紙の本
読む前と印象が違った
2020/04/18 14:38
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ココロココ - この投稿者のレビュー一覧を見る
読む前に想像していた内容と、実際の内容はかなり違っていた。積読は後ろめたいと思わなくていいと書いてあったものの、実際買った時のときめきが持続するわけもなく、なぜ買ったのだろうと思う本が本棚にあったりする。それでも、何かの本を読んだきっかけで、そういえばと読むこともあるので、読みたいタイミングで読めば良いと楽観的に考えればいいのではないかと感じた。とにかく積読したいリストを作って、実際買うかどうかは分からないけど、自分が興味あるテーマを決めてみたい。
紙の本
読書のあり方を再考
2021/03/30 20:42
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あいうえお - この投稿者のレビュー一覧を見る
読めてなくてもおいておくだけで価値が有る。読書の概念に新たな価値が付与される。
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再読〜の方を急に読みたくなって、まず積読〜を読むか…と積まずにすぐ読んでみた。
本に限らず情報が濁流のように溢れかえる現代において、ただ闇雲に情報を集めるのではなく自分なりのテーマを作り、自律的な積読環境を作ることが大事だと説く。
本文のほとんどがバイヤール、アドラーなどのいわゆる読書論や読書術的な本の紹介になっているので、気になってるけど読めてないなという方はぜひ本書で概要を掴んでみるのをお勧めする。
ところで積読家のみなさんの積読哲学はなんだろうか。
私の積読哲学は、『買った時点でその本の50%は読了している』『本は最適なタイミングで読むのが良い』である。数年前に買った本とかで、急にこの本読みたいなと思い立つことがある。その時に手元にないと買いに行くまでに熱が冷めてしまうかもしれない。手元にあればすぐ読めるから、気になる本はどんどん買って積んでおくと良い。
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「積読」とは、手に入れた本を読まずに置いた状態であり、読まないと〝うしろめたさ〟を感じながらも、日常のあらゆるメディアの情報の濁流に押し流されてしまい「読みたかった本」の存在が希薄となり、やがて積読本の重圧に耐えきれなくなる。そんな読書家に「図書館やクラウドの積読本」にアクセスできる書物の利用を薦めています。人間の読書は不可避的に不完全なものであることを前提に「不完全な読書」には「積読状態」こそが完全な読書術という逆説が、タイトルになっています。「未購入本の積読リスト」作成の発想は好例です。
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タイトルに惹かれて手に取った。
アドラーから斎藤孝まで、様々な著名人の読書論を紹介している点は興味深いが、最後まで著者の主張である積読論に納得することができなかった。
以下、あとがきから引用。
P.228「結局のところ、本書の主題とは何だったのでしょうか。それは、増殖を続け自ら崩壊していく情報の濁流というマクロな積読環境と、そのなかでビオトープ的な積読環境をどのように構築し、どのように運用するか、これを明らかにすることです。」
これは、
現代社会は情報が溢れすぎていて、無意識に色々な物事を積読している状態、つまりいつかやりたいと思いながら手が付けられないでいる状態である。そのため、自分の周囲に、自分にとって興味のあるテーマに基づく情報を意識的に積んでおき、自分にインプットされる情報を自律的にコントロールすべき。
という主張だと考えた。
ここまでは何とか納得することができる。しかし、以下の記載には違和感がある。
「人間の読書は不可避的に不完全なものですが、積読の状態は唯一、完全性を認められる状態です。本書の書名はこの逆説に基づいています(p.230)」
「「読まれること」と同時に「積んでおくためのもの」である書物の側からすれば、積んである状態はそれだけで完全な状態です(p.229)」
この書名に惹かれて本を手に取った人の何割が、「書物の側にとっての完全性」という哲学的な話に関心があるだろうか。少なくとも私は、自分にとって有益な読書術が知りたいと思って本書を手に取った。
私の理解不足かもしれないが、読書論の紹介など肉付けの部分は大変おもしろく、主旨については全く納得できなかった。
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読了。ざっくり、本やら何やら溢れてる中で流されるままに積むではなく、氾濫する情報の中から選ぶもの選んで最強のデッキ組んでそれを読んだり読まなかったりしてやっていこうぜって感じに読んだ。膨らまし方がおもしろかった
