけではない。
ただ、筆者が入り込み、捉えた「もの食う風景」。
ある風景は悲しく、ある風景は楽しく、そしてある風景は残酷。
禽獣も人もそう変わらない…
紙の本
見えないものを見る目を持とう!
2001/10/05 23:09
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読ん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
テレビを見ていると食に関する番組がとても多いことに気付く。時々、タレントが海外に行って、普段は日本人が口にしない食べ物(たとえば何かの幼虫だとか蛇の肉だとか)を大騒ぎしながら1mmほどかじってアホ面でワーワーキャーキャー叫ぶのを見ることもある。
本書が話題になっているのは知っていた。しかし、「…ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる。…」という帯を読んで、テレビで見るワーワーキャーキャーのない開き直り版あるいはグルメが度を越した開高健食紀行版のようなものかと思い込んでいた。
今、読み終わって本を前にして、「辺見さん、勘違いしてましてごめんなさい。」と頭を下げた。
本書は「食」という人間の生命線を通して個を取材したものである。そして、個の取材によってその背景にある政治状況や世界が見えてくる。
アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、ロシアの様々な国を訪問する辺見さんに読者は二人三脚するように着いて行くことができる。ある時はデコボコ道をバスに揺られて、またある時は貨物輸送機に潜り込み旅を続ける。バナナ畑から満天の星空を仰ぎ、電気も水道もない村で珈琲の麗しい香りをかぐ。それぞれの地で様々な人々と出会い、言葉を交わす。
辺見さんと共に行く旅は、最高に楽しく且つ辛い旅でもあった。
バングラディッシュの難民キャンプでは、赤十字などの食糧援助という100%「善」から村民と難民間に起こった反駁を見た。
ピナトゥボ山噴火で平地に下りたアエタ族は、食の変化により自己を失う寸前に陥っている。
ミンダナオ島では、第二次世界大戦の残留日本兵が食した肉に衝撃を受けた。
タイでは、日本の猫が食べるエサを加工する工場で働く女性がいた。日本で売られる猫缶1つの値段ぐらいの食費/(日)で、毎日せっせと日本の猫のエサ作りだ。
東西ドイツ統一後に、民族排外主義のネオナチが動く様子は歪みから生じる危険を感じる。
内戦の続くソマリアでは、人々の窺い知らぬところで物事が進み、わけもわからず頭上を飛び交う砲弾を避け家を破壊され飢餓に陥る様子にこちらの目も虚ろになる。
大阪の高校を卒業後、韓国の三星に入団した男の子が、「…ぼく、完全な韓国人にはなれんと思う。」「日本に十八年おった自分を変えたくないから。」と語る時、日本人にとっても韓国人にとってもいとおしい在日という存在を改めて知る。
日本語の歌が次々と出てくる元従軍慰安婦達。50年経とうとも日本語の歌が記憶に焼きついているように、彼女らの心の傷は忘れようにも忘れることができるものではない。
ベールをかけたような日本から外を見ていた自分が、ベールをはがされた日本を外から眺めるような経験をした。滑稽を感じた。
国内ニュース、海外ニュースを詳細にチェックしても感じることができないものがこの本にはあった。
世界がぐっと近づいた。
紙の本
食べる楽しみ
2003/02/08 12:10
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:spirit - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本はエピソードごとの様々な話が集まってできています。
ただし、テーマは食。
食べ物の事を絡めて話は進んでいくのです。
この点が実に素晴らしい。
人間は食べる事を基本としていて、食べ物に関する事は忘れないものなのだと改めて感じます。
著者は様々な味を口にして旅を続けていきます。
残飯の味、刑務所の味、敗者の味、チェルノブイリの味、王様の味、食の恨みの味。
ところで、著者はなぜこのような旅をしようと思いついたのでしょうか。
ほんのちょっとだけ前書きを引用させていただきます。
ただ一つだけ、私は自分に課した。
噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、人びとと同じものを、
できるだけ一緒に食べ、かつ飲む事。
不安である。意義もわからない。愚かかもしれない。でもそうしてみたい。なぜだろう。
私は、私の舌と胃袋のありようが気にくわなくなったのだ。長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、万事に無感動気味の、
