紙の本
読書日記は面白い
2022/10/23 14:46
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投稿者:takeapple - この投稿者のレビュー一覧を見る
シルバーウイークを全て費やして楽しんだ。終わるのが惜しかったけれど、ここにある本や、続編を読みたかったから仕方がない。私も著者の阿久津さんのFuzkue初台店に行ってたっぷり読書をしたことがある。2020年だったなあ、当時千歳烏山に住んでいた娘に会って、そのあとだった。1度しか行っていないのは私の住まいが地方だからで、私が都民だったら毎日行くだろうなあ、近所にあったらいい。阿久津さんの本に向かう姿勢にとっても共感。都民だった学生時代は、喫茶店で読書、映画、自転車、本屋巡りの毎日だったなあ。日記は面白いなあ
紙の本
ざっくりいえば、本好きによる本好きのための本...だろうか。
2019/11/21 23:57
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
365日の読書日記がなぜ1100ページに?と思いつつ紐解けば、日々の暮らしや、オーナーをつとめる読書のためのカフェ「fuzkue」の話などなど。
そして、これが厚くなった原因だろう、読んだ本からの引用。
読んだ本、その引用、暮らしの記録から、突如、頭に浮かんだこと(?)みたいはあれこれを、著者が記録している最中のノート(かパソコンの画面)を、横からこっそりのぞき見しているような感覚で読み進む。
それが、新鮮であり、癖になる一冊。
難点は、厚すぎて持ち歩けないことで、毎晩、枕元に置いて少しずつ読み進めてます。
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桜庭さんの読書日記が大好きなんですが、それと似たような、というか「読書の日記」だから同じジャンルなんだろうな。日常の中の読書、そしてお店や生活やもろもろについての考えること、ものすごく読んでいて楽しい。永遠に終わらないで欲しい。B&Bで何か買いたい、と思ってしばらく積んでいて、ふと読み始めたらハマってしまったんだったと思います。先にこの本を読んで、フヅクエを知った。
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東京は初台にある、本の読めるお店「fuzkue(フヅクエ)」店主による一年間の日記。
内容は読書だけでなく日常全般(その日の天候や体調であったり、なにを食べて飲んだか、など...)やお店の経営のことなどにも及ぶのだが、そこに通底して本の存在があり、ほぼ毎日欠かすことなくなにかしらの本が彼によって読まれ、そして語られている。
その空気感というか、文章から漂ってくるお店の雰囲気や本へ向かっているときの静寂、また、彼の見聞きしたものが文章を通して頭のなかで生き生きと再現されていくような感じがあって、とても良かった。
日々あったことをただ記録するだけ、とはいえ日記は存外に難しく、しかもそれを人に読まれる「読み物」となる前提で書き、かつ、読んで面白いものにするというのは本当に脅威的な文才だと思う。
1100ページという鈍器級の分厚さを誇る本だけど、読んでも読んでも終わる気配がないことに幸せを感じた本は久しぶりのような気がする。一ヵ月ほどじわじわと、噛み締めるように読んだ。
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朴訥とした語り口と、日常の何気ない、しかし精緻な描写がとても読ませる。個人の日記がそもそもにして面白いコンテンツであることは、ブログの登場以来知れ渡ってはいるのだけど、本と、コーヒーと、酒と、アートとをひたすら行き来するような、絶え間ない反復をここまで気持ち良い文章にできるのは、率直に羨ましい。事あるごとに読み返したい。
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読書、読書。寝ても覚めても、場所どこでも、時間があれば。音も出ない、他人に迷惑をかけない。読書好き、他の人に本をお勧めしますか、あなたは?
