紙の本
複雑な心境
2021/04/18 15:39
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぱんださん - この投稿者のレビュー一覧を見る
なんといったらいいのかなぁ・・・。涙半分、腹立ち半分・・・。
柴崎さんとは同世代でとても似た境遇で育ったので、リベラルな公立高校の雰囲気はよくわかります。「なつかしいなー、期末試験終わったら速攻でナビオやプランタンのバーゲン行ったなぁ」なんてね。2丁目劇場とか、楽しい思い出。
そしてもう一つ・・・どうして誰も稼業を継がなかったのか?ということです。
商店街や個人商店がなくなったのは、親が子に同じ苦労をさせたくない・子がしたくない、そんな個人的な感情も確かにあります。でも本当のところは、「大手企業に勤めたOLの1年目の娘の方が、ワシの給料より高い」と嘆く中小企業の社長、「〇〇屋と言われる商売はすべてなくなりますから」という銀行。「あの時代の大阪はもうない」的に語ればノスタルジックで美しいけれど、じゃあどうすればよかったの?です。
複雑な心境。
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岸さんより柴崎さんよりさらにひとまわり下の世代ですが、どちらの書く大阪も、わたしはよく知っている。
柴崎さんの書く大阪はわたしが小さな頃に憧れた世界で、岸さんの書く大阪は思春期にわたしが歩んだ現実。それでも親に連れられて、あるいは友達と行った、アセンスや大丸といった、心斎橋や難波や梅田の高揚感を覚えている。
大阪の街は、さまざまな人を人として受け入れる。このままでおってええんや、と安心させるなにかがあり、だからこそ素通りさせない魅力がある。
いま商業ビルが乱立する梅田には、その魅力はだいぶ薄くなってしまっているようで、空虚なさびしさを感じることがある。その「感じ」に大阪ネイティブの人が言及する読みものになかなか出会えないので、時代の記録としても読めてよかった。
柴崎さんの小説はまだ読んだことがないので、これを機に読んでみたい。
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21/10/02
私は大阪で生まれ育ったあと、京都で学び東京で働いている。もう郷愁を覚えることもないし、好きとも言い切れず、愛着も薄くて、岸さんや柴崎さんの語る大阪は知っているようで知らないような、不思議な距離感だった。ただ、大事ではあるしよいまちであってほしい、くたびれていくところはみたくないなぁと思ってる
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『だから何、という話でもないが、タイ人のおばちゃんが二十年前に大阪にやってきて、ふたりの娘を育て、私は一文無しの院生から大学に職を得て本を書くようになり、そして壁から生まれてきた子猫は友人のところへもらわれて、元気に指をあま噛みしている』―『はじめに/岸政彦』
思わず国土地理院のアーカイブを広げて、子供の頃に住んでいた街の古い地図などを眺める。ついでに年代順に古い航空写真を眺めては、かつて遊んでいた場所の平地の記憶が、一緒に遊んだ顔と共に蘇る感覚を味わう。そういえば昔よくお世話になった病院はどこだっけ。ストリートビューで見ると建物は様変わりし「医院」は「クリニック」に変わっているけれど、同じ場所に馴染みのある名前は残っている。幼馴染の父親がやっていた自転車屋はもうないけれど、眼鏡屋はまだある。もちろん、今もある、ということが特別なことだとかそうじゃないとか言いたい訳ではないけれど、二人の綴る街の記憶は読むものの記憶の街を、何故だか、呼び起こすのだ。
街歩きや散策の為に街を描写することは、当然ながら、その街の「今」を写し撮ること。たとえそれがスナップ写真のように、限りなく「瞬間的」で(ある意味それは「皮相的」と同義だが)直ぐに過去となる「切り取り」であるとしても、視点の位置はあくまで「今」だ。一方で、「大阪」というガイドブック的なタイトルとは裏腹に、岸政彦と柴崎友香の対話のような大阪についての語りは、そんな表層的な街の風景についての語りではなく、かと言って大阪を知っている人だけが面白がる話でもない。二人はどこまでも「自分の知っている」街を語る。そして、知っている街のことを語るということは、取りも直さず「知っていた」過去を語るということ。
二人の街を見つめる視線は似ている。そこに暮らしたものとして視線という意味で。しかし似てはいるけれど、決定的に異なってもいる。岸は大阪へ移って来た人、柴崎は大阪で生まれた人、という違いもある。岸は見たものの背後に「理由」を読み取ろうとしているように見える一方で、柴崎は見たものに「理屈」を求めない。どこまでも自分の立つ位置から地続きの風景として眺める。その場所に人の営みの痕跡を読み取る目と人の暮らす風景を読む目の違い? それがあるいは、社会学を専門とする視点と人文地理を学んだものの視点の違いか、とこじつけてもみる。
