- カテゴリ:一般
- 発売日:2019/04/25
- 出版社: アルファベータブックス
- サイズ:19cm/418,4p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-86598-064-6
紙の本
沈黙する教室 1956年東ドイツ−自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語
東西冷戦下の東ドイツ。ある高校の進学クラス全員が反革命分子とみなされ退学処分に! この国で未来を描けない若者たちは、自由の国、西ドイツを目指して国境を越える…。ノンフィク...
沈黙する教室 1956年東ドイツ−自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語
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商品説明
東西冷戦下の東ドイツ。ある高校の進学クラス全員が反革命分子とみなされ退学処分に! この国で未来を描けない若者たちは、自由の国、西ドイツを目指して国境を越える…。ノンフィクション。2019年5月公開映画の原作。【「TRC MARC」の商品解説】
映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』原作! 2019年5月全国ロードショー!
監督:ラース・クラウメ『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』
5/17(金)全国ロードショー!!
配給:クロックワークス/アルバトロス・フィルム
東西冷戦下の東ドイツのある高校の一クラス全員が反革命分子と見なされ退学処分に! 行き場も、将来の進学も、未来をも見失った若者たちは、自由の国、西ドイツを目指して国境を越える……。
映画化されたノンフィクション作品の翻訳!!
1956年秋、東ドイツの小さな町シュトルコーの高校でその“事件”は起こった。「西側のラジオがハンガリー動乱の犠牲者にむけた黙祷を呼びかけてるぞ!」級友の言葉に応えたクラスの全員が授業中に5 分間の沈黙を敢行。ソ連支配下の社会主義国家・東ドイツにおいて、それは“国家への叛逆”と見なされる行為だった。彼らの連帯はのちに学校と両親を巻き込み、次の“叛逆行為”を引き起こす!
本書では、映画では描かれなかった、彼らの亡命後の西ドイツでの出来事から、40年後の同窓会での再会までが書かれています!【商品解説】
著者紹介
ディートリッヒ・ガルスカ
- 略歴
- 〈ディートリッヒ・ガルスカ〉1939〜2018年。東ドイツ生まれ。同級生と西ドイツへ逃亡後、ケルン、ボーフムでドイツ文学、社会学、地理学を学ぶ。エッセンの市民学校で文化と芸術分野の講師を務めた。
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東から西へ
2020/07/18 10:00
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
自由を求めて国を出る高校生たちと、疑心暗鬼に満ちた大人たちとの間にコントラストがあります。たどり着いた西側が、決して楽園ではなかったのもほろ苦いです。
紙の本
映画のドラマティックさを求めると・・・ちょっと違う
2019/10/22 02:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:かしこん - この投稿者のレビュー一覧を見る
先日観た映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』の印象が深く残っており、原作を読むことに。
クラスメイトの中の一人であったディートリッヒ・ガルスカが、その当時のこと・その後のことを閲覧可能になった資料を掘り起こしてまとめたもの。ジャンルとしてはノンフィクションながら、著者はプロではないためか翻訳の問題なのか中途半端感がいなめない。
逆に、これからあんなドラマティックな映画を作ったのがすごいな、と思った。
1956年の秋、東ドイツの小さな町シュトルコーの高校で起きたある出来事。 「西側のラジオがハンガリー動乱の犠牲者にむけた黙祷を呼びかけてるぞ!!」という級友の言葉に応えた形でクラス全員が授業中に5分間沈黙を守った、それも2回。その当時ソ連支配下の社会主義国家であった東ドイツにおいて、それはいつしか<国家への叛逆>と見なされるようになった・・・。
映画の舞台となった町とは違った(もっと小さい町だった)。黙祷も2分ではなく5分だった。やってることの意味を彼らはちょっとわかっていた。ここには映画には描かれていない現実がある。
そして映画には書かれていない、西側に行った人たち・行かなかった人たちのその後、40年後の同窓会についてのほうに多くページを割かれている。それがまたせつなく・・・だからベルリンの壁は築かれることになってしまったのか、それを撤廃するまでにどれだけの人が犠牲になったのかと考えずにはいられない。
東から西に行ったとしても西は<地上の楽園>ではないし、そもそも人間のいるところに楽園などありえないのに、何故そのような宣伝をしてしまうことができるのか(それにだまされてしまう人を作り出す状況が生まれるのか)。
これは当時の東西ドイツだけではなく、のちの北朝鮮や中国にも言えること。言論の規制と独裁にいいところなど何もない。
筆者は自分を「私」と書いたり、「私たち」と書いたり、「ディートリッヒ」と書く。
どこまで意図したものかはわからないが、それがときにものすごく効果的で、ときに違和感を抱かせた。映画を観て状況を把握できていなかったら、読み通せたかどうか自信がない。決して長い本ではないのだが・・・意向を確かめていないクラスメイトをかばうためか個人情報をできるだけ出さないためか、かなりぼやかされたり省略されているところがあるので。きっかけになった出来事自体は同じだが、全面的にオリジナルキャラクターで物語を紡ぎあげた映画版のディテールにノンフィクションのほうが及ばないのだ。
とはいえ、「もしこの時代に自分が生きていたら」と考えさせられることは必定で、つまり「もうそんな世の中にしてはならない」ということなのだ。