紙の本
キラキラ、ドキドキ、ワクワク
2019/05/14 07:25
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Fumiya M - この投稿者のレビュー一覧を見る
繊細な輝きを放つ作品でした。
どの登場人物たちも魅力的で、ページを捲る度に物語のなかへと惹きこまれていく。
久しく忘れていたドキドキ、ワクワクといった感情を思い出しました。
ただ、ラストの展開、描写共に若干駆け足だったかな? と感じてしまったので星ー1。
投稿元:
レビューを見る
元々全く別の人生を送っていた登場人物たちがいつのまにかひとつの同じ旅路に誘われて、点と点が線で結ばれていく感じが面白い。
相変わらず多和田さんの言語感覚、言葉遊びは、日本のみに住んでいるひとにはない感覚で楽しい。
多和田さんの作品は総じて好みながら、センスのない私には難しく冗長に感じることもあるが、今回の作品はテンポも良いし、一章ごとに語り手が変わったり、SF的な設定も面白く、飽きない。
多和田さんがインタビューで語っているように、「越えていく」ことの面白さが爽快な作品。わたしも柔軟性を持って、言語や世代をときには超えることを恐れずに楽しみたい。
投稿元:
レビューを見る
これは多和田葉子にしか書けない小説。エクソフォニー、母語の外へ渡って行くことで母語の響きに含まれる根源的な意味に通ずること。しかしその境地に至ることに付随する孤独。それが書き記された文章の中にまざまざと表現されてしまうことをよしとしなければならない。
例えば、失われたとされる鮨の国。その理由は明らかとはならないが見え隠れする原発の影。それに加えて、自分と同じように母語から切り離された人々との交流。それらがまさに坩堝の中に一緒くたに混ぜ合わされ徐々に溶け出してゆく。しかし決して一つに融合することはない。その生殺しのような思いを何時までも忘れずにいる、そんな物語。
発せられた一つの言葉の一つの音が何かを呼び起こそうとするその過程。それだけをどこまでも真剣に掬い上げようとする。それがこの作家の特徴であるとすれば、小説の始まりから終わりまでを貫く筈の筋は余り意味がない。例えばこの小説において再三言及される鮨に与えられた役回りがそれ程重要でないとの同じように。そう書いてしまってから、ふと疑問が生じる。本当にそうだろうか、と。
寿司は江戸前で新鮮な魚介が水揚げされるようになり生まれたという。それはいつの間にか様々な変容を経て世界中に散りばめられ、オリジナルという言葉の意味するものを無価値にしつつある。母語という言葉の意味が少なくとも英語においてそうなったように。そのことの象徴として作家は鮨をメタファーとして選んだのか。
あるいは江戸前で新鮮な魚介が採れた原因が急増した人口による生活排水の流入増加でプランクトンが大量発生したことによるという状況と、原発によって漁業を行えなくなった海で大ぶりの魚が回遊しているという事実を重ね合わせて皮肉ったものなのか。この作家であればそのくらいのことは韻律の中に溶け込ませることはしかねない。
例えばSという音に含まれる静寂、静かさ、Silenceに共通するものが何故普遍的なのか。あるいはKまたはCという音に含まれる悲しみ、苦しみ、cryといった情感に何か共通したものがあるように思えるのは何故なのか。多和田葉子を読むとそんなことばかりが気に掛かる。
投稿元:
レビューを見る
言語とは?国籍とは?
