紙の本
ウェーバー入門
2021/12/28 14:13
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
マックス・ウェーバーに関する本は数多くあるが、初学者がまず手にするには本書が一番であろう。この紙数で網羅的な伝記や全著作解説ができるはずはないが、なぜ読まれ続けているのかのウェーバーのエッセンス十分はに抽出されている。
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ドイツの経済学者マックス・ウェーバーの生きた時代と思想・生涯を分かりやすく解説した書です!
2021/03/04 11:52
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、政治学・政治思想史を専門に研究され、主な著作として『闘争と文化―マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』、『官僚制批判の論理と心理』、『忖度と官僚制の政治学』などを発表されている野口雅弘氏の作品です。同書は、19世紀から20世紀の初頭に活躍したドイツの経済学者であり、政治学者、社会学者でもあったマックス・ウェーバーについて書かれた書です。マックス・ウェーバーは、資本主義の発展や近代社会の特質を研究し、政治・経済はじめ、幅広い学問領域で活躍した人物です。同書は、彼の生きた時代と生涯をたどりつつ、思想のエッセンスを分かりやすく解説してくれます。
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「没後100年」ということで岩波・中公で5月に揃って刊行
2020/07/27 11:13
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投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
2020年6月14日に控えた「没後100年」に合わせて、そのタイミングでウェーバーの評伝を刊行するのは王道の企画ともいえる。2020年5月20日岩波新書『マックス・ヴェーバー』と中公新書『マックス・ウェーバー』が「同時発売」され、そのこともひとつの大きな話題に。本書のほうは、諸宗教の比較分析を通じて、人が生きる「意味」を問い続けた求道者としてのウエーバーを描く。第一次世界大戦にさいしての態度について、戦死の美化・神聖化に対して距離をとる姿勢に注目する。ウェーバーの自明の前提であった西洋中心主義が、現代では通用しにくくなったことへの戸惑いを本書は隠さない。
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「ヨーロッパ近代」と格闘したマックス・ウェーバー(1864-1920)について、その生涯と研究、政治への関わりなどをコンパクトにまとめた好著。とくに日本への影響については、独自の1章「マックス・ウェーバーの日本」(「マックス・ウェーバーと日本」ではなくて「の日本」)を立てて論じられており、面白かった。1931年にクルト・ジンガーが来日し、大塚久雄もジンガーの講義に接してウェーバーのテクストに本格的に取り組んだと書かれてあったが、同時に下村治も聞いていて彼はケインズの『貨幣論』やジョーン・ロビンソンの『不完全競争の経済学』に興味を持ったそうだ。こうした対比も興味を惹いた。
また「あとがき」でも述べられているように、本書はウェーバーのテクストを「ゴリゴリと読み解いていく」タイプの「ウェーバー学」ではなく、多くの周辺人物との対比などを上手に交えながらウェーバーが問題にした論点や対立点を浮かび上がらせていく方法を取っており、そのため各章の扉に掲げられた「関連年表」もかなり独自のものとなっている。また世界各国でウェーバー没後、どのように受容されてきたについても多くのページが割かれており、類書にはない本書の特徴と言えよう。
たとえば第3章「自己分析としてのプロテスタンティズムの自己分析」ではウェーバーとレンブラント、エーリッヒ・フロム、ベンジャミン・フランクリン、そしてフィッツジェラルドが取り上げられる。「ウェーバーはもちろんフィッツジェラルドを読んでいないし、フィッツジェラルドもウェーバーを読んでいたわけではないだろう。しかし、ウェーバーが両親の相克から「二つの規律のはざま」を書いたように、フィッツジェラルドもギャツビーとデイジーに託して相克する二つのビジョンの物語を書く。そして高度化する資本主義社会における空虚さに目を向けながら、かつての理想の喪失を語ろうとするとき、この二人の眼差しは交差する」(p.92)など。