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ちょい前に臨時収入があった際に購入した本。
飲み屋では気前よく使うくせに、本となると
文庫本一冊でもためつすがめつを繰り返してしまう。
そこそこの勇気を持って買った本。
ということは、ビールでも一杯ひっかけて買うと、
恐ろしいことになるってことやね。
さて本書。
東京・初台の〈本の読めるカフェ〉「fuzkue」
オーナーによる1,100頁に及ぶ読書日記。単なる読書日記ではなく、経営日誌の顔もある。帳簿ではないので数字までは出てはこないが、カフェ店主として日常–仕込みをし、決まった時間に店を開け、接客をこなし、珈琲を淹れ、料理をする–にも紙幅が割かれ、来客数に一喜一憂する叙述も見られ、本も読みたいけど、稼がないことにはね…の下りに共感を抱く。
1,100ページの超大部のため、持ち歩くこともできず毎朝家の用事を済ませた後、15ページほどを読んでいる。
約70日で読み了える勘定になる。
著者の好きな作家との重なりは少ないが、プロ野球ファンというのが良い。随所に、野球好きが顔をのぞかせ、これがセリエAとか書かれていたら、ちょっとガッカリしたと思うな。
既に面白いので、しばらく愉しい朝の時間を送れそう。
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1100ページあり、たまに数ページ読んでは眠りを繰り返すうちに4,5年経過していた。読み終わった瞬間はびっくりしたが、まだ3冊あるのは嬉しいとも感じる。読み進めにくい文体に見えつつも、読むのをあきらめる気にはならない、ちょっと読みたくなる不思議な文体。この最近行けてないので、そろそろfuzkueにも行きたくなってきた。
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2冊目を先に買ったので、読む順番が逆になってしまった。
遡る形で読むと、1冊目は、『読書』という印象が薄い。本の話題が多いのは事実だが、2冊目にあった濃さは無かった。時間が経つとともに、読書成分が濃縮されているのだろうか?w と、なると、3冊目は一体どんな風になるのか、今から楽しみだ(出るよね?)。しかしその時は、どうか判型は統一して頂きたい……。
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シンプルなタイトル、かわいいデザイン、サイズ感。
この本の佇まいが好きです。
部屋に置いてあるだけでも愛着が湧きますが、読むともっと愛着が湧きます。
飾り気のない言葉で日常が綴られていて、クスッと笑えたかと思うと、ふいに深いい言葉に出逢ったり、次に何が出てくるかわからなくて、ワクワクします。
まだ最後まで読めていませんが、読み終わりたくない。
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昨日の午前中を除いて、この10日ほど、ずっとこの本を読み続けていました。
小説ならするする読めるけど、日記は時間がかかる。
でも、読書も好きだし、日記を読むのも好きなので、この本はすごく楽しみでした。
けれど、結果としてこの本を読むことは、私にとって苦行となりました。
まず、読書部分の内容が薄い。
読んでる本は南米系の小説だったり、エンタメとは対極にあるようなノンフィクションだったり、私の中では重めの本が主。
でも引用を多用しすぎている割に、感想は感覚的で、それも含めて戦略的なのだろうけれど、ケレン味だらけの文章の中で、何が書かれているのか見失うことも多くありました。
元々ネットで公開するためにかかれた読書の日記なので、すべてが事実である必要はないと思うけれど、フィクションとノンフィクションがごたまぜの文章は、大変読みにくかったのでした。
そして、2~3冊の本を並行しながら何日もかけて読む、というスタイルは、地の文で今、何の本の影響を受けていてこうなっているのだろうというのもわかりにくく(読書スタイルは人それぞれでいいんだけど、読者としては、ってことね)、何度も何度も、今何を読まされているのだろうと自問するはめになりました。
多分、一週間ずつ更新されるその日記を、ネットで一週間分ずつ読むからいいのだと思う。
これ、一年分なので、合わない文体一年分を読むのは本当に苦行でした。
何度途中で投げ捨てようと思ったかしれません。
でも最後まで読んでよかった。
「富士日記」について書かれ始めた頃から、文章がこなれたのかケレン味が失せたのか、読みやすくなりました。
とはいえ、内容が悪いわけではありません。
随分付箋もつけました。
”「違和感を感じる」という書かれ方がされていて、僕は「違和感を感じる」人たちに違和感を覚え続けながら生きているのだが、角田光代が書き、そしてそれがそのまま通って印刷されて出版されている事実を突きつけられると、もしかしたら違和感は感じてもいいものなのかもしれない。僕の認識が間違っているのかもしれない、と思った。”
私は「夜ごはん」に違和感を覚え続けながら生きております。
「夕飯」か「晩ご飯」じゃないと収まりが悪い。
”大変だけどかわいい、かわいいけど大変、つまり大変・かわいい、ということだった。大変でありながら同時にかわいいことを名状する言葉が見当たらない。それはもしかして「育てる」という言葉だったりするのだろうか。”
言い得て妙。
Amazon等のレビューで、「わからない」と切り捨てる人に対して。
”「わからない」は豊かな始まりの言葉であるはずじゃないのか。「わからない」なんていう言葉を強気に発することができてしまう姿勢及び考え方は本当に醜いなと思う。わからなさを楽しめよ、楽しめないならわからないことに対して謙虚になれよ、謙虚になれないなら口をつぐめよ、と思う。”
耳が痛い。
でも、わかるわからないの関係は、わかりたいわからせたいが対等でないときは、結構しんどいのです。
合う合わないは言っていい?
