紙の本
言葉の圧縮比が半端じゃないから、言葉のエンジン出力も物凄い
2020/05/08 23:53
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オカメ八目 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「食えなんだら」とは越前弁で、「自分が、食べられないと感じたら」と言う位の意味だ。 私の爺さまと婆さまとは福井の出なので、この超圧縮が効いた方言は、少し「わかる」。 ただ、この「食えなんだら」の表面だけではなしに、そのトンデモなく深い「奥」が判るには、何兆回位の「至る所で自分自身を見る」を、やって行かないとならず、それは、とりも直さず、これまたトンデモなく、凄い「修行」の道ともなり得る。 兎に角、言葉の圧縮比は強烈に高いし、また、言葉のエッジが超鋭いから、 少し前の「優しさたっぷりの、ぬるま湯の、情緒ただ漏れ」の時代に頭の天辺まで、ズボズボにつかってた人にとっては、「太陽と北風」の「北風」のようだろう。 多分に、覚悟して読まないと
簡単に、その超強い「北風」に吹き飛ばされるかも。
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「無功徳」の解説が納得で、素晴らしい。
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P74
出せるだけ出すのが寄付
P76
飢餓覚悟だから、貯えておく必要はあるまい。
この流儀でいくかぎり世渡りはあくまで自由であって、
私自身もわずかなお金への執着から解放される。
これほど晴れやかな世界はあるまい
P78
檀越から寄進を受けても、
過分な感謝の言葉はかえさないようにしている
P78
寄付というのは、まったく無償の行為である。
無償の行為であってこそ、
それは「徳」として完成する
P79
いい気になったとき、人はすでに、
この上もなく得意な気分という
代償を得ていることであり、
その「徳」は霧消する ※
P80
受ける側は、ただ、おおやけを代表し、仏になりかわって、無心に礼を述べるだけでいい
P83
(「月の兎」「捨身施」とは)
森の中に狐と猿と兎が仲良く住んでいた。
そのへ、飢えのため死にそうな旅人が通りかかった。
三匹とも、旅人のためにそれぞれ食糧を探しに
出かけていった。
猿は、果物をとってきた。
狐は、川魚をとってきた。
兎だけ、手ぶらで帰ってきた。
そして申し訳なさそうに、
猿に薪をとってきてくれるように頼み、
それを積み上げると、火を点けて、
燃え上がったところで、
自分を食べてくれといって身を投じたという。
そのとき旅人は、たちまち菩薩に変身し、
兎を月の世界(天上界)へ生まれさせたという
P83
「徳」は積ましてもらわねばならぬ。
そして、たといお礼の言葉といった瑣末なことでも、
代償を求める心があるとするならば、
その「徳」は帳消しになる
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いや、とにかくすごい!
どの章も、すごいです。
ほんとその通り。
勇気づけられます。
特に下記の章は、ガツンときました。
食えなんだら食うな
病いなんて死ねば治る
自殺するなんて威張るな
若者に未来などあるものか
地震ぐらいで驚くな
死ねなんだら死ぬな
必読書です。
また読み返そう。
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この本を読むと自分の俗っぽさが嫌になってくる。言葉の一つ一つが心に突き刺さってくる。
あまりに凄すぎて、フィクションを読んでいるような気になる。
陰徳は人に見せるものではない。
無償の行為こそ「徳」である。
「オレがやってやったのに」では何もならぬ。
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41年ぶり復刊で11刷!
長らく復刻を望まれていた名著がオリジナルのままに復刊!
曹洞宗大教師が語る人生の意味。
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昭和初期に生きた禅僧の本、
生死一如
生きるとは死ぬことである。
仏教でいう「いのち」とは「業」である。業という働きは永遠に続いていく。(肉体が滅びても)人の一生は無始無終の業の一期間でしかない。
死んで後、自分の「いのち」をいかに荘厳にするのか、そのためには死ぬまでにどう生きるかが問われてくる。
生きている間に再び生まれ変わったら何をなすか、という課題をしっかり固めておかねばならぬ。
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曹洞宗の禅僧であった著者の半生記を交えた人生訓集。
本書のタイトルにもなっている、「食えなんだら食うな」に始まり、「病なんて死ねば治る」、「無報酬ほど大きな儲けはない」、「ガキは大いに叩いてやれ」、「家事嫌いの女なんて叩き出せ」、「若者に未来なんてあるものか」等々、今だったら確実に炎上しそうな内容のテーマも含め、12本の人生訓が収められている。
終生未婚で、粗食を取り、修行と後進育成、および幼児教育に生涯を費やした著者の語りには、重い説得力があり、刺激的なタイトルのものも、中身を読んでみればなるほど納得させられた。
あと、ちょっと意外だったのは、粗食で体を動かすことも行の一つだった著者が、健康に恵まれていたかというと、そうでもなく、がんを患って胃を全摘したり、バセドー病や、その他にも幼少の時も病気に悩まされていたということ。
加えて、驚いたことは、少年期の後半から近視になり、眼鏡を離せなくなっていた著者が、30歳になった時、他の寺へ修行に行った際、眼鏡を取り上げられて、裸眼のままかすんでぼんやりした視界のまま、修行を続けていたら、徐々に物が見えだして、最終的に近視が治ってしまったというところ。数十年間、眼鏡と共に生活している私にとっては驚異的な出来事である。本編とは直接関係ないが・・・。
モノがあふれ、そのせいかどうか、心にも思い負担がかかりがちな現代において、著者の人生訓は一読に値すると感じた。20代後半くらいの人からは、ぜひ一度読んでみていただきたい。
