紙の本
読みやすい
2021/01/27 13:55
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投稿者:デスク - この投稿者のレビュー一覧を見る
やさしい文章で書かれていて、かたい内容ですがわかりやすく読みやすかったです。
民主主義の歴史の流れを知ることができ、勉強になりました。
民主主義を良い方に維持していくにはわたしたちの当事者意識が大切だと思いました。
紙の本
素晴らしい一冊
2022/01/14 15:24
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
民主主義とは何か。なぜ民主主義が必要なのか。
宇野さんがとても分かりやすく説いてくれている。では今の世の中は…。
心に重く響く一冊である。
学術会議の任命拒否問題で一気に、一般にも知られる先生になったが、こうした知性を私たちは大事にしなくてはいけない、学ばなくては行けないと思う。
紙の本
折に触れて読み返したい新書
2021/12/31 22:37
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投稿者:docuciaA - この投稿者のレビュー一覧を見る
知っているようで知っているつもりになっていただけだった「民主主義」。いま立ち止まって学び直したいと手にとりました。
とてもわかりやすかったです。でも一読だけでわかった気になるというのでなく、これからも折に触れて読み返したい一冊です。
紙の本
民主主義についての「過不足ない本」。なかなかスキのない本。
2021/12/06 10:13
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投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
選挙のとき以外、国民にとって政治が遠いものであるならば、それが本当に民主主義なのか疑問が残ります。選挙以外の日常的な市民の活動においてこそ、民主主義の真価が問われるはずです。個人は相互に自由かつ平等であり、それを可能にする政治・経済・社会の秩序を模索し続けるのが人間の存在理由です。民主主義をどこまで信じることができるのか、それがいま、問われています。財産所有制民主主義とか、最後には票の分割のこととか(液状民主主義)、なかなか「ラディカル」なことも書かれているのですが、意外に(?)そう思わせないように見えるのは、筆者の筆致ならではかもしれません。
紙の本
読者が考えることを促す
2022/02/05 20:24
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投稿者:トリコ - この投稿者のレビュー一覧を見る
とても勉強になり、考えさせられ、豊かな読書の時間だった。
ハミルトン、トクヴィル、ルソー、ダールら、思想家・学者らの論がやさしく解説されるとともに、
「人々が本当に政治に参加しているのか」
などと、読者に思考を促す。
紙の本
「民主主義とは何か」という問いはナンセンスだ!
2021/09/18 07:19
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投稿者:さんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
民主主義思想の歴史をたどる本。非常に手際よくまとめられており、参考になる。タイトルの問いに対する単純明快かつ包括的な回答は存在しないことが分かった。結局、手垢にまみれた「民主主義」という言葉にこだわるよりも、我々がどんな社会を築きたいかが大事だと思う。
電子書籍
民主主義の軌跡を振り返る本
2021/05/11 21:13
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投稿者:luce - この投稿者のレビュー一覧を見る
ギリシャから現代までの2500年の民主主義を概観できる。
選挙があれば民主主義、という雑な理解しか持っていなかったので、市民が抽選で公職に選ばれたとか、党派とか派閥が嫌われていたとか、ためになる知識は多かったです。
本書は、民主主義に対する学者の見解を時系列でまとめたものなのですが、そもそも学者の選択が適切か(他の学者を紹介した方がいいのでは?)については、私は知識がないので判断できなかった。
紙の本
民主主義は根本的に不安定
2023/04/02 10:22
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投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者自身がわざわざ懐疑的なことを書いてはいるが、民主主義」という宗教への信仰宣言と思えた。かつてキリスト教の宣教師が信じたように、世界のみんなが「民主主義」を信じ、「参加と責任」をはたせば世の中は良くなる、と信じている と読めてしまった。グローバリズムの進展に伴い、民主主義を信じていない人たちと共同体を作らざるを得なくなる場合、どのようにすればいいのだろうか?異なる教えを信ずる者同士なので、宗教戦争のようになってしまうのだろうか?世の中の人を幸せにするのが目的であって、「民主主義」はそれを実現する手段の一つであるはずなのだが。
IT化AI化などの技術進歩により民主主義に必須の中間層は痩せ細り、一握りのエリート層と多数の無用階級に分かれてしまうと言われている。パンとサーカスを求める多数の無用階級を幸せにするための政治体制は、はたしてどのようなものなのだろうか?
