紙の本
未来の世界を覗く事が出来ます
2018/07/29 20:40
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Poohta - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は、これまでの概念に縛られず、成功体験の延長線での成長にこだわらずに
社会の実情をしっかりと理解した上で、どの方向に進んでいけば良いかを提言している。
社会構造、科学技術の進歩を多くの知識を持って活用するとともに、我々の強みを見つめなおして
下を向くことなく、前に進む指針を示している。
未来の世界を覗く事が出来る本です。
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きちんと読むと時間がかかるので(言葉や言いたいことの理解に時間がかかる)、興味や自分も知見がある部分だけ斜め読み。
2018.10.**~11.15
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「コンピューテーショナル・フィールド」とは何か。それは華厳の言葉では「理事無碍」と呼ばれたようなものだ。華厳経の宇宙観や世界論によれば、万物は本来ひとまとまりでありこの世の万物は縁起によって関連し合っているとされている。それは、近代に見られたような個に対象を分断する世界観とは異なっている。
この世界に存在する万物は原理的にはそれぞれ無関係ではありえない。万物はどこかで影響し合っている。旧来は宗教で語られた万物の関係性の中で、人や物や心や仏や宇宙、すべてが「究極的には」一体となっているということだ。そこでは、人間がセンサーを用いて認識できる空間だけではなく、時間的にも同様に、過去現在未来が一体となっている。しかしこの宇宙観は、悟りの境地でないと実感をもって観ずることはできないとされてきた。この「悟り」とは、現代的には学習済みモデルを用いた変換プロセスで外在性を持った記述に近い。(p.88)
注97 仏教的な「悟り」は、言語による表現や伝達が不可能な境地とされるが、この認識のあり方は、現象の直接的な変換によって、数式や言語では定義不能な対象を扱える機械学習の学習済みモデルと相似形である。(p.89)
20世紀のコンピューティングでは、人間が抽象化を行い、メタルールにもとづく特徴量を発見し、それを用いた解析的な数理的プログラムによってシステムを構築してきた。例えばコンピュータシミュレーションをして仮想世界をデジタル空間に作るようなアプローチでは、仮想世界における光や音の記述などは人が解析的な定義式を用いてプログラムを作成していた。もしくはモンテカルロ法や遺伝的アルゴリズムが到達点であり、事物と事物のつながり、万物の縁起そのものはこの時点においては、人は一旦抽象化したメタルール(人間の側の存在する)を経由して、システムを構築していた。
しかし、21世紀のコンピューティングではそのような解析的なアプローチと、深層学習のような統計的なアプローチは計算機上で融合され、人間がメタルールを用いてシステムを俯瞰することなしに、解析的な個別の関係(縁起)そのものに介入することができるようになった。ただしこの主体は人間ではなく、計算機である。古来、仏教では人は悟りを経由してしか縁起を理解し得ないが、コンピュータは高速で演算を繰り返すことにより、縁起の記述を獲得しうる。(p.90)
この数百年、人間は脳で実行可能な知識を「真理」としてコレクションしてきたが、今後はプログラムやベクトルの形で提示される、コンピュータにしか理解できない知識も「真理」たりうる。これが新しいパラダイムだ。(p.111)
進化と汎化による価値の探索の観点からすれば、我々の生物的な物理実装である「デジタル記録されたDNA」もブロックチェーンの一種に見える。(p.139)
今後、標準的な人間観に準拠した価値は全体から見れば後退する。視力が低いのならセンサーやディスプレイを埋め込めばいいし、腕の欠損には高機能義手を付ければいいのだ。テクノロジーが人間の欠損を補完しうる社会では、人間のあらゆる差異はパラメーターの問題に帰着するはずだ。(p.176)
