紙の本
吉田篤弘氏によるダ・ヴィンチの『受胎告知』に引き込まれた主人公が絵画の中で冒険を繰り広げる物語です!
2020/09/05 10:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『つむじ風食堂の夜』、『針が飛ぶ Goodbye Porkpie Hat』、『小さな男静かな声』、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』などの話題作で知られる吉田篤弘氏の作品です。同書は、ある日、美術館に出かけた曇天先生に起こった不思議な出来事についての物語です。曇天先生がダ・ヴィンチの『受胎告知』の前に立つや突然に画面右隅の暗がりへ引き込まれ、以来、絵の中に入り込んで冒険を繰り返すというストーリーです。絵の奥では「見えなかった背中」も「曖昧だった背景」も明らかになっていきます。果たしてこれは夢なのでしょうか、それとも現実なのでしょうか?とっても面白い作品ですので、ぜひ、ご一読ください。
紙の本
誕生日が憂鬱なあなたへ
2019/05/02 01:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ヒヨ - この投稿者のレビュー一覧を見る
大学で美術史を教える曇天先生は、50歳を過ぎたある日から様々な絵の中へと迷いこんでしまう。
と言っても、いわゆる謎だとか暗号だとかいうやる気に溢れた話ではなく、絵の中をさ迷い、出会い、流される姿はおじさん版不思議の国のアリス。
年齢相応の自覚や総括を求める「シューイ」に首を竦め、そこに到れぬ自身のあやふやさに戸惑う曇天先生は、内向きでありながら、変化に敏感な人でもある。
そんな先生が教え子アノウエ君と語らう都度、彼等の「人生の迷いどころ」が絵の中の世界という形で時には魅力的に、時には怪しげに拡がる。
アリスは最終的にワンダーランドの不条理から離脱を選ぶのだけれど、曇天先生とアノウエ君は一体どうなるのか。
事件も恋愛も波乱要素は一切ないのに、人生について確かに語られる不思議な本。
紙の本
絵画の奥へ奥へと迷った気分
2020/08/13 15:12
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語は、主人公のオトコが絵画の中に入り込んでしまい。そこで不可思議な体験をして、また現実世界に戻ってくる...という話の連鎖。
たとえば、ダ・ヴィンチの「受胎告知」に紛れ込み、迷い迷って夕暮れ時のデパ地下の魚売り場に舞い戻どるとか。アンドリュー・ワイエスの「クリスチーナの世界」に迷い込み、なぜだか、天井の低いプールのような通路を延々と進みなぜか学食のサンプルケースの下から転がり出でたり。風神雷神などは、なかなかに素晴らしいキャラクターで、あの元になっただろう絵をみたら絶対ココロでアフレコして楽しみたくなること必至です。
冷静に読めば難解な物語な気もするが、まるで中毒者のようになって読み進み、終わる。読者も各種絵画の中に紛れ込み、また日常生活に戻ってきた思いです。
今度は、ここで登場した絵画を眺めた暁に再読してみようかなとも思う。
投稿元:
レビューを見る
美術館に出かけた曇天先生。ダ・ヴィンチの『受胎告知』の前に立つや、画面右隅の暗がりへ引き込まれ……。さぁ、絵の中をさすらう摩訶不思議な冒険へ!
投稿元:
レビューを見る
2011年刊行の単行本を文庫化。
『絵の中に入ってしまう』というSF的な設定はあり、ジャンルとしては幻想小説やファンタジーに分類されるような作品だが、吉田篤弘の場合、幻想と現実はシームレスに繋がっていて、妙に『地に足が付いている』。それがこの作家の魅力だと思う。なんというか、登場人物は割と奇矯な人物だったり、ごく普通に不思議な出来事が起こったりはするのだが、と、同時に、彼らはやっぱりごく普通に、ちゃんと『生きている』気がする。
投稿元:
レビューを見る
タイトルとあらすじからして吉田篤弘らしいファンタジーな世界を想像していたが、読み進めていゆくうちに「おや?」と。
自由と理屈の戦いというのもなるほど。絵画に対する考え方というのもなるほど。
そもそも書き手の思惑など後世の人間が後付けしたものかもしれない。そこに理由を求めるのは酷だ。
投稿元:
レビューを見る
面白かったです。
曇天先生とアノウエくんの不思議なやりとりと出来事でした。
絵画の中に入り込むのはとても面白そうです。
奥で繋がっている、というのも。
哲学的なような、そうでもないような…ぐるぐるぼんやり考えてしまいます。
投稿元:
レビューを見る
大学の教壇に立ち、少数の学生を相手に美術を教える男が主人公です。いつも屁理屈ばかりこね回し、有楽町の地下街を散策するのが趣味。一風変わった趣味ですが、地下街は雨が降っても濡れることもないし、方向を見失えば、迷宮に迷い込んだような感覚を楽しめるというのがその理由。そんな50歳独身の男が、上野の美術館に、ダ・ヴィンチの〝受胎告知〟を見に出かけ、どういうわけか絵の中に入り込んでしまいます。