アダム・スミスがとなえた単純な「レッセ・フェール」と比較すると、「参加と責任」を必要とする民主主義は根本的に不安定な制度であると感じた。むしろ専制政治を讃えた「鼓腹撃壌」のほうがわかりやすい。
紙の本
興味深い
2023/03/05 16:13
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投稿者:なつめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
民主主義について、いろいろな角度から分析されていて、よかったです。発展の道筋が示されていて、参考になりました。
電子書籍
中高生にも
2023/05/21 02:53
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
わかりやすい文体なので、これは、中学生や高校生の民主主義についての入門書としては最適だと思いました。特に、中3のこうみんを習いはじめの頃は、こういうわかりやすい本から、はいると、社会が好きになると思いました
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読了。学術会議任命拒否の話題でさらに有名になっった感のある著者。
これを読むと、なるほど政権側からすると任命拒否したくなるかもしれないなと(良い意味で)思わせてくれる。とはいえ、民主主義は現代のように希望を持って語られるだけではなく、忌避されたり嘲笑の対象にもなっていた。そのあたりの経過は、そうした経緯を知らない人にとっては目から鱗の面白い話だと思う。
トクヴィルやらシュミットやら丸山眞男やらロザンヴァロンやら、とにかくいろんな人がいろんな民主主義を語っている。統一された定義や理解なんて存在しない。それでも民主主義という言葉に希望を持って、それを実現しようとしてこれまで無数の議論が交わされてきた。その一端を知ることができる一冊。入門書としても、より理解を深めるための一冊としても◎。
そして、著者がなぜ学術会議の件で任命拒否されたのか、そんなことを考えながら読むと一層勉強になる一冊であることは間違いなし。
「個人が経済的・政治的に隷属した状態では、どれだけ公共的議論による政治が存在しても不十分です。人々が実質的に議論に参加できる状態をつくり出す必要があるからです。人々の経済的・社会的解放なくして民主主義はありえないのです」(位置No.577)
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【はじめに】
本書は、「民主主義について過不足ない本を書いてみたい」という思いを持った著者が、「民主主義という正体のつかみにくいものを、自分の手でしっかりと握りしめたい」という願いを胸に書かれた本である。
まず著者は、最初に民主主義について次の3つの疑問を挙げる。
疑問A: 民主主義とは多数決(A1)か、少数意見を尊重しなければならない(A2)、か
疑問B: 民主主義の代表者は選挙で選ぶ(B1)のか、選挙だけが民主主義ではない(B2)、か
疑問C: 民主主義は国の制度のこと(C1)か、理念(C2)か
本書ではこの疑問に対して、古代ギリシアまで遡って歴史的にアプローチをしており、ルソー、ロック、ホッブズ、J.S.ミル、トクヴィル、マックス・ウェバー、カール・シュミット、シュンペーター、ダール、アーレント、ロールズ、ピケティなどを取り上げて、主に欧米社会における民主主義の進展を追うことで先の疑問に一定の答えを求めようとしている。
また著者は、現在の民主主義の危機として、次の4つを挙げている。
① ポピュリズムの台頭 ⇒ アメリカ、イギリス
② 独裁的指導者の増加 ⇒ 中国、ロシア、北朝鮮、フィリピン、トルコ
③ 第四次産業革命 (AIなど) ⇒ グローバル
④ コロナ危機 ⇒ グローバル
こういう危機がある中だからこそ著者は、今民主主義について考えるべきときだ、という。
【概要】
著者によると民主主義の歴史の流れは、古代ギリシアでの「誕生」、近代ヨーロッパへの「継承」、自由主義との「結合」、そして二十世紀での「実現」のフェーズに分けられるという。それぞれの概要は以下にまとめる通りである。
■ 誕生 ― ギリシア
民主主義の誕生は古代ギリシアのアテナイまで遡る。「市民」の公共的な議論によって意思決定するということと、そこで決まったことに対しては市民は自発的に服従するということが重要であった。「参加と責任」という著者のいう民主主義の基礎は、この古代ギリシアで誕生したと考えられる。
ただし、アテナイの制度がその後主流になったのかというと、全くそうではないことに注意をするべきだと指摘する。逆に民主主義は他の政治体制に比べて劣勢にあり、いわゆる衆愚政治に落ちるという指摘などもあり長い間政治システムとして傍流であったと分析されている。