��人間を中心にする世界観」から「機械を中心とする世界観」へと思考を転換し、人間をインターネットに隷属する要素として捉えた場合、仮にAIが人類に対して何らかの干渉を目論んだとしても我々を直接不幸にするようなアプローチは取らないことが分かるはずだ。コンピュータにとって不都合な人間を滅ぼすにしても、わざわざ虐殺を始める必要はまったくない。人間は80年経てば死ぬ。そして数千年の寿命を持つエコシステムがたった80年を待てないわけがない。人類の全体最適化は、問題因子の次世代への継承を止めることによって、ゆるやかに進んでいくことになる。(p.219)
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言語と社会システムの不可逆性と不完全さをテクノロジーによって超克出来れば、脱近代そして人と人の相互理解、経済圏の選択を含めた互いの共存を認めやすくなる生態系が実現出来ることへの希望を与えてくれた一冊でした
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デジタルネイチャーが主となる社会。今まで見てきた社会は、遠く霞む。AIが出てきたことでAIに支配され、コントロールされて過ごす人と、そこから出たVC的な要素を持った人とで生き方が二分される。この発想は正しい。よく見るのは、アレクサに音楽をかけてもらう人だ、またはAPPsのお勧め音楽を流す人もそうだろう。時にはそれは新しい、デジタルソースからの気づきがあると言えるが、そこに依存しているということはすなわち支配、コントロールに甘んじている。悪いとは言わないが、それって自分の生きたい生き方か?それとも気が付いていない?そんな問いかけを1冊にわたってしているように感じた。
ビジネスについては、タイムマネジメントからストレスマネジメントへ。ストレスフリーであることが最も大事なのであって、時間が何時から何時まで働く、という感性はもはや無意味とバッサリ。日本企業は残業時間で過労死ラインを図り、なんとしても時間外労働、という謎の概念と枠をはめている。ストレスがかからないのは、どういう状態か、ストレスフリーな心持ち、それを自分としてはいつも澄んだ水のような気持ちで、と表現しているが、そういう状態にどう持っていくかが大事だろう。そして最も大事なモチベーションは、アート的という。ある種の衝動が人々の行動を規定、動かしていく。おそらく、何か別のことに主たる目的を置くことで、いわゆるこなすということと、衝動に突き動かされてやるということは、全く違うコンテクストの中でモチベーションを誘導していくんだろうと思う。難しい言葉、極めてユーザーフレンドリーではない言葉をあえて用いているが、大したことは言っていないなという印象。普通に読んで、なるほどね、というふうに感じることができるので、とっかかりだけ壁を感じただけだったようだ。
あらゆるものがユビキタス、総合に通信し繋がる社会、これを提唱したのはマーク・ワイザー。ホログラムによる関係性と物質的な実態の関係性によって一体化した認識、これが東洋の思想である悟りと同じコンテクストと捉えているのは非常に面白いし、なるほどデジタルとは西洋の生み出した世界観だよな、でも実は東洋でも同様の思想がもっと前からあって当たり前に受け入れているんだなと気が付かされる。新しい視点は、非常に示唆に富む。スマホの写真を見てこんなことあったっけ?と思ったら、すでにそれは現実体験をクラウドが超えているということ、記憶よりも記録が優っていることを指す。また、文字の最後に!やハートをつけるだけでなく、絵文字を生み出した日本はこうした文章への感情のリンクを必要としていたと考えられる。全体最適化された社会が形成され、もはやクラウドで確保された情報を脳が記憶し続ける意味はない。こうした状況下で、実質と物質の区分けがなくなって、それを超越するデジタルネイチャーが我々の身体と繋がる全ての現象として現実として認識される。つまり、バーチャルも、リアルも、リアリティを持って感じられるということであれば同じ概念の上に立つということ。溶け合うと筆者が表現しているがこれがどこまでいっても、現実のようには思えないのだが、NYで開かれるゴッホの世��を表現したエキシビジョンに行ってみる。そこで感じるのは虚構か、現実か。。。
