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「侍女の物語」+「誓願」
2021/04/29 15:54
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投稿者:kapa - この投稿者のレビュー一覧を見る
前大統領トランプの反女性的発言により再び注目された「侍女の物語」の続編が35年ぶりに続編が出版されるというので、まず旧著「侍女」を読み、続けてこの「誓願」を読んだ。
「ディストピア小説」は近未来を舞台とするので、SF小説でもある。したがって、現実味のある近未来の政治・社会・科学がどのように描かれるのか興味がある。科学は執筆時の水準を前提に考えられるので、現在の視点からすると、「的外れ」な描写が多いことは否定できない。「ディストピア小説」草分けである「すばらしい新世界」や「1984年」では、当時としては斬新な現実味のあった未来社会が描かれていた。しかしアットウッド女史は、そのような科学の進歩に拘泥していない。「電話」は、本書の主人公の一人であり、「侍女」では教育係で登場したが、「誓願」では女性社会の支配者となったリディア小母と男性社会のトップ・ジャッド司令官とのホットラインが登場するのみ(音声通話のみ)。また、日常社会でも携帯端末のような機器はない。当然ながら子供の出生率を向上させる技術などはない。
「誓願」で描かれたギレアデ共和国は、端的に言うと、男性と女性のそれぞれの社会が厳格に区分され、女性は出産、育児、家庭などで男性を支えることしか求められないが、リディア小母を筆頭に、何人かの小母によって自主管理されている社会である。ディストピア小説で政治社会制度の描写はナチスをモデルにした「管理社会」として描かれることが多いが、ギレアデ共和国政治・社会制度は、ナチス期の女性社会の構造(「ナチス機関誌「女性展望」を読む:女性表象、日常生活、戦時動員」桑原ヒサ子、青弓社、2020)と非常に似ている。例えば、ナチス女性の義務とされた3K、「教会・台所・子供」は、「信仰・家庭・出産」と同じ。また、女性の社会的領域は「生存圏」として自立性が認められ、全国女性指導者ゲルトルート・ショルツ=クリンクがリーダーであったが、この構造もリディア小母らによる支配構造に似ている。
「侍女」では、「誓願」の主人公となる姉妹の母親の視点から描かれるが、かなり暗鬱な内容で、出口の見えない結末であった。これに対し「誓願」は、まったく性格が異なるアクション・サスペンス・エンターテインメント小説。逃亡「侍女」の娘で、実はギレアデ共和国イデオロギーのイコンとされている「幼子ニコル」であるディジーが、抵抗勢力に加わり、「軍事訓練」を受け、自らの人格を踏みにじられ復讐に燃えるリディア小母の支援を受け、ギレアデ共和国崩壊作戦のために潜入し、姉アグネスと決死の脱出を企てるのである。著者が本書は前作の「続編」ではない、と言ったのも頷ける。
「誓願」では、反体制に転じた前社会出身者リディア小母、ギレアデ共和国に矛盾を感じつつも体制順応するアグネス、そしてアウトサイダーのディジーの三人の奇妙な関係が男性中心の社会を崩壊させる「シスターフッド」の勝利を描く物語とみるのが普通だろう。しかしアットウッド女史が大切にしたかったのは、別のところにあるように思う。それは本書の最後でふれられる生き延びた姉妹が建立した彫像の銘文にある。そこでは、「ベッカ、イモーテル小母の愛しき思い出に」と刻まれている。このベッカ:イモーテル小母は、アグネスの親友であり、姉妹の脱出を命を賭して助けた女性。原文ではImmortelle、フランス語で「不死」を意味する形容詞である(ミラン・クンデラ『不滅』L'Immortalite)。主人公の影に隠れた存在であったが、著者がこのような崇高な名前としたのは、彼女の献身的行動が二作を通して最も重要と考えていたからではないだろうか。
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侍女の物語から10数年を経た時代、つまりおそらく21世紀末ごろのギレアデ共和国が舞台。アメリカ合衆国の連邦政府に変わってキリスト教原理主義の政党(?)が社会を牛耳るっているギレアデ共和国の中心部(おそらくボストン)とトロントで物語が進行する。
「侍女の物語」は「司令官」の家に配属される生殖を職務とする侍女のモノローグ的な語り口だったが、本作の語り手となる3名の女性は年齢地位がそれぞれ異なるために雰囲気が異なる。特に語り手の1人であるリディア小母は権力中枢にいるため、ギレアデが置かれている状況(テキサスと戦争や、カナダとの関係など)も詳述され、状況設定が明確になりストーリーが格段に面白い。
登場人物の大半は女性。彼女たちの間の友情、妬み、家族の慈愛、殺意、師弟関係、成長といった関係性が織り込まれている。当初時間も場所もバラバラだった3名の物語が最終的に紡がれ、最後は「侍女の物語」の未回収風呂敷をあらかた回収される展開に。
寝る前を惜しんで隙間時間を全て投入する読書体験となった。超面白かった。
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『侍女の物語』から十数年。ギレアデの体制には綻びが見えはじめていた。政治を操る立場にまでのぼり詰めたリディア小母、司令官の家で育ったアグネス、カナダの娘デイジーの3人は、国の激動を前に何を語るのか。カナダの巨匠による名作の、35年越しの続篇。
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三人の語り手,時代の違いなど工夫を凝らしギレアデ共和国を浮かび上がらせる.そして,一人一人の運命が交差し,犠牲も伴いながら目標に向かって突き進む.ディストピア小説ではあるが,信念と友情と愛の物語でもある.