こうした対比がいくつもあってそれぞれ面白いのだが、いかんせん新書の分量。掘り下げが少し浅いのが気になった。
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少々だらだらと長い備忘録のようになって申し訳ない。ウェーバーに興味を持つ人なら、いろいろとメモを取りたくなる本である。
著者はウェーバーの『仕事としての政治』『仕事としての学問』を翻訳し直した野口雅弘さんである。冒頭、「本書では、ドイツの法学者・経済学者・社会学者のマックス・ウェーバーの「哲学的・政治学的プロフィール」を描く」と書く。特に、代表作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や、宗教政治学の探求、その日本での受容についての解説が詳しい。また、学問上の業績だけではなく、ウェーバーが父と大喧嘩をした後、家を出た父が旅先で和解の機会なく亡くなったこと、その後精神病を患って一度研究の場から身を引いたこと、など彼のパーソナルヒストリーも程よい長さで説明されている。妻のマリアンネがウェーバーの死後、彼の名声や業績を維持するために果たした役割などまで言及されている。新書フォーマットで、著者は入門書としているが、十分に厚い内容をもった本になっている。
マックス・ウェーバーが亡くなったのは今からちょうど100年前の1920年6月14日。当時流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)によって亡くなったと言われているが、100年後の世界が新型コロナの世界的流行に襲われているのは奇遇でもある。没後100年、あらためてその業績と現代における意味を問い直すのによい機会であるとも言える。
【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、ウェーバーの主著であり、「今日、マックス・ウェーバーがマックス・ウェーバーとして世界的に名声を享受しているとすれば、その多くの部分は、彼が病み上がりの時期に、この作品を書いたからといっても過言ではない」と世間的にも高く評価されている。難解とされる同書であるが、合間に挟まれた詳細な注解を飛ばして読むのであれば、ウェーバーの主張するところは非常に明解である。本書ではこの主著の概略とその読まれ方、宗教社会学への発展について分かりやすく解説されている。
同書は、「近代の大商工企業における資本所有や経営、それから高級労働にかかわりをもつプロテスタントの数が相対的にきわめて大きい」という事実がいかにして説明可能であるかを検証するものである。欲望を肯定し、その欲望にドライブされた自由な競争によって発展するというのが資本主義の一般的な直観であるとすれば、非常に禁欲的なプロテスタント社会においてこそ発展したことはその直観に反することである。しかし、まさにそこには「選択的親和性」があったがゆえにそのエートスが資本主義の爆発的な発展を生むこととなったとするのがウェーバーの慧眼である。ここで「選択的親和性」とは、「一見、まったく関係のない両者が相互に科学反応を起こす、というイメージの言葉である」と解説される。完全に論理的な因果関係でもなく、必要十分な条件でもないが、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の発展を準備したとは言えるのではないか、というのが「選択的親和性」がここで示す意味である。その論理は次のように要約できるだろう。
「正当な利潤をBeruf〔仕事〕として組織的かつ合理的に追求するという心情〔信条〕を、われわれがここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名づけるのは、近代資本主義的企業がこの心情〔信条〕のもっとも適合的な形態として現れ、また逆にこの心情〔信条〕が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となったという歴史的理由による」
そして、天職(Beruf)の理念と誠実に仕事を打ち込むことこそが自らが救われていることの確信を得ることにつながるという思考こそが、資本主義の資本家と労働者ともに親和性をもたらしたというのである。『プロ倫』のなかでも次のようにプロテスタンティズムの宗教的倫理による人材形成の重要性が説かれている。
「決定的な転換を生み出したのは、通常〔…〕厚顔な投機屋や冒険者たち、あるいは端的に「大富豪」などではなくて、むしろ厳格な生活のしつけのもとで成長し、厳密に市民的な物の見方と「原則」を身につけて熟慮と断行を兼ねそなえ、とりわけ醒めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事に打ちこんでいくような人々だったのだ」