だらりぶら下がった、舌と胃袋。
怖がって縮みあがるだけかもしれない。しかし忘れかけている味を思い出させたいのだ。
この個所を読むたびに、僕は自分を振り返ってしまう。
自分はそうじゃないと言える人がこの国にどれだけいるのだろうか。
安易にそう言える人がいたら、まずは疑ってみたくなる。
僕が海外で得たと思う事の一つに、
素直に「いただきます」が言えるようになったという事がある。
今日も何事もなくご飯を食べる事ができる。
食べるという行為はなんと楽しい事であろうか。
思えばこれを意識する事は今までなかった。
一人暮しを始めてからはさらに顕著だった。
子供の頃に「世の中は食べれない人が(うんぬん)。だから好き嫌いをやめなさい」
と言われたが、そんなもの、わからなかった。
しかし、海を越えるとそういう人がいる。
これで1日もつのだろうか、というような食事でたくましく生きている人達がいる。
彼らを卑下するわけでもなく、自分が優越感に浸るわけでもなく、
純粋に、今まで当たり前だった食うという行為がよい事なのだと知った。
そしてそれから始めて素直に「いただきます」が心から言えるようになったのである。
形式的に「いただきます」をいう事が大事ではないのだ。
たとえ言葉はなくとも食に対する感謝の念が食事の度にあればいいのだ(少なくとも、僕はそう思う)。
しかしそれだけの事が、なんと難しい事であろうか。
読書はじめました
紙の本
食について深く考えさせられる一冊
2001/02/20 15:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ジャングルジム - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本を読んで食と生きる事についてとても考えさせられました。世界各地でこんなにも食に関する考え方はちがうのかとも思いました。
また、改めて、普段の生活で忘れかけていた大切なこともこともこの本を読んで考えることが出来ました。
紙の本
食べることは生きることという当たり前のこと
2004/07/15 15:53
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kay - この投稿者のレビュー一覧を見る
「もの食う」という言い回しに惹かれてこの本を手にした。
バングラディシュの残飯市場から始まり、旧東ドイツの刑務所の食事、無人の村に残る老婆の作るスープ、観覧車の中でのディナー……。
食うということは、なんて様々なことを映し出すんだろうとと感心させられたが、すぐにそれは生きることすべてのことだと気付いた。そういえば、そうなのだ。
そういえば、人は食べずには生きていけないのだった。小腹が空いたからとか、お昼になったからとか、果ては健康にいいからなんて言うその前に、食べなくては死んでしまうのだった。
そんな当たり前のことを、この本はまず半ば荒療治的に思い出させてくれた。そしてそれに気付いたあと、再び読み進めながら思うのは、食べるというその行為を取り巻くものについてのことだ。「この人は、どんな思いでこの食べ物を口にしたのだろう」「こんな食べ物が存在する世界に生きている人もいる」と。
この本の放つメッセージは強烈で、揺るぎない。自分はそれにたじろいだ。人は毎日ものを食う。それ故、食べ物は嘘がつけなくなってしまう。それらの食べ物の語る言葉は、どんな直接的な表現よりもストレートに心に届く。そういえば、自分も毎日ものを食い、生きているからだ。
食べていけるって、幸せなことだ。
紙の本
もの食わねばならぬ人びと
2000/08/03 14:41
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:だいき - この投稿者のレビュー一覧を見る
人は生きていくためにどんなときでも食わねばならない、と言う事実をまざまざと見せつけ、感じさせる。
金持ちの捨てた残飯を拾い、売って商いをする人、それを買って食う人、紛争の続くクロアチアで、一人誰もいない村に戻り、死を待ちながらパンを焼く人、戦禍に苦しむ人々を見ながら、祈ることしかできない教会の中の人びと、従軍慰安婦という辛い過去に苦しみながらも、歌い、食う人々。どんな人々も、それでも今日を生きるためにものを食う。
作者は触れることを躊躇いながらも、「食う」ことを根幹に置いて、そこに足を踏み入れていく。そこで生きる人々の心に少しでも近づいてみようとする。
だが哀しい話ばかりではない。過酷な重労働の後の、「舌が踊りださんばかりの」最高の「食う」があり、絶大な権力を失った後の、穏やかな「食う」もある。
そこには、社会問題を提起しようなどと言う目的はなく、人はどんなときでも食うのか、食わねばならないのか、というただ一つの疑問を持ち、探っていく作者の姿があり、そしてその人々に対する温かい感情がある。