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フォトリーディング3回目。
今後間違いなく進んでいく方向性について、あらゆる分野での更新がなされる。
その中での普遍性を考える。
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落合哲学、世界観を学べる一冊。良著であるが、自身のタイミング上、集中して読めず。
メモ
・人々の労働は機会の指示のもと働くベーシックインカム的な労働(AI+BI 地方的)と機会を利用して新しいイノベーションを起こそうとふるベンチャーキャピタル的な労働(AI+VC 都市的)に二極化し、それぞれの地域で全く違った風土の社会を形成するはず。
・uberやairbnbの機能がオープンソースになった場合、ユーザー側のコンセンサスによってプラットフォーム
受益者負担方システムになって維持されうる。この場合
非中央集権的にシステムが保持され、トークンによる評価経済で運営されうる。ブロックチェーン利用により非中央集権型のオープンソース的資本主観社会を自然に形成する可能性がある。
・これまでの社会はRPGの勇者のようにレベルをあげて次のステージに行くやり方。これからはわらしべ長者的な働き方。または、キリギリス的な生き方。冬が苦手でも環境を変えて個性を伸ばせる社会になっているため。命がけで好きなことを追求し、南国に移住すればよい。
・近代的な人間観は自分らしいことをわ。、自分らしく生きていくという考え方。重要なのは自分探しでなく、今即時的に必要なことをリスクをとむてやれるかどつな。やったことによって事後的に自分らしさが規定されていく。
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一気読みした。
内容で技術的なところは、理解がおいつていない部分もあったが、いみじくも今日受験したG検定のための学習で得た知識が、リンクした。
そのための知識が、この本を理解できるようにしてくれた気がした。
また、これから先の世の中の潮流が少しだけでも見えてきた気がした。(もうそうかな?)
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デジタルとアナログの境目がなくなるデジタルネイチャー。
テクノロジーが進歩することによって、人の感覚器で捉えられる解像度よりも、機械の方がより高解像度なものも存在する。音の例を出すとわかりやすいが、人が聴取できる音域は20〜20000Hzであるが、機械がつくりだす音域はもっと広く医療で見られる超音波検査などは3000万〜1億Hzの音波を発している。
つまり、アナログの方がデジタルよりも解像度が高く鮮明だという定義は当てはまらない。
ひと昔前であれば、アナログの方がデジタルよりも解像度が高かったけれど、テクノロジーの進歩によってそれが逆転し始めている。
そのような状況で、今後どうなるかを予想したのがデジタルネイチャーだ。全ての領域においてデジタルの解像度が高くなっているわけではないが、遅かれ早かれいずれ数多くの領域においてデジタルがアナログを上回る時代がやってくる。
そうなると、機械なのか自然なのか気にしない状態になるはずだと落合陽一さんは言っている。
今まで全く考えたことのなかった発想なので刺激的で将来に対するワクワク感が大きくなった。
僕自身は、これからも進歩する技術の中で、人とはなにか?心とは何か?という疑問が生まれ、これに向かってしばらく考えていきたい。
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【極貧】
AIが普及してもすべての人がその恩恵にあずかれることはないでしょう。
仕事はAIがやってくれるから人は遊んで暮らせる!