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現代人は性の喜びを知ってしまい、インターネッツで話題になった性の喜びおじさんが「性の喜びを知りやがって、許さんぞ!」と嘆きながら憤死したのも仕方がない。
一方で本書で描かれるのは性の喜びが剥奪されたときに、どのようなディストピア社会が到来するのかという一種の思考実験である。この様相がすさまじくグロテスクであると同時に、極めて高いリーダビリティにより、ディストピア小説の最高峰ともいえる完成度を本書は誇っている。
なにせ、本書の舞台となるギレアデ共和国はキリスト教の原理主義者らがクーデターによりアメリカ合衆国の政権を奪取して誕生した国家である。ギレアデでは、性の自由を人民から剥奪し、女性から全ての教育を撤廃させた上で、子供を産めるかどうかを唯一の女性の価値基準として単なる”生殖マシーン”として女性を扱うことを強要する。
そしてその共和国に対して静かなるクーデターを起こそうとする3人の女性たちの冒険が本書のメインの筋書きとなる。あまりにも想像を絶した世界観でありながら著者自身が「ギレアデ共和国とは様々な歴史的事実の寄せ集めであり、そこには空想の余地はない」と明言しているように、このディストピア社会は一歩間違えれば起こっていたかもしれない現代社会の危うさを提示する。
ディストピア小説といえば、ジョージ・オーウェルの『1984』が古典として浮かぶわけだが、現代のディストピア小説の最高峰は本作であり、いずれ『1984』よりも本書が着目を浴びる日が来てもおかしくないと思う。そんな日が来なければよいということを祈りつつも。
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静かなディストピア社会の怖さは、一定の形で社会が完成してしまうと、その中で暮らす市民にはそれが普通の状態に感じられ、何ら不都合のない社会のように見えてしまうことである。権力が軍や警察を使って暴力的な弾圧を行う、ラテン・アメリカ諸国の独裁主義国家と異なる怖さがそこにある。権力の行使が可視化できないよう配慮されていて、一般市民には自分がどんな権利を奪われているのか、決して見えないからだ。
たとえば、国民が政府にとって不都合な真実を見たり聞いたりすることがないように、報道は規制されている。もし、政府に向かって不都合な態度をとる者があれば速やかに排除する。そうすることで、右に倣おうとする者に脅しをかけるのだ。そこまで来ると国民に供されるのは、報道とは名ばかりのフェイク・ニュースか、さもなければ政権に都合のいい提灯持ちの番組ばかりになる。それを繰り返すことで、ものをいう者は政府寄りの人物だけになり、静かなディストピア社会が完成する。今この国はここまで来ている。
アトウッドが『侍女の物語』を発表したのが1985年。おそらく、ジョージ・オーウェルの『1984年』を意識したにちがいない。組織的な監視と盗聴によって、批判的な意見を封じ込めるのは、ディストピア社会のやり口としては通常だが、女性を出産のための手段と規定し、それ以外の存在の仕方を奪ってしまうという、徹底した男性中心のディストピア社会というのは新鮮だった。それから三十五年がたつ。果たして社会は変化したのだろうか。
トランプ政権下で『1984年』や『侍女の物語』が再び話題になっている、と聞かされ、さもありなんと思っていたら、アトウッドが『侍女の物語』の続編を書いたというニュースが飛び込んできた。しかし、発表された『誓願』には、続編の文字はなかった。作家自身がそれを認めなかったと聞いている。たしかに、これは続編という位置にはとどまらない。独立した一篇の小説として読んでほしい、と作家は思ったにちがいない。
『侍女の物語』は、完成したディストピア社会の中で育ち、次第にその世界に異和を感じるようになる年若い女性の視点を通して描かれている。先に述べたように、静かなディストピア社会では、特に何かがなければその異様さに気づくことはできない。しかし一度それに気づけば、その閉鎖性、徹底した監視社会に息詰まる思いがし、そこから逃げ出したくなる。『侍女の物語』が描いたのは、自分を監視する<壁>に周囲を囲まれ、生得の権利を奪われた者の恐怖だ。