それからというもの、絵の世界と現実の世界を行ったり来たり。夢と現、妄想と実生活の境が、だんだん不明確になっていきます。その境は、あの世とこの世の境と言い換えることができるかもしれません。
主人公の身に、なぜそのようなことが起こるのかわかりません。でもきっと彼は、50歳という年齢になって、人生に限りがあるということが、ますます現実味を帯び、来し方を振り返り、自らの人生に意味を求めるようになったのではないでしょうか?人生に意味なんかないのに、そんなもの求めたりするから、話はますますややこしくなっていきます。
〝どうして意味なんか求めるんだ。人生は願望だ。意味じゃない。〟といったのは、チャーリー・チャップリンです。少々手遅れかもしれませんが、この言葉を曇天先生に贈りたいと思います。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2
投稿元:
レビューを見る
早く先を読みたい!と慌てて読んだらだめだ。一気にここはどこ、今はどこ、何がどうなった!?状態になる。この小説はアトラクションや… 縦に横に揺れたり一気に落ちたりしながら、楽しめばいいんや…
投稿元:
レビューを見る
・「果たして、絵の中には時間がないのだろうか」
・そこには時間というものが見えなかった。
もとより時間など見えたためしはないのだがー。
・「ないね。仕事っていうか、役割が別だし、会うとか会わないとかってあまり関係ないのな。まぁ、そっちから眺めたとき、ジャレらが並んで見えるってことは知ってるが、それはそっちの概念でね。あと、ジャレらは模写とか印刷物とかが膨大にある。これがジャレらにはややこしい。特に模写な。模写ってなんなん?というより、ジャレらが模写の可能性もあるわけで、なんか、ジャレらのモノホンは国の宝みたいなことになってるし、絵とかナントカじゃなく、宝なのな。宝ってなんなん?とにかくそういう事情が面倒なんで、ジャレらはもう放棄したよ。ひとつところに収まるのを。魂と一緒な。つまり、モノホンもニセモンもひとつになって、沢山の空間が折り重なってジャレらはココにいる。ナニ言ってんのか分からんだろう?こういうのって、分かろうとすると分からなくなるし、分からなくていいやと放棄すると一発で分かる。要はひとつじゃないってことだ。ジャレは一体じゃないし、ライジンなんか二百体くらいいるんじゃねぇ?」
・「ジャレは考えよう。いろいろ分からんからよ。思うに、そこんところをすっ飛ばして生きるのはツマランぜ。ジャレなんかもう四百年もこうしているから退屈でツマラン。でも、アレよ。ツマラナイってのは、ホントはイイことなんじゃねぇ?だって、キサンらの世界では詰る方が困るんじゃねぇか?管みたいなもんがよ、いっぱいあるだろうが、キサンらの世界は。水道管が詰まったとか血管が詰まるのは恐いとか、いつもそんなことを恐れてる。キサンらはとにかく詰まりたくないのな。なのに、急にツマラナイとか言い出す。アレってなんなん?大きな声出して、ツマランとか怒りまくって。のたうち回ったりしてよ。つまらないつまらないと言いながら床の上でジタバタするガキとか。ま、ガキは仕方ないか。ガキはまだ、あんま生きてないからよ。けど、五十年も生きてきたイイ大人が、簡単にツマラナイとか嘆くだろ。するとよ、キサンのようにこうした『迷いどころ』へ来ちまうわけだ」
・もしかして、またあの彼なのか。
いえ、先生。彼ではなくて「彼ら」なんです。舟に乗った男が何人もー。
何人も?そりゃまたどういうことだ。
あああ?
どうした。
男たちは、なんと一人なのでした。
どちらなのだ?何人もいるのか、それとも一人なのか。
何と言ったらいいんでしょう。「何人も一人がいる」とでもいえばいいんでしょうか。
・世界なんて大きなことを言っても、要はひとつの空でつながったひとつの空間です。同じですよ。絵の中の世界もひとつなんです。つまり、二次元という名のひとつの世界です。
そこではすべてがつながっている。銭湯富士の向こうにレンブラントの描いた空があり、その空の下に風神と雷神がいる。彼らの背負った闇の奥を進むと、突き当たりのほの暗い部屋の中にモナ・リザの背中が浮かんでくる。そして、さらにその向こうにはー。
・「そこだ。時間が奪ってゆく��のをこちら側に留めるために絵を描いた。最初はそうだった。絵画が生まれたてのころは、目の前に生きているものが、死んだり消えていったりするのが惜しくて惜しくて、その前になんとか写しとろうと必死になった。しかしだ。時代が下って絵画が普遍を獲得するころには、時間との戦いはさらに発展していた。画家たちは経験のない未来の時間を描いたり、経験があろうはずもない空想の世界の事情まで描くようになった。この空想というものが絵になだれ込んできたとき、事態は急速にややっこしくなった」
・「つまり、アンタは桜の花びらを食いたいわけか」