なお、当時のアテナイでは公職を抽選で選んでいる。これは前提として、すべての「市民」がポリスの運営へコミットしているという前提で運営されていたということを意味する。アリストテレスも民主主義にふさわしいのは抽選であり、選挙はむしろ貴族政的性格が強いと指摘している。かつて柄谷行人がNAM活動において腐敗を防ぐために取った手段が代表のくじ引き制であった。NAMは失敗に終わったが、柄谷もアテナイの民主主義を強く意識していたに違いない。やや違う視点からだがマイケル・サンデルも近著『実力も運のうち』で大学入学試験において、一部抽選を導入することを現状の過剰な大学選抜制度に対する解決策として提案している。古代ギリシアまで遡る抽選というシステムをどのような場合・条件であれば受け入れ��ことができるか、ということはもっと真剣に議論されてよいと思う。著者も指摘するように古代ギリシアでは党派の存在が問題視とされ、党派の対立が政治全体を歪めるとされていたことも政党政治が決してうまく機能しているとは思えない現実から見ても非常に示唆的であると思えるのである。
■ 継承 ― イタリア、アメリカ、イギリス、フランス
著者は、アテナイの民主主義はヨーロッパで継承されたとして、イタリアの都市国家やアメリカ合衆国の独立、フランス革命の背景や実態が解説される。米合衆国憲法に影響を与えたロックやフランス革命に影響を与えたルソーの話などはよくまとまっていて読みやすい。
■ 結合 - 自由主義と民主主義
民主主義の歴史上で、欧米での「継承」に続く動きとして自由主義との結合を見る。
ここでは、ベンサム、ヒューム、ロザンヴァロンを援用して、立法権と執行権のそれぞれの位置づけについて検証する。その中で著者は、民主主義と自由主義は相矛盾する場合がある点をまず指摘する。
このパートでメインとなっているのが、独立初期のアメリカを見て回ったトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の丁寧な解説である。トクヴィルの目を通した19世紀初頭のアメリカの現状分析を、著者は一つの近代デモクラシーの代表例と見ているのである。トクヴィルが、「多数決の暴力」や「民主的専制」をその時点で大きな課題として指摘していたことは論理的帰結でもあり、重要な指摘でもある。
そのトクヴィルと深い親交があり、また父親が功利主義者ベンサムの友人であったというJ.S.ミルの『自由論』が続いて解説される。ミルは、「他人に危害を加えない限り、人は何をしてもいい」といういわゆる愚行権を本質とする「自由」の価値を掲げた。同時に、代議制民主主義が最善の政治形態だとし、そのために第一に「国民自身の徳と知性を促進する」ことと第二に「機構それ自体の質」を挙げる。実は、その条件が果たして現在成立しているのかが問われるべき課題だ。ミルは驚くことに大学卒などの優れた専門能力をもつ有権者には二票など通常の人以上の権利を与えるべきだとの主張をしていた。政治へのコミットや知見によって個々人に与えられる投票権には軽重が付けられるべきであり、一人一票といった形式的な政治的平等をそもそもの前提としていなかったのだ。
19世紀までの間に国民の政治参加は拡大し、参加と責任のシステムとしての民主義は進化したが、上記のように理論面でも実行面でも課題が大きくなってきた時期として捉えられている。
■ 実現
著者は二十世紀を「民主主義の世紀」と位置付ける。もちろん、二十世紀前半には二度の世界大戦があり、その中で独裁体制が引かれた国もあったことは理解しての上である。
二十世紀において民主主義がうまく機能しなかった事例として、ナチス独裁体制につながったという文脈においてウェーバー、シュミットの論が紹介される。ウェーバーが『職業としての政治』で言わんとしていたことは、それほど単純ではなかったし、彼らの主張した「政治家の責任倫理」や「例外状態」における課題などはいまだ有効な問いだと私見としては思われる。ウェーバーは、アメリカの行政が大統領の任命によって切り替わることを「素人行政」としており、大統領制を決して高く評価しているわけではないと自分は理解している。また、シュミットが「近代議会主義とよばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は決して民主主義の決定的な対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物ではない」という言葉を「あまりにも極端な暴論」と断定してしまうのはいかがなものか。シュミットの意図するところがどうであれ、言葉をその通りに読むと簡単に反論できるものではないと思われるし、少なくとも過去でもまた今でも暴論という一言で片付けるべきものでもない。指導者に対する国民におる「喝采」があればいいと言ったのは、過去も今も少し暴論かもと思うのだけれども。
