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「自閉症児は津軽弁を話さない」と言う臨床発達心理氏の妻に、大学で特別支援教育を教えていて、障害児心理学を専門とする私は「自閉症児の音声的特徴が独特だから方言らしく聞こえないだけ」と反論し、喧嘩になる。
2021/04/27 14:52
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投稿者:たっ君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1<自閉症は津軽弁をしゃべんねっきゃ>青森市とむつ市で特別支援学級の先生にアンケート調査したところ、「自閉症児は方言を話さない」という話は噂として広がっており、感覚とも一致しているという結果が出た。
2<北東北調査>秋田県と青森県にて地域社会の方言使用、IDの方言使用、ASDの方言使用を調査をしたところ、ASD方言を話さないという傾向が出た。使用語彙調査をしても、共通語語彙の使用と方言語彙の使用とにASDとnonASDとの間に明確な差が出た。
3<全国調査>全国調査ならびに京都・舞鶴・高知・北九州・大分・鹿児島での比較調査でも同じ結果が出た。「談話分析」よりも「印象評定」を使用した。
4<方言とは>(この章は言語学的)
5<解釈仮説の検証>1、音韻・プロソディ障害仮説;方言語彙の不使用を説明できない。2、パラ言語理解障害仮説;方言語彙の不使用を説明できない。3、終助詞意味理解不全仮説;ASDの方言不使用は、終助詞だけでなくあらゆる品詞にわたってみられる。4、メディア影響仮説;ASDがメディアから言語を学習する理由、方法が明らかでない。(この章は言語学的知識がないと難解であろう)
6<方言の社会的機能説>方言は21世紀の日本にもしっかりと根付いており、話者は方言と共通語のグランテーションの中から、人間関係の維持のために最も適切な表現様式を瞬時に選び使用している(方言の社会的機能説)。またこれは、ブラウン&レビンソンのポライトネス理論の言語ストラテジーにも通じる。ASDは社会性の障害を主障害とする。ASDの言語不使用は、方言の社会的機能を理解できず、状況に応じた使い分けができないからでは。
7<ASD幼児の方言使用>ADSが方言の社会的機能を理解できず使用しないとするならば、それらを理解いていない幼児の方言使用はいかなるものか。津軽地方の保健師に質問調査したところ、TDやIDの幼児は方言を使用するものの、ASDは使用しないという結果だった。
8<ASDの言語的特徴と原因論>ASDの言語上の問題。語用論(言語研究の一分野。言葉そのものよりもその使用法や表現形式、文脈解釈に焦点を当てる研究。例:Q・時計を持ってますか?A・4時20分です)障害。ASDの主要な障害領域。ASDの原因論の変還。心の理論(サリーとアン)。DMS-5。
9<家族の真似とテレビの真似>ASD幼児の方言不使用は、自然言語の習得・使用の問題。ASDの模倣は心的状態の理解に基づかないもの。
10<ことばと社会的認知の関係>言語習得のスキルとして「意図読み・意図理解能力(共同注意フレーム)」が重要。トマセンとバートン「トーマを探しに行こう」。ASDは、意図読みの困難があり、自然言語を学ぶのが難しく、意図理解なしの模倣や共同学習によって学び、方言主流社会においても共通語から言語を習得する。
11<かず君の場合>ADSの意図理解の弱さ、自然言語習得の困難さ。メディア媒体からの独自の言語習得。
12<社会的機能仮説再考>伝達意図(他社の意図的状態に対して人が何かを意図すること)の理解。
13<方言を話すASD>ASDも自然言語として方言は習得できるが、場面に応じた使い分けは困難。
14<「行きます」>ASDへの声掛けは「です・ます」が多く使われる。ASDへは相手の意図による行為の実行が機能していないと判断されている。ASDは相手が自分の意図に働きかけていることの弱さがある。意思決定機能が十分働いていないと見られている。
15<コミュニケーションと意図>ASDの言語やコミュニケーションの特徴。
<おわりに>「妻と私の論争には決着がついた」「この夫婦喧嘩は、私の完敗」「したはんで、いったべさ」
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言葉はアイデンティティ
2017/05/10 04:13
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
自閉症スペクトラム障害と方言の奇妙な関係を感じた。言葉を通じて人格を形成していくことが伝わってくる。
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結構専門的な本。人との心の距離や、自閉症に興味の有る人向け
2017/04/22 03:19
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投稿者:オカメ八目 - この投稿者のレビュー一覧を見る