また、著者は次のように語る。
「こうして、プロテスタンティズムの倫理から「意図せざる結果」として近代資本主義が生み出されていく。ウェーバーは次のように述べている。「近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、ベルーフ理念を土台とした合理的生活態度は〔…〕キリスト教的禁欲の精神から生まれ出た」
ここでの「ベルーフ理念」はウェーバーの理論にとって非常に重要な理念である。聖書にはそういった含意がなかったがドイツ語への翻訳にあたってベルーフ(Beruf)という訳語を採用したことにより世俗の仕事が神から与えられた天命という意味を含むこととなり、それがゆえに世俗の仕事に一層勤しむことが宗教的に正しいこととされたというのである。そのベルーフ理念は現代的な課題とも言えるのである。
「今日、「働き方」がますます難しくなっているなかで、ベルーフの訳語の再検討はウェーバー研究だけの問題ではない。彼にとってこの言葉は、ワーカホリックなまでに、「仕事」に痙攣的にしがみついていた、ついこの前までの自分を読み解く鍵でもあった」
この辺りが、当時からも続く『プロ倫』の今日的意義でもある。なぜなら、宗教心がなくなってからも、資本主義の精神はわれわれを縛り続けるからである。
「宗教的な動機によって世俗の労働に勤しんでいた人たちから宗教心が抜ければ、勤勉で、合理的な営利活動と、それを善とする経済倫理が残る」
これをウェーバーの言葉で言うと次の有名なフレーズにつながる。
「ピューリタンは仕事人間たろうとした。私たちは仕事人間にならざるをえない」
いわゆる「鉄の檻」に閉じ込められるという話である。
「内面ではなく、外枠が自己展開するなかで、内面はむしろ外面によって閉じ込められ、それどころか無用なものにされていく。今日の資本主義的な営利活動は、あたかも「スポーツのような」性格を帯びてきている、とウェーバーはいう。〔…〕内面があって外的な仕事がなされるのではなく、外的な仕事の要請に合わせて内面的なモチベーション���でっちあげられる。こうした状況では、もはや「天職人」であることはできない」
なお、「鉄の檻」については、アメリカで同書が翻訳された際に、翻訳者であり社会学者のタルコット・パーソンズがあえてそのように訳したのだが、動物園の猛獣の檻のようなイメージを持ってしまうのは間違いである。著者も次のように補足する。
「パーソンズはこの英訳のなかで、「鋼鉄のように硬い殻」というフレーズを「鉄の檻」(iron cage)と翻訳した。この語は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾に出てくる。資本主義のシステムが自己展開していくなかで、このシステムの外枠に人間が組み込まれ、閉じ込められていく、というイメージが語られる部分である」
これに続きまた有名な個所であるが、ウェーバーも『プロ倫』を締めるにあたり、ニーチェの末人を引いて次のように語るのである。
「こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理になるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と」
著者は、こういった思考の裏にはウェーバーの出自にも関係があるのではとも示唆するが、興味深い議論である。
「最も信仰心に篤く、それゆえ拝金主義を嫌悪している禁欲的プロテスタンティズムの信者が最も熱心にビジネスに勤しみ、そして成功しているのはなぜなのか。社会科学の方法論の水準でこの論証が成功しているのかどうかについてはいろいろな議論がありうる。ただ、ウェーバーの生涯をたどる本書の視点からして興味深いのは、プロテスタント的な信仰から金儲けをひどく憎みながら、実際は事業で思考したモデルが、まさにウェーバーの家系だった点である」
また、宗教改革にその起源を求めるという思考が、西洋社会で生まれた人権思想がフランス革命や啓蒙主義から来ているのではなく、宗教改革にその源流を求めることができるとしたイェリネクの論理思考にもある種の相同性を持っているとの指摘も非常に興味深い。
「「個人の、譲渡できない、生得的で、神聖な諸権利を法的に確定しようとする理念は、政治的ではなく、宗教的な起源をもつ。これまで革命の産物であると思われていたものは、実は宗教改革およびその闘争の果実なのである」(イェリネク『人権宣言論争』)。ウェーバーは、人権宣言の宗教的な期限というイェリネクのテーゼを、経済と宗教の関係に転用した」