いきなり自問自答から抜け出てきたように、見知らぬひとつの声が立ち上がった。
あわてて声の出所を探すと、闇の中につるんとした人影がある。つるんとしているのは髪が無いからで、
「誰です?」
と問うと、
「坊主だよ。三日坊主だ」
・「な?どうしてなのか知らんが、台風の目とはこうして静かなものだ。この周りはとんでもなく大変なことになっているんだろうが、この真ん中のところだけはこうして静かだ。なんというか、まぁつまりアレだ。此処は心とか魂とかそういうものがある場所なんだろう。アンタのね。参ったよ。俺だって坊主としてのプライドがある。俺が描いている絵なんだし。それがいつのまにかアンタに食われた。じゃあ俺は何なんだ。それともこれが普遍とかいうヤツか。絵ってもんは色んなヤツが見るからな。無差別に色んな目に曝されると、どんなでたらめを描いても強引に普遍に引き込まれる。だがね、それでいいのかもな。描く以上は見てもらいたい。なるべく多くの人に。そうしてたくさんの人が見れば見るほど、俺なんてものはどんどんなくなってゆく。それでいい」
・「それは簡単な話だ。絵っていうのは、いくら個人的に初めてみても最後はつながる。パソコンなんかもそう。わざわざパーソナルなんて謳い上げてるのに、いつしか電網に搦めとられ、すべてがつながってしまう。みんな結局、つながりたい。こればっかりは昔もいまも変わらない。人間っていうのはどういう了見なのか、三日坊主で飽きちまうもんが山ほどあるっていうのに、人とつながることだけは飽かずに何百年何千年とつづけてきた。アンタも気付いっちゃいるんだろ。絵の中の世界が奥深くでつながっていることを」
・なるほど。何も変わらない、は言い過ぎであるとしても、「結局どちらも同じではないか」という意見は分からないではない。それが具体的にどのような場所であるかはともかく、中とか外とかこちらあちらに関わらず、人が人と思いを同じくする場所は必ずどこかにある。思いが重なったり出会ったりする場所はきっとある。絵の奥はつながっていると彼は我々に教えてくれたが、事は絵の中に限らず、すべてはその奥でつながっている。
映画でもいい。本でもいい。音楽でもいいし写真でもいい。もっと言えば、饅頭だっていいし、銭湯でもいい。缶コーヒーでもいいし楽器などじつに奥が深い。靴、鞄、郵便ポスト、トランプ、満員電車、トンカチ、四畳半ー何だっていい。条件はただひとつ、それが多くの人の目や手に届いていること。愛でられていること。接していること。時間を共にしていること。そこに時間が流れ、時間が人と何かを結んで、どこかーそれはやはり奥だろうーに連れ去ってゆく。
投稿元:
レビューを見る
『脳内改善』
最初は読みにくいと感じていた。
この物語に終わりがくるのかと。
しかし次第に私の脳の使用法に変化がやってきた。
硬い肉を齧るように読んでいたが。
だんだん味がにじだしてきた。
もうクセになったはとまらない。
あっという間に読みすすめてしまった。
そこがまさに吉田篤弘さんの世界観ではないだろうか。
だから、吉田篤弘さんの作品がもっと読みたい!もっと読みたい!読まずにはいられないと貪って読んでしまう。
投稿元:
レビューを見る
不思議な世界観と、教授とアノウエ君のやりとりが好き。美術が好きな私としては、自分も絵の世界に迷いこんでみたい!
投稿元:
レビューを見る
僕には難しかったかな、ページを進めるうちに、だんだん複雑な迷路に迷い込むようで、よくわからなくなってしまった。
でもドンテンはすきだよ。
アノウエくんとのやり取りとか。
ポスターのくだりも好き。
投稿元:
レビューを見る
ふわっと現実逃避させてくれる作品。
吉田篤弘さんの作品は、
自分の周りにも、小さいトキメキが転がってるかも?といつも思わせてくれます。
絵の中に入り込んでしまうなんて、
現実世界ではあり得ないと分かっていても、
風神や雷神とお話ししたらこんな感じかも!
と思ってしまう…。
大きく感情が動くわけではないけれど、
読み終わると心が浄化されていることに気づく。
やっぱり吉田篤弘さん、好きです。
次は何を読もうかな?
投稿元:
レビューを見る
いつも感心ばかりしている「鳥肌が立つ男」曇天先生。
大学で芸術を論じている五十歳の曇天先生と、助手のアノウエ君のやりとりが実に面白い。
また吉田篤弘さんの独特な世界にするすると引き込まれてしまった。
五十年というのは、一言で済まされない時間の塊なのでしょうか。
曇天先生は、上野の美術館で、ダ・ヴィンチの『受胎告知』の絵の右隅にある「ほの暗い部屋」への入口から、絵の中へ入り込んでしまいます。
懐かしいような、面白いような、怖いような…
美術館という特別な場所は、私も妙に好きです。
絵を観る。すなわち絵の中に入り込む。うーむ奥が深い話だ。
妄想が渦巻いて、終わりが見えない。一体どこで終わらせるのだろうか。
絵の中の冒険の話は、なるほど「アリス」さながらで、もう嬉しくて口元がついつい緩んでしまいます。
あとがきも興味深く、とても面白かったです。