完成されたディストピア社会とはいっても、それが強固に感じられるのは、美しく飾られた表面だけのことで、映画のセットのようなその世界の裏側に回ったら、薄っぺらい材料ででき、補強材の目立つ粗雑な構成物でしかない。外部はそれを知っている。しかし、内部でそれを知るのは権力を握る一部の者だけだ。だから、ディストピア社会は外部と内部を<壁>で遮断する。アトウッドが、三十五年後に描こうとしたのは、そのディストピア社会を囲む閉じた<壁>の内部と外部の<交通>ではなかったか。
そこで、三者の視点人物が必要となる。まずは、<壁>の成立時代から、その存在を熟知し、なおかつ<壁>の維持に努めてきたギレアデの女性幹部であり、アルドゥア・ホールを取り仕切るリディア小母。<壁>の内外を共に知る、全知の存在である。次に<壁>の内側でぬくぬく育ち、年頃になって初めて自分の置かれた立場がのみ込めないことに気づいて、おろおろするばかりの初心なアグネス。<壁>の内側しか知らない。そして、カナダ在住の十六歳の娘デイジー。幼いころに組織の手でカナダに運ばれてきた、本当はギレアデの<幼子ニコール>。今どきの普通の女の子で<壁>の外側しか知らない。
リディア小母という操り手の繰り出す巧妙なからくりで、若い二人は、内側と外側から<壁>の崩壊を遂行する運命を担うことになる。どちらかといえばSFに出てくる架空の国家の物語のように思えた『侍女の物語』に比べ、『誓願』は、よりリアルな政治小説の趣きが濃厚である。特に、静かなディストピア社会が完成されるまでの、体制の移行期の暗殺、粛清といった革命やクーデターにつきものの避けることのできない暗黒面の陰惨な描写は、ラテン・アメリカ作家の描く独裁者小説を思わせるものがある。
リディア小母と呼ばれる女性は、アメリカ合衆国の判事を務める有能なキャリア・ウーマンだった。とはいえ、上流の出ではなく、苦労を重ねてその地位に上り詰めた上昇志向の強い女性である。それが、クーデター軍に逮捕され、スタジアムに集団で着の身着のまま収容され、放置監禁、精神的にどこまで耐えられるかを試されたのち、軍に従うか死ぬかどうかを問われ、やむなく従うことを認める。やがて、その性格、能力が評価され、権力を一手に掌握するジャド司令官とホットラインでつながる関係を築くまでになる。
リディア小母は監視カメラと盗聴器を駆使して、内部外部を問わず情報を収集することで、他人の弱みを握り、相手を思うままに操る術を身に着けている。ディストピア社会は相互監視による相互不信が基本である。反面、一望監視システムの中心部にいるものは、他者の監視を免れる。リディア小母はそれを利用して権力強化を務めるとともに、権力者の腐敗、堕落の証拠を握り、それを記録にとどめ、さらに時機を見て外部に流すことで、ギレアデの崩壊を期すのだった。
パノプティコンの中心で指揮を執るリディアは自ら動くことができない。代わって動くのがアグネスとデイジーの二人。<壁>の外から潜入してきたデイジーは、ベッカの犠牲に助けられ、アグネスとともに再び<壁>の外へ。その手にはギレアデの秘密を暴く情報が握られていた。ベッカとアグネスの関係は単なる友情を超え、互いに連帯して解放を願う<シスターフッド>の域に達している。女性たちの協力が男性中心のディストピア社会を崩壊させる、この物語は<シスターフッド>の勝利を描く物語ともいえる。アトウッドが三十五年の時を隔てて紡ぐ、『侍女の物語』ならぬ「小母の物語」。痛快無比のエンタメ小説でもある。まずは手に取って読まれることをお勧めする。
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『侍女の物語』の続編ではあるけれど、別の物語としても読める。骨太で壮大。現実との呼応。(『侍女』後)35年分の現実の経過に伴って、『侍女』に託した世界もアトウッドも深く太く更新されてるんだなあ。
読みであり。
あのフレーズがここで出てくるかあ!とニヤリとしたり。
訳者あとがき、解説ともに充実。
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カナダのマーガレット・アドウッド作。2019年のブッカー賞。ギレアデ国。
侍女の物語はよんだことないけど、その続きの話らしい。