なお、このパートではシュンペーターやアーレントなど、これまで民主主義に関する議論にはあまり出てこなかった思想家にも自由と民主主義の観点から触れつつ、ダールの多元主義やロールズの『正義論』の議論を紹介している。この辺りの自由と民主主義の関係を論じる流れは非常に読みやすい。
■ 日本の民主主義
最後に著者は、日本の民主主義の歴史にも短く触れる。ただ、著者も言うように、日本の民主主義に関しては何を基準にして議論をすべきか共通の枠組みがなく、良くも悪くも明確な理念がなく形式を外から取り入れているようにも見えると指摘する。五箇条のご誓文、田中角栄の派閥政治、リクルート事件、自民党の下野から自公連立政権時代まで事象面を中心に記載されるものの著者も熱く語るべき思想面での論点を見つけられないのか、かなりあっさりとした内容で終わっている。
■ 結論
ここまでの民主主義の歴史を振り返りを通して、本書の最初に挙げられた3つの疑問に対しては、次のように解答する。
疑問A: 少数意見を尊重する(A2)という条件を満たす限りにおいて、民主義とは多数決(A1)だ。
疑問B: 民主主義の代表者は選挙で選ぶ(B1)ことと、選挙だけが民主義ではない(B2)ことを相互補完的に捉えるのが妥当だ。
疑問C: 民主主義は国の制度(C1)と理念(C2)を不断に結びつけていくことこそが重要だ。
著者は、これも最初に挙げた現代民主主義の4つの危機 ―― ポピュリズム、独裁的指導者、第四次産業革命、コロナ危機 ―― についてもざっと見た後に続けて次のように語る。
「最終的に問われるのは、私たちの信念ではないでしょうか。厳しい時代においてこそ、人は何を信じるかを問われるのです」
その「問い」に対して、「透明性」、「当事者意識」、「判断に伴う責任」を信じるべきだとまとめ、最後は次のように締める。
「個人は相互に自由かつ平等であり、それを可能にする政治・経済・社会の秩序を模索し続けるのが人間の存在理由です。民主主義をどこまで信じることができるのか、それがいま、問われています」
【所感】
著者の宇野重規氏は、菅政権において日本学術会議で承認されなかった6名のうちの1人である。そのせいか自分の読み方にも少しバイアスがかかってしまったところもあるかもしれない。だからなのか、民主主義の歴史改題のパートはいくつか引っ掛かりはあるものの分かりやすくまとめられているという感触を持って読み進められたが、まとめなどの著者の主張の部分になると少し安易な結論に流れすぎてないか一つひとつが気になった。
■ AI技術について (民主主義の危機③)
具体的には、まずAI技術に対する見方が一方的で誤解を恐れずに言うと浅薄である点。第四次産業革命の影響としてAIによって人々の雇用が奪われるという懸念があるとして、2013年に出されたマイケル・オズボーンとカール・フレイの今後10~20年間で47%の雇用がAIによって代替されるという予測を引いているが、これはすでに多くの反論もあるところであるし、当のオズボーンも論文の意図は、「AIによって人間の仕事が奪われる」ということではなく、「テクノロジーが人類に新たな雇用機会をもたらす」ということであり、特に日本では、むしろ少子高齢化による労働力不足を補うものだと考えるべきだと言っている(https://www.businessinsider.jp/post-204370)。
また、『ホモ・デウス』におけるユヴァル・ノア・ハラリの主張が、AI技術や生物工学の発展の結果、人類至上主義が終わりを迎えると予言したと書くのだが、少なくともハラリは人間=ヒューマニズムをかつて宗教がその場を占めていた場所に掲げた「人間至上主義」が終わる可能性について言及しているが、必ずしもそれが人類がAIによって主従逆転するようなイメージを持っているわけではないし、少なくともそれを持って悪いことだと主張するものではない。「AIによって人間の仕事が奪われ、無用となった多くの人々はデジタル専制に屈するのではないかという暗鬱な未来予想が語られるなか、あらためて「人間とは何か」が問い直されるべきでしょう」と書くとき、著者がその問いに対してあるべきだと考えている答えがある地平とはまったく異なる地平も含めた領野でその答えは探されるべきものである。『ホモ・デウス』の文脈では、フーコーがその終わりを宣言した人間諸科学の対象となっていた「人間」がいよいよ問い直されるべきときがきたと考えるべきだと少なくとも自分は考えている。こういった部分を読むと、著者は「人間=ヒューマニズム」の至上価値を疑いなく深く信じているのだろうと思われ、民主主義とは何かを考えるとき、いったんその価値を括弧に置いて思索をするべきところまで踏み込めていないのではと考えてしまう。ハラリが『ホモ・デウス』や『21 Lessons』で持ち出した危機感はもっと根本的で深刻なものだ。
