紙の本
時代劇や浮世絵で見かける人たちが身近になった。
2020/09/01 17:35
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投稿者:ら君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
お伊勢さん参りを目的に、何人グループで、一日何キロ歩き、草鞋は道中調達し、何か月かけて旅をしたのかわかります。
予想以上に健脚です。
また、明治時代になり鉄道が整備されても、歩く旅のスタイルが廃れていないところに、当時の日本人の健脚の健在ぶりがうかがわれます。
紙の本
歩かねばならない
2020/06/29 10:57
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投稿者:怪人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
副題にはスポーツ史から見た「お伊勢参り」とある。江戸時代のお伊勢参りの実情が具体的に微に入り細に入りの説明でよくわかる。長距離徒歩旅行が江戸人の生涯の楽しみだったようだ。
1日35kmの徒歩を2~3ヶ月も続けることは現代からすれば驚きだ。現代人のアスリート並みの脚力、体力を備えていたのだろう。芭蕉の奥の細道などの旅も当時としては珍しくもない旅行だったのかもしれない。
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伊勢参宮の旅の歩行距離【P11】
◯男性一日平均歩行距離:34.9km(最長75.0km)
◯東北地方在地者総歩行平均距離:2,361km(最長3,174km)
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<目次>
第1章 旅のルートと歩行距離
第2章 幕末~、明治初期の日本人の歩き方
第3章 街道の必須アイテム「棒」
第4章 旅の履物
第5章 旅の家計簿
第6章 旅人の健脚を支えたもの
第7章 近代化による旅の変化
<内容>
丹念に古記録を紐解き、きちんと分析した本。「知りたいな」と思うことを押さえてくれている。教科書などには書いていないが、ちょっと考えると疑問に感じる、江戸時代の歩く距離、歩き方、履物(売っているところをふくめて)、道具(「棒」の使い方には感心した)、費用など、データを集めて分析しているところがエライ!
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江戸時代の旅行者がどのように歩いたかを史料やデータを使って考察した本。
当時の記録や旅日記から、江戸時代の旅人の歩行について、データ分析した結果を紹介する。
江戸時代の人たちが大変な健脚で1日に30から40キロ歩いていたことは知っていたが、どのような歩行形態なのか、どのような用具を使っていたか、旅の目的は何なのかを具体的にまとめられていて大変面白かった。 全てデータの裏付けがある考察だが、それは当時の人たちが、まめに日記や記録をつけていたおかげだ。学者や知識人でもない無名の人たちが、習慣として旅のデータを取ってくれたおかげで当時の様子を知ることができる。昔の日本人の 律義さを感じた。
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意外な掘り出し物!江戸時代の伊勢参りを、残っている旅日記から旅ルートや平均値などのデータを割り出し、絵画から服装や装備や道々のマナーなどを読み取る。
1日平均35キロ、多い日には60キロ以上もの距離を歩くこともあったということに、まず驚く。貨幣価値の浸透や道の整備がこうした旅を可能にしていったこと、多くの人がこうして歩いての観光旅行を楽しんだことがわかって面白い。
そして明治時代に鉄道が開通した後になっても、徒歩と鉄道を組み合わせて、旅は合理的になりながら続いていく。
「スポーツ史から」の観点が新鮮。
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江戸時代の庶民にとって、藩の外に出ることは今の海外旅行のようなものではなかったかと想像する。本書は、そんな庶民が伊勢参宮を名目に東北や関東から遠路はるばる旅をした記録を集め、それを丹念に分析し、この時代の旅のあり方や費用について描いてみせる。