これらが曖昧になっていきつつある未来を予想させる小説。浮遊感が文章に表れていて面白い。
クヌートは、デンマークコペンハーゲンの言語学科の学生。移民の若者にコンピューターゲームでデンマークの生活を学ばせるプロジェクトで研究費をもらってる。
ある日、テレビ番組「自分の生まれ育った国がすでに存在しない人ばかり集めて話を聞く」に出ていたHirukoを見て、その言語に惹かれ会いに行く。
母は熱心なエスキモー支援者であり、頻繁に電話をかけてくる人。
Hirukoは、国を出てヨーロッパを渡り歩くうちに、独自の言語をパンスカを発明。それを使用して、現在はメルヘンセンターで語り部として、子どもたちに昔話を話している。
p38
わたしのパンスカは、実験室でつくったものでもコンピューターでつくったものでもなく、何となくしゃべっているうちに何となくできてしまった通じる言語だ。
大切なのは、通じるかどうかを基準に毎日できるだけたくさんしゃべること。人間の脳にはそういう機能があることを発見したことが何よりの収穫だった。「何語を勉強する」と決めてから、教科書を、使ってその言語を、勉強するのではなく、まわりの人間たちの声に耳をすまして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれが一つの新しい言語になっていくのだ。
昔の移民は、一つの国を目ざして来て、その国に死ぬまで留まることが多かったので、そこで話されている言葉を覚えればよかった。しかし、わたしたちはいつまでも移動し続ける。だから、通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉を話す。
同じ言語を話すテンゾが同郷の人かどうか探すためにオスローへ向かう。
テンゾはグリーンランド出身、父のすすめでコペンハーゲンの大学に進学することことに。ある慈善団体の奨学金を受ける。自分がエスキモーだということを周りの人が知っていて、口に出さないことに困惑。
投稿元:
レビューを見る
刊行当初から気になっていたのだが、じぶんには難しいかもしれないと悩んでいた。およそ2年間も気になっていた作品の続編が出たのを店頭で知りおもいきってみたら、これがもうめちゃくちゃおもしろかった。故郷が消滅してしまったという導入からさっそく置いていかれ、しかし文章が軽やかに先をいく感覚がひじょうに楽しかった。Hirukoが話すパンスカ、代わる代わる語られる旅路、何よりも初めて出会う多和田葉子さんの小説に魅せられ夢中だった。ああ、こんな世界があるなんて! 小説ならどこへでも行けることに改めて感動する読書だった。
投稿元:
レビューを見る
ストーリーは「はぁ?」と言いたくなるようなものなのだけれど、本書を読みやめられないのは、作者が書きながら思考しているその痕跡が伝わってくるから。ストーリー展開は口実で、書きながら哲学している。
投稿元:
レビューを見る
祖国がなくなるということ,真剣に考えたことがなかったけれど,それは母国の言葉を失うと言うことだと気付かされた.神話めいた名前を持つHirukoの言葉の遍歴,あるいは巡礼は,クヌートを始めとして出会った人を巻き込んで北欧,ドイツを彷徨う.世界中で失われていく言語があると言う中で,この物語は架空でありながら現実味を帯びたものとして心にしみてきた.そして,Hirokoの作る手作り言語が興味深く,また紙芝居も楽しかった.
投稿元:
レビューを見る
お初の多和田葉子さん。
実に心地好い文章を書く作家さんだこと。これまで読んでなくて損した気分。
近未来を舞台としたライトなSF? いやS(サイエンス=科学)ではない、L(literature=文学)かな。LF?
