紙の本
たべごとの変化を記録する
2021/04/19 17:48
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投稿者:amisha - この投稿者のレビュー一覧を見る
コロナの影響で、我が家は完全入れ替え制で食事をすることになった。孤食には侘しいイメージを持つ人が少なくないが、今では健康や安全を担保するための自己管理になりつつある。
ここでは触れられていなかったが、禅宗の修行のような黙って静かに誰かと一緒に食べるということが、これから主流になるのだろうか。
死者との共食と聞いて、母方の郷里である香川県小豆島の「かわらけめし」というお盆の行事を思い出した。河原で飯を炊き食べる、いわゆる施餓鬼である。民俗学の分野になると思うが、人が人である所以は、一人で食べながらも、様々な人々に想いを馳せながら食べることなんだろう。
紙の本
食べてつながって
2021/02/08 11:52
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投稿者:ら君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
みんなで集まって食卓を囲んで親しくなることがままならないいま、考えさせられました。
集まって食べられるようになる日に日に備えて、いろいろ考えていきたいです。
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縁食、食に関する論考の集合版。
かつて東京に公衆食堂があったとは知らなかった。
食を商品としてではなく、調理済みの状態で平等に提供する場というのは興味深い。
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食べることを消費することに終わらせない行為にする、それにどれほどの人の共感を呼ぶかが大事
家族の在り方、国の在り方、サードプレイスの在り方、考えなければ
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「縁とは、人間と人間の深くて重いつながり、という意味ではなく、単に、めぐりあわせ、という意味である」
重いつながりを嫌い孤食を好むわたしですが、食を通じてだれかとめぐりあいたいという気持ちが自分の中に潜んでいることに気付かされました。
『孤食好き』には是非手にとってほしい一冊。
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"私の知る優れたフィールドワーカーたちは、実地で学んだことをもう一度本の世界に持ち込んで吟味する。この地道な往復運動こそが知を強靭にしていくのである"
縁食論、題名からもっと福祉的な話が中心かと思ったら、少し違っていたのが残念。違うタイトルだったとしたら、もっと内容を楽しめたかも知れません。
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本書は2014年から2020年まで『ちゃぶ台』や『みんなのミシマガジン』(ミシマ社)のほか、雑誌などに掲載されたエッセイ集。
「縁食」とは聞き慣れない言葉だけれど、今思えば、親族旧友の来訪がなによりの楽しみだった両親の遺伝子なのか兄姉の友人知人繋がりで見ず知らずの外国からの来客も多かった実家の台所は、まさに縁食の場だったのかもしれないと懐かしくありがたく思い出した。
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縁食、を知りたくて。
縁食について、色んな方面から書かれていて、ちょっと飛ばし飛ばしで読んだ。
考えはまとまらないけど、、
食べる、食が、根源的なわたしたちの営みで欠かせないもの、だからこそのものがあるよなと思った。
孤食でも、共食でもないこの概念がもっと広がってほしい。
言葉ができることで、より理解が進んだりものの見直しができるのではと思った。
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軽く読み終えられそうな気がして手に取ったが、良い意味で引っかかるところが多い本であった。昔は良かった、という懐古ではなく未来に向ける眼差しが良い。
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ずっと気になってた本、図書館にあった。
孤食のように孤独ではなく、共食のように共同体の意識が強くない、ゆるい縁食の場。
子ども食堂、炊き出し、ローカルな食堂。
来たい時に来て、来たくない時は来なくていい。
なにかと小さい繋がりの中、閉じこもって暮らせていける世の中だけど、たとえば行きつけの八百屋、店員さんとたまに話す喫茶店、銭湯。そんなちょっとした繋がりがあるの楽しそうだな。