■中国社会について (民主主義の危機②)
中国の状況についても監視社会ということだけで頭から否定的に捉えて、民主主義の危機と捉えるが、それほど単純ではない。中国が治安がよくなり、行儀もよくなり、生活は便利になり、さらには経済的にも豊かになったことは明確だ。監視社会やデジタル化を進めること自体が悪ではなく、いかに時代と技術の進化に合わせて洗練化させていくのか、がこれからの「民主主義」を考える上では重要なことであることは間違いない。技術革新をなぜかほとんど留保なく「深刻な危機」と呼ぶ考え方が、おそらくは著者のバイアスを示しているし、限界を指し示している。「チャイナモデル」に対して、「民主主義(欧米的な自由民主主義)は本当に人類の共通の未来なのか、あらためて疑問視されているのが���在という時代なのです」と書くが、その意図は人類の共通の未来とすべき、という思いがあまり論理的な説明なく前提とされているように自分には感じられた。チャイナモデルもある意味では民主主義と呼んでもよいものなのだ。
■ コロナ危機について (民主主義の危機④)
一方、コロナ危機が民主主義に様々な観点で揺さぶりをかけていることは間違いない。コロナはいくつものケーススタディを提供してくれる。例えば、このレビューを書いている2021年5月において、東京オリンピックを開催するべきかどうかをどのようにして決めるべきだろうか、という問いもその一つだ。一人一票の多数決で決めるのが適切であるとは思えない。なぜなら、このイベントに対するコミットメントや利害関係が平等であるとはとても思えない。それでは、選挙で選んだ国会か都議会の審議で決めるべきなのかというとそうとも思えない。まず、このイベントは日本だけのイベントではないし、ビジネスでもあるからだ。それでも、多額の国家予算や東京都の予算が使われ、多くの人が動員されるイベントであることから民間で決める話でもないだろう。
こういったこと一つを取っても民主主義のあるべき姿は曖昧である。また著者が、疑問Aの答えとして準備した少数意見を尊重する(A2)という条件を満たす限りにおいて、民主義とは多数決(A1)だ、という答えが、オリンピック問題を含むコロナ問題に関わる今回の多くの場合において有効な解答になっていないであろうということも理解できるのである。
■ 民主主義の「正しさ」について
著者も「民主主義に懐疑的になっている方」や「民主主義に対して反発を感じている方」にとってこの本は「「民主主義は正しい」という前提の下、これを解説する教科書的なものにみえるかもしれない」と書くようにある程度自らのスタンスがどう見えるかを自覚している。しかし、「現在の世の中で、民主主義の名の下に行われていることすべてを擁護する気はありません」とも書いてしまう。民主主義の絶対的正しさについて形式的に疑問を挟みながらも、決してその疑問に対して回答することはないのである。自ら価値評価に対しては慎重で公平であるように努めながらも、その民主主義に対する信は隠し切れない。
もし、自分が民主主義に関する疑問をひとつ加えるならば、「民主主義」は目的(D1)なのか、手段(D2)なのか、という問いを加えたい。著者も認めるところである通りに民主主義が曖昧だとするならば、それが目的なのか手段なのかが曖昧であるからではないか。紹介された思想家の中では、例えばシュンペーターは極めて民主主義は手段である(D2)という立場に近いように思える。そして、自分はその答えは同じように手段(D2)であると考えるのだが、おそらく著者のスタンスは目的(D1)であると考えているのではないだろうか。その考え方の違いにより、例えばチャイナモデルへの評価や、AI技術へのファンダメンタルな評価が異なってくるのだと思われる。
■ 一般意志と新しい「民主主義」の可能性について
なおルソーについて、有名な「一般意志」について、ルソーから残された謎だとして詳細な分析や著者は自らの見解の表明を避けている。結局一般意志の具現化は以後の歴史に委ねられることにな��た、と深入りせずにすます。東浩紀の『一般意志2.0』などルソーの思想はまだ議論の価値があるところであり、民主主義を議論する本書において、ここは「謎」の一言で済ますのではなく、もう一歩踏み込んでもよかったのではと思う。一方、「一般意志と自分の意志が食い違った場合、一般意志を強制されることで個人は自由になる」としたルソーの言葉が民主主義が全体主義にもつながったとという解釈があることも紹介している。もしかしたら著者自身がルソーには信を置いていないということなのかもしれない。
「何が一般意志であるかを決めるにあたっては多数決を行い、自分の反対意見の方が多数であれば、「自分が間違っていた」ことになるとします。むしろ一般意志を強制されることで「自由」になるという問題の表現も、このような論理の延長線上にありました。その意味でいうと、A1の表現(民主主義は多数決)も理に適っていることになります」
