紙の本
ことばではなく、からだがどもる
2018/07/29 15:27
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投稿者:aki - この投稿者のレビュー一覧を見る
吃音について、身体論からアプローチする新しい試み。なぜどもるのか、どもりそうな時どのように対応するのかなどを当事者へのインタビューを通じて明らかにしていく。対処法が症状にもなってしまうなど、当事者も気づいていない吃音独特の世界が垣間見える。
紙の本
『エッ!? カラダが、どもる???』ど素人としては、まず驚く
2020/12/25 03:23
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投稿者:オカメ八目 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ど素人としては、「どもるのは言葉じゃぁないの?」って思うから、『どもる体』と言われて、目からウロコを落としながら驚きを隠せない。ーーーーーもっとも、英語を教わるのに、体も使って発音しながら覚えると言う教育法があり、結構、成果を出してるとも聞く故に「言葉」と「体」は切り離せないのかもなと感じてた所に、この本と出会ったので、そんな「首切り処刑」みたいな観念的に考えてては「どもり」の真の姿には辿り付けないのかもなぁ〜と思う様になった。ーーーーまた、「どもり」と言うのは、素人が考えて居るよりも本書によると、ずっとおくが深くて、山で言うと「独立峰」の様に、単純ではなくて「連峰」の様に、幾つもの「障害」が連なり重なっている様だ。 本書の著者氏も、この「連峰」の「住人」の様で(どの辺に住んでるのかは不明)、さらに「連峰」に暮らす「住人」さんたちに出会って、この「どもり連峰」をガイドしてくれてる。 ただし、少しガイドが詳しくて、その「小さな親切」が「大きなお世話」で読み辛い向きには、後ろから読むと言う、山で言ったらケーブルカーやロープウエイを使って山頂近くに行くのも良い。 また、長年、私が、
抱いていた「どもる人で、この世で活躍してる人って、なんか『意志』がよくも悪くも強い」との感じが、本書により「ああ、そう言うことか!」と府に落ちたーーーーそれは、この世をサバイバルするための必須のものだったのだ。
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どもる体。
私はどもりは無いし、それほど大きな障害でもなく、普通に暮らそうと思えば暮らせる「吃音」という現象について、なにか興味があったわけでもないのに。
なぜかとても面白くて、すいすいと文章が進み、その世界に引き込まれていく。
筆者はどこまでも、現象としてこの吃音を捉えていて、そこにマイナスの意味もプラスの意味も込めていない。
ただ、ひたすらその現象について考察し、観察し、その輪郭を描いていく。
知らない世界のことは、こんなにも面白い。
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荻上チキのラジオで紹介されていたのがもう何年か前で、いつか読もうと気になっていたものが遂に手に取ることができた。漠然と言葉が連発したり、詰まったりすることで会話のやりずらさを感じることが多々あり、吃音にも前から興味がありましたのさ。
あらあらとまとめると、まずその名もズバリの「連発」状態から本書は取り上げていきます。しゃべるという複雑なオートマ制御に生じるアイドリングと定義づけられています。「言葉の代わりに間違って体が伝わってしまう」状態とも放言されています。
連発の対処法として「難発」があり、連発を防ごうと体が自ずと緊張して、発音がブロックされてしまいます。本人としては「しゃべる」行為そのものが停止してしまい、本人にも辛さが伴います。
難発の回避方法として、「言い換え」があります。吃る予感があると「同じ意味の別の言葉や表現」が浮かび、そちらにほぼ無意識的に迂回することになります。
リズムや演技は、パターンを利用して運動を部分的にアウトソーシングすることで運動が安定します。しかし、あまりにその法則性に依存しすぎると、自由が失われ、パターンを遂行するだけの機械的な会話になってしまいます。「乗っ取り」の状態に陥ってしまいます。
各フェーズが論理立てて組み立てられており、順々に理解が深まるように説明されている。びっくりしたのがどこにも圧倒的な悲壮感がなく、当事者は吃音に悩み苦しむのでなく、どこか楽しみながら共生していこうという前向きな姿勢が、本全体から漂ってくる。