主人公は外遊している間に自分の国が消えたかもしれないHirukoという女性。独自の言語を作り出し、ヨーロッパ大陸で生き伸びている姿に興味を持った言語学研究者の青年クヌートと出会い、自分と同じ母語を話す者を探す旅に出るというお話。
キーワードは”母語”、というか”言葉”。今の世の中を先鋭化させた、誰もが難民となるよう近未来を舞台に、言語を手がかりに、人との出会いを通じ、言葉の可能性や、他言語・多言語とのハーモニーによる豊饒な文化の誕生の予感や、国や言葉や、性や時代をも越えて行きそうな豊かな試行錯誤(思考錯語?!)が実に楽しい。まだなんとも着地感のない物語ではあるが、どうやら続編も構想されているというので、ますます楽しみが膨らんでいく。
本書のタイトル『地球にちりばめられて』が、まさに端的に言い現わしているように、我々はたまたまちりばめられて、今、ここにいるだけで、どこにも属していない、何にも縛られていないという思いをずっと感じながら読んでいた。恐らく、登場人物たちの以下のような発言からも、著者もそんな思いを込めて書いているのだろうと思う。
「よくよく考えてみると地球人なのだから、地上に違法滞在するということはありえない。それなのになぜ、不法滞在する人間が毎年増えていくのだろう。このまま行くと、そのうち、人類全体が不法滞在していることになってしまう。」(Hiruko)
「ある「職業」を持つ人になる、というのは幻想に過ぎず、実際のところ人間はある「場所」に置かれるのだ、と思った。」(ノラ)
この不思議な浮遊感は、国という縛りから解き放ってくれる仕掛けを文章に仕込んでいる著者の匠の技によるところもあると思う。海外で暮し数か国語を理解するらしい著者の視点からは、「日本」という場所は見えていない。個々に、福井があり、新潟(あるいは北越)があるだけ。たまたま島国で、ほぼ共通の言語を話す人たちが暮らすが、歴史も文化も異なる。いや、むしろ異なっていることを意識せよとさえ言っているかのようだ。
大震災、原発事故、米軍基地問題、様々な問題が国の中枢から離れたところで起きていて、地方を切り離したかのような施策しか繰り出さない政府は、けっしてひとつの「日本」などと思ってはいないぞ、と作者は警告しているのかもしれない。「わたしの国」という表現は出て来るが、「日本」という単語が出てこず、地方の都市の名前だけを語る登場人物たちから、そんな穿った見方も可能ではないかと思えてくる。
あるいは、この浮遊感は、主人公Hirukoが語るパンスカという言語から来るものかもしれない。日本語の「なつかしい」を、パンスカでは、「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」と表現する。
北欧4か国のどこでも通じるような簡単な単語を、単純な語順で並べて表現するHirukoが生み出した言語。ある意味、比喩のオンパレードなのだが、不思議と、モノゴトの核心を突いているようで面白いのだ。
日本語による文章だが、彼女は日本語にない単語を並べて、上記の表現を語っているというのがよく分かる。
そんな著者の巧みな言語操作も読んでいて実に楽しい。
言語研究者クヌート、消え去った国の放浪者Hirukoらの旅は、この先もしばし続くようだ。共通の母語を操る仲間を求める旅。 アイデンティティの確認なんて安易な結末ではない、何か未来に開けた、素晴らしいものになっていくことを期待したい。
「僕らはみんな、一つのボールの上で暮らしている。遠い場所なんてないさ。いつでも会える。何度でも会える。」(クヌート)
彼らとまた会える日を楽しみに・・・。
投稿元:
レビューを見る
この世界の延長線に有り得そうな世界を舞台に言語を軸に人びとの出会いと旅情を描く不思議なものがたり。とても興味深い舞台設定なのだけれど、ものがたりが登場人物の独白で綴られていて、その中で必要なぶん以外の舞台背景が語られないのが心地よくももどかしい。
投稿元:
レビューを見る
カタカナの名前が続出するので,メモを取りながら読んだが,未来小説なのか,異次元の世界を現したのか,言葉自体が国に縛られない自由な世界を描いていると感じた.自作の言語パンスカをしゃべるHirukoはメルヘン・センターに勤めているが,自分の国(日本?)が消滅したと聞いている.ひょんなことからテレビ出演し,デンマーク大学の言語学科の院生クヌートと知り合う.その後,アカッシュ,ノラ,ナヌークらが登場し,話が混乱してくる.Hirukoは自国人との会話をしたい願望があり,Susanooがその可能性があると踏んで,探し回る.最後の鮨屋で全員が集まる場面は楽しめた.ドイツ語,スウェーデン語,デンマーク語,それにパンスカ...著者の言語的な多様さが示された作品だと感じた.