基本的に徒歩であり、長距離を長期に渡って歩き続けることになる。それも、舗装路ではなく、履物も草鞋で。更に言えば、女性もそんな徒歩旅行をしており、往時の人の健脚ぶりに驚かされる。歩き方も、近世日本では「なんば」という歩き方であったようだが、それが決定的に有利だったということでもないのだろう。いずれにせよ、人々が伊勢参拝をメインに長距離旅行をした目的や方法について様々な角度から分析されている。
最後には、東海道線全通後の明治20年代末の同じような旅行についても紹介され、移動手段が近代化しながらも、江戸時代のような各所参拝や名所見物という目的や心情が併存する過度期の旅行についても触れられているのが興味深かった。
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旅行好きは令和だろうが江戸だろうがいつの時代にもいる。
江戸時代の人々はどのくらい歩いていたのか。そんなことが分かるのが今回の本。
スポーツ史を専門にしている著者が近世後期の日本人の旅を「歩く」という行為に注目した。
昔なので、大名でもない限り、歩いて移動するしかない。
著者も言及しているが、当時の旅人はもはや「アスリート」と言っても過言ではない。
近世の庶民が行った伊勢参宮で、今に残る資料が多く、陸路で移動する距離の多い東北地方を取り上げている。
基本資料は、東北の庶民が伊勢参宮の道中で書き残し旅日記。
そこから分かることは、東北地方の庶民の1日平均の歩行距離は、約34.1km。
男女で分けると、男性は平均で34.9km、女性は約28.6km歩いていた。
この距離を見るとアスリートだと思ってしまうが、庶民の1日の平均歩行距離だ。
長い距離を歩いてでも、参拝と美味しいものを飲み食いしたり、男性の場合、鼻の下を伸ばして女性とデレデレしたいという欲求が強かったのかな。
この他にも江戸時代の人々の歩き方、杖の使い方、さらには旅費まで触れていて興味深いなあ。
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サブタイトルがちょいと反則気味なような。スポーツ的な内容(歩行距離や方法)は1/3程度だ。
とはいえ、面白くないかといえばそうでもなく、江戸期の人びとの健脚ぶりに驚いたり、外国人の意見に苦笑したりと、割と楽しめた。
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お伊勢参りに関する史料を基に、江戸時代の“歩く”旅を読み解く。
第1章 旅のルートと歩行距離
第2章 幕末~明治初期の日本人の歩き方
第3章 街道の必須アイテム「棒」 使い方と身体技法
第4章 旅の履物 第5章 旅の家計簿
第6章 旅人の健脚を支えたもの 第7章 近代化による旅の変化
各章末に、注記および引用・参考文献有り。図表豊富。
江戸時代の旅の基本は“歩く”こと。
お伊勢参りの各種道中記から、歩く距離や歩き方、旅の必需品等を
読み解き、更に、明治時代以降の旅の変化についても書かれている。
また、来日した外国人の記録からは、江戸時代の庶民の歩き方、
歩行の姿勢等が現代とは異なっていることを考察している。
各種名所図会からは旅の様子を探り、他にも、旅の家計簿を
調べたりと、多くの史料にあたって分析&考察している。
一日30~40㎞、ときには70km近く歩き、東北から旅立って、
主要目的である伊勢神宮以外にも、ルートによっては、
京や大坂に寄ったり、香川の金毘羅さんまで足を延ばしたり、
富士山登山までするグループ有りと、その健脚ぶりと行動範囲の
広さには驚くばかりです。明治時代になっても、鉄道での移動
だけでなく、巡る場所によって歩行もかなり含まれています。
また、当時の装いや履物等が影響している現代とは異なる歩行が
あったこと、運搬や旅での杖、棒の使用方法が書かれていたり、
草鞋について事細かに説明されていたりと、知識が深まりました。
不必要な草鞋を捨てる場所が決められ、農民により再利用されて
いたとは、驚きました。また、便所や路面、交通マナー等、
知りたいと思っていた事項が多く書かれていて、良かったです。
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当たり前ですが江戸時代の移動手段は
「徒歩」だけでした。