そういう観点では「規律化をはじめ、ある意味ではとても近いことを問題にしながら、ミシェル・フーコーがウェーバーに言及することはほとんどなかった」という著者の指摘について、自分もその違和感に同意するものであり、それはフランスでのウェーバーの受容がある意味不十分であることを示しているのではと思うところである。また同時にフーコーがウェーバーを論じるとすれば、どのようなものとなったであろうかと少し残念にも思うのである。
なお、ここで注意しなくてはならないことは、『プロ倫』で論じられたことが「理念型」であることである。それを見失うと、あらぬ批判や疑問を持つことになる。
「理念型は���とびとがそれに準拠して行為する規範ではなく、あくまで理論的な構成である。ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムの理念型を描こうと試みているが、こうして提示された理念型に準拠して、人びとがプロテスタント的に生きなければならない、というわけではないし、それを求めているわけでもない」
また、『プロ倫』で論じたことによってすべての説明がつくものではないというのも繰り返し述べているのも、ウェーバーの学問への誠実さの現れなのである。
いずれにせよ本書の解説は非常に的を射たものであり、理解を助けるものであった。また同書が資本主義の力学や働き方について非常に深い洞察を与えてくれる本であることは間違いなく、その名声に恥じぬ著作であるという認識を新たにするものであった。
【比較宗教学プロジェクト】
『プロ倫』でプロテスタントと西洋社会の関係を論じたウェーバーは、宗教と社会の関係を世界的視座に捉えた比較宗教学のプロジェクトを推進する。
「このプロジェクトでウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を起点に据えながら、その枠組みを発展させて「世界宗教の経済倫理」を比較し、「ヨーロッパ近代」の固有性を明らかにしようとする」のである。
何より、宗教に頼ることができない初めての時代を生きた政治哲学者の一人として、ウェーバーはそのことに非常に意識的であったとする。何より「自分の時代を「魔法が解ける」という表現で特徴づけたのは、ほかでもないウェーバーだった」のである。
ウェーバーは次のように語る。
「人間の行為を直接に支配するものは、(物質的ならびに観念的な)利害関心であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミズムが人間の行為を推し進めてきたのである。つまり、「どこから」、そして「どこへ」「救われる」ことを欲し、また――これを忘れてはならないが――「救われる」ことができるのか、その基準となるものこそが世界像だったのである」(マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』)
宗教が世界像を含んでいる限り、その魔術への信仰が失われたとしても、その宗教がどのような理念を持っていたのかは重要である。それは『プロ倫』において論じられたように、プロテスタンティズムが資本主義の世界像に影響を持っていたのと同じである。
「ウェーバーは人を動かし、社会を変革していく力として、理念や「世界観」に注目する。世界の見方、人間の理解の仕方、生きる意味などについての思想や情報がプールされているのは、宗教的な観念世界である、と彼は考えた」
「魔法が解ければ解けるほど、人は生きる「意味」を切実に求める。魔術が解けて、再魔術化が呼びこまれる」と言うのは、まったく正しい認識である。
ウェーバーは彼の問題意識を次のように表現する。
「近代ヨーロッパの文化世界に生を享けた者が普遍史的な諸問題を取扱おうとする場合、この人は必然的に、そしてそれは当をえたことでもあるが、次のような問題の立て方をするであろう。すなわち、いったい、どのような諸事情の連鎖���存在したために、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展的傾向をとる文化的諸現象――少なくともわれわれはそう考えたいのだが――が姿を現すことになったのか、と」(マックス・ウェーバー『宗教社会学』)
「たんなる営利活動ではなく、近代的な資本主義は、プロテスタンティズムによって特徴づけられたある特有の文化的な背景のもとで成立したのではないか、という『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』での問題関心を、ここでは「西洋」の地盤で成立した「普遍的な意義と妥当性を持つような発展傾向をとる文化的諸現象」へと一般化している」と著者が説くように、そのスコープはより一般化されたが、西洋中心主義の思考はより先鋭化されることになっている。現在で同じ分野の研究をしようとすれば、もう少しナイーブなアプローチが必要となろうが、この時代のウェーバーにとっては、いかにして西洋がそのときにあったようにならしめたのかを宗教から論じるのは強い内在的な必然性とある種の確信をもっていたものと思われるのである。しかし、少なくとも現代においても宗教の問題は総体的に見れば「脱魔術化」された状態とはほど遠く、いまだ世界が分断される理由にもなっている。ウェーバーが確立しようとした宗教社会学は。現代でも形を変えた有用性を持っていると言えるのではないかと思うのである。