青森の地元っこの、臨床発達心理士をやっている奥様と、やはり臨床発達心理士をやってて、「特別支援教育士スーパーバイザー」をしてる福岡出身の旦那との、やりとり(ご当人は「夫婦喧嘩」)の自閉症の子は、その土地の言葉は「話さない」、「いや、話す」から生まれた本だが、一応「自閉症」や「発達障害」の幾らかの知識を持った人でないと、何が書かれてるのかが判らずに、面白くも何ともなく成りそうだ。 言葉のアクセントや、イントネーションとは、限りなく人間の「本能」に近いので、かなりむつかしい話になるからだ。 また、「言葉」とは、喋る時ほど「人との、心の距離」があらわに成る。 しかし、その距離が「有り過ぎる」自閉症児者には、その距離感を測り切れない。 そんな感じも持つし、また自閉症児者が、その「距離」を、どう乗り越えようとしてるかも、ちらっと垣間見える本だ。
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著者が奥さんに言われたひとこと
「あのさぁ、自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ(話さないよね)」
という一言からこの冒険は始まる。
なぜ自閉症のこともは方言をしゃべらないのかというのは
私達がどのように言語取得をしているかという事にもつながる。
驚いたのは津軽弁を含めた方言というのは
単語だけではあまり意味をなさず
むしろ一文、一ラリーで成り立つ。
(もちろん、わ=わたしなどの意味はあるが)
どのような表情、発音などパラ言語も含めた意味が重要。
方言というのは相手が私の言葉を理解してくれいる
という関係性の中でないと成り立たないのです。
それがわかっただけでも大きな収穫でした。
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ざっくり言うと、妻から「自閉症スペクトラムの子供は方言を喋らない。方言が出なかったら自閉症を疑う」という話を聞いた著者が「こいつはとんでもない風説が飛び交っているぜ…」と思い否定のための研究を始めたところ、本当に自閉症スペクトラムにおいて方言が出にくい傾向が見えてきて、統計を取ったり理由を考えたりした、その研究をまとめた本です。
データが惜しげもなく出てくるし、統計一つにしても何故その方法を取ったのか、その結果どうだったのかといった情報が満載で、安心してそして納得しながら読むことができます。
ミステリ好きがミステリを読むときの興奮はこんな感じかな、と思わせる知的ワクワク感に満ちた本です。最高です。
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1~7章までは学術的にデータが出されて
さぁここからどう結論に持っていくんだろうと
思っていたら11章で実際ASD(自閉症スペクトラム障害)の子が
周囲の人間ではなくビデオで言語を習得している事例を出してきたので
「だよねー…(ASD育児してる人は絶対分かってることだよ…)」って感じで
拍子抜けしつつも「ASD児は津軽弁どころか方言を話さない」という
結論に到達しました。ASD児をまったく知らない人が読むには
とっつきやすくて良書だと感じました。
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境界線知能、学習障害、注意欠如多動症などの子がそれなりのしゃべり方をするのに比べ、自閉スペクトラム症(ASD)の子の話し方が独特の一本調子であることはもともとよく知られているという。通常なら「ASDなんだからあたりまえ」で終わってしまうところを、10年かけて自分なりの調査と理論検討を行ってみた、というところが非凡で、なかなかできることではない。
論なのか読み物なのか、ちょっと中途半端で、なかなかこう、読むほうもスタンスが定まらない本なのだが、方言の社会的機能、子供がどうやって言語取得していくのか、ASDとTD(定型発達)を比較した仕組みの考察が興味深い。自分がASDボーダーなので確かにそうだと思うことも多々。
また、実際に教育相談活動をしている立場の著者らしく、ASDに対しては実は大人の側からの語り掛けにも特徴が生じている、すなわち「ですよ・ましょうではなく、です・ますで話しかける=自ずと相手の承諾を得る必要がないと考えている」という、ケアラー視点の気づきもなるほどだった。
P24 (方言使用を評価することについて)方言評価というのは相対的なものです。例えば北海道の人は自分たちは方言を使っていないと思っています。
P29 方言が方言らしく聞こえる決め手の一つは、終助詞の使用のようにも思われました。[中略]方言終助詞をうまく使えないとすると、方言を使っていないという印象を持たれてしまうかもしれません。
P59 (印象調査を採用し談話分析を行わなかった理由)家族の方言使用の程度、主たる養育者の方言使用の程度、幼稚園保育編への通園経験、言語指導を受けていたか、生活年齢、発達年齢、知能指数などについてまで含めると、(できるだけ条件が同じの)統制された二群を作ることは事実上不可能と考えられました。【中略】また評定者の問題もありました。方言は語彙だけでなく音声的特徴もあります。ビデオや音声を聞いて「これは津軽弁」と同定できる人が必要になります。同定できる専門家を複数確保するのは困難でした。