投稿元:
レビューを見る
多和田葉子の小説に
というわけで、3月頃(だっけ)読んだエクスフォニーの多和田葉子の今度は小説。日本人(と、おぼしき)女性が、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語の3種を散りばめながら話す新言語。それに興味を抱いて出会ったデンマーク人青年、という今のところ。その女性のセリフが、日本語では書いてあるのだけど、日本語にしてもなんか変。青年の方も鮨をフィンランド料理だと思っていたり(鮨屋にムーミンの絵があるだけなんだけど)、それをうけてムーミンがあの体型を維持するために日本に来たと言ってたり。
でも、「日本」と明言していない、そこもミソ(新潟県はあるらしい)
(2019 12/03)
移動が映る、個人の言語領域
昔の移民は、一つの国を目ざして来て、その国に死ぬまで留まることが多かったので、そこで話されている言葉を覚えればよかった。しかし、わたしたちはいつまでも移動し続ける。だから、通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉を話す。
(p38)
上記の新言語?本人は汎スカンジナビア語という意味で「パンスカ」と呼んでいる。
ここもちょっと気持ちいいのか居心地悪いのか、微妙にずれた言葉使いになっている。実際には?デンマークの人と(一応)日本人が、砕いたデンマーク語と「パンスカ」で話している場面なんだけど、最初に作者の頭に浮かんだ言葉はどんなだったのだろう。
(2019 12/04)
メルヘン・センターの外に出ると、石畳の小さな広場があって、真ん中に石でできた少女が立っている。マッチをすろうとした瞬間に魔法をかけられて動けなくなってしまったかのように立ちすくんでいる。わたしはそれを見る度に、石の少女が動き出し、わたしの方が石になる日が来るのではないかと思えて恐ろしくなる。
(p45)
(2019 12/05)
トリアーのインド人とマルクス
昨日読んだとこは第3章。今度はまた新たな人物としてインド人のアカッシュってのが、前の二人をトリアーで出迎える。このアカッシュなる人物、男であるのに、自分は女性だと感じていて、それを「西洋医学お得意の」治療や性ホルモンとかではなく、自分で脳をゆっくり洗脳?してやっていくとのこと。だからアカッシュが興味あるのは男のクヌート(デンマーク人)の方。
そいえば、(確か)第1章でそのクヌート(デンマークの古代の有名な王様の名前でもある)が、テレビ局でトリアー監督を見かけるシーンがやや唐突に挟み込まれていた。実在の人物が出てきたのはここだけなので意表をつかれたけれど、考えてみればこのドイツ小都市トリアーとかけていたのね。その町の方のトリアーは、ローマ帝国の前線都市で、ポルタ・ニグラ(黒い門)とかローマ浴場とかの遺跡、そしてまた、カール・マルクスの生家もここにある。という。最寄り空港はルクセンブルク…
引きたいところはまた後で…
(2019 12/07)
黒い川と、南の木々
第4、5章。
第4章ノラの章。
「どこどこから来ましたという過去。ある国で初等教育を受けたという過去。植民地という過去。人に名前を訊くのはこれから友達になる未来のためであるはずなのに、相手の過去を知ろうとして名前を訊く私は本当にどうかしている。
(p91ー92)
これと対をなす第5章ではテンゾ/ナヌークが自己の過去アイデンティティーを作っている。
テンゾの方も私に対して何らかの感情を持っていたことは確かだと思う。それは、雪野原を割って重く緩やかに流れる黒い川を思わせた。その流れが夜になって熱を帯びてまっすぐこちらに向かってくると、激しい風が起こって、意識が蝋燭の火のように吹き消される。
(p107)
第5章テンゾ/ナヌークの章。テンゾはグリーンランドから来た。でも、「おやじ」から突然名前を告げられたとこ見ると、これも本当の名前なのか疑問かも。
また、ここでもトリアー監督が出てくる。彼の制作したテレビドラマを再放送で見ていたということだが、もともとは一族がトリアーの出身だとテンゾは言う。