単なる社会派ルポではなく、純粋なまでに「食う」にこだわった、読み応えのある一冊。
グルメ番組が連日放送される、飽食の国日本。反省を促されるでもなく、考え直させるわけでもなく、ただ、何かを少しだけ知ることができたような気がする本だ。
紙の本
忘れられない本
2019/04/11 08:01
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さなにょろ - この投稿者のレビュー一覧を見る
読みながら百面相しました。
食べるという行為が持つ意味を、改めて考えさせられる作品
紙の本
食事という行為から国々の社会背景を浮彫にさせた一冊
2015/10/13 13:11
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たる - この投稿者のレビュー一覧を見る
「調べる技術・書く技術」の本文で紹介されていた中で一番興味をそられたので手に取った。「食」という生き物の根本的なテーマにしたルポタージュ。 120円の猫缶を作る工場労働者の食事は一食50円。 以下引用‐「日本の猫のための缶を作っていること、どう思う?」(略)「関係ない。ただ働いているだけよ。」(略)「質問されなければならないのは私たちのほうなのだ。あなたの家の猫が食べているその猫缶が、どうやってできたものか想像したことがありますか?」-引用終わり
紙の本
身体や皮膚で感じた食に関する世界の生情報
2003/06/15 16:42
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1994年に単行本が出たときは、結構衝撃をもってうけとられたはずである。こちらの感性が鈍いのか、読んで驚愕をおぼえたとか、度胆を抜かれた、ということはない。デフレで不景気とはいっても、貧困のため餓死したという話は聞いたことがない日本に生活しているためか? 世界中では食えない人の方が多いということが、頭でわかっても、身体や皮膚で感じるということがない。この本は、現場にいって、そこで食べられている現物を自分で食べてみて、自分の感官で 現実的に感じ判断したことを述べている。三現主義を実行している。身体に密着したというか、形而下的というか、地を這うような感触というか、生の情報が直に伝わってくる。食欲と性欲は個体維持と種族維持のための基本的欲望である。人類はそれらを文化にまでしている。だが、文化以前に、それが如何に達成されるか、されないか、それは何故か、基本に立ち返って考え直させられる内容である。
紙の本
ゲテモノグルメ旅行記でしかない
2006/03/12 22:23
13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
この著者は傲慢だと思う。そして、これ程ひどい作品に出会ったのも久しぶりだ。日本から出て外の世界から「飽食の日本」を批判することはたやすいし、紛争地帯の状況も難民キャンプの状況も、難民と周辺住民との確執も日本にいて充分に想像できるものだ。著者は「実際に行っていないお前に発言権はない。私は実際に行ったのだ。」と思っているのだろうが、「最も外国を誤解する者は、行ったことがない者よりも、旅行者である。」と答えておこう。知性と想像力は実体験を上回ることがあるのだ。
だいたい、冒頭から真摯な態度が感じられない。たとえば、「持ち時間は、九四年春までである。」(p.9)と帰国する日時を出発前に決めている。納得のいくノンフィクションを書くのに最初から期限を決めてるのはおかしい。はじめから結論ありきの取材旅行か、ひもつきの旅行としか思えない。
さらに、「私の舌と胃袋は、連夜の送別会で食った特上寿司やしゃぶしゃぶの味をしつこく覚えていた」(p.13)など、これから向かう国々の人を、そして読者をも愚弄しているとしか思えない。また、「大きな白人たちがこうして焼き魚を喜々として食っているのを見ていたら、民族の差なんか大したことないなと思えてきた。」(p.158)は、白人コンプレックス丸出しで読んでいるこちらの顔が赤くなる。
それでも後半には読むべき価値がある部分がちらほらある。作者の力量というより出会った人の力量に負っているのだが。たとえば、ヤルゼルスキ前ポーランド大統領の話。遠く日本から来たジャーナリストに、食べ物の好き嫌いなどインタビューされて、落ちるところまで落ちたと感じているのが伝わってくる。
この作品がうけるとしたら、感覚の麻痺したマスコミ内部の人間だけにだろう。普通の人間には、恥ずかしくてこんな作品は上梓できない。自分の品性の下劣さを曝けだすことになるだけだからだ。これに賞を与えた審査員の良識も疑う。みんなで、美味しそうなネタに食らいついただけじゃないか。