P89 音韻・プロソディ(韻律)障害仮説・パラ言語(文字情報で伝えられない周辺情報)理解障害仮説・終助詞意味理解不全仮説では、方言語彙の不使用について十分に説明することができません。メディア影響仮説は方言不使用の有力候補かもしれません。
P99 相手に好かれたい・よく思われたいという欲求に訴えかけるストラテジー(戦略)がポジティブ・ポライトネスです。相手に近づきたくない・距離をおいておきたいという欲求が脅かされないようにするストラテジーが、ネガティブ・ポライトネスとなるわけです。【中略】方言主流社会においては、方言の使用はポジティブ・ポライトネス、共通語を使うことは、ネガティブ・ポライトネスになります。
P129 「心の理論」とは、相手の行動を予測したり理解するときに、相手の心的状態を想定・理解することです。「心の理論」という言い方をするのは、心そのものは直接見ることができないからで、人は見えないけれど相手の行動の背景には心が存在すると推測しています。また、心が存在するという理論に基づいて逆に相手の行動を予測できます。理論に基づいてその人の行動を理解し、理解に基づいて行動を予測する。それで「心の理論」という言い方をします。
P138 (ASDには、方言が持っている社会的機能(心理的距離の表明・調整)を理解できず、方言を使えない、柔軟な使い分けは困難とする説は)しかし、たとえ定型発達であったとしても幼児期の子供に地域への帰属意識や仲間との連携意識が成立していると考えるのは無理があります。【中略】乳幼児期の方言不使用については、発達期であることを考慮した別の解釈を考えてみることです。
P158 意図読み・意図理解の能力は、乳幼児期には「共同注意」「意図的行為の模倣」という形で現れます。共同注意とは、二者が共通の興味の対象へ注目するように調整することです。(「ほら、わんわんよ」)【中略】ここで重要なのは、お互いに相手の注意をモニターするということでしょう。【中略】つまり、親がやみくもに話しかけるのではなく、子供が注意を向けているものの名前をそばで言うことが、言葉の学習に結び付くのです。
P161 意図は単なる欲求ではなく「目標のために、未来を志向してプランを立てて調節するといった心の動き」といえるでしょう。
P162 (あるASDの生徒に一味唐辛子を取ってくれるように頼むと)彼は「ありがとう」と言いながら一味唐辛子を手渡してくれました。状況との関係で相手が言うことを模倣するという意味では正解ですが、話し手がとらえているべき役割と言葉の関係の理解ができていないために不適切な発言となりました。役割交代を伴う模倣の場合には、互いに役割と言葉が関係していることを理解産出し、しかも相手が理解産出できることを知っていることが必要になります。
P169 ASDの人々は、意図読みに困難を抱えるために、結局意図理解なしの模倣や連合学習によって学んでしまいます。
P200 (「早く用意しなさい」「今やろうと思ってたのに」)母:子供の意図の読み取り→行為の提案→子供:提案の理解→母親による自分の意図の読み取りの理解→お母さんの私の意図の読み取りは間違ってますよという回答
P223 (自我機能の低下あるいは未発達な状態により本人の意図へ働き掛けても、こちらの意図変更の申し出を理解できないと解釈した場合)相手の意図へ働き掛けない「行為を記載した表現」が用いられるわけです。また相手への意図変更の依頼はありませんので、相手側にその諾否を尋ねる要素も含まれていません。ふつう、意図への働きかけはその行為の実行についての決定権は相手にあることが前提になります。「です・ます」表現による指示を使用するのは、相手の意図による行為の実行という過程が十分に機能していないという判断がなされたときのようです。
P225 学校で理科の先生が「水を入れます」という時、幼稚園の先生が「集まります」という時などに奇異な感じがないのは)指示に従うことが当然だ・承諾しているという合意が話者と聞き手の間にあるからです。
P235 (ASDの子供によくみられるクレーン現象は)相手の顔を見て、とってくれるかどうかというように大人の意図を読み取るような様子は見られません。TDの子供はほしいものを手に入れたいときに、大���の意図に働きかけます。
P241 「相談」とはまさに意図調整の高度な形態かもしれません。
ASDの人が、相手の意図を変更するのに利得などの論理的合理的説明に重きを置くのに対して、TDの子供たちは自分の希望を伝えることで相手の意図を変更しようとしているようです。理屈ではなく自己の希望の強さの表明が相手の意図を動かすと考えていることになります。
P242 ASDの方から時々、自分たちは気を使っているという話を聞くことがあります。相手がこう考えるのではないか、ああ考えるのでは、といろいろな想定をする人がいます。このような人たちと話していて思うのは、相手への気遣いや相手の心の読みが自己完結的だという事です。他人の心や意図の存在を知ったとしても、自分の理解が正しいかを確かめたり(参照)、相手の意図を変えること(意図への働きかけ)、さらには相互参照や相互調整を行うことが難しいのです。
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新聞の広告を見て、ぜひ読んでみたかった。期待通り、すごくおもしろかった。
