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物語を通じて、言語学と語学を語る本。
表紙のようなふんわりした伸びやかなイメージとは非なるものであった。笑
著者はいろんな言語に造詣があり、扱えるレベルも差がある。
しかしながら、言語習得の過程がなかなか面白い。
自分が興味があり、内容を知っている本の、外国語版を読むことで理解を深めていくスタイルだ。
映画も、字幕や音声の組み合わせを変えて何度も見たりと、日本の外国語学習が面白くない身としては「なるほど」と思ってしまう。
単語も全てわかろうとしなくて良い、という記述にも天から光が差したようである。
紹介されていた物語自体はほぼほぼ知らず読まずのものばかりだったので、
学習法が参考になったかな。
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なんとなくで手に取ってみたんだけど、面白かった!
というか、レベルが違い過ぎておこがましいけど、私も語学勉強に、て小説読んでたので、同じだ〜、とちょっと嬉しい。
読むスピードは日本語の3倍で、理解度は3分の1て感じでしたが…
しばらく日本語の本の読みやすさに流されて外国語本読んでなかったけど、また読もう。
ちなみに私としては村上春樹は外国語でも読みやすくて良かったな。あと漫画w
推理ものは細かく理解してないとついてけないので、向いてなかった…
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『ことばはフラフラ変わる』に次いで著者の本、2冊目。
著者の新刊上梓のスピードがこの2018年は特に早いようですね。どうりで2冊とも本屋の書架に並んでおいてあったわけか。
言語を学ぶにあたって、その言語で書かれた物語(=小説等)を当たれという著者ならではの学習法指南であり、著者がどんな書物に慣れ親しんで来たかも分かる、読書好き同士としては、なかなかソソラレル内容であった。
「言語学の先生が研究の対象とするのは、音や単語、せいぜい文といった小さなレベルで、それが連なる談話を分析する人が一部いるが、物語をまるごと一つ研究してくれない。それが専門家というものらしい。」
と、言語における学問が細分化されて大きな体系の中、もっと言うと”生きた”状態での研究、および学習がなされてないことへの警鐘でもある。いや、著者が単なる小説好きなのかもしれない(それも否定しない)。
おススメ本として『ことばはフラフラ~』のほうでも『砂の器』や『犬神家の一族』など日本のミステリーものが紹介されていた。映画化されているというのも著者の中では、その作品を選ぶポイントになっているようだ。これらの日本の作品を諸外国後で読むことで表現の差異はもとより、その差異から文化、慣習の違いなどにも思いを馳せているところが面白い。
本書では、吉田修一、朝井リョウ、伊坂幸太郎等、近年の人気作家の作品も挙げている。『告白』(湊かなえ著)は、日本語を学ぶ外国の学生にもおススメとあったので、日本語教師の奥さんに伝えておいた。
吉田修一は好きな作家のようで、ずっと作品を読んでいるらしい。自分は『太陽は動かない』を読んでイマイチと思って、『橋を渡る』で、やるな!と見直した作家さんなので、他のも読んでみよう。著者のおススメは『路(ルウ)』だそうだ。台湾が舞台ということで、そもそも台湾語という異国の言葉が絡んでくるからだろう。湊かなえに関しては、トンガ語が出てくる『絶唱』をススメテいる。
宮本輝の『青が散る』が出てきたのも、あぁ同世代。文庫化されて、それが書店に並んでいるのを見て読んでみたというタイミングがまさに同じ。自分が宮本輝にハマまったのもそのタイミングだったので、似たような読書遍歴を重ねてきたのだろうなと微笑ましい。もっとも、著者のほうがその道の専門家としてより多くの広範囲の作品に触れているのだろうと思うが。
多くの著作があるので、また折をみて読んでみようと思う。
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外国語学習における物語を読むことの関係について自身の経験を元に考察、感興が書かれている本。外国語学習オタクの本といったところか。色々面白く読めました。
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引用資料が広範囲に網羅されているのは凄い.ロシア語が中心だが、多くの言語で資料が読めるのは、素晴らしいことだと思う.小生、英語は何とがなるが、ほかの言語は全く駄目だ.日本人の場合、最初に習う言語は英語だが、それ以外の選択肢がないのが良いのか、考える必要を感じる.