”読書という行為のいかがわしさ、排他性、そういうことを最近考えていた。そしてそのいかがわしくて排他的な読者のために僕は働くのだと、そういうことを考えていた。”
読書というのは排他的な行為であると、言われて初めて気がついた。
だから私には一定以上の読書時間が必要なんだな。
排他的な時間と排他的なスペース。
読書がここを担ってくれているから、一応まっとうに社会生活を送れているのだな。
”僕は吝嗇なので読み始めた本は最後まで通したくなるのだけど、本当は最後まで読まないといけない理由なんてないはずで、これから先「死ぬ死ぬ」とばかり意識するようになるのだったら、読まないほうがいいのではないかという気がする。でも、読むだろう。「読了」とはいったいなんなのだろうか。”
この本を読みながら、私もそう思っていましたが、結果的に最後まで読み通してよかったな、とは思いました。
数年に一度、時間を返してくれ!的な本にあたることもありますが。
ブレイディみかこの『子どもたちの階級闘争』からの引用より
”どうして自分より恵まれない環境で育った人のことはあからさまに差別できるのだろう。それは「外国人を差別するのはPCに反するが、チャヴは差別しても自国民なのでレイシズムではない」と信じているからだ。これがソーシャル・レイシズムというものの根幹にある。”
「チャヴ」というのは「公営住宅地にたむろっているガラの悪い若者たちのこと」だそうです。
これを読んで思い出したのが、『第三若草物語』や『第四若草物語』で、あのマーチ家の人々が、南北戦争で奴隷解放の北軍についていた人たちが、プアホワイトと言われる貧しい白人の人たちをめっちゃ差別していたこと。
差別と偏見って、どうやってなくしていけばいいのだろう。
この本を読みながら、ずっと桜庭一樹の読書日記を読み返したくてしょうがなかった。
この本は、読書より日記の比重が高いような気がします。
日記として読めば、本についての記述が多くて嬉しくなったかもしれませんが、読書日記として読んだので、消化不良となりました。
あと、つまりなんだかんだ言って、素人が書く文章とプロの書く文章の違いなのかもしれんせん。
奇天烈な文章を書くけれど町田康は面白いし、脳内だだ洩れを書いてもニコルソン・ベイカーは面白い。
で、おしゃべりをせず、読書をするためのお店である「fuzkue」は、日記の中では暇だ、客が来ない、とばかり書かれていますが、その後店舗数もスタッフも増えているので、もはや安泰でしょうか。
回転数の少ないお店で、東京で、どうやって稼いでいるのかをとても知りたいです。
来週初台に行きますが、寄れるかな?
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高橋源一郎や、あるいはもっと保坂和志が好きな読者ならまず間違いなくハマれる一冊。過剰な引用癖はまあご愛嬌といったところだけれど、一冊一冊の本を丁寧に読み解いていく姿勢は一読者として見習いたい。指が脱臼しそうになるほど分厚い本なのだけれど、こちらを引き摺りこむだけの力はある。それでいて暑苦しいところがない、良い意味で頑張っていない本だと思う。地味ながら良い仕事……それはこの著者が偏愛するエクス・リブリスの装丁にも似ている。ただ、保坂に甘過ぎるのはちょっとな……という気も。何気に毒を備えた書き手として期待する
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fuzkue店主阿久津隆氏による初の著作?著作なのか?読書の日記第一弾。NUMABOOKSの内沼氏のいう通り、彼は、食べるように読んでいて、読んでいるこっちが羨ましいというか、読書がしたくなってくる。日記というものじたい、読み物として楽しいんだと改めて気付かされた。その人の日常を覗かせてもらってる感じがする。
2016年10月1日から1年の日記を本著では掲載されているが、なかでも印象に残っているのが、ベン・ラーナー著の「10:04」をすごく楽しそうに読まれていたことだ。(加えてヘミングウェイ著「移動祝祭日」も楽しそうに読まれていた)今ある積読たちが消化されたら、購入してみようかな。改めて第2弾読み返しちゃおうかな。本屋に行きたい。このGWひとつも予定がないので(どこにもいけないし)、ひたすら本でも読んでしまいたい。
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なんていうか人の日記をのぞいている感じ
なので展開がバラバラと
こんなこと考えているんだなと思いながら読み進めた
大野くんもやってるみたいだし、
日記書いてみようかな
機会があれば続きを読んでみる
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爆発する、という印象を抱く。ここで著者の阿久津隆が書く日々の記録は、なんらかのフォーマットに安寧に収まりうるものではない。大抵の書き手の書くものはウェブ日記やブログといった行儀の良い形態に収まってしまうが(そしてそれはむろんなんら悪くないが)、阿久津はその形式を超えて読書中に抱いた思念や日々の些事やフヅクエを運営する裏事情などを日記の中で炸裂させる。その筆致は実に芳醇。豊満なボリュームを誇るこの本を読んでいると、私も(阿久津とはかなりテイストが違うにしろ)読むことをエンジョイしたくなる。元気になれる1冊だ