果たして一日に何キロぐらい歩くこと
が出来たかのでしょうか。
実は江戸時代には数多くの、今でいう
旅日記のようなものが数多く残されて
います。
それらを紐解き、江戸時代の旅人がど
ういう日程で、いくらぐらいのお金を
かけて、そしてどのような出で立ちで
旅をしていたのかをつぶさに考察しま
す。
白眉は履物や歩き方にも注目している
点です。
文献や当時の風景画から読み解いた「
真実」には、驚きが満ち溢れています。
時代小説好きにも楽しめる一冊です。
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歩く江戸の旅人たち
~スポーツ史から見た「お伊勢参り」~
著者:谷釜尋徳(東洋大学法学部教授)0
発行:2020年3月30日
晃洋書房
著者は体育科学で博士の学位を持つ。専門はスポーツ史。タイトルからすると、徒歩が中心の伊勢参りという長距離旅行をスポーツとして捉えて分析している本だと思うが、そういう意味で書かれているのは第1章の「旅のルートと歩行距離」ぐらい。第2章は幕末~明治初期の日本人の歩き方を分析しているのでスポーツではあるが、伊勢参りに限定しているわけではない。第3章以下も、近世の旅行での必須アイテムや履き物、旅行費用などという具合に、伊勢参りに限定していない。最後は明治以降、鉄道ができてからの話になる。ちょっと当て外れではあった。
著者は、江戸時代に書かれた道中記や絵画などを数多く、そして丹念に調べ上げて、そこから色々なものを分析してあぶり出している。例えば、江戸時代の人は1日、どれぐらいの距離を歩いたかについて、道中記から読み取り、平均値を出した。
一般的に1日10里(約39キロ)と言われるが、東北地方の庶民による歩行距離は約34.1キロであることが分かった。39キロに達しているのは、旅日記39編中わずか1編だった。
男女別で計算すると、男性34.9キロ、女性約28.6キロ。男女平均が約34.1キロであるので女性が遅すぎるように思えるが、これは女性の記録(分母)が圧倒的に少ないからだと思われる。
1日に歩く時間は、少なくとも7時間程度、長い時には15時間、平均10時間。旅人は、日暮れ時間を気にしつつ、どの宿場に泊まるか、あるいは休憩するかなどを考えつつ歩いたようだが、では時間はどう知ったか?お寺の鐘とかもあるが、江戸時代には旅行ガイドのようなものが発売されていて、その付録に日時計がついていたらしい。取り出して設置できる紙切れ製とのこと。
時代劇を見ていると、水戸黄門ご一行とか、なぜあんなに荷物が少ないのかと疑問に思えるが、あれも運送業の発達や今で言うコインロッカーのようなサービスがあったからだと解説する。
現代人に比べて、距離も時間もモンスター級の歩きをするが、ツール類は現代人でも使いそうなものを利用していたのである。
*****(メモ)******
江戸時代の街道では、歩行者は左側通行だった。
東北庶民の伊勢参宮ルートは、近畿周遊型、四国延長型、富士山登山セット型の三つに分けられる(伊勢神宮だけじゃなくついでに回る)。
東海道には平均して約9キロの間隔で宿場があり、その間には「立場」という休息所の設置や、「間(あい)の宿」という休憩用集落の形成があった。間の宿での宿屋は宿場の圧迫になるので表向きには禁止だったが、実際は多数存在。
江戸時代までしていたといわれる日本人の歩き方「ナンバ」は、同じ手と足を同時に出すと思われているが、実際は、手は動かさず、足だけで歩く感じだった。
ある西洋人は長崎の女性を観察して「すり足で歩き・・・」と記している。
図絵から判断すると、杖を持っていたのは男性が高くても3割程度、女性は6割や7.5割などの高率。ファッションで持っている面もある。
荷物を括り付けた棒を斜めに肩にかける飛脚の走法は、背負い運搬と比べると早足で行くことができる。
飛脚の走りの特徴の一つが「片踏み」で、半身姿勢を保ったまま、片方の脚で身体を押し進め、反対の脚でバランスをとるような感じの動き。
駕籠かきの腕の振り方は、杖を左右に半円を描くように振る。
杖を使った効率のよい休息の身体技法を編み出した。立ち止まって休む際には、肩に担ぐ運搬用の棒の下に杖を入れて支えにした。駕籠かきも、天秤棒も。
草鞋(わらじ)の紐で足の甲が擦れないように、その上にリンネルの布が巻かれているものもある、と来日した外国人が書いている。