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読書メモがどこかに行ってしまったうえに、図書館に本を返してしまった。
ポイントとしては、本を完全に読み理解するなんてムリ、その罪悪感が読書の習慣化を妨げる。
本は精読するものとさらっと読むもの、スロー読書とファスト読書がある。
というような。
面白かったのは近藤麻理恵(コンマリ)の愛読書が『不思議の国のアリス』というエピソード。
「片付け」の合理性・効率性と「魔法」「ときめき」という非合理的で無意味なものとのバランスの魅力が彼女にはあるとのこと。ここはとても印象に残った。
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書評家って凄い。
こんなに文章の中に、書名を良くも詰め込めたものだ。
しかし、脱線に次ぐ脱線で読みにくい。本の紹介がクセになるとこんな文章しか書けなくなってしまうのか。
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本は読まれるものでありかつ積まれるものであるため、積読は目的を達成している、という言説。
とにかく中身がないので、9割方飛ばし読みした。それこそがこの本の目的なのかもしれないが。
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積読本がどんどん溜まっていっていくことへの後ろめたさを払拭するために、歴代の読書や本片付け本を例に出し、積読の正当性をといてくれる。誠にありがたい本だ。
情報の濁流の中で、「ビオトープ的な積ん読環境」を自立させ新陳代謝させる。
自らのビオトープが濁流に流されないよう、土砂に埋まらないよう、時折眺め、必要であれば手を入れる。
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タイトルに惹かれ購入。積読は悪ではなく、後ろめたさも感じなくていい。積読環境を作る。本書をもう一回つまみ食い読書してみようと思う。
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自分だけのビオトープ。積読に対する引け目は解消されるが、この本そのものが、何か積読したくなるくらい、著者の自己中毒的な論の展開のパートもあり、気になる。積読も不完全な読書の集まりなら、やっぱり不完全なのでは?
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面白くて一気に読み切ってしまった。
積読の拡張解釈に終始笑ってしまったわけだが、過去に刊行された読書論や読書術の本の内容も分析されてて興味深かった。読まないことによる後ろめたさ、読んでも”完全に”読み切ることができないもどかしさからは逃れられないのはいつの時代も皆同じなんだなと。
有限な時間の中でしっかり読める本は限られているから、なんの方向性も持たず短絡的に本を手に取るのはただ情報の濁流に飲まれているだけだ。自分が読むべき本を精査するためにもまずは積読しよう。リストアップするだけも積読。図書館も積読。本屋も積読。一冊でも読みたいと思った時点で積読。積読した中から拾い読みしたりして精査し、これはと思える一冊を見つけたい。
そして積読されて読まれなかった本たちを目の前にして後ろめたさは感じなくて良い。本は読むことだけに存在意義があるのではなく、保存されることにも意義がある。自分は読まなくてもいつの日か読む誰かの為に後世に受け継いでいけば良いのだから。
ネタ本の感覚で手を伸ばしたけれど、”読書”や”本のあり方”についてまで考え直すことの出来る良書だった。いややっぱりネタ本かもしれない。著者のノリが合わなかったら多分つまらない本に感じると思う。
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積読をどう消化するのかという点は触れられてなく、むしろ積読を推奨する本。
結局積読に何も悪いところはなく後ろめたさややましさも感じる必要はない。たくさん本を買ってビオトープ的積読環境を構築するということに尽きる。
この本から色々と読みたい本をいくつかピックアップできた。後半に掲載されている参考文献もとても良い。
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(01)
さしあたり最新の読書論として愉しく読むことができる.書店で購入した後,積んでおくことなく,即,読んでしまった.
本書で用いられる隠喩(*02)のひとつに建築的な言い回しがある.同様に建築的に譬えるのであれば,本書は,間口は広く,奥行が深い構成をもっている.タイトルに読書「術」としてあるように,読むことや積むことの技術のほかに書物がもつ魔術性についても触れているが,ハウ・ツーの体裁をもって読者に広い間口を通じて呼びかけ(*03)てくる.
