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商品説明
琵琶湖の遭難事故で娘を失った架山。その死を受け入れられない架山は、娘とともに死んだ青年の父親・大三浦に誘われ、十一面観音に出会い…。2人の父親を通して「愛する者の弔い方」を描いた長編小説。〔朝日新聞社 昭和47年刊の再刊〕【「TRC MARC」の商品解説】
琵琶湖で娘を亡くした父親が、ヒマラヤでの月見や、湖岸の十一面観音をめぐるうちに心の平安を得ていく物語。今に続く、「観音ブーム」の源流、「聖地巡礼」の先駆けとも言えるこの小説は「遺体のあがらない死」という非常に現代的なテーマを取り扱った作品でもある。突然訪れる大切な人の〝もがり〟の時間をどう過ごせば良いのか。芥川賞作家の井上靖が、現代人へ伝える「愛する人の弔い方」。舞台となった近江・観音の里の住民たちによる復刊運動を経て出版。【商品解説】
目次
- 僧院/湖心/歳月/宝冠/風/ヒマラヤ/月/野分/桃と李
著者紹介
井上 靖
- 略歴
- 〈井上靖〉1907〜91年。北海道生まれ。京都帝国大学卒業。「闘牛」で芥川賞、「おろしや国酔夢譚」で日本文学大賞受賞。76年文化勲章受章。現代小説、歴史小説、随筆など、創作は多岐に及ぶ。
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紙の本
琵琶湖を流れる鎮魂の歌に観音様も微笑む
2020/06/04 17:07
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:永遠のチャレンジャー - この投稿者のレビュー一覧を見る
解説が説くとおり、本作品では<運命>の象徴たる「星」と<鎮魂>を意味する「祭」(祀)とが、不慮の事故で子供を喪った二人の父親像に重ね合わされる。
昭和三十九年(1964年)五月、主人公の架山洪太郎は、琵琶湖での水難事故で離婚後に僅か四度顔を合わせただけの「不幸の方に縁があった」娘みはるを喪った。
日にちが経っても遺体すら揚がらない。十七歳の未成年の娘を乗せて竹生島近くまで貸ボートを漕ぎ出した見知らぬ大学生青年の暴挙を架山は恨み、遺族という同じ境遇ながらも青年の父親の大三浦には冷淡だった。
弔うこともできぬまま、生者でも死者でもない「永遠の仮葬の形」「殯」(もがり)の状態に置かれ湖底に横たわる娘。その思いから、事件後七年経っても架山は、悲しみの挽歌を…心の対話を通じて…娘みはるに捧げるほかない。
昭和四十年代後半の高度経済成長期。後妻との間に生まれたもう一人の娘は母違いの姉の年齢を超えた。娘を亡くした先妻も京都で手芸事業に邁進しているらしい。心に宿る亡娘に仕事のアドバイスをもらう貿易会社社長の架山は、世間的には他人が羨む地位にある。
評者には、小説には書かれていない協議離婚時の共用財産分与や娘の養育費の取り決め、親権や面接交渉権の放棄が気になる。小市民ゆえに交通費の額も気になる。また、公害問題や交通問題にも、安保闘争や学園紛争、ベトナム戦争にも関心が向く。
心で亡き娘と対話できるのなら、何故真っ先に転覆原因や具体的な遭難状況を訊かないのか。男子大学生との初デートで運悪く転覆事故に遭ったのか、なんでそんな頼りない男と女子高校生が付き合ったか疑問が湧く。勿論、父親が勝手に空想する対話だから、真実の一端を探れる筈も無いが、そう突っ込みたくなる。
小説の主題は人間の根源的な心の問題に迫る。「幸福というものの予約はない」と「運命論者の影」(虚無感)を引き摺る架山が、多元的宇宙論という現代のお伽噺に触発され、歳月は人を変えるとの譬えどおり、七年振りに長浜を再訪した。
観音堂巡礼に凝る大三浦との再会は、素朴な面貌を刻んだ十一面観音像との出会いに繋がった。帰京した架山の心は友人が誘ったヒマラヤ観月旅行計画に引き寄せられる。悠久の時間と森閑さの極みたる世界最高峰エベレストの麓で満月を眺めながら、亡き娘とじっくり対話してみたいとの想いが溢れ出たのだ。
新たに課された試練。ヒマラヤ旅行による大自然と人間という地球規模での視点転換は、運命論者の頑なな心を和らげた。後は儀式(「祭」(祀))を残すのみ。過去を見つめ直す歳月を経た架山は、春の朧月がかかる琵琶湖で供養の船に乗り込む。
八年前に同時に子を喪った父親二人が船上に佇む。「この葬儀に観音様にもお立会い頂きましょう」という大三浦に、架山も異議を唱えない。観音様の名前が読み挙げられると、瞑目する架山の眼にも一体ずつ観音像が現われる。実物を見たものは鮮やかに、未見のものは光芒に彩られて。湖面に投じられる花は、琵琶湖で儚く生命を落とした人々に捧げられる…。
生者が悲しみの区切りをつけて弔いをすれば、死者は死者らしく黄泉の国に旅立てる。忘却の遠い淵ではなく、時としてすぐに思い出せる近場にこそ、最愛の死者は眠るのだろう。