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言語学者ってこういう発想なのか・・・唖然とする箇所あり、そうなのかもな、と納得する箇所あり。紹介される本の読み方、映画の着眼点の話を読んでいると控えめに言っても相当な変人、という気がするけれど、言語というものを心底愛しているのが伝わってきてとても面白い。
歴史と関わり、風習や生活とも密接に繋がる言語は「ちゃん」という接尾辞ひとつ、人称代名詞ひとつ取ってもそれぞれ発想が違ったり重要視するポイントが違ったりする。言われてみれば当たり前。でもそれを言語学的に言うと?ということが素人にも分かりやすく、面白く紹介されている。著者本人も似たことを言っているように、相当はみ出し言語学者かも。
つい真似して、異国の言語で物語を読んでみたくなる。
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「外国語に触れたくなったとき、わたしは本を読むか、映画を観る。ただし読書の場合は、言語が限られる。わたしが知っている外国語のうち、読書のできる水準にまで達しているのは、ほんの数言語にすぎない。」
「・・・過ぎない」だなんて、ご謙遜を!、と思ってしまったほど、外国語を複数、自由に操れる言語能力はもう宇宙人?、という感じで、羨望の眼差しで見つめざるを得ませんでした。随所にユーモアが散りばめてあったり、楽しませてもらいました。
黒田先生の本をまたどこかで読みたいと思います。
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外国語、こんな勉強法(親しみ方)もあります。
外国語学習=会話がすべて、か? そうは思わない。検定試験を受ければ、外国語の力がついたことになるか。そうでもない。読書を通じて、しかも物語を通じて学ぶことの魅力をこれでもかと筆者は語ってくれる。言語、文学、歴史は、外国語を学ぶために必要なのだ。そして、それは魅力でもある。その言語に興味を持ったら、その言語の使われている文学や、背景の歴史も一緒に学ぶ。そういう勉強方法もあっていいのだ。
翻訳について書かれたもの、とも言えるかもしれない。あまりに外国的な物語は、その文化固有のものや歴史についての注釈が多くなるから、翻訳には向かないか。人称代名詞をどう訳すか。星新一を、横溝正史を、三島由紀夫を、湊かなえを、松本清張を訳したらどうなるか。ソビエト文学の、地域の広さと、そこに現れている歴史的な解釈。様々な物語に出てくる「外国語」の存在感。谷崎潤一郎『細雪』に出てくるロシア人はウクライナの人ではないか説など、興味深く読んだ。
英語でピーターラビットやのばら村など、小さい頃に親しんだ物語を読んで、無性に嬉しくなったことを思い出した。ハリーポッターは、話を知っている今でも、やはり英語で読むと面白い。ヨーロッパ四カ国語の子ども向け絵事典を、何度も何度も繰り返し眺めたのも楽しかったものだ。そういう自分の体験を、筆者が言い表してくれているような気がした。
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映画や小説が外国語に興味を持つきっかになることは、多いと思います。それでも、TOEICや英検に挑戦することは無駄ではありません。スコアや級という目標があると原書を読破する、字幕なしで理解するという大きな目標に近づく助けになるように思います。それらが目的と化してしまっては本末転倒でしょうが、背に腹は代えられないというひとにとって、まずはスコアというのも致し方ないことと思います。
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One of the neighbors came over today with some bean cakes they’d brought back frim a trip from a trip to Kyoto.