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仏道修行が女性を近づけないのは、単なる性欲の問題だけでなく、普通の日常が、修行には重荷になるから。
食えなんだら食うな、は我が身が軽ければ、食わなければ死ぬだけのこと、仏道を追求するなら、その覚悟が必要であり、そのためには背負うものがあってはいけない。
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自分なんて大したものじゃないと思えば腹も立たない。思い上がりを捨てねば。 「この世はすべて諸行無常」「死ぬのは結局おのれ一人」「陰徳」「転禍招福」。 言葉が力強い。かと言って、押し付けがましい訳でなく、説教くさい訳でもない。でも力強い。そんな印象でした。いつかもう一度読む日が来るかもしれません。 いつの日か「ものはとりよう、思いよう」と思えるように精進します。
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明治に生まれ、
大正、昭和の時代を生きた禅僧の著した随筆です。
といっても平易な言葉で書かれた、
とても読みやすい内容でした。
本書のタイトルにもなっている
〝食えなんだら食うな〟のほかにも、
病いなんて死ねば治る
自殺するなんて威張るな
若者に未来などあるものか
死ねなんだら死ぬな・・・などなど、
天衣無縫、裸足の禅僧として生きた著者の言葉は、
どれも小気味よく痛快です。
生きることは修行であり、
それ相応の覚悟をもって
挑まなければならないのでしょうね。
覚悟を覚悟と思わなくなり、
挑もうとする気負いが消えたとき、
ほんとうの平穏が訪れるのかもしれません。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2
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最近では聞くことが亡くなった、本物の禅僧らしい人の講話です。本物ゆえ、死の話が語られ、読後、その生活に覚悟が求められる。著者が、がんにかかり、死を意識されてその闘病生活を殻られた話と、空襲に遭遇して、多くの葬儀を執り行った話は、見事である。どのように悟ったかの記述に興味があったのですが、曹洞宗、臨済宗双方での、修行の凄まじい体験を知ることになる。書名や章名の激しさは、編集者の人寄せで、読後、気持ちよく納得できます。葬式仏教と揶揄される風潮にも、その鉄槌が潔い。
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禅の本というと静寂なイメージのものも多いが、これは対極をいくド迫力の本である。
あまりに豪快な内容に眉をひそめる人も多いかと思いきや、他の方のレビューも意外と高評価。
著者の禅僧としての考え方はもちろん、禅寺の修行の厳しさ、富山空襲の現場などの貴重な体験も描かれていて、その点でも興味深く読めた。
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家事は作務。役割分担とか、自分の方がやってるとかそういう次元のものじゃないし、男尊女卑とか平等とかいうことじゃないなと思った。仏教では魂はずっと続くので善を積み重ね続けることは肝に銘じたい。空襲後の供養の話は涙が出た。根幹を教えてくれる本。死ぬその瞬間まで、教わったことを少しでも自分のものにしたい。手元に置いておきたいので買うことにする。
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あとがきー解題として、絶版されていた本書を復版するに至った思いを執行早舟氏が述べる。妻を亡くし大病を患った。また、読書に生涯を捧げるような氏の座右の書だという。解題を読み、本書の読解に立体感が増す。よきストーリーかな。
しかし、宗教とは。識字が叶わずメディアも無い時代に、物事の良し悪しをそれぞれの宗派解釈により教え、個々の人生に拠り所を与えつつ、為政者は統治に利用してもきた。だから、私はそれを完全には信頼しきってはいない。時代は変わり、識字もメディアも備わり、書物も手に入る。自分の頭で考えられるのだ。だから、一人一人が修行僧とも言えるし、教育と文化、法律のエッセンスを共通の軸とした自分教の開祖とも言える。そこでは、豚肉を食べる事に対して、良し悪しを論じない。
悪因は悪業による悪果、善因は善業による善果と述べられるが、善悪というのは自らのルール次第。「食えなんだら食うな」「病なんて死ねば治る」「本来無一物、無償の施しこそ徳」と言いながら、ガキは叩け、家事嫌いの女は追い出せ。言葉の表面で反射的な否定はせぬが、考え方だろう。妻子は持たぬ。死ぬのは一人。反芻し、反駁し、素直に読まずに自らを測るきっかけとする。宗教や他人の価値観を信じ切らない、私にとっては、そんな読書である。
70歳を超えた曹洞宗、一人の大教師関大徹の価値観。学ぶ事は多い。
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・徳とは、人からの評価を気にしてやるものではない。自分の中で積み上げるもので、評価されたいなど邪な をもってやるものではないのである。無償の行為こそ徳である。
・死はいつやってくるかわからない。明日死ぬかもしれない。しかし、自分たちは死は別ごとのようにとらえてしまっている、死は生きることでありもっと身近な存在と考えなければならない。
・身の回りに感謝の気持ちを忘れずに、今の生活は多くの人の助けによって成り立っている。
・「一日作さざれば、一日食らわず」、一日を本当に精一杯生きているか?せっかく命があり動けているのに、その命を活用せずにいるのは、申し訳ないという。
(働かざるもの食うべからずと似ているが、こちらは自発的なニュアンスかな・・)
・人間はその身一つで生まれてくる。
死ぬときもその身一つで旅立つ。
余計なお金は誰かの為につかうべきである。
赤ん坊は生まれたとき裸一貫で生まれてくるために、母や父、多くの人から無尽蔵の愛を受けられるのである。
・ものの豊かさ=心の豊かさではない。
・親は子と一緒に体験して、成長する。
経済的な豊かさよりも、一緒にいろいろな経験ができるように。
・人がやらない嫌がることを自然とできる人間になること。