しかし,広い間口に誘われ,この書物に入り込んだところで,それなりの奥行の深さがあることに気が付き,嬉しくなる.書物の害悪をめぐってソクラテスとプラトンとの矛盾する立ち位置や,近代の印刷技術と製紙技術が可能にした紙ベースの以前にあった重量感のある書物の物性など,歴史的なパースペクティブもきいている.また,ショーペンハウアー,ジッド,アドラー,小林秀雄らによって提起された近代の読書とその環境をめぐる所論や異論を紹介しながら,21世紀の幕開けにおいてベストセラーとなったバイヤール『読んでない本について堂々と語る方法』のよい解題にもなっている.本書を手がかりとして,読書界のさらなる深みへと入り込むこともできるだろう.
(02)
本書のキーワードであり,主要なテーマとして取り上げられたのは「積読」である.この「積読」に眠る積極性を惹起し,積んでいることに関連する状態をさすために,さまざまな比喩や言い換えが用いられている.
ビオトープ,森,山,いけす,自律的積読環境,新陳代謝(メタボリズム!*04),庭といった語彙がその言い回しにあたる.また,「情報の濁流」というたとえが,積読に対立しつつ,積読という術の前提となり,積読を脅かす不安の根源ともなっている.濁流の濁(だく)は,ノイズの他律性を印象させつつも,読み進めるうちに,読書の読(どく)と通じはじめる.そのセンシティブな言葉遣いが,本書の大胆な着想をわたしたち読者のうしろめたい地平に着地させていることにも驚く.著名な作家,哲学者,論者の面々を引きつつも,それらの言説へのスタンスや位置取りには公平さがあり,フェアネスや中庸なバランス感覚にも新時代の読書を予感させるものがある.
ビオトープは,ランドスケープ批評に慣れ親しんだわたしたちにとっては馴染み深い概念でもあるが,このような文脈でいきいきと語られ,泳ぎ出すことを想像していた者はいなかったであろう.
(03)
本書の140ページには,未読や積読にある書物が「いまあなたに呼んでほしい」と語りかける様子について論じられている.この「呼んで」は,後段の同様の文脈からすれば,「読んで」の誤字であるかもしれないが,意図的な誤りなのかどうかは定かでない.世代を超えて存在する重要書や古典は,確かに,読まれるとともに「呼ばれる」べき書物でもあり,本の側からすれば,読者をいまも呼んでいる積もりであるのだから,という弁解も成立しそうなところが面白い.
悪貨と良貨の関係にある流通や貨幣経済の原則を,悪書と良書に置き換え,濁流と積読との関係にもフローとストックを示唆しつつ,ファストとスローの時間��の議論に持ち込んでいる点も興味深い.エピグラフ?として引用されたデリダにも読み取れそうな,「読むこと」と「書くこと」の時間的な断絶と,時間の堆積の高低による「崖」を考えるきっかけになるのかもしれない.
(04)
新陳代謝は,日本近代の建築において主唱されたメタボリズムを想起させる.自律性に擬えたその建築運動は,本書に照らし出されたショーペンハウアーの「自前」や,自己言及性あるいはメタ言及のようノリツッコミ,オートポイエーシスの問題にも踏み込んでいるようにみえる.
自己の言説によって自己のまさにその言説に楔を打ち込むようなノリとツッコミは本書にも散見され,にやりとさせられる.つまり,積読を推奨する本書が,閉じられたまま読まれずに積まれてしまうのではなく,まさにいま読まれているという読者側の情況を皮肉のように炙り出す効用がここにある.
自身(セルフ)の積読環境である蔵書に直面し,都度,走査(スキャン)をかけながら自律的に蔵書を代謝させ,本たちの位置づけをマッピングすることで得られる自身は,生態的でもあり未来的な主体でもある.本棚や蔵書の顔ぶれを変容させ,外界や他者との距離を日々更新するようなマッピングによって,わたしたちはどんな事態を招来するのだろうか.メタモルフォーゼする積読環境に映されているのは,自身そのものの姿なのかもしれない.