私自身も人との対話とか、人前で話したり極度に緊張する時に言葉がでなかったり、今までの経験に則してパターンに当てはめながらなんとか喋ってることって多くあるのだ。自分がなんとなく対処してきたことに、身体との関係・他人との世界共有から生じているのだとかいった説明を乗っけてくれることができて、ちょっとだけ自分の世界を・視点を広げてくれることになったと直感しています。良い出会いでした。
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どもる、ということを当事者インタビューなどで捉え、なんとなく追体験できるような、でもそれで感じたことも違うんだろうけど。自分と他者、分かり合えそうで決定的に分かり合えない、だからこそ分かり合う努力と想像力が重要、、だいぶ本の内容から離れてしまったけど。
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伊藤亜紗さんと言えば、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)を書いた人だ。その本では、「見る」という行為は決して視覚だけのものではなく、五感すべてを動員しておこなわれているのだということばが印象的だった。(これについてはこのブログでも書いている)だから、今回出た「どもる体」でも、どもるという行為が決して話すことだけではなく、体と関わっているのだろうという予想がついた。伊藤さんによれば、吃音にはなかなかその音が出てこない難発と、同じ音が続く連発がある。後者はどもる人の特徴のように思われているが、実はことばが出てこないことも吃音の特徴なのである。難発や連発を避けるために、どもる人は言い換えをするという。そうするといかにも吃音が克服されたように見えるが、人によってはこの窮屈さがいやで逆にどもりたい思うこともあるそうだ。実際、どもる人にとってどもることはそれほど苦痛でもないらしい。一方、吃音の人はリズムにのったり歌を唱うときには吃音が起こりにくいのだそうだ。先の言い換えを含め、これを体がノルという。体がノッテイルときは吃音がおこらないが、それを続けていくと、いかにも自分のからだがだれかにノットラレタような気になることもあるらしい。ぼくのまわりでも吃音の人はけっこういる。かれらがこの本を読んだらどう感じるのか聞いて見たい。
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面白い!導入部では、しゃべると言う事象がいかに難しく、またそれを人が意識せずに簡単にやってのけていると言うことを提示し、興味を惹く。その後の新聞、ペンギンの発声としての違いを説明する場面など思わず家族に話してしまうほどだ。これほどまでも身近で自動化されている発声と、吃音という事象(本書のスタンスでは障害ではないのかな?)をざっくり示しているのは非常に着眼点が良い。学術的な話や治療法には一切立ち入らないスタンスも読みやすさからは秀逸。どもる彼らの心理的な描写も踏み込み方が適切で、詳細に入らないのは編集者の腕が良いからか。
面白すぎて数日で読み切ってしまった。何度も筆者の専門を見て頭を傾げていたがあとがきのネタバレも納得だ。こんな良書を専門外の人が書けるとは思わない。
個人の趣味だが、本の大きさはもう少し小さくて良いかな。手に余る。
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オートマとマニュアルの喋り、どもらないために会話より対話を選ぶ、喋ることは体を使うこと、対処法が症状でもある、演じるという対処法、むしろどもりたいという当事者、 「体がどもる」感覚。
意味を開く、言い換える対処法は、なんとなく幼児と話している時の言い換えと似ている。
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このところ読んだ本の中でも、ベストに入る知的好奇心をくすぐられる一冊。吃音を「治療する/治る」といった観点から切り離して、身体論として吃音に迫るもの。「言葉じゃなく、肉体が伝わってしまった」感覚に、新しい切り口が開かれました。
読後も、思考は無窮動にさまよい出して、「言語」、話す聴く書くとはなんなのか。「言の葉」として言葉を捉え、秋の虫がたてる音を「鳴き声」と言葉のように聞き做し、鳥の鳴き声を人の言葉のように聞き做してきた日本の「耳」、「頭の仕組み」に想いが至って行きました。
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どもりは何が理由で生じるのか現在も分かっていない。
ある言語を習得するとは、本当は互いに異なった様々な音を、ざっくり1つの音素としてカテゴリー化して聞くことを意味する。
日本橋はnihombashiと表記されるnではない。後にbという破裂音が来るから。
子供の発達において、話し言葉を急速に発達させる時期は、歩行などその他の運動の発達が一時的に停止するという事が複数報告されている。