幕末期に来日した外国人は、「日本人は馬に蹄鉄を打たず、藁靴をはかせる」と記述している。実際、滑り止めや蹄保護のために「藁沓」を履かせることが定着。
草鞋はどこの村でも売られていたし、道で子供が売りに来たり、旅籠に売りに来たりしていた。たくさん持っていく必要はない。
草鞋は、平均的に見ると40-50キロ程度の間隔で新たなものが購入されていた。
古い草鞋は、決まった場所に捨てる風習があった。いい肥料になるため、近隣の農家がこれを回収していた。
武士の家計簿(磯田道史)によると、金1両は銀だと75匁(もんめ)、銅なら6300文にあたる。
貨幣経済が発達すると、旅人はかさばる銅錢ではなく、金貨を持っていき、現地で両替をして使用するようになった。
伊勢参りには「御師(おんし)」と呼ばれる宗教者がいて、伊勢講普及に貢献していた。彼等は手代と呼ばれる営業マンを雇い、江戸の担当地区などを回らせて伊勢参りを勧め、伊勢講での資金調達法なども提案した。さらに、御師は今日のツアーコンダクターに似た役割を担い、客が来ると手代が丁重に出迎えて御師の邸宅に招くなど宿泊先と食事を手配。旅人は御師に報酬を払うが、割高だが豪華な食事がついたおもてなしだったので法外ではなかった。
街道筋には農民によって小屋が建てられ、旅人はそこで用を足した。農民たちは労せずして肥料を回収できた。
近世の旅人はなぜあんなに荷物が少なかったのか?
①18世紀以降、寺社や名所旧跡付近、交通の要衝の茶屋などでは、荷物の一時預りが行われていた。
②京都の宿屋従業員が伊勢に出向き、京都での宿泊を条件に旅人の荷物を京都まで運んでくれた。
③飛脚の荷物運搬サービスがあった
④人足や馬を雇って同行しながら荷物を運ばせることも可能だった
明治時代になって鉄道が出来ると、長距離を汽車で移動したものの、歩きでの旅も併用し、江戸時代と同じぐらいのペースで歩いた。訪ねたところは、名所旧跡の他、東京なら役所や裁判所など、横浜や大阪でも役所など、近代建物巡りも観光の目玉だった。
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江戸時代の伊勢参詣の様子を道中記から読み解いた本。
伊勢参詣とセットでどこを回ったのか(近畿、富士山、四国)とか、1日当たり最も歩いた人についてとか。
何と一日に75.0㎞も歩いた男性もいたらしい。
当時は「伊勢講」といって集団で参詣をすることも多かったため、一日当たりの歩行距離の目安や、平均値を大幅に超える長距離を歩く場合は同行者に相談するよう取り決めた事例などもあるようだ。目安はそれでも十里(約39㎞)とある。具体的に数字で示されると大変な旅路だったのだなと実感する。
この本では他に、江戸時代の人の歩行の方法と着衣や履物の影響、旅費の調達や農村の庶民と、都市の富豪の旅行スタイルの違いなども紹介されている。
本を読むと、散歩中にあちこちで見かける伊勢神宮の遥拝所や四国八十八ヵ所の祠が境内にある神社などが目新しいものに見えてくるような気がする。
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【1】
通説1日10里-約39㎞
東北男 平均約3㌔/最長75㌔
東北女 平均約28.6㌔/最長59.7㌔
とある伊勢詣グループの取り決め『伊勢詣同行』には
「一日10里を目安とし、12里に及びそうな場合は、同行グループ間で相談する」という例が
※ただし、庶民の旅は農閑期の冬・江戸では夜間歩行は基本しない→夏ならもっと歩いていたかも
集団人数2~34人→平均約11人
年齢18~56才 構成はどうあれ、歩く距離は同じくらい
「七歳までは神のうち」
平均余命 0才30代→5才まで生き残ると50代まで伸びる
近世印刷技術の革新+高い識字率→種々の旅行案内書
【2】日本人の歩き方
和装は歩きにくいか/天正遣欧使節千々石ミゲル?「洋服はいかなる動作もさまたげない」
e.g.すり足 e.g.なんば歩き←なんばは山歩き・ぬかるみ歩きに使えるp71
能や狂言のように、原則的に、腕は垂直に下げたまま足だけで歩行する
半身
【3】棒 歩く・運ぶ・休憩の補助
【4】草鞋
4.50㌔くらいはもつ。訪日外国人によると2日。ただし雨天だと1日。
履きつぶした草鞋は捨てるところがきまっており、肥料にリサイクルされた由。
「女性の旅人は男性旅人と比べて描かれ難い」←実際に少なかった?