3人の女性の視点から語られるお話。
顔のない女性が表紙なのはキムジヨンにつうじるな。
証人の供述369Aの書き起こし
369Bの書き起こしなど27章あるうちの小見出しででてくるけどその人たちも記号でよばれている。
565pとシンポジウムで構成されている。
女性のつらさや抑圧、下に見られるとか脳が小さいからかんがえられないだろうとか、ディストピア小説でありながらもいまもどこかで起こっていることかもしれないし私のことかもしれない。
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「侍女の物語」の35年ぶりの続編である.
前作は救いのない(といいつつ,実はオーウェルの「1984」式の救いはあるのだが)ストーリー展開で,息が詰まるような気持ちで読み進めたのであるが,本作は章ごとにリディア小母,アグネス,デイジーの3名の主人公それぞれの視点から描かれており,デイジーがギレアデに潜入を図る後半1/3はエンターテイメント小説となっており,一気に読み進んでしまった.
しかし,35年での両作の間のトーンの変化は,世の中のギレアデ化がよその世界の話ではなく,明日の我々に起こってもおかしくないという暗い予感の反映なのではないかと思ってしまう.
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『侍女の物語』を読んでなくても、十分楽しめるようにできていた。『侍女の物語』の続編ということしか知らずに読んだので、三人いる語り手のそれぞれの話を整理しながら読むのに初めは時間がかかった。どこがあるいはどの人が先々繋がってくるか予想できない。こういう本(能力の高い作家の長編)はいい加減に読むと、精緻な構造やキャラクター設定を読み飛ばす可能性がある。それはもったいないので、登場人物や単語のひとつひとつを確認しながら進んだ。が、そこまで慎重にしなくても大丈夫だった。慣れてしまえば、わかりやすい。(読みやすいよう訳にも、作りにも工夫がある。)
むしろちょっとエンタメ要素高めすぎでは?と思ってしまった。前作は読んでいくうちに霧の中でだんだん目が慣れてくるみたいに物語が見えてくるのが面白かったが、こちらはそういうことはなく、三つの物語が時系列に進んでいく。
個人的には、この、希望のある終わり方でいいのか、と思った。
他所から見ればディストピア状態にあっても、幸せを感じていた人もいただろう。裏はともかく、表向きは貧困も暴力(処刑はあるが)もなく、敬虔なキリスト教徒が慎ましく暮らしていたわけで、たとえトップが不正と私利私欲に塗れていても、全員がそうじゃない、ギレアデの建国精神は生きている!と考える人は残ると思う。また、こういう男尊女卑の社会を望む人もいるだろう(なんたって社会的地位が高ければ、老人でも10代の娘と結婚できるし、侍女という名の側妻も何人も持てる。能力がなくてもとりあえず女よりは上だ、と満足できる。)。その人たちを利用してギレアデを再建しようと新たな支配者が現れて内戦状態になったりとか、そういう方向性の方がリアルじゃないか?このように、スッキリ解決できるだろうか?と思った。
前作はディストピアでありながら、過去に起こったし、現在にも未来にも起こりうる内容だったので心底ゾッとしたし、アトウッドの才能にも(そんな社会に警鐘を鳴らす力にも)ノックアウトされた感じがしたが。
が、カナダでは、あるいは北米では、女性が能力を発揮して、社会を変えていくのが、リアルなのではないか。日本はいまだに女性の経営者も政治家も途上国以下だし、ギレアデみたいに、性被害にあっても「女に落ち度があった」と言われる。結婚したら姓の選択さえ許されず、ほとんどの女性は夫の姓になる。世帯主は男。若くて可愛い女性には価値があり、年取ったり、性的に放埓であると見なされた女性は価値がないとされる。ギレアデをリアルに感じるのは、日本がギレアデ的な価値観を持っているからだろう。(リディア小母が裏の権力を握ることができたのも「女であるというだけで、高位簒奪の危険人物リストからは除外されていた」P90からである。)だとすれば本作の結末の明るさをリアルに感じられないのは、こちらの問題かもしれない。