ハシオキ、ウルシ、ミソシル、ワカメ、コンブ、ネギ。不思議な響きばかりだった。遠い場所から響いてくるのに、どこか懐かしい。発音するとずっと忘れていた子ども時代のある情景を思い出しそうになる。ところがその情景は映像を結ぶ寸前に消えてしまう。
(p141)
なんか物語自体の伏線もあるのかもしれないけれど、でなくても、幼児のときは母語にはないいろいろな発音が可能である、という発達心理学なんかも思い出す。
「南」という言葉が夜寝ている間に俺の脳内で繁殖し始めることがあった。刈っても刈っても土の中から南という名前の雑草が生えてきて、部屋を外から包み込むほど背が高くなり、もうドアも開かないので外へ出ることも出来ず、室内温度はどこまでも上昇し、蒸し暑く、壁は汗をかき、頭がくらくらし、毛穴から吹き出してくる汗のにおいがいつの間にか精子のにおいに変化し、おぎゃあ、おぎゃあ、と四方から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。どれもこれも俺の子だ。
(p148)
作品半ば過ぎ。後半に向けて気にかけていること二つ。
「地球にちりばめられて」というタイトルはなんか妙だけど、ちりばめられているのは登場人物たちもあるけど、それより言語というものではないのかな。理解できるものと、できないもの。一つの言語が他の言語と隣り合っているわけではなく、刻まれて、他の土地に織り交ぜられている。そういう感じ。たぶん、人物も。
それより、直近の気になるところ。テンゾが出かけたまま帰ってこない。ノルウェーが政情不安だから、との理由だが、「ノルウェーが政情不安なわけない」と皆が思っている。でも、なんらかの事件は起こっているらしい。日本(とおぼしき国)がなくなっているということならば、ノルウェーで何が起こっていてもふしぎではない、とも思うのだが。
この答えは多分次の章で。
(2019 12/10)
第6章。折り返したとこ。
水の色は、黒い青色から緑がかった青色、灰色に近い青色に刻々と変化していく。雲が絶え間なく移動していくので、それを映して水もどんどん色を変えていく。人間の顔は、水の表面ほど繊細に表情を変えていくことができるのだろうか。
(p167)
一般的には人間の顔の表情の方が繊細に��化していく、と思われていないだろうか。ここら辺、作家多和田葉子の大きな思考の枠組が見て取れないだろうか。表情を変えていくものと、かえって見にくくなっているもの。無機物と有機体。
(2019 12/11)
オスロのモネとアルルの七人
モネが浮世絵の富士山を書きたい、とオスロー(作品中はこの表記)に来たという。そんなことあったんかい。まだ外部資料にはあたってないけど、なんかほんとにあったみたい。
水とモネ睡蓮との関わり合いは既に、前章でも書かれていた。呼応関係はあるのか。
沈黙には、湿った沈黙と乾いた沈黙がある。いつか沈黙の湿度と温度について研究してみたいけれど、果たして沈黙が言語学の研究対象になるのかどうか。
(p195)
この最後の問いには、この小説の最後に答えが待っている(と読み終えて思う)。
しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言語を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。
(p210)
これは著者多和田氏の問いかけそのものではなかろうか。
久しぶりで聞くドイツ語がオレの心のドアをドドンドンドンと外から叩いた。開け方はわからない。自分の家の中で迷子になってしまって、ドアに辿りつけないのだ。
(p258)
ここはアルルにいるSusanooのところにノラがやってきた場面。Susanooはテンゾ/ナヌークが働いていた鮨屋の開店者。ナヌークからみれば祖父くらいの歳のはずなのに、なぜか歳をとらない、という設定。歳をとらないからか人前で話すこともできなくなったみたい。そんな人物がナヌークから聞いた話をするノラの言葉に動揺している。
そんなSusanooを更に揺さぶろうとしているのが、次章のHiruko(って最初はひろこの作者の故意的な間違った表記なのかとおもっていたら、Hirukoという神がSusanooとともに古事記にいるみたい)。ここのある意味で一人語りは、この作品の読みどころの一つ。アマテラスオオミカミの隠れた神話とも呼応して。