とも書いているが、それもまた浅い表現のように感じる。ルソーの問題は理念としての民主主義(疑問C)はどのようなものなのかを考えた先にあるような気がする。
そして、もはや疑問Bにおける民主主義の代表者は選挙で選ぶ(B1)という選挙による議会制原理自体が絶望的な機能不全に陥っているという認識を持つことが重要なのだ。ルソーは『社会契約論』において「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかを見れば、自由を失うのも当然である」と言った。これをもって著者は自由であるために選挙以上の何が必要なのか、ヒント以上に謎を残したと書くのだが、ここで問うべきは「選挙以上に何が必要か」ではなく「選挙以外の方法は何か」を問うべきなのだ。そしてそのことが東浩紀がルソーに拘った理由なのだ。
起源に遡り民主主義を原理的に考えるのであれば、まったくの夢想ではあるが、社会的人員構成に沿った形で抽選により立法府の議員選任が行われるような「抽選式議会民主主義」が構想されてもよいのではないかと冗談ではなく思う。それこそが、「私と政府」という非対称的関係から「私が政府」という包含的関係となるのではないか。それは古代ギリシアから一周回って新しい民主主義となるのではないのかとも思うのである。むしろ抽選式議会民主主義の方が著者が言う「参加と責任のシステム」を全うする方式であるのかもしれない。司法における裁判員制度は抽選による司法権の分担であるとすると、立法においてそれが不可能であるとする理由はない。なぜそれが現在不可能であるのかを検討することを通して現代の民主主義を批判的に見ることができるようになるのではないだろうか。
こうやって民主主義について、本書をやや批判的に読んでいると、今はSmart News社のCEOとして活躍する鈴木健の『なめらかな社会とその敵』という本を思い出していた。彼は、民主主義を手段として捉え、現在の代議員制度の課題の解決のために新しいIT技術の可能性を非常に原理的に考えていた。そこで提案された分人民主主義、伝播委任投票システム、構成的社会契約論、などは再度今検討されてもよい内容を含んでいる。
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以上、所感はかなり否定的なニュアンスになってしまったが、「民主主義」の歴史を概観するにはとてもよくまとまっていてわかりやすい著者のかけた労力が感じられる本。
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『ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227368
『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227880
『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062173980
『仕事としての学問 仕事としての政治』(マックス・ウェバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065122198
『なめらかな社会とその敵』(鈴木健)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4326602473
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『保守主義とは何か』に続けて読了。いちおう政治学専攻だったので大学の頃から何度も学んできたことだけどそれでもこうして学び直すたびに気づきがあるのが民主主義を中心とした政治思想と実際の各国の政治体制の歴史。複雑で難しいという訳ではないけれど、色々な視点・論点があるのが民主主義。新書でそこまでページ数多くせずに、でも丁寧に歴史的経緯から紐解いて論点を浮き彫りにしつつ、そしてその過程に宇野先生の視点や想いものっている。『保守主義とは何か』『民主主義とは何か』社会や政治、私たちの暮らしについて考えたい多くの人に手にして欲しい本です。
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古代ギリシャからの民主主義の歴史をひもとき、どんな試み・失敗・改善を繰り返してきたのかを解説。民主主義にもいろいろあるということ、民主政と共和政の違いなどを学べた。国を運営する知恵を一般市民に期待するのか、選ばれた人に任せるのか、という問いが浮かぶ。
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以下、引用