ASDや発達障害に詳しくないので、わかりにくいところもあったけど、言語習得に関しては思い当たることとか、なるほどと思うことが多かった。
外国語習得に関して言えば、教科書で習う外国語は、ASDの子がテレビやビデオで共通語を覚えるようなものだ。俗語やいわゆる「こなれた言い回し」は、その言葉が使われる場面で覚えていかないと、ヘタに使って失敗する可能性があるが、反対に言えば、そういう言い回しを自然に使えるということは、その言語コミュニティで自然言語として獲得したという証にもなる。教科書では俗語やこなれた言い回しは覚えられないのである。
言語というのは、どこまでいっても社会やほかの人とのかかわりの中に存在するものだ。外国語をなりわいとする身としては、教科書で習った外国語をどうやって社会とかかわりのあるものにするか、教科書で習った外国語でどうやって意図理解・意図確認ができるようになるか、これがとても重要なのである。
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私は自分にアスペルガー傾向があるからだと思いますが、自閉症(スペクトラム)にずっと惹かれています。本書は特別支援教育、障害児支援の専門家である筆者が臨床心理士である妻の何気ない発言「自閉症は津軽弁を話さない」に「わかってないなあ」と反論して、調べるうちに「わかってたんだ」と気がついていく話。
私たちは言葉をどう学習するのか。
定型発達児は身近なの大人や子供から方言を、自閉症児はテレビから標準語を学んでいることはアンケートなどから判明した。問題は、なぜそうなのか、ということ。
本書では「言語の習得には社会・認知的スキルが必要で、中でも意図読み意図理解力が重要だが、自閉症(スペクトラム)にはそれが困難だから」となっている。言語の習得にとって、もうひとつ必要なスキルが意図理解なしの模倣や連合学習で、こちらは自閉症(スペクトラム)であっても困難がないので、人ではなくメディアを経由して繰り返される言葉(標準語)は学習できる。なるほど。
意図読みということについて面白い例が挙げられていて、これには唸らされた。
母「早く用意しなさい」
子「うるさいな。いま、やろうと思っていたのに」(p.198)
ここにどれだけの意図読みが含まれているか。
母読み <子は用意しようとしていない>
母発言 「早く用意しなさい」
子読み <自分は用意しようとしていない>
子読み <母は用意させようとしている>
子読み <母は私に用意する意図がないと思っている>
子発言 「うるさいな。いま、やろうと思っていたのに」=母の読みは間違っているという否定
意識していないだけで、実はこれくらいの自分の意図読み、相手の意図読み、相手の自分の意図読みが行われている。
歩く、という簡単な行為を分解してみると様々な感知や判断や制御があるように、話すという行為にも様々な読みや判断や制御があるということ。感心するばかり。
もうひとつハッとさせられたのが、特別支援学校の先生などが自閉症児にこうして欲しい、と"意図"を伝えるシーンで「こうして欲しい」と言う代わりに「こうなります」と言う指摘。例えば「用意しなさい(しましょう)」ではなく「用意します」。現場でその方が結果として意図した行動をしてくれることから広まっているらしい。(相手の/自分の)意図読みがいかに複雑で難しいものなのか、ということの本質をえぐっている気づきだと思う。
続編『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ』もぜひ読みたい。
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ちょっと接し方を変えられそう。
後半の意図と指示の((行為内容)変更の申し出(依頼))で自閉症者には判断をさせずに行わせるの、ですますで相手に何かさせる、自閉症では相手が自分の意図に働きかけていることに理解が弱い、意思決定機能が十分に働いていない。前提がある。他社には心があり人の行為には意図がある。相手は相手の意図で動く。相手の意図を動かすことが有効で可能だという認識。意図を動かす方法を学習する。機能としての言語や行動は訓練で育つが、意図の読み取り調整参照は育てるのがより困難。他者だけでなく自分についても。
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無印とリターンズと読んだ。無印は、一般向けテーマで専門分野の話するタイプ。リターンズは、続編で、話題の範囲が少し広くなってる感じ。リターンズの、著者の専門である、ASD児童の教育の話が興味深い。モブプロと共同注意、LC4RIと共同注意、仕事が身につかない人に何が足りないのかの欠落がASDの社会性に困難を持つのと同じじゃないか、とか、この辺、接続がありそうに感じた。どっかに研究ないかなー
開発や運用を担うに足るメンタルモデルができていない人は仕事を上手く進められないので、ASDが社会規範を上手く獲得できないで苦労するのと、問題として似ている面があるのではと思った。ASD児童の教育現場で共同注意を促したりして、それを克服しようとしているのと、モブプロやLC4RIに含まれる共同注意に、同じ効き方が期待されているのであれば、ASD児童の教育で行われいる他の工夫も、サーベイしてみたら、いろいろ気付けることがあるのではないかと思った。