【戦争と政治とナチズム】
ウェーバーが生きた時代は、第一次世界大戦を経て、欧州が政治的混乱に陥っていた時代でもあった。晩年、ウェーバーも政治に深くかかわることとなった。『仕事としての政治』は、政治に関する深い分析であるとともに、ある種のコミットを進めると宣言する類のものであったのではなかったか。本書は、ウェーバーの政治、特に戦争や正義に関わる議論やコミットメントに対して、主に後の思想家・政治家によってどのように扱われたかが解説されている。
この時代において、武力行使と国家の問題は、非常にアクチュアルな問題であったが、それに対してウェーバーはある意味でとても明確である。ウェーバーは国家とは、「ある一定の領域〔…〕のなかで、レジティマシーを有する物理的な暴力行使の独占を要求する(そして、それを実行する)人間の共同体である」と定義している。
著者はウェーバーの正義に対する態度をロールズと比較して次のように評価する。
「ウェーバーは基本的に「正義とはなにか」を主題化して問おうとはしない。正義について論じても、彼が関心を寄せるのは、正義をめぐるコンフリクトに対してである。形式合理性と実質合理性の対立は論じるが、それに対する一義的な解答を出すことはない。これに対してロールズの著作では、権力(power)が主題化されることはない。たしかに『政治的リベラリズム』でロールズは、さまざまな価値が理に適う仕方で対立することを確認する。しかしそうした認識から権力と権力行使をめぐる理論を展開するわけではない」
また、第二次世界大戦の悲劇を通して文明や啓蒙の野蛮さを論じた『否定弁証法』のホルクハイマーとアドルノが、いかにウェーバーの議論を継承しているのかについて解説している。
「ホルクハイマーとアドルノは、「合理化の過程が新たな野蛮を生む」という。ここにはウェーバーの議論の一つの暗い側面が、彼ら独自の仕方で、より先鋭的に表現されている」
逆にアーレントがウェーバーに対して否定的であったのは、家長父主義的な部分や、それとつながる西洋至上主義的な部分があるからだと理解できる。
ウェーバー自身は、ナチズムの台頭を見ることなく亡くなったわけだが、当時の哲学者・政治学者にとって、ナチズムとの関係は一種の踏み絵でもあった。すでにその場にはいなかったウェーバーもあるときにはその意図とは離れて政治的に引用されることもあった。特にドイツにおいては、ナチスの理論的支柱にもなった「カール・シュミットがマックス・ウェーバーの正統的な弟子であったという事実を蔑ろにはできない」という側面もある。また、カリスマを待望するかのような論述をしたことや、大統領制を希求したことも、それがまだ姿を見ぬヒトラーを受け入れる素地になったのではないかという指摘も受ける。自分も、ウェーバーが西洋の優位性を隠すことがないことから、優生主義との親和性もあったのかもしれない。
しかしながら、どのように考えてみても、仮にウェーバーがその時代まで生きていたとして、安易にナチスのサポートをしたとは思えない。次の有名な言葉は、どちら側の人間であっても手に取ることができる便利な言葉ではあるが、それでもナチズムの思想には向かない言葉であると思う。
「政治というのは、硬い板に力強く、ゆっくりと穴をあけてゆく作業です。情熱と目測能力とを同時にもちながら掘るのです。この世界で何度でも不可能なことに手を伸ばさなかったとしたら、人は可能なことすらも成し遂げることはなかった」(マックス・ウェーバー『仕事としての政治』)
著者もまた次のように語るとき、政治家と政治学者が守るべき誠実さについて語っているのではないかと思う。
「この意味で、真理は政治の敵である。複数の意見の可能性があるところでのみ、政治的な議論は成り立つ。全員の賛同を得ることが期待できないが、「私はこう思う」と一人称で語る余地を確保できない政治理論は非政治的である。カッコの付かない客観性を我がものとして、その他の意見を排除することを目指す理論的な営みは、政治学の名のもとで、政治を否定しかねない」
『プロ倫』でもそうであったが、ウェーバーの政治論については、それが「理念型」について論じているのかどうかを気に掛けることであろう。著者の次の記述がその理解には役に立つのである。