食べ物が無料だったら?というのがおもしろかった。たしかに食べ物が商品として売られているのって不思議だよな。子ども食堂の活動、見に行ってみたいな。
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・弁当と給食の弁証法
「弁当の暴力」
弁当の中身で家庭の経済的貧しさや環境を露呈する。
思い返せば高校時代、私は母親に必ず毎日弁当を作ってもらえていて、おかずも夕食の残り物など入れなかったし、とても恵まれていた。けれどもその一方で筆者は友達と食べるのが苦痛だった、と。なぜなら、弁当は海苔が白米に貼ってあり、漬物か梅干しと卵焼きが置いてあるだけだったからだそうだ。周りの華やかな弁当と比べてみすぼらしく感じたそうだ。
当時気がつかなかったし考えたこともなかったけれど、そういう人もいること、つまり弁当とは両親の忙しさ、経済的状況などが表に出やすい。それが弁当の暴力。
「給食の暴力」
けれども給食も好き嫌いの多い子にとっては暴力となりうる。居残り給食のトラウマ、先に食べ終えた子たちの箒が生み出す埃と塵の中で食べる給食。食べる自由のみならず食べない自由も認めなければまだいけないのに完食、嫌いなものも食べるよう言われる。
食べられる量も感じる味覚も人それぞれで、矯正する教育ではなく認め合う教育をすべきなのに。
たくさん食べるのはいいこと!残さず食べてえらいね!とよく聞くが、たしかにそれはそれで食品ロスとかの観点ではえらいかもしれないが、自分に合った食べ方、食べる量などあるから。そういうのはやめてほしいよなあと私は思う。(食べることが好きでないものにとってとんでもなく苦痛だ)
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縁食とは著者の造語で、孤食と共食との間にあり、これからの社会における食の在り方の突破口にもなりうるものである。
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食は怖い。
性と並ぶ、暴力の源泉だから。
そういう食の凶暴な側面を飼い慣らすための一つの方策として、筆者が提案するのが「縁食」なのだと読み取った。
誰にとってもアクセスできるものとして、食にまつわるシステムを解体・再構築する、という提案である。したがって、これは、コモン再生に関わる議論の中に組み込まれるべきものなのだろう。
食は、果たしてコモンに戻りうるか?
角幡さんの『狩の思考法』を読んだ後だと、戻れる世界はある、ということになる。ただし、それは安逸を貪る現代文明の外側にある世界。
「ありがたく思いなさい」と思わずに、誰かに何かを提供し続けられる賢治先生やトシさんのような人間が、社会にあといったいどれくらいいたら実現するのだろう?
わからないけれど、リベラル=気前の良さを実践するのであれば、いずれ踏み込んでみたい道ではある。そのためにはまず、現在の過酷な労働条件が変わらなければならない、という点も本書では指摘されている。
ほんとにその通りだ。
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僕がずーっと気になっていたことを藤原は指摘した。
なんで最低限の飯にありつくだけでカネが要るのか?
書籍購入やら映画鑑賞やらで出費する遊民の僕でさえ、毎食数百円払うのはツラい。まして、諸事情で収入が絶えていたり不安定な人々にとっては何をかいわんや。
「厳しい社会」を生き抜くためにお前がしっかりしなさい、と自己責任論に回収されてしまい沈黙を余儀なくされてきた腹の虫。強制力が働くほどに忿懣が首をもたげる。「厳しい社会」はもうびくともしないのか。「生きやすい社会」を組み立てるよすがを模索してはいけないのか。せめて、捨てられそうな飯を配分されるシステムぐらいは十全に整備できないか。
「あぶないよ 自分の身は 自分でね」先日、ドライブしていたら道中こんな標語が記された看板を目にした。五七五ふうの形式かつ無記名で放たれているぶん、自己責任論の極致を見た気がした。自治体がそれを許可して置いているのがなんとも恐ろしい。責任を全て一個人に帰すこと、慎まなくては。
がんじがらめの共同体でもなく、存立危うい個人単位でもない「縁」が必要だ。
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「食べること」は本来「消費」じゃない
たしかに、母親の手料理を食べているとき、これを消費しているとは思わないけど、市販の食品を食べているときには消費と感じているな、とハッとしました。
孤食の原因を全て家庭に押し付けすぎているというのも非常に納得がいきましたが、では「縁食」でその問題がすべて解決できるかというとなかなか難しい部分もあるなととても考えさせられました。
「孤食」「共食」「縁食」と概念だけで捉えず、どのような食のあり方がこれからの社会にとって良いものなのか、自分の手を動かし足を運んで考え続けていきたいと思わせてもらえる、良本でした。