やさしい単語ばかりなのに、bean cakesのイメージが湧かない。顔を上げ、車窓を眺めながらじっと考えたのだが、餡を使った和菓子であることに気が付くまでには、思いのほか時間がかかてしまった。
帰宅後、原書の該当箇所を調べてみた。
「今日、近所の方から旅行のお土産に、京都の有名な和菓子屋のモナカをいただきました」(双葉文庫版)
なんと、これはモナカだったのか!さすがにそこまでは分からなかった。
だがそれはかまわない。
小説の翻訳は、本筋と関係ないところで読者に不要な注目をさせるべきではない。注釈だってとくに要らない。モナカとbean cakesは違うかもしれないが、この場面で大切なのは、和菓子がそれほど好きではない息子が珍しいことにすこし食べるといい出し、それがおいしいといって突然に涙を流して母親を驚かせることである。(pp.57-58)
世界中が均質化してしまったかに見える現在。海外旅行に出かけても、都会はどこも表面的には同じような姿をしている。世界遺産のような空々しい観光名所にでも行かなければ、地域の特色が見いだせない。
だからこそ、せめて小説くらいは地域の文化にどっぷり浸かっていてほしいのである。そういう作品が読みたい。読めない言語だったら、邦訳を探す。
ということで、地域の特徴がありすぎる作品は、外国人には難しそうだからと先回りし、訳すのを躊躇わないでほしい。さらにそういう作品の邦訳では、その地域らしさが残っているほうが、なんだか嬉しいのである。
翻訳を読みながら、おやっ? と感じる。何か引っかかる。それはワインの渋みのようなもので、すべて取り除いてしまうとむしろ「おいしく」ない。外国の作品なのだから、その訳にも外国らしさを残してほしい。引っかかることも、ときには大切なのではないか。(p.66)
チンギス・アイトマートフ『一世紀より長い一日』(飯田規和訳、講談社)(p.141)
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今朝、寝床で読み始めたら一気に読み終えてしまった。正に黒田節。
ご本人もおっしゃっているように「口が悪い」方の面が随所に出ているので、会話のために外国語を学ぶ人が読んだら気分を害するかもしれない。いや、気配を感じて手に取らないかも。
名指しこそしないが母君のことに言及している所があり、にやっとしてしまった。(第十一章)
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外国語学習者の方のブックリストを見ると、黒田氏の名前をよく見かける。
それほど面白いのかなと自分も試してみたが、本書はそこまで夢中になれなかった。
著者の外国語と文学にまつわるエピソードを短編にしたもの。
外国語学習の一環として、文学(ここでは学習言語の原書や日本文学の翻訳作品)を読まない学習者が目立つ。小説の抜粋を切り張りしただけの教材を勉強するのなら、オリジナルをフルで楽しんだ方が良いに決まっている。これが本書における著者の持論だ。
この言い分は頷ける。自分も現代文の過去問(特に小説)を解いていると「面白すぎて続きを読みたい」という思いに何度も駆られた。原書がダメでも、(著者が述べているように)邦訳や映画版から入ればストーリーを把握する手間は省けるし、あわよくば語彙だって増えてくれそう。
「夢中になれなかった」と書いたのは、
①発言が二転三転している箇所があった
②著者が「面白い」と紹介していた作品がほとんど廃刊になっていたり、図書館の蔵書にもないことを知ったから。
②が単純な理由であることは認める。(何様~_~;)
①に関しては、今も頭の中を整理するのに必死だ。エッセイならではかは知らないけど「一つの章でこれを書いて、こちらの章ではこれを書いて…」という思い付きっぽい書き方が引っかかり、自分の中で内容がまとまらなかった。
ある章では、
「外国語学習は長編小説に限る。全て理解できずとも辞書なしに先へ進むことで、全体像を掴めるかもしれない。ハードルが高ければ映像であらすじを把握。面白ければ原作へGO!」
と述べているのに対し、別の章では
「外国語に触れることが目的ならば、映画の方が優れているかもしれない」
と断言しちゃってる。
その章は本と映画版の利点がお題であったが、結局「どちらか自分が合う方を選べ」と言いたかったのだろうか?映画版も引き合いに出したいのなら、せめて本の方を連想させる「文学」ってワードを出さないで欲しい。
愚痴みたいになって恐縮ですが、まだまだろ過に手間取りそうです>_
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言語学者の黒田先生のエッセー。外国語を学習するうえで、物語や映画を読んだり見たりすることの効用を説く。「物語の力」で英語の本を読むことができる。英語の多読で経験した。もっと英語の物語を読もうと思った。
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久々にじっくり再読したらやはり面白かった。同年代の黒田センセは私と児童書の好みが似ていて勝手に親近感を覚えているのです。特にリンドグレーン好きなところ、ファーブルやシートンに興味がないところなんかが。細雪に登場するロシア人は実はウクライナ人ではないかなんて著者ならではのするどい読みで今のご時世もあいまって興味深かった。
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外国語を勉強するときに、物語から学ぶことは多い
文法書や参考書ばかりにかじりつくのではなくて知っている英語が原作の作品を見たり読んだりすることからも学ぶことができる
言語学者として言葉にこだわりすぎていたのかもしれないと思った。