合唱指揮者という生き方 私が見た「折々の美景」

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　夏休みの最後に大学で合唱を経験する機会があったので、そんな機会でもなければあんまり読むことのなさそうな本、ということで読んでみた。著者は合唱指揮の第一人者で、知る人ぞ知る的な人だと思うのだけれど、初心者のおれには名前も聞いたことなければ、という人だった。還暦を迎えた著者の記念(?)に、ここまで「教育音楽」という雑誌の連載を編集して載せたもの。
　やっぱり全く知らない人の自伝的なものとか、初めは読んでもあんまり興味は持てなかったが、著者が影響を受けた他の人の言葉、というのがおれにもなるほどと思う部分が後半いくつか出てきて、だんだん興味を持って読めるようになってきた。著者自身の言葉でないから孫引きみたいになる部分もあるけど、その部分のメモ。
　まず「最初の日本人作曲家」(p.93)という話で、「日本で最初にクラシック音楽様式で作品を残した作曲家は、女性です。その人物は幸田延(1870~1946)で、作家・幸田露伴の妹でもあります。音楽でアメリカ、ドイツ・オーストリアへ留学したのも彼女が日本で最初です。帰国後に東京音楽学校で教授として滝廉太郎や山田耕筰を育てた、というのですから、ピアニストとしてもヴァイオリニストとしても優れていたという彼女は、日本のクラシック音楽世界の黎明期を切り開いた人物と言っていいでしょう。彼女がオーストリアから帰国した年でもある1895年に留学先のオーストリアで作曲したヴァイオリン・ソナタは、紛れもなく日本人最初のクラシック音楽作品です。」(p.93)だそうだ。こんな重要な人なのに全く知らなかった。楽譜は出版されているということだそうで、演奏されたものがあったら聞いてみたい。それから著者が影響を受けた言葉に、「『人と違うことをして目立つのはだれでもできる。人と同じことをして秀でなさい』というものがありました。私は『楽譜に忠実な演奏』が好きですが、『譜面どおり』といえる演奏は無限にあり得ます。その中からの選択にこそ『自分らしさ』が潜んでいるのかもしれない、と最近は思っています。」(p.103)というのは、なんでもありのこの時代に地道に生きる重要性を説く言葉としていいかもしれない。それにしても「譜面どおり」が無限にある、というのが、音楽をやっている人らしい言葉だなあと思った。あとは「ボブ・マーリーの”Live the life you live. Live the life you love.”ということば」(p.104)は、覚えやすいし良い言葉だなと思った。次に、「聴こえない音」(p.135)の話。《決意》という合唱曲の中に、「fffの音響の中に忍び込むpppのパートが加わる瞬間は（他の声部の『入り』のpですら）聴き取れません。しかし、音楽を受け取ることは『顕在的』には『聴こえていない音』までも含めた営為だと私は思っています。」(p.135)という部分は、よく分からないけどそういうものなのかなと思った。というのも、おれは合唱でバスをやって、後でその曲を聞いてもほとんどバスの音が聞こえないように思える？のだけど、じゃあ意味がありません、と言われると悲しいから、まあそんなものかな、と思った。「聴こえない音をたくさん書き込む」(p.136)という作曲家もいるということ。「人間の認識とか知的な営みは、（略）サブリミナルな領域で細かいディテールの総体を感取しているんじゃないか」(p.137)という言葉が興味深い。合唱作品をおれは全然聞いたことがないけれど、著者がやったコンサートでは「《風の馬》（武満徹）から1曲、《五つの童画》（三善晃）から1曲、《Cantus omnibus unus》（坂本龍一）、そして《二つの祈りの音楽》（松本望）から秋楽章、という並びでした。1961年に作曲が始められた《風の馬》から演奏を開始し、三善作品と（2005年に全日本合唱連盟が委嘱した）坂本作品を経て、2016年に初演された作品で締めくくる、という構成は、本当に小さな(61~16年にわたる)日本の合唱作品史、のつもり」(p.140)ということだから、とりあえずこれらが聞くべき作品、ということなのかなと思った。あとは「小学校の音楽の教科書に掲載する歌を選定するときに、『子供には、この歌詞は『意味』がわからないから』という理由で除外されてしまう場合がある、と聞いたことがあります。けれども子どもにとて（実際には大人になっても）、『意味』がすべてわからなくても、全体をごっそり受け取って心の中に留めておく、ということは素敵なことだと私は思います。（略）歌全体から受け取る情感が変わることがすばらしいことなのです。」(p.153)というのは、なかなか公教育では受け取られにくいけど、その通りだなと思った。英語や古文の暗唱もそうだけど、別に意味とか分からなくてもいいんじゃないか、という面がなくもない。それを丸々一体としてとにかく受け入れる、という経験は必要だと思うのだけど。公教育的には、まず意味を理解して、どう表現するか、という話になる。「再び出合うときに意味が深まる事柄を伝えることを心がけていきたい」(p.154)という話だった。まあ再び出合えるというのは幸せなことだろうなと思う。「鴎」という合唱曲がもらった楽譜の中にあって、歌いはしなかったけど、なんとなく聞いてみてなんだこれ、って思ったが、「戦争によって故郷に生きて帰ることの叶わなかった若者が投影されているというのが、この詩の正統的解釈でしょう。旧制高校生の夏服が白であったこと、鳩や鴎をその詩作にたびたび登場させる達治の詩風から考えて、その『読み』は外すことのできないものです。」(p.160)という解釈を知ったら、すごい作品だなと思った。前のことと矛盾するけど、やっぱり意味を知ってからでは印象が全然違う。あと、「音楽の中で、聴いている人たちが、生きられなければならない」(p.170)という三善さんの言葉ってすごいなと思う。音楽の中でその人が生きる、って素敵な言葉だ。あとは箒木逢生という人の『ネガティブ・ケイパビリティ』ってちょっと読んでみたいなあと思った。「サブタイトルは『答えの出ない事態に耐える力』です。問題解決が強調されすぎて、問題そのものを平易化してしまう（複雑さをそぎ落として単純化してしまう）ことを回避するために、どうにもならない宙ぶらりんの状況をもちこたえる力をもつことの大切さが、繰り返し説かれています。」(p.202)ということだ。分かりやすさ、という強迫観念は教師にはつきものだしなあ。
　ということで、意外とあとでも心に残る部分があった本だった。(23/09/03)