「理念型の善し悪しを評価する基準は、現実との摩擦のなさではない。あまりに違和感なく受け入れられる理論は、それがある角度からの「切り取り」であることを忘れさせる。理念型の特徴となる機能は、なんとなく生きていると気づかないことに気づかせることである」
【日本でのウェーバーの受容】
著者は「日本では、世界的にも例外的なまでに、ウェーバーの著作が熱心に読まれてきた」と書くが、日本おけるウェーバーの受容の分析が本書のひとつの特色であるとも言える。著者も「ウェーバ没後100年にウェーバーについて書くということは、彼の著作が彼の死後どのように多様に読まれて��たのかについて考察するという作業を抜きにしては不可能である」と意気込む。
日本で特異的に受容された理由として著者は、日本が「ヨーロッパ近代」を学ぶ必要性があり、ウェーバーの問題意識と合致するものであったからである。よって、「ヨーロッパ近代」を素描した人という側面に注目して、ウェーバーの哲学的・政治的プロフィールを描く、というのが本書の基本コンセプトにもなっているのである。
一方、パーソンズの弟子筋にも当たるN.ベラーが『徳川時代の宗教』という著作を書いているが、その中で日本の古来の思想の中にプロテスタンティズムの代替物があることが論じられている。それが、日本が近代化に成功した要因であるかもしれないし(わかりやすい図式だが)、また日本でウェーバーが広く受容される素地を作ったのかもしれない。
「ベラーは、近代日本の経済発展の成功を説明するために、ウェーバーの「プロテスタンティズム・資本主義テーゼ」に注目した。そしてパーソンズの図式から、日本の思想伝統に禁欲的プロテスタンティズムの「機能的代替物」を探し、江戸中期の思想家の石田梅岩(1685~1744)が開いた石門心学を発見した。たしかに心学では正直、倹約、勤勉が重視された。そして心学に共鳴した近江商人は、日本の初期近代の資本主義に多大な影響を及ぼした」
このテーゼは、明治日本の近代化だけでなく、また第二次世界大戦の敗戦後の復興にも当てはまることなのかもしれず、ビジネス論としても深堀りすべきテーマであるように思う。
日本で、大塚久雄や丸山眞男といったサポーターを得て、これだけしつこく読み継がれる一方で、当のウェーバーは日本に関してはあまり多くを触れていない。「宗教社会学」のコンセプトに日本がしっくりとはまらないとウェーバーが判断したことも原因かもしれない。著者によると宗教社会学の一連の研究の中でも次のように触れられているのみだということである。
「日本人の生活態度の精神が持つ、我々の関連にとって重要な特性は、宗教的要因以外のまったく別の事情、つまり政治的社会的構造の封建的な性格によって作られている」(『ヒンドゥー教と仏教』)
近代ヨーロッパの特異性を論じたウェーバーにとって、西洋以外で近代化を果たした日本はより強い興味を引いてもおかしくはなかっただろうにとも思うのである。スペイン風邪に倒れることがなかったら、以降台頭し世界史の舞台に躍り出ることになる日本についてもより深い分析がされたのではないかと残念である。
いずれにせよ、日本では著者がロスト・イン・トランスレーションというように、翻訳や文化的背景の違いのもと正当ではないであろうものも含めて多くの解釈がなされて受容されてきた。それは、日本にとってやはり近代ヨーロッパとは何かということが何よりも重要だという問題意識があり、西洋において自明であったものが、必ずしも自明でない中でそれを読むことによって豊饒さが生まれたのではないかと思うのである。
「日本でウェーバーを読むという作業の連続には、こうした広い意味での「開国」の経験が伴っていた。開国の必要がウェーバーのテクストを読むことを促し、ウェーバーのテクストを読むことで日本を反省的に捉えかえす試みがなされてきた��「普遍的なもの」がなにかをめぐっては論争があるとしても、「普遍的なもの」を追求する未完の試みがそこにはあった」
「あるテクストが時代を超えて読まれるということは、別の地域や時代の文脈でそのテクストが新しい意味合いを獲得するからである。古典と呼ばれる本は、その時代のコンテクストが失われてすら、読み継がれる「余地」があるから古典になる」
素晴らしい「古典」へのよき水先案内として必要十分な本だと思う。
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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4003420934
『仕事としての学問 仕事としての政治』(マックス・ウェーバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065122198