アルルでの生活は、竜宮城での生活みたいでしょう。異国的な女性が次々目の前に現れて踊ってくれるし、知らない花の香りにうっとりし、異国的な屋根瓦の色をぼんやり眺め、退屈することはないけれど、いつの間にかどんな時間の流れからもはずれてしまっている自分に気がついて、急に家に帰りたくなる。
(p269ー270)
だからSusanooは歳をとらなかったのか。この時間の超越性はここのちょっと前でHiruko自身が言っている通り、この作品の登場人物全てに言えること。気ままにデンマークからドイツへ、そしてノルウェーから南フランスへと旅しているのをみてもそれを感じる。
最後の章は、クヌートが語り手になり、突然入ってきた彼の「おふくろ」(ナヌークに奨学金を出している。クヌートとナヌークというのも対人物)を含め最終的に計7人となる。
僕はナヌークが嘘をついているなと直感した。それを嘘と呼んでいいのかどうかは分からないが、袋小路に追い込まれた時に、言葉をシャベルにして抜け穴を���っていく、あのやり方だ。でも、その時必死に掘った抜け穴が何年か後で研究の土台になるかもしれない。そうなったら、それはもう嘘ではない。つまり、言葉を発した瞬間にはまだそれが嘘かどうかは決定していないということになる。
(p298-299)
言葉が先で、行動はその言葉により形づくられるということか。終わり方は、なんの挨拶もなく気がつけばおふくろいなくなって、ストックホルムでSusanooの失語症を調べに行こう、というところで切れている。まだまだこの調子なら数珠つなぎでいくつでも章が続いていきそうだから、適当に区切った、そんな感じ。著者にとっては、物語の筋というか外枠は何がしかあってくれればよくて、やりたかったのは各章内の細かな言語実験だったのだろう。
読み手としては、もうちょっとその実験につきあってもよかったな、と思うのだけれど。
(個人的には、トリアーとかフーズムとか、滋味ある小さな町が舞台なのも楽しめた)
(2019 12/15)
投稿元:
レビューを見る
故郷が消滅してしまったhirukoは、デンマークで独自に作った言語を話しながら暮らしている。故郷はどうやら日本のようなのですが、なぜ消滅したのかわかりません。ただ人々がすでに「日本」と言う国を忘れ去っているようなのです。悲壮感が漂う話のような気がしますが、巡り合わせた仲間たちと、母語を探す旅に出る事に刹那感はありません。思い出を探す旅のようです。ヒルコも日本の名前のようでそうでないような名前です。透明感のある不思議な世界にひたりました。
投稿元:
レビューを見る
「地球にちりばめられて」(多和田葉子)を読んだ。
言葉の魔術師(と、僕は多和田葉子さんのことを密かにそう呼んでいる)多和田葉子らしい面白い作品です。
Hiruko達のこの先の『旅』に想いを馳せる。
言語とアイデンティティかあ。難しいなあ。
やっぱ日本語なくなったら寂しいさあ。
投稿元:
レビューを見る
hirukoは産み落とされ捨てられた
最初の神の子蛭児の比喩で、
susanooは蛭児の兄弟または蛭児でもありうる
須佐之男命の比喩なのだろう。
自国が消滅した主人公と
主人公を取り巻く人々の
アイデンティティを探す旅は、
大円団、各々が好きなだけ話し、
理解し合い、また、旅を続ける。
前回読んだ「献灯使」と同じように、
言葉遊びに溢れていて、愉快な言葉の中にも
なんだか寂しさを感じてしまう。
それでも、なんとか互いを認め合う事は
案外、簡単なのではと思わせる。
地球にちりばめられて。
読了して、すんなりと心に沁みるタイトルです。
投稿元:
レビューを見る
鴻巣友季子の2018年のベスト。
『献灯使』(2014年刊)の英訳版(訳・マーガレット満谷)で、アメリカ最高峰の文学賞の一つ「全米図書賞」の翻訳部門賞を訳者とともに受けました。
主人公の女性「Hiruko」はヨーロッパに留学中、母国がなくなってしまうという事態に直面します。
本書は、故郷を離れてさまようディアスポラたちの、言語をめぐる物語。
「パンスカ」という人工の普遍語を独自に考案したから。
佐伯一麦2018年の3冊