とは言え「知っていた」街を語るという点で二人の視線は同じ方向を向く。それは過去を語ることでもあり、そしてその街に存在した「自分」を語ることでもある。それが、読み手にも作用する。特に、柴崎友香の語りには、風景の向こう側へ伸びるまなざしがあり、強くその言葉の先へと引かれていく。
例えば、大阪から富山方面への鉄道の便が悪くなった、という文章を読みながら、そう言えば関東圏で生まれ育った自分にとっての最初の大阪は信濃大町のスキー教室で出会った「なんじ」という同じ年の子だったなあ(きっと小さい頃からずっと「なんじ、今何時?」と揶揄われてたんだろうなあ)と思い出したりするのは、郷愁、という簡単な言葉以上の強い連想だ。そう言えば、そんな魅力に惹かれてずっと読み継いで来たのだった、と改めて思い返す。
もちろん、大阪のことを知りたくて読む人が居てもそれはそれでいいとは思うけれど、柴崎が言うように、ここに描かれていることを一般化して欲しくて二人は大阪について語っている訳ではない。「東京の生活史」プロジェクトに岸の寄せた言葉『記号やバーチャルではない、実在する東京。ほんとうにそこにある、ただの、普通の東京』の東京を大阪に変えて、二人にとっての「ほんとう」の大阪をただ語っているだけだ。敢えて言うなら、一人ひとりにとって異なる真実を否定して欲しくない、というのが瓶に詰められたメッセージなのかも知れない。
『大阪のことも、生まれて三十年間住んでいたからといって、知っているわけではない。そもそも、「大阪」と言ってわたしが語れるのは自分が生活したごく狭い範囲の大阪でしかなく、それはむしろ「大阪」のイレギュラーかもしれず、ほかの大阪の人にとっての大阪も、それぞれ全然違うのだ』―『大阪と大阪、東京とそれ以外』
赤裸々な自分をさらけ出している二人の大阪語りは、不思議と読み手の記憶をくすぐると書いたけれど、中でも柴崎の「商店街育ち」という文章は、呉明益の「歩道橋の魔術師」へのオマージュのような文章でとてもいいです。
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岸先生の文章は「断片的な社会学」で好きになって、それからこちらの本を手に取った。先生の文章はいつも通り最高なんだけど、柴崎さんが年が一緒ってこともあって共感することしかり。90年代に20代を過ごしたような人は、仮に大阪に住んでなくても何かしら心に引っかかったり、残ったりすることがあるはず。最近では一押しの本。
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エッセイというか、小説のようだ。面白い。
知っている大阪。
祖母に行っては行けないと言われた知らない大阪。
自分に大阪の血が流れているからか。
著者と同世代だからか。
同和についての言葉にざらつく感じ。
親を哀れに思う瞬間。
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住むことになった街と、住んでいた街の話。
自分にとっては友人が住んでいる、という以外には思い入れはないが、住んでいる(いた)人の気配を感じ、思い入れを聞くのは好きだ。
派手な街づくりからは見ることのできない、誰かが意図して覆い隠そうとする「誰かが住んでいる大阪」を覗き見る、良い機会だったのかもしれない。
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若き日に大阪に移り住んだ岸政彦と、大阪で生まれ育ち今は東京に住む柴崎友香のエッセイ集。
「文藝」誌上で交代に綴っていった「大阪」に関するエッセイである。「大阪」というイメージは大阪以外の人にとって、特に関東圏の人にとって、現在はある固定観念が植え付けられているのではないか。
このエッセイ集ではごく普通の庶民の大阪を描いている。岸氏、柴崎氏両氏が経験したこと、それを通して感じたことを淡々と描いている。大阪生まれではないが、ほとんど大阪出身と言っていい私自身が「これぞ大阪」と感じた日常の風景である。
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大阪で生まれ東京へと出ていった柴崎朋香、大阪に来てそのまま大阪で暮らす岸政彦、作家と社会学者それぞれが異なる立場から見た大阪について語り合う連作エッセイ集。