難発は「意図してもうまくいかない」連発は「意図してないのになってしまう」
難発は「頭の中が真っ白になる」のではなく、「言いたい言葉は明確に頭の中にある」にもかかわらず体がそれを音にするのを受け付けてくれない。「フリーズ」
連発は体のコントロールが外れる感じ。喋るというオートマ制御の運動に生じるエラーであり、当事者はそのタガが外れた体をどこか他人事のように俯瞰したり見守ったりしている。
「歌う時はなぜかどもらない」リズムと演技「ノッている」時にはうまくいく。「タンタンタンタン」二拍子「メトロノーム法」。
「運動を部分的にアウトソーシングしている状態」が「ノる」。
リズムは「新しくなくすること」1つのパターンを使いながらそれを応用する。
「演じる」とは「パターンの使用」
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治るとか治らないとか辛いとか辛くないとかはおいておいて、「当事者の中では何が起きているのか」が書いてあって興味深かったです。
吃音に限らず、リズムに乗ったり演技をしているときに症状が消えるというのは、「妻を帽子と間違えた男」の「詩人レベッカ」はじめ割とよくある話なのかなと。
たぶん脳の別経路を使うからなのでしょうけれど、脳神経学的なアプローチの本もちょっと読んでみたいなと思いました。あるかな。
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吃音について。
どもりのメカニズムがわかりやすく軽快に書かれていて、身近に感じる。
障害のことを語っているのに、それは個性の違い、のように捉えているように感じる。著者の見方が面白い。
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吃りを症状ではなく「現象」として観察し、「話す」という行為そのものの本質をあぶり出そうとする身体論。生物学から芸術分野へ転身した著者らしく韻文的記述が随所に顔を出し、主題に温かみと人間味を与えている。リズムが吃音に与える影響を論ずるくだりで、バフチンやヴァレリーを引くあたりなどは著者の深い洞察と教養を感じさせる 。
しかし、気になる点が一つ。この本には、発話についての考察に当然あってよいはずの「脳」に関する記述が全くと言っていいほど出てこない。それは、吃音者の語りが押し並べて二元論的だという理由で、はじめから著者が一元論的アプローチ、即ち脳への還元主義を排除しているから。著者曰く、一元論の描写する世界は「思った通りに体が動」いている、うまくワークしている世界であり、それは吃音者たちの描写にそぐわない、というのだが、本当にそうなのだろうか。
僕の認識では、正しい一元論的身体論とは「思っているのも動いているのも(脳と)体であり、そもそも『思った通り』のものを描出する心などは存在しない」というもの。だとすると、「我々の脳が『本来すべき動作』なるものを表象し、これと比較照合する形で自分の動作を『本来すべきではない動作』であると認識することがあるのはなぜなのか」という形で、一元論内部で別の問いが立てられることになる。すると吃音は「心と体の不一致」ではなく「脳の機能的・器質的なエラー」として捉えられるのではないか。著者も、終章でドイツ劇作家クライストの「思考は喋ると同時に沸くものだ」との言を引く形で、意識と行動の合一性を支持しているように見える。著者のいう「個人と社会との間で引き裂かれた存在」についての考察は、捉え方がやや紋切り型に過ぎるのでは、と思った(そもそも「語り」が二元論的であるからといって必ずしも二元論を採用しなくてはならない訳ではないだろう)。
ただいずれにせよ、吃音を題材に発話という行為の本質に鋭く切り込む本書のアプローチが刺激的であることは疑いようもなく、身体につき誰もが手軽に考えるきっかけとなりうる好著だと思う。
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いろいろと示唆に富む良書。私自身がごくまれにいいよどんだり、吃音状態になることもある。そのときにひっかかりは自分ではなんとなく思考の中の不純物のためかとも思ったりしていたのだが、そうではないのかも知れない。しゃべるように書いたとしても文字に吃音はおこらない。今、短歌をやっている自身としては言葉のでるところと体の関係について考えるきっかけになった。
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「どもり」の当事者からの聞き取りとその解釈を通して,「話す」行為は,実は体と心の危ういバランスの上に成立している…ということがよく分かります。文章・文体が学術専門書とは違うリズムで,読んでいて引き込まれます。