なんてことはありません。
資本の原理からAIを所有するものは、AIと同じことあるいはそれ以下しかできない人間は雇いません。もしくはAIコストより安い給料で雇います。
AIを所有し浮いた利益はAIを所有したものが独占して全員にその恩恵を配ることはありません。
つまり、AIの能力以下の人間には極貧生活しか残されていません。
AIの能力なんてまだまだ人間にはおよばないと思っている人も多いかもしれませんが、加速度的に進化するAIをみくびってはいけません。
あと10年ぐらいはかかると思っていることは、5年で到達してしまい、10年後には遥か先を進んでいることになります。
ただ、AIは所詮実績からくる最多解を見つけるだけです。前例のないことを生み出せる能力はありません。
またリスクを取ることもできません。
0から1を生み出せるのは人間だけです。
本当にバカげたことができるのは人間だけなのです。
AIには「お前ほんまにアホやな」という行動はとれないのです。
「お前ほんまにアホやな」という行動がとれることが、人間のすばらしいところです。
これからはそういうところで生きていくことが人間の道となります。
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魔法の世紀から3年経った2018年に執筆された、続編というかアップデート版というか。すでに2020年なので未来館等の仕事を経て落合氏の中では更にアップデートが進んでいるんだろうなと思うとゲンナリする。まじですごい。
この2冊は基本難しいのだが、なぜか途中で諦めようという気にならず、辛い気持ちになる事なく文字を追い終わり、半分くらいはわかった気になれる。
とりあえず自分が勉強不足であることを痛感させられるので、意識は高くなる。もう少しディープラーニングとか和風の美意識について知ってから再読したい。
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西洋近代の人間中心主義による「<人間>の超人化」と「人間のための環境(モノ)の進化」という発想に対して、「<人間>の脱構築」と「環境的知能の全体最適化」、つまり「<自然>としてのコンピュータ」のエコシステムの構築を目指し、その超自然にそれぞれ不可分に内包されるのがデジタルネイチャーである。p87
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落合陽一さんがたまにデジタルネイチャーという言葉を使っていて、その意味するところがぴんとこなかったが、この本に考え方が説明されているということで読むことにした。高度に発達したコンピューター、機械が作る景色は人間にとって本物の自然と見分けがつかない、そういったことを言っているようでした。それだけいうと、ああそれだけのことかという感想で終わってしまうのですが、この高度に発達したコンピューター、機械はディープニューラルネットワーク、AIにおける発展とも密接に関連していて非常に興味深いです。
もともと人間の認識、脳の働き、神経細胞の働きを模したものとしてニューラルネットワークがあるわけですが、その技術が作り出す計算機自然と、人間が認識する自然に差がなくなっていくのはとても自然な流れではあります。自然だけがもつものはその解像度の高さにあるわけですが、人間が認識できる解像度には当然限界があり(音であれば何KHz、映像であれば8kなど)、またその限界は人体の認識の仕組み(音を波長でとらえる、映像は網膜でとらえる)に依存していることから一定以上の解像度について人間は捨象していると考えられるわけです。その本質は言語で論理的に対象を表すよりもただありのまま現象をとらえるという(end to endという言い方をしている)東洋思想に近い考え方との親和性が高いという説明は非常に興味深いものです。多くのディープラーニングのプロセスは処理が多重であるため、言語で表しきれるものではありませんが、ただ認識した結果、処理した結果、物性としてとらえることが正解というわけです。
ここからはこのデジタルネイチャーの本において語られていたことではなく、大学時代に読んだ哲学書の内容に関連することですが、西田幾多郎のような哲学者が言っていたようなことも、主体と客体をわける西洋哲学からの脱却のようなことを語っており、ただ対象をそのままにとらえることの意味、あるいはそのあり方を見つめなおす必要性を訴えていたわけです。ディープニューラルネットワークの台頭でその有効性が証明されるということは本当に面白い話です。西田幾多郎はその生きた時代から推察するに、ディープニューラルネットワークのような存在を知っていたわけではないと思われますが、彼の事象をとらえる洞察、客観的に物事を記述するという西洋哲学の危うさ、そういったところに早くから気づき、そして本質的なところでは当たっていたということなのだと思います。
ディープニューラルネットワークで導き出される認識の結果、事象、答えというものはそれを認識する側の解像度(の限界)との関連でその価値も決まるということなのだと思います。
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難解で心をへし折られそうになりますが、
読み進めていく毎に読めるようになります。
理解度合いはそれぞれのレベルによるでしょうが、
理解できる箇所だけでも新しい知見が得られます。
テクノロジー、哲学、アートなど
多種多様な素養が自然かつ複雑に混じりあって
それ何色よという感じです。
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「侘びと寂び」とあるのでもっと人文系の内容を想像したが、AIを含むITの現在到達点を基に近未来のITと人間の関わりや人間社会の近未来像を冷徹に推測した部分が大半となっている。
「侘びと寂び」は冒頭部分と巻末部分にだけ著されているが、著者の辿ってきた道筋がわかるようで興味深い。