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本書は、ドイツの法学者・経済学者・社会学者のマックス・ウェーバーの「哲学的・政治的プロフィール」を描くことを意図しており、マックス・ウェーバーの生きた時代、重要著作、基礎概念などに言及しつつ、基本的に年代順にウェーバーの生涯を解説している。日本におけるウェーバー受容についても触れている。
本書は、マックス・ウェーバーの生涯がどのようなものであったのか、また、主要著作やウェーバーの思想のエッセンスがよくまとまっており、ウェーバーについて理解するための入門書として優れていると感じた。また、今、ここの自分たちの社会を理解するためにも違う時代、場所の社会との比較が重要であるということや、その上でウェーバーが描こうとした「ヨーロッパ近代」は比較のための参照軸として今でも有効でありうるということなどを感じ、現代の日本社会を考える上での示唆も得ることができた。
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資本主義の発展や近代社会の特質を研究し、幅広い学問領域で活躍した巨人の生涯をたどり、その思想のエッセンスを解説。没後一〇〇年
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マックス・ウェーバーを扱った本。
ウェーバーは日本で社会学を学ぶ上で避けて通れない人。私は大学は社会学部だったが、中退したのでウェーバーの本をちゃんと読んでない。有名な「プロ倫」も。なので、入門書としてこの本を手に取った。
この本ではウェーバーの生まれや育ちから入っているが、私にはそれが理解しやすかった。いきなり理論から入るより、どんな人物がその理論を唱えているか?の方に私は興味があるので。
なるほど、「ヨーロッパ近代の特殊性」をプロテスタンティズムに求め、神が死んだ(魔術が解けた)後でも、その行為態度(エートス)が資本主義を発展させた、ってことか。明治以降に近代化を余儀なくされた日本で、ヨーロッパ近代を理解する上でウェーバーが読まれたのも納得。「三方よし」の近江商人との親和性も面白い。石門心学の「正直、倹約、勤勉」はたしかに宗教性を感じるし、現代の日本社会にまだ多少なりとも残っている価値観(倫理観)という気はする。
日本の社会学者はあまりにヨーロッパを理想化するよな、と感じてはいたが、その源流が大塚久雄にあった、という話も興味深かった。ウェーバーが西洋の独自性を論じたのは彼が西洋人だからで、他の地域を知る機会がなかっただけだろう。別に西洋が東洋より優位、ということもでないし、逆でもない。今の民主主義・資本主義は西洋発なので西洋社会の人の方が親和性が高いのは事実だが。
しかし、音楽社会学が面白いな。こんな学問分野があるんだ。「情念」を扱う際にたしかに音楽は避けられないもんね。
まだ表面的にしか理解できてないから、何度か読み返してみよう。その上で、いつか「プロ倫」や別のウェーバーの著者にも挑戦してみたい。
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テクスト、概念、生き様ではなく、各地での受容、思想的関連に重きを置いた記述。
ヴェーバーを読むということは、極端を排するということか。今もう一度、テクストを読みたくなった。
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ウェーバーの思想と生涯を、主に宗教社会学と政治理論に重点を置いて紹介している本です。
ウェーバーの宗教に対する態度や、彼の政治的心情の根幹に存在していたナショナリズム、官僚制とカリスマにまつわる問題の指摘など、ウェーバーの思想のなかから重要な論点をとりだしてわかりやすく解説しながら、それらの論点が現代の議論のなかでどのように受け継がれているのか、あるいは批判されているのかということにも触れられています。さらに終章では、大塚久雄による近代主義的な立場からのウェーバー受容と、山之内靖に代表されるニーチェ的な反近代主義的解釈など、日本のウェーバー研究の経緯が簡潔にたどられており、現代においてウェーバーを読むことが、われわれにとってどのような意味をもっているのかという問題への目配りがなされています。
著者は「はじめに」で、「かなり前に彼の本を読んだことはあるが、長らく忘れていたという人や、最近どこかで彼の名前をはじめて耳にして、少し気になっているという人が、本書が主として想定する読者である」と述べられています。わたくし自身は前者に近い読者の一人でしたが、ウェーバーについて学ぼうとしたものの彼の多岐にわたる思索の焦点がどこにあるのかわかりにくいという思いをいだいていたので、本書によって一つの参照軸を教えられたように感じています。また後者の読者にとっても、ウェーバーの現代的意義と問題性に手厚い解説がなされている本書は有益なのではないかと思います。