それぞれが見た大阪の景色からは懐かしさ、大阪の濃い人間関係、変わりゆく街並みなどが伝わってきて、7年ほど大阪に住んでいた自分としても感慨深いものがある。とはいえ、やはりこうした文章を読むと、そこまでの思い入れというのを自分はこの街に抱けていなかった、というのも自身の実感として改めて感じたところではある。
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岸政彦と柴崎友香による大阪にまつわるエッセイの共著。このメンツで大阪のエッセイだなんて期待しかない訳だけど「リアル」な大阪がそこには立ち上がっていて興味深く読んだ。テレビを筆頭にステレオタイプな大阪像の形成と強化は日々加速しており十把一絡げで語られることが多い。やれ話がオモシロいだの、ガサツなところがあるだの。そういったステレオタイプの被膜で覆い隠されている部分を2人が剥いで生身の大阪がボロンと出ていた。それは明確なゴールがないエッセイゆえの魅力だと思う。このもやっと感、まとまりの無さこそが、1人1人の持つ土地の記憶やその思いをダイレクトに表現している証左だろう。
岸さんは他で育ち大阪へやってきた人、柴崎さんは大阪で育ち他へ移動した人。大人の視点の大阪、子供の視点の大阪が網羅されていて大阪で育った身からするとめちゃくちゃ刺激が強い。彼らは個人的な思い出を語っているだけなんだけど、それは確実に呼び水となり自分の記憶の蓋がばっかん、ばっかん開いてしまう。もう東京に来て8年になり帰る頻度も低くなった今、大阪のどこを歩いていても自分がストレンジャーのように思える一方で角を曲がったところで誰かにばったり会うかもしれない。このアンビバレントな感情はこの先どうなっていくのか見当もつかない。けれど大阪はずっとそこにあって、いつまでもこちらを見ているし、こちらも大阪をいつまでも見ている。
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大阪に行ったことがない。
柴崎さんの小説は好きで(最初に読んだのは学生時代、『フルタイムライフ』の単行本だったと思う)、特に二年ほど前に『千の扉』を読んでどハマりしてそこから一時期、過去作を続け様に読んでいたこともあるが、出てくる地名にはまったく馴染みがなく、地理感覚もちんぷんかんぷんのままただ字面を追っていた。大阪はわたしにとって架空の街、一種のファンタジーだ。
さらに、岸さんの作品は『図書室』しか読んだことがなく、それも昨年冬に暮しの手帖別冊『わが家の家事シェア』で岸さんとおさい先生の記事を読んでからようやく手に取ったのだった。
だから、この本を楽しめるか、読み切れるかとても不安だった。
けれどその不安は杞憂だった。
岸さんの書かれたものはわりと始めからご自身の内面や人生に触れる部分が多くて親近感が持てるというか、とっかかりやすかった。
柴崎さんのパートは小説同様始まりは街のことだったり時代のことだったりで少し距離を感じたのだけど読みすすむにつれぽろりぽろりと柴崎さんの内面というか人生が溢れ始めていく。人生は街と時代と経済と切り離して語ることはできないのだという、少し考えれば当然のことを突きつけられた。
小説の中で出会ってきたたくさんの登場人物たちは柴崎さんの分身だったんだ、というか、柴崎さん自身がいくつもの小説の中にいたんだ、小説の中で私は柴崎さんに出会っていたんだ、と思った。
住む地域によって文化資本が異なり親の学歴や勤め先が異なるという話は『教育格差』ともリンクする部分で、『教育格差』を個人の目線から噛み砕いて伝えてくれているのが『大阪』でもあると感じた。
柴崎さんの、真面目で「いい人」だったお父さんと「自己責任論」の件はいまこの国に住む多くの人たちのことを表していると感じた。
私たちは自分に厳しすぎるのかもしれない。自分に厳しすぎるから、他人の「ズル」が、「失敗」が許せなくて、自分が損することに耐えられなくて、他者を叩く。失敗の許される社会で生きたい。
私の住んでいるこの町にはなにがあるだろう。
この町で育つ子はなにを思って生きていくのだろう。
一地方都市の、郊外の、車がなければどこにも行けないこの町で。
東京で稼ぎ、平日夜と土日だけを過ごすこの町で。
チェーン店と大型ショッピングモールの目立つこの町で。
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本の帯の惹句には『大阪に来た人、大阪を出た人』。大阪へやって来たのは社会学者 岸政彦さん。‘67年名古屋市生まれ、大学入学時に大阪へ。上新庄の下宿を皮切りに以来大阪を転々。大阪を出た人は作家 柴崎友香さん。‘73年大阪生まれ、約15年前に仕事で大阪を離れ、現在東京在住。
このふたりによる【大阪】をテーマを往復書簡風エッセイ。本書に綴られた大阪は、あくまでもふたりの記憶の断片。そう、極私的大阪アーカイブ。