【5】旅費
金1両=銀75匁=6300文=賃金から考えると30万円相当/★1文8.8円
→米大から換算すると5.5万程度にしかならない。米代高い・・賃金安い?
田中国三郎:世田谷→伊勢→四国.中国86日=37,271文=327,984円
国三郎は江戸近郊の農民となっているが、苗字あるし、詳細な覚書を残しているし、「一般的な庶民」ではないのでは?
捻出)講+餞別(国三郎は1両以上受取っている)
講/代参講(講によっては「総参り」設定も)
積み立て額e.g.江戸の富士講で100文~2朱(786文)←積立年数不明
受取額e.g.江戸の富士講1両(6300文)
伊勢の恩師=旅行社・・・営業マン+ツアコン+ホテル
←宿泊料として1日400文(3520円)-普通の旅籠200文
抜け参り=大人への通過儀礼の意味合いもp142
【6】庶民が旅行できた世界
・インフラ:参勤交代のためもあり整備された
一里塚・道の両側に対で小さな丘そつくり、上に木を植えた
道標
並木(隣接する田畑は、日照不足配慮で年貢が軽くなるなど配慮有)
トイレ(周囲の農家がトイレ小屋を作っていた→肥料に)
道の維持管理:排水溝-溝さらい.路面固め.砂敷・平地のみ→箱根は石畳に
※ここで、現存する石畳写真あり「石が凸凹な状態」と書かれ、当時の記録としても「歩きやすいものではなかった」となっているが、きれいな石畳に見える
・貨幣経済 →最小限の荷物で身軽な旅・両替も可能・後期には為替も
元禄期ごろから農村にも浸透
・荷物 運搬(遠方.近距離).一時預かり
旅館によっては伊勢から京都まで運ぶサービスも
・マナー
列になって歩く(多人数で旅する傾向)
左側歩行←武士が左腰に帯刀していたため(刀に当たらないように)と思われる��
また、左腰帯刀だと、左側から襲われる方が返り討ちにしにくいそう。
→明治初期も左側通行 e.g.日本橋の道路事情@明治7年
【7】近代化過渡期
明治22年 鉄道・東海道線全線開通→東京~神戸.男性で2週間が1日に
明治26年 参宮鉄道.津~宮川
明治27年 神戸~広島開通→日清戦争で出港地神戸まで鉄道で
鉄道
・時間感覚激変 太陽の位置でみる「刻」→時計で見る「時分秒」発着にあわせる為
・目的地間エリア 道中の異文化に触れる→ただの「通過地」
とはいえ明治ではまだまだ合理性よりも道中の見物楽しみ優先。(?旅先での楽しみではなく?)踏破距離も減らず。
巡礼=行楽・途中を楽しむ
柳田國男:巡礼.日本における発達.参拝の意義は道途にあった。「(参拝の)ついでに京見物大和廻り、思い切って琴平宮島掛けて来たという類の旅行も、信心として許されたのであった」『明治大正期世相篇』p210 ←?外国では許されない?
日清戦争の戦利品は、国内の寺社学校陳列場等に配布展示された
岡山吉備「砲弾」鎌倉鶴ケ丘「分捕品沢山」上野動物園「戦利品動物特別展示場」