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ウェーバーの思想についての解説だと思っていたが、伝記であった。さらに、直接関係ない人物や日本のウェーバー研究者についての説明まであった。
一見、至れり尽くせりのようではあるが、ウェーバーの思想のみを理解したい人にとっては邪魔かもしれない。
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マックス・ウェーバーが没後100年ということで、岩波と中公で同時に新書が出た。よくよく考えるとウェーバーに関する本は学生時代に一般教養の社会学か何かで、読まされた(いや読んでないよなあ)だけだった。そして、時代背景など何も分からずに本書を読みだした。正直言うと、自分には、本書を通してウェーバーの人物像を思い浮かべることができなかった。著者自身があとがきで書かれているように、周りのいろいろな思想家の話が交錯しているので、どれがウェーバー自身の考えなのか、何だかつかみきれないままだった。トルストイとかカフカとかフィッツジェラルドとかの名前も出てくるし、もっともっと興味深く読むことができたような気もするが、何だかどれも印象に残っていない。アーレントとは相性が悪かったのだなあということだけが頭に残っている。いま、岩波の方を読み始めているが、序盤からグーッと人物像が浮き彫りになっている。ずいぶん雰囲気が違う。これは、著者の違いなのか、編集の違いなのか、まあ両方か。ああ。後半でなんとなく感じたのは、マックス・ウェーバーというのは日本で特異的によく読まれているのではないかということ。没後100年で話題になっているのも日本だけ? 誤読かな。なんか「ファーブル昆虫記」とかも日本だけで売れているなんていう話を聞いたこともあるし。音楽家にもそういう人がいたような。
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没後100年の記念出版だという。前提知識などほとんどない。名前は知っている。社会の授業で習ったはずだ。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を略して「プロ倫」と呼ぶことなど勿論知らない。主専攻が法学であることも初めて知った。展覧会への公的支援は手続きが間違ってなければよいのか、中身もみるのか。形式合理主義か、実質合理主義か。合理性にも複数の絡み合いがあるという考え方。愛知トリエンナーレの問題を指しているのではあるまい。「一人称で語れない政治理論は非政治的である」キャスターに中立を求める報道に意味はない。平和主義は非現実的か。原子力発電は現実的か。現実的解が信条的解を排除すべきではない。本当に「現実的」かはわからない。読んで知識がついた実感はない。ただ、何かは変わった。
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『プロ倫』の著者であって官僚制についての定義などをしている社会学者マックスウェーバー、つまり著作があって著者がいるという程度の認識であった私のイメージを転換させ、著者である人間マックスウェーバーが様々な家庭内不和などを経験する中で『プロ倫』などの著作を生み出していったのだという、いってみれば当たり前のことを知らしめてくれた。ウェーバーの論だけでなく、様々な思想家などとの比較などもできるように組み立てられていている。ウェーバーとは対抗関係にある(ことを初めて知った)ロールズやアレントのことなどである。ウェーバーがドイツナショナリズムに共鳴的であることもしらなかったし、ドイツ革命の混乱に対するウェーバーの立場など興味深い話が多かった。たとえば、クルトアイスナーの公文書公開に対する批判!これなどは勝手なウェーバーイメージからしたら意外であったし、比例代表制への批判なども新鮮だった。また、ウェーバーは日本では大塚久雄丸山真男などの影響で世界で比較してもよく読まれてきたことも知った。
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ウェーバー没後100年に合わせて刊行された中公新書。ウェーバーの人生や学説を順に追っていくスタイルではなく、関連する学説・思想や事項を縦横無尽に挟むスタイルになっている。登場するのは、たとえば、ロールズ、カフカ、丸山眞男。忖度、公文書公開、自民党総裁選、など。「天職」や「鉄の檻」といった有名な概念についての著者の見解も、説得的。
結果として、入門書としてはそこそこハードルが高いようにも思われたが、ウェーバーの膨大な著作が今なお読まれるに値する古典であることを、身をもって示した1冊。