岸さんは大学生として、ジャズのベーシストとして、バーテンダーとして、バブルに沸く大阪を遊泳。大阪で出会った女性と結婚し、終の住処を手に入れ、この地で死ぬつもりだ…と、語るほど深い愛着を抱くに至っており、大学教員の傍ら自身が暮らした大阪の街を舞台にした大阪弁に溢れた小説を発表。
方や大正区で生まれ育った柴崎さんは中学生ぐらいから持ち前のフットワークの軽さと好奇心の強さが顔を出しMy Osaka Mapは広がりを見せる。その活動譚を固有名詞をもって記憶を天日干しするかのように仔細に語る。ダウンタウン見たさにごった返す心斎橋2丁目劇場前での出待ち、エレファントカシマシのライヴには欠かさず通い、カルト映画を上映しているミニシアターへも足繁く通う。
<ふたりにとっての大阪>
岸さんは…
大阪が好きだ、と言うとき、たぶん私たち
は、大阪で暮らした人生が、その時間が好き
だと言っているのだろう。それは別に、大阪
での私の人生が楽しく幸せなものだった、と
いう意味ではない。ほんとうは、ここにもど
こにも書いていないような辛いことばかりが
あったとしても、私たちはその人生を愛する
ことができる。そして、その人生を過ごした
街を。
柴崎さんは…
テレビ経由のイメージだと大阪はどこの家に
も『おもろいおかん』がいる 、と思われ
る。当然そんなことはなく、大阪は多様な
人々が寄り集まって暮らしている大都市であ
る。『ステレオタイプなイメージの隙間に一
人一人の現実がある。
<ふたりの大阪観を堪能して…>
『サードプレイス〈第三の居場所〉』と『アナザースカイ〈第二の故郷〉』という2つのフレーズが頭に浮かんだ。前者は家庭や職場や学校ではなく、自身を解放できる第三の居場所を指す。後者は生まれ育った街とは異なるインスパイアを受けた場所・土地。岸さんは仕事に行き詰まったり、なにか気晴らしをしたくなると、必ず淀川を歩くという。『淀川の河川敷を宇宙一好きな場所』とも語る。明らかにサード・プレイスである。また、本籍を移すほど大阪に惹かれる岸さんにとってはアナザースカイでもある。
柴崎さんの場合、故郷大阪を離れ、東京への移住を『長期出張』と例える。大阪でしか観ることができないテレビ番組を思い出しながら、東京以外の場所で生まれた文化を語ることができない…と憂える。今のところ東京が『サードプレイス』にも『アナザースカイ』にもなり得てないのは、柴崎友香を育んだ街 大阪という土地の磁力がそうさせるのかな。
岸さんの『あとからやってきた街 大阪』感。柴崎さんの『私がいなくなった 大阪』感。おふたりとも大阪在住歴30年余り。今いる場所と、かつていた場所が『私』を通して交差し、その時折時折の街と時間の呼吸を活写した、激しく読み応えありまくりの一冊。
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出てくる地名も位置関係もわからなくても、この街の手触りが、空気が、匂いが、伝わってくる。こういう街の描き方があるんだなぁ。二人の文章が交互に入っているのが、とても読みやすい。
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わたし出生地が江坂で、大阪には計8年くらい住んでたんだけど、通天閣は旅行で行くまで見たことなかった。
やっぱあれは観光客が行くやつなんだな〜と思って、わたしにも大阪のエキスが少し残っているみたいで、うれしかった。(両親とも九州出身だけど)
だからわたしは大阪が嫌いとかももちろんないし、東京が一番偉いとも思わない。
むしろこの一極集中型はよくないと思うし、もっといろんな街にいろんなことが分散したらいいのになって、柴崎さんみたいに思ってる。
2人の人生が少し垣間見えたようで、それがなんか、道ですれ違った人それぞれにも見えないだけでこんなふうにいろんな人生があるんだなと思わせてくれて、なんか人って尊いなって。
人の営みの積み重ねで街ができて、いろんなことが決まっていくなら、いまを生きるわたしたちはやっぱり投げやりに生きちゃいけないんだ。
過去この場所で懸命に生きてきた人たち、声をあげられない人たちのために、わたしたちは毎日をちゃんと生きて、主張していかなきゃいけない。
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岸政彦/柴崎友香「大阪」https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309029375/
大阪での半生をそれぞれ振り返りながら。こういうのって一般的にはどの土地だろうと中身には作用しないしどこだろうと成立するエピソードになると思うんだけど、そうならないところが大阪なんだなあと思う。あと岸さんの文はいつも胸に迫るのよ(おわり