●これらのことは、現代に通じる重要なメッセージといえるでしょう。個人が経済的・社会的に隷属した状態では、どれだけ公共的議論による政治が存在しても不十分です。人々が実質的に議論に参加できる状態をつくり出す必要があるからです。人々の経済的・社会的解放なくして民主主義はありえないのです。
●民主主義が参加と責任の両方の契機から成り立つことは、現代においてもあらためて重要な意義をもってくるのではないでしょうか。
●自由な民主主義社会をつくるためには、日常的なレベルで人と協力する練習をしておいた方がいい。今日なお傾聴に値するトクヴィルの教えではないでしょうか。
●このような状況において残された選択肢は何だったのでしょうか。 ウェーバーによれば、第一の道は「指導者民主主義」です。ウェーバーは人々を魅きつける天賦の資質をカリスマと呼びましたが、いわばカリスマをもった 政治的指導者が、国民の直接選挙で選ばれることに期待したわけです。もちろん、そのようなカリスマ的指導者の下で、人民が単にその追随者となってしまう危険性はあります。が、 第2の選択肢、すなわち「指導者なき民主主義」によって、使命感のない職業政治家による単なる利害調整がダラダラ続くよりはましだとウェーバーは考えました。結果としてウェーバーの提言に基づき、新生ドイツの大統領は強大な権限をもつようになりました。が、 それは議会制との間に矛盾をもつ、「人民投票的」大統領でした。通常の行政は議会の多数派によって構成される内閣が行いますが、その一方で、緊急事態発生時には国民の権利を停止できる強大な大統領が存在することは、ヴァイマル(ワイマール)の政治体制を矛盾にみちたものにしました。ウェーバーはナチスの時代をみることなくこの世を去りました 。政治的・経済的・ 社会的混乱の続くなか、ウェーバーは、存在感を大きくする執行権を使いこなすリーダーシップをもった大統領を提案せざるをえなかったのです。そのようなウェーバーの苦悩は、現代の私たちにとっても、考えるべき重要な素材を提供しているように思われます 。
●シュミットのように極端なかたちで自由主義と民主主義を区別するのではないとしても、両者の間に緊張があることを前提に、どうすれば自由を否定すること無く、民主主義を十全に実現できるか、という問題は私たちに残されています。同様に、もし議会主義が十分に機能を果たさないとき、いかに執行権を民主的に統制するのかという問題も私たちに委ねられています。シュミットが残した思い宿題です。
●このような投票率、および代議制民主主義への信頼の低下の背景にあるものは複雑であり、ここで本格的に分析することはできません。いずれにせよ、戦後日本の民主的政治体制の有効性について、根本的な疑念が拡大していることは間違いないでしょう。日本の民主主義が危機的状況にあることは明らかです。その一方、日本の民主主義の歴史を振り返れば、深刻化する社会の諸課題に対し、政治が有効に対応し切れないとき、不満が蓄積すると同時に、新たな民主主義への胎動が加速してきたことが分かります。既成の代議制民主主義の回路が機能不全��起こす時、「横議」と「横行」への模索が再び始まるかもしれません。人々は勝手に議論を交わし、組織や国境を越えた結果を求めるでしょう。そこに新たな「公論」の可能性を見出したとき、事態が大きく動き始めるはずです。今や旧来の価値観が大きく崩れ、それがまだどれだけ微かなものであれ、「不思議な明るさ」 がみえ始めているのかもしれません。その薄明かりのなかに、新たな民主主義の姿を見定めるべきです。
●その上で、民主主義がいまだ制度化の途上にあることについても、指摘しておかなければなりません。民主主義には2500年を超える歴史があると言いましたが、古代ギリシアを別にすれば、近代において民主主義の具体的な制度化が進んだのは、この2世紀にすぎません。その制度が完成したものであるとは到底いえず、むしろ今後も試行錯誤によって制度を充実させていく必要があります。一方において、政党や政治家、あるいは代議制民主主義一般に対する不審が現在募っています。民主主義といいつつ、現実には国民の声は政治に十分反映されることがなく、職業政治家を中心とする一部の人々が密室で決定しているのではないか。社会の多様な利害を反映するとされる政党も、現実にはそれほどの多様性がなく政党の一体性を支える共通の原理など存在しないのではないか。このような疑いがポピュリズムの温床となっていることは明らかです。(中略)他方、執行権が強化されるなかで、政党や議会はそれを十分にチェックすることができず、民主主義の力が十分に及ばなくなっている点も深刻です。(中略)情報の公開、オープンデータ化を進め、市民が自ら政策提案を行うことも、執行権中心の時代に民主主義を前進させるための大きな手段です。市民は立法権を媒介とすることなしに、より直接的に執行権に対しアイデアを寄せ、同時にその活動をチェックすべきなのです。