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ギレアデが崩壊したことは『侍女の物語』を読んでいたから分かっていた。リディア小母が判事の立場で物事を見ていたり、ギレアデに報復するために画策しつづけていたことには快哉!!って思う。リディア小母、只者じゃなかった。底辺と言われるような場所から脱出して判事になっただけあってものすごく強い人だった。ギレアデ、死ね!とか思うけど、こういう世界は今もあると思うし、幼妻とったりするような国は死ね!って思える。何十年もたって養鶏場近くで見つかったリディア小母の彫像とかは正直笑えた。
しかし、ベッカのためには涙します。
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『侍女の物語』の続編。
ただし物語そのものは独立しているので、どちらから先に読んでも構わない。
侍女の物語は、1985年に出版、本作はその35年後(謝辞より)にして語られた、ギレアデ共和国が崩壊した「理由」である。
物語そのものは女性にとってはディストピアである。
(しかしこのリアルの世界であっても、ディストピアに近い生活を強いられている女性は多いに違いない)。
「アルドゥア・ホール手稿」の編では、仕事を持ち、誇りを持って働いていた女性たちの尊厳が次々に貶められる。
そこから逃れるには、女を見張る女でなくてはならなかった。
さもなければ、昨日まで同室だった別の女に、脳みそをぶち抜かれるだけだ。
それでもひたすらに暗くならないのは、幼子ニコールが語る物語に希望を見出せるからである。
また、女を見張る女である「小母」の名前が、かつての女性たちが愛用したものから取られている、なんてユーモアが混じっているから。
ヴィダラやメイベリンはヘアケアやコスメのあれ。
ヴィクトリアも、きっとシークレットなあれでは?
水面下で動く人々、折れない心を持ったり、真実を知るために動く人々。
彼女たちこそ、このガラスの天井も、閉じ込める壁も壊すに違いない。
いつかは、私が暮らすこの国も、近い未来きっと変われるはず。
ガラスの天井も、壁も取っ払って、男女関係なく、きっと自分らしくいられる社会が作れるはず。
自分のために、続く人々のために、未来のために、一読の価値がある作品だ。
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政界の中心にいるリディア小母。
司令官の娘として育ったアグネス。
そして、カナダで育ったデイジー。
この三人の独白から始まり、最後には全員の視線が一致する。
読書とは実に面白い! 作り話が現実と重なる瞬間を味わうことができるのだから。
侍女の物語からの脱却。女性たちの反撃は小さな事で始まる。始めるしかなかったリディア小母が中心というのが皮肉だけど、彼女の、そして彼女達の人生を破壊したものが、破壊されてしまうのも自明の理かと思う。
しかし、最後のシンポジウムもあるのは笑ってしまった。
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厚労相の『産む機械』発言はまだ記憶に新し…くもないか、最早。ともあれ、カナダ人で、高齢で、女性である、というご自身の属性を最大限に活用したこの、男尊女卑のディストピア第2弾。『侍女の物語』を読み直してから読めば良かったと途中何度も思ったが、途中で止められなくて読んでしまった。
そうよね、大勢の閉経前の女を長期間軟禁すると、血塗れになるのよねー、現実現実…(-_-;)。
翻訳は鴻巣友季子。解説は小川公代。
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3人の語り手からなるディストピア小説。ギレアデ共和国では、女性は識字力を持てず、大まかに分けると繁殖用か、繁殖用の女性をサポートするか、”小母”のように官僚になる人生しか選べない。当然読んでいて苦しくなる描写が多い。物語の主役は全員女性たちで、男性たちは気持ち悪い描写のモブしか出てこないので、上記のような苦界の中でもシスターフッド描写が熱い。この本の中では脇役だけれども、マーサの人生だけ切り取ってももう1冊本が出せそうだ。
小母リディアの一生をかけた乾坤一擲の勝負は、『三体2 暗黒森林』の博打にも通じる壮大さだ。